シジュウカラ断境録
第I部 火
1 煙の朝
スズカケの枝先で、足の位置をわずかにずらした。
枝に体重をかけた瞬間、予測と違う揺れが伝わる。その違和感を確かめるように、枝先の振動に意識を集中させた。
枝は、わずかに沈む。意識するより早く、爪が反射的に食い込み、体が半拍遅れて揺れに追いついた。
目に入ったのは、東に流れる煙の筋だ。焦げ臭い匂いが、風向きに関係なくここまで届いている。
喉を震わせ、やや長めに声を流した。高さは変えず、二拍の間を空けて。
「ピーツピ、ピーツピ」
警戒せよ――そういう意味だ。
仲間の返しがそろって届いた。周知されたとみなしてよかろう。
樹洞の巣から、つがいのクルが返した。
「了解。退避? それとも、まだ様子見?」
西風が北寄りに変わった。逆向きの風による寒気は、この季節には冴え返しという。
おれはピッチを少し高くして応じた。
「クル、山火事の匂いがする。まだ薄いけど、煙が流れてくる。そっちはどうだ?」
下の枝がきしむ音がした。クルの羽ばたきが立ったかと思ったら一瞬でやんだ。
「焦げ臭いね。森が息を詰めて、押し出すように伝えてくる感じ。早く、どこかへ行けって」
足元の葉芽が震え、喉の奥がひりつく。思わず咳が出た。
「えへん。雨はまだ望み薄だね。雲もかかってない。雪解けも始まったばかりだ。この条件じゃ火は止まらない」
クルの声音がやや不貞腐れ気味に太くなった。
「じゃあさ、森に押されるなら、逆らわないほうがいいんじゃない? まだ間に合うし、逃げるなら、今でしょ」
「逃げたい理由は、煙かい?」
クルが頭の羽毛を逆立てた。
「違う。胸が先に動くんだ。立ってると、置いていかれそうになる」
黒いネクタイ状の縞入り胸羽が膨らんだ。吸い込んだ匂いが喉を刺激し、恐怖が胸を打つ。
「冷静でいたいわけじゃない。怖いから、間を測るんだ」
クルが嘴を枝に擦りつけた。
「その間ってやつ、森が今だって言っても、無視するってこと?」
「無視はしない。森の声が、どの拍で来たかを聞き分けるだけだ」
「ややこしい言い方」
「間違えたかどうか、分からないまま従うより、ましだろ?」
半歩だけ枝を歩く。視界は変わらないが、声の距離を測れる。
おれは身を乗り出した。
「最初に教えてくれたのは母さんだ。羽が揃う前、返しが遅れるとすぐ止められた」
「ランのお母さん、森より怖そう」
「まず、足元を押さえろ。遠くだけを見るな。返せなかったら、何度も何度も試す。泣く暇なんてない」
森の縁が揺れる。樹冠が沈み、その波が枝へ伝わった。
「来た。今の拍はどうだ?」
「短い。逃げろって合図じゃない?」
「まだだ。逃げの衝動と森の拍が一致するか、確かめる」
「そんなの待ってたら――」
「待たない。数える」
警戒の声を放った。
「ピーツピ、ピーツピ」
返しは揃わず、ばらけた。群れが散った印だ。
「森の精が火を吹いてるみたいだね。鹿が斜面を転げるようにして逃げたわよ」
「ヤマガラやコガラは山のほうへ向かった」
「違う。あいつらは風に逆らったんだよ」
胸の奥で、森の声と自分の衝動を確かめた。
「逃げたくなった拍が、火の拍と重なったからって、森の声とは限らない」
再び警戒の叫びをあげた。
「ピーツピ」
返しは散発的だが、高さは揃った。
「どこまで届いているか、確かめに行くぞ」
「行くの? 逃げるんじゃなくて?」
「逃げる前に測る」
クルは一瞬ためらい、翼をたたんだ。口調は皮肉だ。
「森に急かされるより、自分で怖がったほうがマシだもんね。この期に及んで、確かめるか」
枝を蹴り、幹の間を滑るように飛んだ。地面はくすぶり、煙が横に流れていた。
「この辺りだ、沈みの中心は」
下草が燃え上がる音が立ち、黒く焦げた幹が何本も立つ。上の枝はすでに燃え尽き、樹皮は炭化していた。
「半分焼け落ちてるな」
クルが首を垂れた。
「火が順番に森を食べてる」
遠くから乾いた音が連なり、竹が爆ぜた。
「間が揃いすぎてる。生き物の足取りじゃないぜ」
「じゃあ、さっきの警戒も?」
「火の拍だ」
クルが息を吐いた。
「ちゃんと数えなきゃね。森のふりをした火に、追い出されないために」
2 決断
クルがカシワの枯れ葉に嘴で穴を開けている。乾いた音が立つたび、煤を払うように視線を上げた。
「クルのほうこそ、時間のかかることをやってるぜ」
胸の縦縞が男勝りのように広がった気がした。
「記録を取れば、何かを取り戻せるかもしれないわ」
焼け跡を記さなければ、心の動きも正確に描けない――そんな気配が伝わった。
土の匂いが、昨日と違う。灰の下から焦げた根っこの匂いが立ち上った。
「地面が真っ黒い、地獄みたいだな、クル」
風が不自然に折れ曲がる。枝の反りも揃わず、胸がざわついた。
「巣を捨てる? それとも、もう少し様子を見る?」
胸の奥がキュッと締まった。
「火元は分からなくても、広がり方はわかる。もっと調べよう」
「じゃあ、枝の上で、揺れと熱を測ろうよ。飛び回らなくても、距離と方向は拾えるわ」
森の縁は煙で見通しが悪い。
おれはふいに胸の底が固まった感覚に打たれた。
「決まりはつけたか、クル? 次の場所を探すぞ」
「それが妥当なところよね。慎重に、行こう」
おたがい短く警戒の声をあげ、返しが重なるのを確認した。それから翼を打って、風上へ身を躍らせた。
第Ⅱ部 浸食
3 潜む危険
古巣から遠く離れた奥地には、まだ新鮮な空気が残っていた。
芽吹く前のブナの裸枝が風に揺れ、光を透かす。すべてを捨てての移動は惜しい。今さらながらだが、間違った拍のまま留まるよりは、はるかにましだった。
視線を古木の幹に走らせると、小さな樹洞が目に入った。
「クル、あの穴。キツツキの巣跡だ。入口は狭く、奥が深い」
「なるほど。小さい入り口は安全だし、雨も入りにくい。悪くないね」
樹洞の縁に爪をかけ、ひと声、置いた。
「ツツピー、ツツピー」
ここは、おれたちが使う――そう宣言するためだ。
返しは遅れていない。音も吸われず、周知されたと判断できた。
穴の内部を覗くと、反響は澄んでいる。
「ここなら、応えが拾える」
だが、森の奥から別の響きが伝わった。尾根の下、地面側だ。
「ラン、今の聞こえた?」
「ああ。地面が、少し揺れた」
揺れは重く、断続的だった。
「熊かもしれない。冬眠開けで、根を掘り返してる可能性もある」
昨秋はブナの実が不作で、生きものたちは苦労した。
クルが首を振り、警戒した。
「熊は木にも登る。巣の近くでは油断できないよ」
「分かってる」
揺れの正体を探った。枝を擦る細い音が伝わった。低い位置から幹を伝ってくる。
「イタチだな」
地面を走る速さ、間の詰まり方から、小型で忙しない生きものだとわかる。
「違う、ラン。それ、登ってきてる」
「貂(てん)か」
「イタチより、間が伸びてる。枝を選んでいる音だよ」
一瞬、胸が跳ねた。無意識に数えた拍をひとつ戻す。爪の置き方が違うのだ。
「すまん、間違った。一瞬、低く見積もった」
おれの胸の縦縞より細い縞が、クルの胸で少しふくらんだ。
「いいよ。でも、今のは危ない誤差だったね」
少し離れた枝で、鋭い声が弾けた。
「ケレケレケレ!」
「キツツキだ、ラン。巣を返せって言ってるのかな?」
「縄張りの主張だ。争う気はない。静かに引こう」
体が大きい上、あの嘴だ。勝ち目はない。
下草がざわめき、次は地面を走る音が加わった。二つの危険が同時に存在する。
「クル、止まれ!」
爪を枝に食い込ませ、短く警戒音を響かせた。
「ピーツピ」
返しはまばらだが、仲間には届いた。
「注意は広く取ろうよ、ラン」
「異議なし。もう一度、危険を洗い直すぞ」
幹の根元には掘り返された跡が生々しい。少し離れた湿った土には、四つ指の踏み跡が続いていた。
「キツネだな。やつは木に登れないけど、地面にはぜったい降りるな」
「もちろん、了解」
再びキツツキの声が響いた。
「ケレケレケレ!」
縄張りは明確だ。ここに居続けると決めている声だ。その確かさに、少しだけ羨ましさを感じた。
おれたちは短い警戒音を交わし、さらに奥へ進む準備を整えた。倒木のない場所、ツタの絡まない幹――厳しくとも絶対の条件だ。
4 予兆
朝の光はまだ弱く、わずかに開いた若葉の端に夜の冷えが残っていた。
森は静かすぎる。
おれは枝の先で喉を震わせ、短く声を響かせた。
ここでも、返しがあるはずだった。だが、返ってこない。吸われたようでも、風に流されたわけでもない。
まるで、声が途中で消されたかのようだった。
胸の奥がひやりと冷える。無意識に羽をすぼめた。
「クル」
返事は近くから返ってきたが、声は浅く、いつもと違う。
「聞こえた。でも、おかしいわ」
おれは再び慎重に声を放った。
「ピーツピ」
やはり、返しはない。
空間のどこかに、ぽっかり穴が開いたように、音だけが落ちていった。
クルが羽先を震わせてそっと近づいた。
その気配だけで、背中の張りがわずかに緩んだ。
「じゃあ、何が変わったの?」
「分からない」
瞬間、胸の奥で何かが崩れた。
――分からない、と言ってしまった。測れない、と同じ意味だ。
木々の隙間で、影が動く。大きな揺れではないが、重みがあった。
苔が沈む音がし、乾いた枝が踏まれて折れる音が立った。
胸が勝手に膨らむ。目が追う前に反応していた。
「来る」
朝もやの向こう、枝の高さより低い場所を、影がいくつも横切る。
おれは見たままを口にした。
「人間だ。奥へ入っていく」
クルが身を乗り出して覗き込んだ。
「三脚を持ってる。測量、だと思う」
木の幹に赤い布が巻かれていくのが見える。一つ、また一つと奥へ進んでいた。
喉がひくりと鳴った。
「あれが原因か?」
クルの声は低く、抑えた震えがある。
「たぶんね。でも、どうして返しが消えるんだろう?」
おれは答えられなかった。
人間は鳴かない。返さない。だが、森に印を残す。音の流れを切り分け、秩序を変えてしまう。
「チェーンソーは持ってないな」
クルがきっぱり言った。
「だからって安心はできない。測るために来る。測ったあと、決めるんだ」
胸が痛む。
測る、決める――それは、本来、おれたちのやり方だったはずだ。
おれは森の縁の火を思い出した。
測れたはずの間(ま)、読み切れなかった一拍――少しの後悔が立った。
声に出して、ようやく二度目の決断が形をとった。
「ここは、離れる。返しが届かない場所では、家族も群れも保てない」
クルが強くうなずいた。
「うん。逃げじゃないよね」
「ああ。間を、失っただけだ」
おれは最後にもう一度だけ声をあげた。
「ピーツピ」
返しはなかった。
おれたちは翼を打った。声が届く場所を探さねば。
5 浸食
おれは杉の枝にとまり、足裏から伝わる微かな振動に意識を澄ませた。
森の奥から、土に力を加える鈍い響きが途切れずに続いている。
生き物の重さではない、異質な重みだ。
「クル、揺れの源はあの先だ」
声を抑えて告げる。距離はまだ測れるが、返しが鈍い。
「測量技師が入った方向だ。確認するぞ。間を乱すな」
クルの声がわずかに震えた。
「分かった。でも、ラン、揺れが強すぎるよ。胸の奥がざわざわする」
「落ち着け。怖がるなとは言わない。怖さより先に測れ。間隔と方向を覚えろ」
尾羽で方向を定め、枝から枝へ一気に飛ぶ。クルは半拍遅れで続く。
降りるにつれ、空気が変わった。湿りでも煙でもない、薄く、冷たい匂いがした。
枝に止まると、視界の端で赤いものが揺れた。
「あれ、赤い布。昨日、見たやつだ」
クルが枝先から身を乗り出した。
幹から幹へ、間隔を保って結ばれている。声ではなく、線だ。
言葉が自然と硬くなった。
「熊除けじゃないな。区切ってる」
赤い印は森を横断していた。高さも、密度も、一定だ。
クルが息をのんだ。
「ずいぶん広い。意図的だよ、ラン。森を横切ってる」
頭の芯がかっと熱くなる。
「下へ行くぞ。――なんて奴らだ!」
だが、言いかけて息を止めた。
驚いたことに、斜面の中腹で森は途切れ、一面、パネルで覆われていた。
梢の揺れを映す、平たい光が並んでいる。
年輪を重ねる木々のそばで、それだけが一切まばたきをせず、森を切り取っていた。
金属と油の混じった冷たい匂いが立ちこめている。森の外の匂いだ。
おれは喉を震わせて声を響かせた。
「ピーツピ、大規模なソーラーパネルがあるぞ」
返しは歪んだ。距離が測れない。
クルが斜面を見下ろした。
「もう森じゃない。こうなったら、徹底して利用法を考えよう」
おれは短く息を吐いた。
「利用なんて、とても無理だね。ともかく、やめろ、と叫びたい」
だが、次の拍で首を横に振った。
「おれたちの警告も、届かないか?」
クルの羽が小さく震えた。
「もう、反対しても遅いんじゃない? それより記録しよう。安全な木、危険な地面、パネルの数、今、測れるものをさ」
おれはうなずいた。
「そうだな。森の奥までパネルが敷かれる。返しが壊れる――それを、伝えよう」
おれたちは下枝を飛び回り、空き地の縦横を測った。生半可な羽ばたきでは済まなかった。
高い梢を越えたとき、斜面に鉄の腕が何本も動いているのが目に入った。
「なんだ、あれは。重機じゃないか?」
クルが宙返りをした。
「赤い布の木を切っている。かなり広い範囲だよ」
爪が幹を挟み、自動ノコがエンジン音より鋭い音を立て、木を丸太にしていた。
木が倒されるたび、地響きが立つ。速度は目覚ましく、一本また一本と効率よく丸太にされていった。
すでにパネルの空き地より広い土地がまっさらだ。
おれは切られなかったコナラの木の梢に止まった。
「おい、クル。このまま雨が降ったら土砂崩れが起こるぞ」
クルがぽつりと言った。
「浸されてる、音も、間も」
「まったくだ。他の小鳥たちも姿を消すわけだ」
「どうしよう?」
「だから、測るのさ。このままなら、こっち側の森が更地になってしまう」
クルの声は揺れていなかった。
「うん、だから、翼を疲れさせる。叫ぶ代わりに」
おれたちは声を切らさず飛び続けた。
パネルや更地がここだけで止まるのか、まだ奥に広がるのか。
胸の底では、別の疑問が膨らんでいた。
――呼びかけが戻ってくる場所は、まだあるのだろうか?
6 新しい巣
更地の土は、朝の冷えを失っていた。
爪を置くとわずかに沈み、湿り気が残る。
剥き出しの斜面は昨日より広がっており、落葉は途中で切れ、土が露わになっていた。
その感触が嫌で、おれは近くの下枝へ移った。
声が思ったより太く響いた。
「なんてこった。丸裸じゃないか?」
クルの返事は揃わなかった。語尾が少し沈む。
「うん。赤い布がぐんと増えてる。昨日よりずっと早い」
パネルの広場より倍以上に広がっていた。
「一本ずつじゃない。面で、一気に空けるつもりだ」
おれは枝を脚でつかみ、斜面を見渡した。
一定の間隔で、重たい振動が伝わってくる。
重機のキャタピラーが土を押し付け、歯型を刻んでいた。
もう森の色をしていない。
胸の底がひっくり返った気がした。
「こんな奥まで切り開く必要があるのか?」
息が短くなって、クルを見た。
「なあ、クル。こうなると、巣を残す意味も薄いな」
クルはすぐには答えず、幹を見上げた。
「残したら、戻る理由になるから?」
待機していた重機が排気ガスを噴き出し、エンジンの振動が一段大きくなる。
ショベルが根っこを掘り起こした。カラスやサギが荒れた地面を歩き回り、驚いた虫や幼虫を狙っていた。
振動が梢に直接響いてくる。
「地面ごと組み替えか。世界を変えてしまうんだなあ」
クルが逆毛を立てて合図してきた――足場が危ない、と。
おっとと、すんでのところで踏み出す方向を誤った。
「戻る道も、餌場も、声を返す枝も、きっと消えるわ」
胸の奥が一気に熱くなった。
「やりきれないなあ、クル! ここは森だ! 最初から、人の場所じゃなかったはずだろ!」
喉の奥が熱いのは、怒りだけではない。枝が現場から飛んできた。
即座に、翼を強打して飛び上がった。
――今の、危なかったな。
クルは否定せず、少し高い位置から静かに言った。
「とばっちり、だね。怒るのは分かるわ。でも、生活できるかどうか」
おれは辺りを見回した。
「せっかく移住してきたんだ、このままじゃ」
間髪を入れず、クルが訊いてきた。
「巣をどうするかは、ランが決める?」
幹に身を寄せる。木肌は乾き、夜露の名残はなかった。
「ここには、作らない」
言葉は簡単に出た。息が楽になる。
「巣を作れば、判断が遅れるし、守るつもりでも、縛られる」
クルが小さくうなずいた。
「新しい巣って、場所のことじゃないんだね?」
「ああ。作らないと決める時間もこめて、営巣だ」
地面がまた揺れた。作業再開になったのだろう。
「だから、流す。逃げろでも、壊れたでもない。ただ、変わった。それだけを正確に」
「了解。今の森に合った語順にするよ。余計な意味は乗せない」
「返しが遅れてもいい。揃わなくてもいいぞ」
「形が共有できれば、それで満足だわ」
おれたちは声を限りに鳴いた。
「ピーツピ、ピーツピ」
メジロも混じって返しはまばらで、遅れたり重なったりした。
その散らばり方そのものが、この場所の変化を示していた。
巣はない。だが、声は届いている。
――どこまでなら、これが保てるのか?
7 境界線
足裏に伝わる揺れが、森の内と外を分けていた。
縁の線ではない。踏み込むほど返りが鈍くなる幅を持った帯だ。
おれは中段の枝に止まり、間を測ってから声を出した。
「クル、昨日まで揃っていた返しの間隔が今日は崩れている。同じ位置で鳴いているのに、返しが合わない」
クルが枝陰から応じた。
「揺れの周期が重機の呼吸にかぶさっているのよ。こちらの並びが保てないなら、もう同じ関係とは言えないわ」
怒りは湧かなかった。代わりに、測りが狂う感覚だけが残った。
おれは一段、斜面側へ移った。わずかに揺れが強い。
試しに鳴いた。
「ピーツピ」
返しが、来ない。
一拍遅れて、低く削れた音が返ってきた。
方向がずれている。
「クル?」
応答が重なり、位置が二つに割れた。
右か、左か。
次の瞬間、足場がゆらいだ。
枝先が思ったより遠い。翼を打ち、体勢を立て直す。
今度ははっきり聞こえた。
「ラン、下がって!」
だが距離が読めない。
一瞬だけ、自分の高さが分からなくなった。
上か、下か。内か、外か。
胸が冷えた。
戻る。揺れの弱い側へ、半枝分だ。
鳴いた。
「ピーツピ」
今度は揃った。薄いが、重なる。
息を整えた。
「いま、越えたな」
クルが静かに言った。
「帯の中に入った。返しが弱くなったわね」
頷く。
赤い印がどこへ動こうと関係ない。
境目は目で見る線ではないのだ。精度が落ちた瞬間が、境界だ。
「測れない場所に、巣は置けないぜ」
声は落ち着いていたが、喉の奥がわずかに乾いた。
クルが枝を移り、間を置いて言った。
「仲間の中には、まだ様子を見ると言って留まろうとする個体もいるわ」
「警告はしないぞ」
さっきの一瞬を思い出す。位置を失った感覚は鮮烈だった。
「ただ伝える。揃わなくなったら、そこが境界だ、って」
遠くで規則的な音が刻まれていた。ゴジュウカラやエナガの混群だ。
こちらの声とは少ししか交わらない。でも、一部は通じる。
おれはもう一度、帯の縁まで進んだ。踏み込まない。
「ピーツピ」
返しは遅れ、薄く、重ならない。それ以上は確かめなかった。
境界は線ではない。
ある高さ、ある揺れ、ある誤差を越えた瞬間、自分の位置が曖昧になる。
その曖昧さを共有した場所から、森は静かに別のものへ変わりはじめる。
8 反射
ふたたび空き地に戻って縁に立った。空気の温度が一段変わっているのが分かった。
除草剤でも撒いたのだろう、地面は剥き出しだ。その上に、黒いパネルが規則正しく並び、朝の光を鋭く返している。紫外線でもおれには見えるのだ。
熱は波となって揺れ、上昇気流がねじれながら立ち上っていた。
翼を少し広げただけで、空気の層が崩れるのが分かる。
おれは高い枝に止まり、跳ね返ってくる音の形を確かめた。
「クル、聞こえるか。さっき流した並び順が、思ったより遠くから返ってきている」
クルは下のパネルの縁に止まり、首を上向けて鳴いた。声音は慎重に整えられている。
「聞こえてる。枝も葉も挟んでないから、低い声でも崩れずに返るんだね」
陽光がパネルに反射し、視界が白く弾けた。
眩しさの中で、影が薄れ、輪郭がほどけていく。空と地面の境が、頼りなくなった。
おれは見下した。
「今日も重機が唸ってる。どこまで広がるか知らないが、ここじゃ返しが掴めない」
クルが首を傾げた。
「近いのか遠いのか、迷うってこと?」
「そうだ。音も、居場所も、区別がつかなくなる」
クルの喉が鳴った。
「でも、声は前より届いてる」
おれは首を振った。
「それが一番いやだ。分かったつもりになる」
そのとき、風が変わり、クルの羽が大きく揺れた。
パネルの隙間から巻き上がる風は、読みを許さない。
上でも下でもない、宙に裂けた流れとなった。
クルが、ぽつりと言った。
「反射が味方になると思った。声が通るなら、安全だって」
頷いた。
「誰でも、そう考える。だがここでは、通ることと、測ることが一致しない」
おれは梢から舞い降り、パネルの縁に止まった。
足裏に微かな熱が伝わってくる。
「声を遮らない場所が、枝だけじゃないと分かった。それだけが収穫だ」
クルの声が少し低くなった。
「でも、ラン。通りすぎる声は、位置を誤らせる。応答の距離が測れなくなってるわ」
「そいつは思ったより深刻だぞ」
その瞬間、風が止んだ。
パネルの反射だけが、不自然に歪んだ。
森の端にヤマドリの姿が浮かんだ。さながら陽炎のように揺れる。
音は乱れず、同じ高さのまま返ってくる。均一、完全――だからこそ、森じゃない。
「仲間の返しが強すぎるぜ」
クルの声がわずかに強まった。
「重なってるわ。これは相手が意図した強度じゃないね」
おれは一瞬、喉を閉じ、言葉を選んだ。
「人は地面を変えただけじゃない。声の通り道まで潰してしまった。だから、余計に危険なんだ」
次の瞬間だった。
クルが身をかがめた。
「ヒヒヒ――ッ」
おれはとっさに叫んだ。
「隠れろ! 藪だ!」
常緑樹の葉叢(はむら)に身を沈め、息を殺す。
風切り羽の音が耳を突き、心臓が胸を打った。
――影が消えない。
光の反射が輪郭を浮かび上がらせている。
草いきれの中で、クルの羽先がおれの翼に触れた。
短い合図、位置確認、それだけじゃない。温かみがある。
喉が詰まったが、声を絞り出した。
「オオタカだ! パネルの上から逃げたヤマドリを捕らえた。速すぎる」
向こうの端では羽音が止まり、肉を裂く気配がした。
均一な空間は、捕食者にとって理想だった。獲物は逃げ場がない。
クルが短く息を吐いた。
「さっきのまま、あそこに止まってたらば」
即座に返した。
「違う。読めなかったのは、タカだけじゃない。ここ全体だ」
ヤマドリの散った羽毛が、かつてのアドンの姿と重なった。
独り占め、返しを待たない判断だと、こうなる。
――あのときも、間を数えなかった。
おれは低く言った。
「ここは危なすぎる。空き地は最初から誰の場所でもない森だった。しかも、こうして覆われている」
「袋みたいだしね」
おれは羽毛から目を逸らし、声を抑えた。
「だが、森の外に追い出されたわけじゃない。まだ、測れる余地はある」
クルが即座に返してきた。
「そのためには、言葉の配列を磨かないと」
「分かってる」
怒りと恐怖が、再燃してきた。だが、感情に流されれば精度が落ちる。
クルが黄緑の若葉に穴を開け、また記録の体勢にはいった。
「オオタカの件も、刻んでおくよ」
おれは訊かずにはいられなかった。
「記録に意味があるのか?」
クルは意外に涼しい表情をした。
「続けることが、意味になるわ」
おれは改めて空き地を見渡した。
パネルが歪な形に反射する。罠だ、と直感した。
もしかしたら、森の縁で起こったあの山火事も、人の手によるのかもしれない。
思いきり声を放った。
「この、ばかたれ――っ!」
声は滑り、向こうの森縁に吸われ、同じ順序で返ってきた。
重機のエンジン音が混じっていたが、正確すぎる返しだ。
尾羽を閉じる。
いつの間にか山茱萸(さんしゅゆ)の黄色い花が、スパイシーな甘い香りを放っていた。桜はもうすぐだろう。
逃げる前に、測る必要がある――この空間が、どこまで歪んでいるのかを。
記録は、いったんここまでにしておこう。
9 記録者
おれはクルとともにパネルの空き地や伐採現場を離れ、森のさらに奥で翼を休めた。
エンジン音も返しも、もう届かない。ここでは、声は歪まないようだ。
「これで記録は十分だな」
クルが珍しく、吐息まじりに答えた。
「ああ、今のところはね。でも、また再開するかもよ」
おれは最後に、記録の印を残した。――森が壊れた、ではない。
――壊れたと判断できる者が、まだ残っている、と。
白樺の梢の天辺でバランスを取り、遠くに視線を飛ばした。キツツキの巣穴はまだ見つけていないが、ギンムクドリの群れが、陽に輝きながら飛翔していく。
さらにその向こう、切り開かれた地表が一瞬きらめき、低い角度の光が枝を透かして、何度も、何度もこちらへ返ってきた。ヤマドリの命が失われた現実など、まったく忘れ去られたかのように。
おれは鳴く必要を感じなかった。
ただその反射が途切れるまで、ほとんど瞬きもせずに眺め――次に失われるものを、あらかじめ数えはじめていた。
完
主要参考文献
岩内章太郎『新しい哲学の教科書――現代実在論入門』講談社選書メチエ、二〇一九年
ガブリエル、マルクス『なぜ世界は存在しないのか』(原著、二〇一三年)清水一裕訳、講談社メチエ、二〇一八年
――――――――――『新実存主義』(原著、二〇一八年)廣瀬覚訳、岩波新書、二〇二〇年
河野勝彦『実在論の新展開――ポストモダニズムの終焉』文理閣、二〇二〇年
鈴木俊貴『僕には鳥の言葉がわかる』小学館、二〇二五年
ハーマン、グレアム『思弁的実在論入門』(原著、二〇一八年)上尾真道・森元斎訳、人文書院、二〇二〇年
山極寿一・鈴木俊貴『動物たちは何をしゃべっているのか?』集英社、二〇二五年
ユクスキュル⁄クリサート『生物から見た世界』(原著、一九三三年)日高敏隆・羽田節子訳、岩波文庫、二〇〇五年
[ライタープロフィール]
野上勝彦(のがみ かつひこ)
1946年6月、宮崎県都城市生まれ。10歳の秋、志賀直哉と出会い、感銘を受ける。20歳のとき関節リウマチを発症、慶應義塾大学独文科を中退。数年間、湯治に専念。画家になるか作家になるか迷った末、作家になろうと決める。長編小説20編以上の準備をするが、短編小説数編しか発表できず。31歳のとき、文学を学び直すため、早稲田大学第二文学部に入学。13年浪人という形になった。英文学専攻、シェイクスピア学を中心に学ぶ。足かけ5年間、イギリスに留学。留学中父親を亡くす。詩人のグループに属し、英詩を書き、好評を得る。1989年末、帰国。教員となる。2010年、本務校を退職。同僚先輩から借りた本代1000万円を完済。2017年、非常勤講師をすべて定年退職。2018年、最初の評論集が『朝日新聞』書評欄で取り上げられる。最初の長編小説を完成させたのが2019年。いずれも出版に際し、グリム童話研究家金成陽一氏の紹介により河野和憲社長(当時編集部長)のお世話になって、現在に至る。12歳の時、最初の短編小説を書いて以降、題材を2000本以上書き留める。題材帳をもとに短編・掌編の執筆戦略を練り、2024年10月下旬から25年10月下旬までの1年間で、1700作を書く。現在、未発表短編1870作を数える。
【単著】『〈創造〉の秘密――シェイクスピアとカフカとコンラッドの場合』彩流社、2018年。『暁の新月――ザ・グレート・ゲームの狭間で』彩流社、2019年。『始源の火――雲南夢幻』彩流社、2020年。『疾駆する白象――ザ・グレート・ゲーム東漸』彩流社、2021年。『マカオ黒帯団』彩流社、2022年。『無限遠点――ザ・グレート・ゲーム浸潤』彩流社、2023年。
【共著】『シェイクスピア大事典』日本図書センター、2002年。『ことばと文化のシェイクスピア』早稲田大学出版部、2007年。The Collected Works of John Ford, Vol. IV, Oxford: Oxford University Press, 2023.
【論文】‘The Rationalization of Conflicts of John Ford’s The Lady’s Trial’,Studies in English Literature, 1500-1900,32,341-59,1992年、など37本。詳細についてはウェブサイトresearchmapを参照。
【連載】『近代神秘集:生きもの編』、ウェブマガジン『彩マガ』彩流社、2025年4月16日より。
