痛みの地図
1 奪うものの朝
馬の血が、あたいを生かしている。
それだけは確かだ。ほかのことは、よく分からない。
朝の光が馬の背をなぞり、黒毛は熱を抱いてゆるやかに湯気のような匂いを立てていた。
近づくだけで翅の奥がざわめいた。あたいの体は、考えるより先に、その温度を選んでいた。
太い腹の馬がこちらを見た。おもむろに低い声が響いた。
「またか? 馬アブめ」
怒りというより、諦めに近い口調だった。声の奥には、誰にも届かない疲れのようなものが沈んでいた。
あたいは空中で静止した。逃げる理由はなかったが、胸の奥がかすかに震えたのは、朝の冷えのせいだと思うことにした。
言葉は軽く宙に浮いた。
「お前には、あたいが必要だ」
馬の耳がわずかに動いた。尻尾が風を裂く。
「必要だと?」
あたいは半歩、空気の層をずらした。
馬の皮膚の下で血が流れていた。見えないが、確かにあった。あたいはその音を知っている。温い、柔らかな脈動。あれに触れれば、体の奥が満ちる。
自然に言葉が出た。
「吸えば、お前も強くなる」
言葉より先に、腹の奥が熱を求めてうずいた。そのうずきを正しさだと思った。
ほんの一瞬だけ疑いがよぎった。
本当にそうなのか?
だが、疑いはすぐに翅音にかき消えた。
あたいは腹へ降りた。黒い皮膚は張りつめていた。口器を差し込むと、内側の熱がこちらへ滲んだ。
血は甘くはなく、むしろ塩気を感じさせ、ひたすら愉悦だった。快楽とも思えるほどの満足感が、あたいの体の奥にゆっくりと根を張った。
あたいは卵を産まねばならない。楽しむという目的より、必要があたいを突き動かしている。
馬の筋肉が小さく震えた。
「痛いよ、この寄生虫め」
それだけ言って、馬は動かなかった。
悲鳴のような声は、あたいの胸の奥に小さな棘を残した。だが、その棘の意味を、あたいはまだ理解していなかった。
風が厩(うまや)の隅を抜けていった。藁の匂い。遠くで金具が鳴った。
馬が後ろ足を蹴り上げた。
「お前は奪うだけじゃないか」
あたいは吸いながら考えた。
寄生とは、奪うことなのだろうか?
草は土から奪い、馬は草を噛み、あたいは馬に触れる。
どこからが略奪で、どこまでが巡りなのか?
血が口の奥で広がり、体が少し軽くなった。口先が動いた。
「良い結果を生まないなんて、誰にも分からないでしょ?」
馬の呼吸が、わずかに深くなった気がする。腹の内側が熱を帯びていた。
声は荒れていなかった。
「まだか?」
あたいは離れた。空へ戻ると、世界がわずかに明るかった。
耳のそばで羽音を立てて宙を舞った。
「これで、お前は強くなったんだ」
馬が答えた。
「腐れ縁だな」
あるいは風が鳴ったのか。
あたいは黒毛の上を一周した。黒く温かいものが大好きだ。腹の温度は確かだった。
2 浅い熱
その日は、風が乾いていた。
馬の体から、いつもの熱がうまく立ちのぼっていない。黒毛の下で、何かを抱え込んでいるような重さがあった。
光を浴びているのに、奥からの温度が浅い。
あたいは何度も円を描き、降りる場所を探した。
腹のあたりに、かすかな震えがあった。
低く、押し殺した声が立った。
「来るんじゃない」
あたいは宙で止まった。拒まれることには慣れていた。
だが、馬の声はいつもと違っている。怒りより先に、別の何かがひびいていた。
思わず口が動いた。
「お前、弱っているね」
本当かどうかは分からない。ただ、そう言えば正しい側に立てる気がした。
尻尾があたいを狙って強く振られた。風圧が翅を乱した。
馬が叫んだ。
「弱ってなどいないわよ!」
蹄が藁を踏みつけ、乾いた音がはじけた。
あたいは距離を詰めた。皮膚のすぐ上で、血の流れを探った。ある。確かにあった。だが、いつもより遅かった。
あたいは告げた。
「震えているんだね」
馬の筋肉が硬くなった。
「見るな」
声に触れたとたん、あたいの翅がひとりでに震えた。馬の奥にある冷たいものを感じ取った証拠だろう。
翅を一瞬止めた。
見ているのではなく、皮膚から感得しているのだ。
だが、触れるとは、暴くことだったのかもしれない。
焦りに気おされた声が漏れた。
「吸わせろ」
馬が振り向いた。目の奥の光は浅かった。
「お前は、痛みが分からないんだよ」
辺りは静かだった。静けさのほうが翅音より大きかった。
あたいは舞い降り、腹に口器を当てた。差し込もうとした瞬間、強い衝撃が走った。
尻尾だった。
視界が反転し、藁の匂いが近づいた。
あたいは藁に叩きつけられながら、ふと気づいた。
――もしかして、あたいの触れる行為そのものが、痛みだったのか?
皮膚の震えが、あたいの脚先にまで伝わって、腹の熱をひとつ冷ました。
馬の荒い息が鼻から蒸気のように噴き出た。
「帰れ」
あたいは立ち上がった。翅がうまく合わなかった。
血を吸っていないからか、体の奥が空洞のように冷えてきた。
馬が言った。
「お前はやらずぶったくりだ。この利己主義者め」
口調は正しい形をしていたが、どこか歪んで聞こえた。
あたいは言い返そうとした。
血が巡る。巡れば強くなる。そういう理屈を並べればよかった。
けれど、口はうまく動かなかった。
思い浮かんだ言葉はこうだ。
――言われた通り、奪っているのかもしれない。
疑念が初めて形を持って、石のように胸に沈んだ。
馬の腹が小さく波打った。呼吸は浅かった。
本当に、あたいは助けているのか?
疑いは一瞬で、すぐに振り払った。やっと声を絞り出した。
「奪うから、すべてが回る」
馬が目を閉じた。
「もう来るな。うるさくてたまらない」
風が止んで、厩の空気が重く沈んだ。
あたいは天井近くまで舞い上がり、そこから黒い背を見下ろした。近づけば温度はあった。だが、さきほどより遠かった。
吸えなかった。それだけのことなのに、体の奥がざわついていた。
弱っているのは、どちらだったのだろう? 答えは、まだ降りてこなかった。
3 静かな満ち
間もなく、風はやわらいできた。
馬は立っていた。それだけのことが、以前より確かに見えた。
腹のあたりの震えは目立たず、呼吸は深く長かった。藁を噛む音も途切れなかった。
あたいは梁の陰から見ていた。
本当に、持ち直したのだろうか?
あたいは胸の奥がわずかに熱くなるのを感じた。
――あたいが吸ったからだ。
思うほど、体が軽くなる気がした。
近づくと、黒毛は光を含み、熱を抱えている。冷えた朝のことが、遠く感じられた。
馬の声は低かったが、尖ってはいない。
「来るのか?」
あたいは円を描いた。降りる理由を探すふりをしながら、実のところ、自分の迷いを測っていた。
「震えていないね」
馬が鼻を鳴らした。
「元からさ」
短い息遣いで、否定の力は弱かった。
あたいは腹に降りた。皮膚は張り、温度は安定している。口器を当てると、抵抗はなかった。
血が来た。温い。重すぎず、薄すぎず。
体の奥が静かに満ちていった。
尻尾は動かず、ただ呼吸がひとつ深くなった。
「どうだ?」
馬の声は、どこか遠くを見ているようだった。
「痛いけど、うん、楽にもなるんだよ」
吸いながら考えた。吸うたびに、馬は持ち直すようだ。
だが、それは本当に因果なのだろうか?
青草が芽生え、餌も新鮮になった。夜の冷えも和らいでいる。だからではないか?
それでも、あたいが離れたあと、馬は以前より長く立っていた。歩幅も、わずかに広かった。
馬が言った。
「悪くない」
とたんに、あたいの腹がじんと温かくなった。
――やっぱり、あたいが必要なんだ。
この納得感は堪(こた)えられない。
馬の呼吸が深くなるたび、あたいの翅が軽くなった。その軽さを、あたいは共に生きている証だと思いたい。
馬の目に何かの翳りがあったが、無視できる程度にすぎない。
もう一度、黒毛の上を巡った。
寄生か、共生か。
言葉はどちらでもよかった。ただ、ここに温度があった。それが、あたいを呼んでいた。
馬は目を閉じて言った。
「好きにしろ」
拒絶ではなかった。積極的な許しでもないが。
あたいは降りた。また吸った。血が巡った。巡っているように見えた。
卵が成熟していく実感が体中をめぐった。
4 尻尾の一撃
昼の空気は重く、地面は白く乾いていた。
馬は厩の外に出ている。陽は高く、黒毛は光を吸い、わずかに熱を返していた。
あたいはいつものように背の上を巡った。
すると、音が変わった。
低く、太い羽音。あたいのものではない。
黒と黄の影が、斜めに落ちた。スズメバチだ。
あたいの腹の奥が、ぐっと縮んだ。
――あれには勝てない。
この妙な感覚だけが、先に体を支配した。
あたいは空中で止まった。翅がわずかに遅れた。
やつは迷わず、一直線にあたいめがけて突っ込んでくる。ミツバチと勘違いしているのか?
あたいは急旋回した。馬の陰に隠れようとしたが、遅かった。地面すれすれに飛んだ。
さすがのスズメバチも急ブレーキをかけて、いったん空中にとどまった。
あたいはその隙をついて、馬の腹の下にもぐった。空間が狭ければ、小回りが効くあたいのほうに有利にはたらく。
スズメバチは羽音高く追いかけ、捕らえようと脚を伸ばしてきた。
あたいはとっさに馬の前側に回った。
あたいの羽音も大きいがスズメバチの羽音ははるかに大きい。馬がぶるっと首をふった。それから前足をふり上げた。スズメバチの速度が落ちた。
あたいは急上昇すると馬の耳をかすめ、背中のほうに方向転換した。
スズメバチの羽音が一瞬、馬の耳が震える音とまじった。
馬が言った。
「こんなところで狩りをするなんて」
あたいはたてがみの陰から前に向いた。
「あいつは狂暴なんだ。ちょっと、陰を借りるよ」
その間にもスズメバチの黄色い縞の腹が迫ってきた。今度は太い針をむきだしにしていた。
あたいは何度か急旋回し、尻尾のほうへ回った。必死の逃亡劇だ。諦めるわけにはいかない。卵を産むまでは何としても生き残らねばならないのだ。
あたいは尻に着地するや、すぐ横に飛んだ。
スズメバチが勢い余って、尻に突っ込んだ。針が刺さったのか?
馬が急に跳ねて、尻尾を振った。スズメバチをかすめた。
あたいは尻尾の振れる範囲内で回避行動をとった。馬の尻尾がどう動くか熟知している。
スズメバチの軌跡が乱れたようだ。
次の瞬間、衝撃が走った。
尻尾が空気を裂き、やつの体を弾き飛ばした。乾いた音が地面に落ちた。
あたいの脚が勝手に縮こまり、腹の根元がひゅっと細くなった。その反応で、自分がどれほど軽いか分かった。
スズメバチは地面でもがいていた。翅が震え、針がわずかに光った。
起き上がる間もなく、蹄で踏みつけられた。音が止まり、静けさが戻った。
あたいは、この逃亡劇で、自分が守られる側だったと思い知らされた。
まだ宙にいた。悔しいながら、降りもできず、逃げもできなかった。
馬の体は荒く上下し、尻の皮膚がわずかに赤くなっている。黒毛のせいでほとんど目立たなかった。
尻尾の動きを思い出すと、あたいを払うときとは違う力だった。
馬が低く言った。
「厄介だったな」
あたいはゆっくりと背へ降りた。
「やっつけてくれて、ありがとう」
黒毛の温度はいつもより高く、血が速く流れているように感じられた。そして腹をわずかに震わせた。
内側で何かがゆっくり動いたような、そんな微かな揺れだった。
馬は自分でも理由が分からないように、鼻を鳴らした。
「妙な感じだ。痛いわけでもないのに、奥で何かが息をしているみたいなんだ」
あたいはさっそく腹のまわりを一周した。
「どこにも傷はない。大した問題じゃないよ、きっと」
馬が言った。
「お前は軽くていいな」
否定でも侮りでもない。ただの事実のように、素っ気なく聞こえた。
あたいは羽音を高くして答えた。
軽い――その通りだ。
スズメバチの翅は硬く、針は鋭い。あたいの口器は細く、ただ吸うだけだ。
あたいは尻尾の届かない腹で思いっ切り吸った。血が来た。温かった。だが、さきほどの衝撃が和らぐわけではない。
――もし、あの尻尾が間違ってこちらに向いていたら?
考えは途中で切れた。
馬は牧草に夢中なのか、特段の動きを見せなかった。ただ皮膚をゆするだけで、あたい任せにしていた。
許しというには少し過ぎた。それとも、ただの区別だったのか?
あたいには分からない。
吸い終えて離れると、馬は歩き出した。蹄が土を踏み、軽い音を立てた。
あたいは当たり前のように背を追った。
地面には、動かなくなった黒と黄の影が残っていた。
あれと自分は違うのか?
さっきまで、あの針の前では、ただの餌だった。馬の尻尾がなければ、地面に転がっていたのは、確実にあたいのほうだった。
5 鉄網の目
朝の光は冷たく、厩の空気はいつもより硬かった。
扉の向こうに人間の影があり、鉄の枠と網目の檻が静かに置かれていた。
馬は耳をピンと立て、鼻を震わせてあたいを振り返った。
その目の奥に影が揺れていた。
と同時に、助けを求めているような光が見えた。だが、それが本当にそうだったのか、判断がつかない。
あたいは背にいた。翅は湿り、心臓のように小さく震えていた。
この気配は、いつもの乾いた朝とは違っていた。
馬が低く唸った。
「これは、何だ?」
言葉ではなく、音だけであたいに届く響きだった。
強く、正確で、拒否できない力を帯びていた。
人間は扉を開け、「どうどう」と言いながら馬を誘導した。
馬は抵抗しようと試み、蹄が鉄の冷たさに触れて滑った。
あたいは背から跳ね上がり、近づこうとしたが、鉄の枠が行く手を塞いだ。
その瞬間、あたいは理解した。
――自分は守られていなかった。拒まれていたのではなく、ただ物理的に届かないだけだったのだ、と。
馬は唸りながらも従い、檻の中へ押し込まれた。背の温もりはまだ感じられたが、距離が開いていった。
鉄の網が、あたいと馬のあいだに冷たく立ちはだかった。
馬の温度はすぐそこにあるのに、あたいの口器は届かなかった。奪うことも、与えることもできない距離が、初めてあたいを無力にした。
空白が、胸の奥をじわじわと冷やす。
馬は一度だけこちらを見た。
その視線を、あたいは《呼んでいる》と思った。だが次の瞬間、馬はただ檻の中で身じろぎしただけだった。呼んでいたのではなく、苦しんでいただけなのだと、遅ればせながら理解した。
馬は強く吐息を漏らし、蹄で檻を蹴った。
音は乾いていて、あたいの胸にも響いた。
あたいは檻の周りを飛び回ったが、どこからも触れられなかった。
中に入れない。何もできない。
その事実が、恐怖よりも深くあたいを締めつけた。
人間は外で無関心に作業を続けていた。水を換え、草を置き、馬の体を眺めるだけだった。
あたいの存在など、風の埃ほどにも思っていないようだ。
馬とアブの仲を引き裂くつもりなのか? いや、そんな意図すらないのだろう。
ただ管理するだけ。そこに悪意も善意もない。
あたいはあらためて考えた。
自分の存在の意味とは何だったのか?
寄生とは、共生とは、誇りとは?
馬の眼が、網越しにあたいを見つめた。視線には問いがあった。あたいに向けられた熱い思いだったに違いない。
だが、答えは出せなかった。
やがて日が傾き、厩の影が長く伸びた。
馬は檻の中で眠ろうとしていた。呼吸は浅く、疲れが全身に滲んでいるとみえた。
あたいは冷えてきた檻から離れざるを得ず、空を漂った。翅は重く、胸は鈍い痛みで満ちていた。
馬の体から、あたいの口器は跳ね返されたままだ。
近づけないのは、拒絶ではなく、ただの距離に過ぎない。なのに、あたいは嫌われたような錯覚に沈んだ。自分の小ささが、鉄より重くのしかかった。
血の匂いも、温度も、全部が遠ざかっていく。
あたいは知った。
馬との赤い糸は、どれほど細かったかを。
夕刻が近く、風は低く唸っていた。
やむなく、林の葉陰にもどって休むことにした。夜は別の危険がある。誘蛾灯に誘い込まれたら、死の苦しみをもがかねばならないのだ。
6 温度の向こう
翌朝、あたいは厩にもどった。
鉄檻は冷え、馬の呼吸は白く立ち上っていた。
昨日の断絶の感触が、まだ翅先に残っている。
鉄の網があたいを拒んだ瞬間。
あの冷たさが、今も体の奥で固まったままだ。
なんと、馬は檻の中で横たわっていた。一晩ですっかりやせ細っている。
黒毛は光を失い、呼吸は浅く、間隔が長かった。
あたいは背に降りたかった。温度を確かめたかった。
網さえなければ。
事実だけが、夜の静けさより重かった。
馬の眼がわずかに開き、網越しにあたいを見た。視線は弱く、揺れていた。呼ぶようでもあり、諦めているようでもあった。
あたいは網目に脚を突っ込んだ。
翅先が鉄に触れ、乾いた音がした。あたいの存在を拒む音だった。
馬の呼吸がひとつ、深く沈んだ。
あたいは温度のほうへ口器を伸ばした。
吸えない。
網が、あたいの存在そのものを否定するようだった。
寄生とは奪うに等しい。だが、奪うからこそ巡り、巡るから生きる。
そう信じていた。だが、もはや、あたいは何も奪えなかった。近寄ることすら許されない。
――あたいは、何だったのだろう?
馬の体がわずかに震えた。蹄が鉄の床を掻いた。音は弱く、頼りなかった。
あたいはもう一度、鉄網の隙間に脚を伸ばした。届かないと知りながら、それでも伸ばした。
ただそれだけのことが、こんなにも痛いとは思わなかった。
風が檻の隙間を抜け、藁の匂いを運んだ。匂いは、いつもなら馬の温度と混ざっていた。
だが今は、ただ冷たい空気の中に散っていくだけだ。
馬の呼吸はさらに浅くなった。
胸が上下するたびに黒毛がわずかに揺れる。
その揺れが、あたいには遠かった。
馬の唇がわずかに動く。
「おまえは――」
その先は、息とともに途切れた。
あたいは翅が重く垂れ、空気がうまく掴めなかった。馬の温度が消えた場所に、冷たい風だけが流れ込んだ。
胸の奥が空洞になったようだった。
馬の眼は半ば開いたまま、光を失っている。
もう二度とあの温度に触れられないのだと悟った。
翅の奥に残っていた馬の温度が、ゆっくりと薄れていった。その消えゆく温かさが、喪失そのものだった。
――あたいは、何のために生きているのか?
問いは、鉄の檻より重くのしかかった。
目の裏に馬の面影が浮かんだ。
朝の光に瞼を瞬(しばたた)かせる癖。吸われるとき、ほんの少しだけ肩を揺らす仕草。
そのどれもが、もう戻らない。
だが、あたいの翅の奥には、まだ馬の温度が残っていた。
触れられなくても、奪えなくても、あの黒毛の下を流れていた血の記憶だけは、消えない。
それが、あたいと馬の最後のつながりだった。
悠寂が檻を満たした。風の音さえ、遠くに感じられた。
7 不測
そのときだった。厩の扉越しに、小さな鳴き声が静寂(しじま)を裂いた。
あたいは振り返るや、羽ばたいた。扉の隙間から厩の中に飛び込んだ。
囲いで、小さな体が揺れていた。
生まれたばかりの仔馬が、母を探して鼻を鳴らしている。
蹄で床を蹴り、よろめきながら立とうともがいていた。
あたいは黒い色をした仔馬を目指して空気を切った。
そっと脚を伸ばした。脚先には、まだ馬の体温の記憶が残っていた。
あたいは黒馬の残像と疼きをかかえながら、背に降りた。細い毛が脚に触れ、確かな温度が伝わってくる。
その瞬間、あたいは胸を突かれた。
温もりは、慣れ親しんでいた黒馬のものとは違っている。
似ているのに、決して同じではない。その違いが、失われたものの大きさを静かに思い出させた。
仔馬はあたいを振り払おうとした。だがすぐに力を失い、また立ち直った。
あたいはそっと背にしがみついた。まだ口器を差し込む真似はしない。ただ、温度を確かめた。
失われた黒馬の温もりはここに残っていた。
仔馬の背の震えが、あたいの腹を静かに押した。その温度は高いながらも、頼りなく、なお離れがたかった。
黒馬とは違うけれど、皮膚の下を流れる血の脈動は、同じ道をたどっているようだ。あたいの脚先が、その震えを受け止めた。
ふと気づいた。
――ああ、これがまたの始まりなんだ。
言葉より先に、体がその意味を知っていた。
あたいは翅を広げた。
風がその下を通り抜けた。
恐怖も、喪失感も、まだ消えなかったが、仔馬の背の温度が、空へ押し上げてくれた。
あたいは飛んだ。寂然とした空気の中を、ゆっくりと。
黒馬の死と、仔馬の震えのあいだにある、細い温度の道をたどるように。
8 未踏
梢から離れた陽が丸みを取りもどし、藁を白く焦がしていた。
仔馬はまだぎこちなく四肢を操(あやつ)って、藁を踏むたびに小さな音を立てている。
あたいの脚は背の毛に絡みつき、翅先は微かに震えた。
遠くで草を踏む音が大きくなり、厩務員が歩み寄ってくる。扉を開けて檻をのぞきこむや、大きな声を張り上げた。
「獣医を、急いで呼ばなきゃ!」
あたいの脚も、緊張で微かに震えた。
「なにをやってたんだ?」
羽音を一段高くして、あたいは厩務員の頭上を旋回した。
振り払おうとする手を避けて、鉄檻のなかに突っ込んだ。
黒毛馬に触れるやいなや、雪のような冷たさに目がくらんだ。思わず強く羽ばたいて脚を離すと、勢い余って陽の光に舞い出た。それから再び仔馬の背筋に取り付いた。
ふわりとした毛皮の震えが、弱くも確かな生命の鼓動となって伝わってきた。
厩務員がスマホを握りしめ、獣医とともに戻ってくる。
あたいはまたひと翔びして陽の光に照らされた。
鉄檻に入った獣医が、首まわりを調べて言った。
「あちこちに刺された跡があるな。スズメバチだろう。昨日、この辺でも見かけたよ。それで収容したんだが」
厩務員が眉を寄せた。
「輸送車に入れる前にやられたんですかね?」
獣医は肩をすくめた。
「かもな。尻尾で叩き潰したとすれば厄介だ。仲間を殺されると群れてくるからね」
「出産後だったのが不幸中の幸いでしたか?」
「まあ、よくある話だが」
人間の言葉は、いつも簡単だ。
黒毛の生死に、あたいは関りなかった。それだけだ。
共生。必要。循環。
どれも、匂いがしなかった。
厩の扉が解放された。あたいが戻ったのは言うまでもない。
仔馬が一歩踏み出した。
強い。地面を蹴る。
あたいがいなくても。
一瞬、離れかけた。
空は高い。
腹が鳴った。乾いた響きが立った。
あたいは脚を離さない。
口器を突き立てた。
血は温かい。
仔馬が震え、前へ出た。
歩く。
走る。
振り払おうとする。
あたいは六脚に力をこめた。
黒毛の影は、ない。
けれど、脚の裏には残っている。
刺した脇腹、叩かれた尻尾、逃げこんだたてがみ。
あたいの体の中に、まだあの馬の痛みの地図がある。
それでも――
吸う。
完
[ライタープロフィール]
野上勝彦(のがみ かつひこ)
1946年6月、宮崎県都城市生まれ。10歳の秋、志賀直哉と出会い、感銘を受ける。20歳のとき関節リウマチを発症、慶應義塾大学独文科を中退。数年間、湯治に専念。画家になるか作家になるか迷った末、作家になろうと決める。長編小説20編以上の準備をするが、短編小説数編しか発表できず。31歳のとき、文学を学び直すため、早稲田大学第二文学部に入学。13年浪人という形になった。英文学専攻、シェイクスピア学を中心に学ぶ。足かけ5年間、イギリスに留学。留学中父親を亡くす。詩人のグループに属し、英詩を書き、好評を得る。1989年末、帰国。教員となる。2010年、本務校を退職。同僚先輩から借りた本代1000万円を完済。2017年、非常勤講師をすべて定年退職。2018年、最初の評論集が『朝日新聞』書評欄で取り上げられる。最初の長編小説を完成させたのが2019年。いずれも出版に際し、グリム童話研究家金成陽一氏の紹介により河野和憲社長(当時編集部長)のお世話になって、現在に至る。12歳の時、最初の短編小説を書いて以降、題材を2000本以上書き留める。題材帳をもとに短編・掌編の執筆戦略を練り、2024年10月下旬から25年10月下旬までの1年間で、1700作を書く。現在、未発表短編1900作を数える。
【単著】『〈創造〉の秘密――シェイクスピアとカフカとコンラッドの場合』彩流社、2018年。『暁の新月――ザ・グレート・ゲームの狭間で』彩流社、2019年。『始源の火――雲南夢幻』彩流社、2020年。『疾駆する白象――ザ・グレート・ゲーム東漸』彩流社、2021年。『マカオ黒帯団』彩流社、2022年。『無限遠点――ザ・グレート・ゲーム浸潤』彩流社、2023年。
【共著】『シェイクスピア大事典』日本図書センター、2002年。『ことばと文化のシェイクスピア』早稲田大学出版部、2007年。The Collected Works of John Ford, Vol. IV, Oxford: Oxford University Press, 2023.
【論文】‘The Rationalization of Conflicts of John Ford’s The Lady’s Trial’,Studies in English Literature, 1500-1900,32,341-59,1992年、など37本。詳細についてはウェブサイトresearchmapを参照。
【連載】『近代神秘集:生きもの編』、ウェブマガジン『彩マガ』彩流社、2025年4月16日より。
