近代神秘集:生きもの編 第12回 秋津虫の唄

 

秋津虫の唄

 

1 異変

風はわずかに湿り、乾ききらない気配を翅にまとわせていた。
低く差す光の中で、草も木もバラバラに揺れた。

「今度の風、揃ってない」

下から声が上がった。

「遅いな、アキアカネ」

煤けた体色のハエが、空中で細かく羽音を刻んでいる。

「まだ里にいたのか、ハエ?」

「こう見えてしぶといんだぜ」

私は翅で空気を測りながら、墓地へ視線を落とした。
隅に苔むした五輪塔が一つ、墓碑銘が読めなくなった墓石がいくつか、影を投げていた。
列の奥に、ひびの入った墓石がある。修復可能な程度だが、割れ目に沿って、光が不規則に震えていた。嫌な振れ方だ。

「彼岸にはまだ早い、ハエ。触るなよ。手に負える玉じゃないぜ」

「決めつけるな」

だが、墓の周りだけ空気が重く、目を離せない。ひびの奥で、何かが押し上がっていた。
――順序から外れた動きだ。
私は低く降りた。足先に、断続的な振動が伝わる。
間違いない。

「早いな」

ハエが横に降りた。

「彼岸すら待てないわけか、アキアカネ?」

私は頷いた。

「順があるのにな。魂は決まった時期に運ぶ。早くても遅くても、流れが乱れる」

「破るとどうなる?」

「外に漏れる。ために、触れた場所の秩序が崩れる」

ハエが翅を止めた。

「面倒な役目だな、アキアカネ」

「外されると困るから、見張っている」

ひびの奥で、揺れが強まる。光が跳ね、内側から押し上げてきた。
温かい。
まだ出る時ではないはずのものが、出口を探している。
私は翅を震わせ、ひびを覆うように位置を取る。声を張り上げた。

「待て! まだだ!」

振動が一瞬だけ鈍る。だがすぐに押し返してくる。力が強い。
形を持たない声が、空気を揺らした。

「家に帰りたい」

私は位置を下げ、出口を塞ぐ。

「日付けを守れ。まだ上がる時じゃない」

押し上げる力が増す。ひびの縁で砂が浮く。内側の圧が、外へ抜けようとしていた。
羽ばたきで押し返す。

「止まれ!」

風をぶつけ、流れを下へ向けた。だが圧は崩れない。

「家族を置いていけない」

振動が強くなり、腹の奥まで響いた。
私は動きを止めなかった。出すわけにはいかない。だが押し切るには強すぎる。
風が乱れた。
光がひびの奥で膨らむ。
ハエが低く言った。

「保たないな」

次の瞬間、圧が跳ねた。ひびの内側で光が裂ける。
私は即座に身を引いた。
――外へ出て来る。
そう判断した瞬間だった。

 

2 揺らぐ影

墓場から出ると、空気が軽くなる。乾いた風が肌を撫でた。

「やっと秋の気配が混じった程度だ、ハエ」

ハエは小さな体で空間を計測し、支配しているようだ。あたかも秩序が戻るような錯覚を起こさせる。

「フライングだぜ、アキアカネ。読み違えるなんて、よほど待ちきれなかったんだな」

私は頬がゆがんだ。

「早まってくれるなあ。仕切り直しはできないだろうに」

「魂は迷わない。思い込んだら、脇目もふらず、さ。迷うのは生きてる間だけだ」

ハエの声には皮肉な笑いが含まれている。
遠く、里の光が揺れた。

「まだ誰も気づいてないんだろうな」

「行くぞ、アキアカネ。見張りは俺に任せろ」

羽音が鋭くなる。軽やかに、しかし確実に存在を宣言した。

「手伝ってくれるのか、ハエ?」

身の丈に不釣り合いな威圧感が迫った。

「お手伝いじゃない。俺は秩序の番人だ、アキアカネ。邪魔する奴は潰すまでさ」

私は目を撫でた。
里への道すがら、ハエは絶えず動き、後ろや左右を瞬時にスキャンする。隙あらば口を挟み、状況を分析しようとした。

「遅すぎると魂が爆発する。早すぎると秩序が崩れる」

「なら見極めてみせろ、ハエ」

「見極め済みだ。安心しろ」

微笑混じりの声音には、緊張を緩めるようでいて、私を試そうという魂胆があらわだ。
小径を抜けると、葉の間から差す光に、揺れる影を捕らえた。

「奴だな?」

「そうだ、アキアカネ」

ハエが先に飛んだ。影に接近しながら、飛行軌道を微調整する。風の乱れ、光の反射、地形の凹凸、すべてを計算に入れている。圧力を放ち、存在感を誇示した。
影が揺れた。
ハエは翅を広げ、低く鋭い声で命じた。

「戻れ。順番を守れ」

「命令で、言うことを聞くのか、ハエ?」

影が抗った。空気が波立つ。
しかしハエは一瞬のひるみも見せない。目は光を帯び、羽音で圧を操作し、空間のバランスを微細に制御した。

「守らせる。俺の役目だ、アキアカネ」

私は影の隣で息を整えた。

「力任せではなく、秩序に誘導するだけで収まるはずだけど」

ハエは圧を集中させたが、影はまだ揺れていた。

「アキアカネ、最後の押しはお前じゃないと無理だ」

私は頷いて、強く羽ばたき前へ出た。
影はまだ形を持たない。ただ、行き先だけ分かっているようだ。
赤い腹を振って、意思を伝えようとした。

「戻ってくれ。時が来れば、私が運んでやるから」

 

3 里の乱れ

これはまだ接触に過ぎない。触れただけなら、戻せる。
そう思っていたのは、門口に来るまでだった。
魂は一筋の光となり、庭先をかすめて進む。速い。
だが、まだ制御は効くはずだ。もうひと声、上げた。

「止まれ。戻ってくれ」

私は風を切り、光の前方に翅で膜を張った。押し戻すのではなく、進路を鈍らせる。
光がわずかに揺れた。
ハエが横で低く羽音を刻んだ。

「効いてる。今なら戻せる」

そのときだった。
光の塊が玄関で止まった。
――境界を越える。
扉がわずかに開いた。隙間から中に空気が入り込んだ。
外と内の区別が、ここで消えた。
私は即座に前に出て、扉を塞ごうとした。

「やめろ」

翅をバタつかせ、円を描くように風を巡らせた。
――封じなければ。

だが光は、私の風に触れながら、三和土たたきを超えた。
乾いた音がした。柱の内側で、木がわずかに軋む。
ハエが鋭く飛び込み、光の側面を叩く。

「触れるな!」

流れが一瞬だけ分裂する。
その隙に、私は押し戻そうとした。
だが光は引かない。
玄関の踏み石をなぞり、障子の紙をわずかに膨らませた。内側へ入ろうとしている。

「アキアカネ、境界がもう保たない」

私は理解した。これは接触ではない。侵入だ。

「遅れた」

次の瞬間、光は上がり框にのった。家の内側へ滑り込む。
私はそれを追って、廊下に飛んだ。
ここから先は、外の理では扱えない。

 

4 崩れゆく日常

制御は失われた。順序ではなく衝動が動力源となる。
魂は室内を走った。
畳の上を滑り、柱に当たり、跳ね返り、方向も理由もなく動き続ける。
私はすぐに追い、風で包もうとした。だが、掴めない。
押しても、導いても、無駄だった。
光が棚をかすめた。
茶碗が一つ落ちる。続いて汁椀が転がり、箸が畳に突き刺さった。
続いて、からん、と乾いた音が鳴る。
母が子を抱き寄せた。

「なに、これ?」

声が震えている。
光は応えない。柱に沿って走り、仏壇の前で一瞬だけ揺れた。
りんが鳴った。りん棒には誰も触れていない。

「やめろ」

私は低く入り込み、進路を切るように風を叩きつけた。
光が分かれる。二つに裂け、別々に走った。
私はどちらに向かうか迷って、叫んだ。

「分裂した!」

ハエが大声で応じた。

「一つにまとめろ、散らすな!」

だが、二つとも止まらない。
障子が内側から膨らみ、紙が裂ける。
風が逆巻き、襖が外れて宙に踊った。
私は一つを追う。
もう一つが、背後で柱伝いに家の構造を、なぞっている。
理解した瞬間、背筋が冷えた。

「こいつ、家を覚えている」

元に帰ろうとしていた。だが、その方向を見失っている。だから壊すのか?
ハエが叫んだ。

「アキアカネ!」

そのまま低く飛んで、翅で細かく刻み、進路を乱そうとしている。

「こっちは俺が抑える!」

私も大声を出した。

「無理だ。保たない!」

羽音が鋭く震えた。

「保たせるんだ!」

光は、ハエの制止を軽々と押し切る。
私はこちらの流れに向き直った。
ここで止めなければ、すべて崩れる。

 

5 魂の奔流

止められない。
その確信だけが、はっきりとあった。
光は中央を横切り、柱にぶつかった。パンと乾いた音が立つ。柱が一本、割れた。墓石にまたひびが入ったのかと思った。
次の瞬間、支えを失った天井が、わずかに沈む。
なだめてあげたい、いや、助けてやりたい。
だが、家が構造として崩れ始めた。
ハエが低く唸る。

「何をやってるんだ? 早く抑えてしまえ」

私は全力で前に出た。もう制御どころではない。身体で受け止めるしかない。
私は翅を広げたまま、光の正面に入った。
圧が腹を打つ。体が軋む。それでも離脱はできない。
風を一点に集め、核に押し込むように吹きつける。

「戻れ!」

光が揺れる。だが、止まらない。背後で音がした。
子供の泣き声だったか! 途切れて初めて分かった。
視界の端に、母が子の背に回した手が引っかかった。一瞬だけ、息を呑んだ。
次に来たのは、母親の叫びだった。

「机の下!」

胸の奥が凍る。何とかしてやりたい。だが、もう振り返ってやれない。
今離れれば、すべて――
ハエが横から飛び込んだ。
片脚で体勢を崩しながら、光の側面を叩き続ける。

「生きてるやつに構うな、アキアカネ――以前、逆をやって、ひどい目を見た。芯を崩すんだよ! 義務を果たせ!」

「分かってるよ! でも、おまえは秩序だけを優先するんだな」

私は頬をふくらませながら、さらに内側へ踏み込んだ。
光の中心に、わずかな揺れがある。そこだ。
風を細く絞る。突き刺す。一瞬、光が歪んだ。
その隙を逃さず、ハエが叩く。
流れが崩れる。まとまりを失い、四方へ散る。

「今だ!」

私は全体を押し返そうとした。
戸口へ。外へ。庭へ。
だが、光はばらけたままで、外へ弾き出されたのは、片方だけだった。
もう一つは室内だ。
私は取って返した。揺れと、沈みかけた天井と、割れた柱を見て、改めて身が震えた。理解は遅れてやってくる。
――もう戻らない。家も、流れも、さっきまでの形には。
そして私の左後翅も。裂けてしまって思うように空気を切れなくなった。

 

6 崩落

柱の軋みは、すでに止んでいた。
持ち上がっていた床板も、わずかに沈み、元の位置に復そうとしている。
もう一つの赤い光は、力を失いながらも奥の部屋で這っていた。
跳ねることも、弾けることもなく、ただ行き場を探している。
私は低く羽ばたき、その動きを追った。
裂けた後翅が引きつる。体の軸がわずかにぶれた。
ハエの声は、さっきより低くひびいた。

「アキアカネ、翅は?」

短く答えた。

「問題ない」

風は揃わない。さっきまでのように押し返す力は出なかった。
光が柱の根元をなぞる。そこには、さきほど割れた痕が残っている。
私はその前に降り、進路を塞いだ。
押さえつけるのではなく、ただ、行き先を狭める。
光は触れ、わずかに揺れ、それ以上は進まなかった。
ハエが横に降りた。いつもの覇気が感じられなかった。
右の中脚がない。
それでも姿勢を崩さず、静かにこちらを見ている。痛みを堪(こら)えた声が立った。

「速さが落ちてる」

私は、想像を絶する犠牲に合掌して頷いた。

「ああ。もう暴れないでほしいがな」

光は床に沿って薄く広がり、やがて細い流れに落ち着いた。
強さはない。だが、消えてもいない。
私は翅を小さく動かし、風の向きを整えた。帰る方向だけでも示してやれれば――
光はそれに従うように、ゆっくりと動いた。
戸口の方へ。敷居を越えて。庭へ。
ほとんど音はない。ただ、畳の上を何かが擦るような、かすかな気配だけが残る。
やがて光は踏み石を越え、外へ抜けた。
ハエは壁に止まって、失った脚をかばいながら言った。

「全部、戻したな」

声に老いの兆しがにじんでいた。
私は奥の部屋を見た。
子供は、泣き止んだままだった。ただ、息を詰めた気配がある。
私は小声で繰り返した。

「戻した、か」

床の隙間の奥から、まだかすかな振動が伝わってくる。
私は足先でそれを感じながら、動かなかった。

「順を乱した代償は、残るものだ」

ハエは痛みをこらえるかのように口をおさえ、何も言わなかった。
この家の中だけ、わずかに遅れている。目に見えない揺れが、まだ沈みきっていない。
私は翅を休めの体勢にした。
終わったとは、言えなかった。

 

7 帰路の歪み

破壊はいったん止まった。
庭に出ると、屋根瓦が落ち、割れ飛んでいる。
庭木の折れた枝はぶらぶら揺れ、秋萩の蕾がまるで肩をすぼめたかのように固まっていた。
赤い光は、細くほどけ、四方へ散っている。
私は後を追った。行く先を確かめねばならない。
翅を震わせると、左側がわずかに遅れ、揃わない。
光はさっきまでの勢いはなく、まとまりもない。
私は低く飛び、その一筋の前に降りた。
裂けた後翅が遅れて動く。風が揃わない。
それでも、押しはしない。ただ、向きを整える。
ハエの声は張りがなく、全力で走った馬のようだ。

「中心が消えている。まとまらないぜ」

私は短く応じた。

「ああ。だから、戻せる」

一本ずつ、やるしかない。
光は地面をなぞり、石の陰へ流れ込もうとする。
私はその前に立ち、進路だけを狭めた。
触れれば崩れる。瓦のように散られては面倒だ。
光は行き場を失い、わずかに揺れたあと、別の方向へ向きを変えた。
庭の通路へ。敷地の外へ。
ハエが低く飛び、流れの横に並んだ。翅の震えが不揃いだ。失った脚の分だけ、軌道がわずかに傾く。
それでも、干渉は最小限に留めている。
光がまた二筋に分かれた。どちらも弱い。
私は片方の前に出て、風を薄く置いた。道を示すだけの風。
流れはそれに沿って、ゆっくりと動く。
もう一方は、石の陰に残ったまま、かすかに揺れていた。
ハエがそちらを見たが、すぐには動かなかった。
私は言った。

「急ぐな。もう、荒れ狂ったりしないだろうよ」

時間をかければ、戻る。そういう状態まで、落ちている。
やがて一つの流れが庭の外へ抜けた。もう一つも、遅れて動き出す。
砂がわずかに擦れる音が立った。
私は地面に降りた。
翅は広げたまま破れを日に当てた。ここまでしてやる理由なんて、本当はとっくに尽きているはずなのに。
ハエが近くに降りた。羽音が不安定だ。

「悪い、アキアカネ。細かい制御はもう」

私は遮った。

「構わんよ。ここからは、丁寧にやるさ」

速さはいらない。正確さだけでいい。
私は振り返って、庭の奥、藪の下を見た。
まだ、ある。押し上げは弱いものの、消えてはいないのだ。

「まだ底に残っている。浅く見えるが、癖がある」

ハエが応じた。

「厄介極まりない。上だけ追っても、また歪むんだな」

風は外へ流れている。だが、地表がわずかに逆らっていた。

 

8 復地

ハエは疲労困憊したようだ。しきりに目をこする。
私はどうにか光をまとめて、緩い流れにまとめてやった。
四苦八苦の果て墓地に戻った。息が切れる。その上、空気は低く沈んでいた。
何と、全体の様子が微妙に違っている。
私はひびの入った墓石に降りた。足先に断続的な振動が伝わる。

「まだ下から来ている」

ハエが横に止まった。

「漏れはどこだ?」

「どうも、墓石自体がおかしい。ひびが深くなっている」

風を強くは送らない。奥の気配を探るように、細く通す。
ひびの内側で、何かがにじんでいた。形になりかけた流れが、浮いては崩れる。
私はその先へ回り込み、逃げ道の幅だけをわずかに制限した。
流れは揺れ、やがてひびの奥へ引き返した。
ハエは上から見ていた。動かず、崩れる気配だけを待っている。

「まだあるか、アキアカネ?」

「ああ。残りも戻す」

私は位置をずらしながら、同じ操作を繰り返した。
流れの頭に風を送り、乱れを整え、奥へ沈める。
振動は少しずつ浅くなるが、完全には消えない。
ひびの奥には、沈みきらない重さが残っていた。

「他の墓も、何だか位置がずれてるように見えるが、アキアカネ」

「確かに、ハエ。でも、ひびは、ここだけだ」

上がる動きと沈む動きが、同じ間隔で重なっていく。
持ち上がりかけた気配が、その場で留まった。
私は翅を軽く動かし、沈む方向だけを残す。
流れは迷いながらも、その道を選び、ゆっくりと落ちていった。
それでも、いや、それだからこそ、微妙な違和感に苛まれる。

「まだ残っている」

「最後までやろう、アキアカネ」

残りも同じように奥へしぼむのを見届けた。
墓地全体は静まり始めているのに、地面の揺れだけは消えない。
あたかも蟻地獄のように、底に何かがあるという感触だけが残った。

 

9 核の応答

裂け目は、ひびの奥へと深く伸びていた。
細かな流れは消え、ただひとつの塊が輪郭を帯びている。
私は縁に降りた。足先にかかる圧は重い。
ハエが低く回り込み、隣に止まる。

「まとまってきたな」

「ああ。でも、急いではいけない」

ひびは底が見えない。気配だけが滲む。
それは押し上がるのではなく、居場所を探している。
私は翅をかすかに動かし、下へ抜ける道を確かめた。
塊が揺れる。形は保ったまま、向きが定まらない。

「逃がすな、ハエ」

「羽ばたきすぎて、散らすなよ」

広げれば壊れる。まとまりのまま戻すしかない。
中心が傾く。
私は角度を変え、押さずに引いた。下へ。
一部が沈み、残りは上にとどまる。

「まだ下にあるな、アキアカネ」

「ああ。すべて一度に戻るわけじゃない。順がある」

私は位置を外し、細い流れを保つ。
塊は揺れながら沈み、外へ出る力を失っていく。
ハエは側面をなぞり、広がりだけを抑えた。ちょうど、犬が羊をまとめるように、だ。
塊はさらに沈み、わずかに戻るが、跳ねはしない。
私は羽ばたきを続けた。裂けた後翅が遅れる。それでも途切れなければいい。
やがて大部分が奥へ沈み、残るのは薄い揺れだけになる。
私は翅を緩めた。
ハエが縁に降りて訊いた。

「戻ったか?」

「一部は」

振動は浅く、まだ続く。

「順を崩した分だけ、運び直そう」

ひびの奥では、なお形にならないものが沈んでいる。

 

10 帰着

朝の光が墓地に薄く広がった。
風は上下に通り、草は同じ向きで揺れている。
私はひびの上に降りた。
足先に伝わる振動は乱れておらず、押し上げる力は消え、流れは下へ向かっていた。
ハエが隣に降りた。失った脚の分だけ影が欠けている。
私は翅を整え、裂けた後翅のわずかな引っかかりを押さえた。
ハエが言った。

「一件落着だな」

表面は整っている。だが、胸の奥にはわずかになじまない感じが残った。
かなあ?――私は首をひねった。
墓地の下では、流れが完全には核に収まっていない。
土台石の奥、細く冷たい揺れが微かに続き、別の道筋を形作っているように思われた。
ハエが私の顔を見て、視線を下に落とした。

「落ち着いたように見えるだけって、言いたいわけだ?」

私は頷いて、穏やかな語調で言った。

「まだ、終わっていない」

 

11 誤配

彼岸の入りからは、魂の順調な送り届けで多忙を極めた。
彼岸開けの日、私は再びあの墓に降りた。
そして驚いた。
墓石はずれ、ひびは増え、簡単に修復できそうもないほどだ。
私は翅を鳴らし、下へ向けて流れを通した。
ハエが低く言った。

「今度は迷わないな?」

「そう願いたいが」

だが、ずれた墓石の隙間から納骨室に入ると、空気がわずかによどんでいた。
下から、冷たい揺れが上がる。家の内で感じた揺れと似ていた。
運んだ流れが、元の場所とは異なる形で重なり、微かに脈打つ。
ハエの声が静かに響いた。

「それ、元の場所が違う。お前、間違えたな」

胸の奥に冷たいものが沈む。

「確かめたつもりなんだが」

私が整えたはずの秩序は、すり抜けた流れの前に揺らいでいた。
墓に戻ったのは魂ではなく、迷いのほうだった。でなければ、これほど乱れはしないだろう。
運ぶべきものは、まだ完全には収まっていない。
ハエが翅を休ませた。

「俺たちが見ている道なんて、ほんの一部だ」

秩序は上辺だけに終わる。現実はそっと別の道を選び、私の手で制御できる範囲は想像よりずっと小さかった。そもそも墓石が動くとは。

「精一杯、働いたと思ったんだがな。予定通りには戻らないもんだ」

手順を尽くしたはずのものが、穴だらけだった。

 

12 墓地の上

夕陽が墓地を淡く包み込む。草は静かにそよぎ、風は穏やかに定まっている。
私は運び違えたものを取りに戻った。母親は、誰もいない方角へ向かって手を合わせていた。
魂をつれて墓石に戻ると、もはや、乱れていた光も鎮まり、秩序だけが形として残っている。
ハエが隣に降り立ち、ひびの縁に片脚をかけて、こちらを見た。

「これで、静まったな」

疲れは深まっているに違いない。片脚を失いながら、それでもなお立ち続けている。
私は裂けた左の後翅を整え、低く身構えて言った。

「もう、運ぶものは残っていないね」

振動がわずかに消えなかったが、力はすでに尽きている。
ハエが軽く翅を震わせた。

「だが、順序は守れたぜ」

私は土台石の蓋にとまり、足先で土の感触を確かめる。
納骨室の奥にかすかな気配を感じながら、応えた。

「順を守っても、完全に終わるわけじゃない」

終わりを望んでいるのは、生きている自分の側だ。
風はその願いとは無関係に、世界をそよがし続ける。
ハエがそっと旋回し、残りを確かめた。

「それでも、戻った」

私はもう一度自分に言い聞かせた。
――静けさは終わりではない。たんに次の揺れを覆い隠しているだけだ。
それから、翅を広げ、夕焼けの中へ舞い上がった。左後翅の付け根が麻痺して動かない。破れを補おうと筋肉を酷使したせいだろう。

「結果はどうあれ、やるしかないな」

彼岸過ぎの墓地は沈黙に落ちている。だが、次の世代も、運ぶ種が尽きる心配はない。

 

 

急逝した末弟哲朗に捧ぐ

 

 

[ライタープロフィール]

野上勝彦(のがみ かつひこ)

1946年6月、宮崎県都城市生まれ。10歳の秋、志賀直哉と出会い、感銘を受ける。20歳のとき関節リウマチを発症、慶應義塾大学独文科を中退。数年間、湯治に専念。画家になるか作家になるか迷った末、作家になろうと決める。長編小説20編以上の準備をするが、短編小説数編しか発表できず。31歳のとき、文学を学び直すため、早稲田大学第二文学部に入学。13年浪人という形になった。英文学専攻、シェイクスピア学を中心に学ぶ。足かけ5年間、イギリスに留学。留学中父親を亡くす。詩人のグループに属し、英詩を書き、好評を得る。1989年末、帰国。教員となる。2010年、本務校を退職。同僚先輩から借りた本代1000万円を完済。2017年、非常勤講師をすべて定年退職。2018年、最初の評論集が『朝日新聞』書評欄で取り上げられる。最初の長編小説を完成させたのが2019年。いずれも出版に際し、グリム童話研究家金成陽一氏の紹介により河野和憲社長(当時編集部長)のお世話になって、現在に至る。12歳の時、最初の短編小説を書いて以降、題材を2000本以上書き留める。題材帳をもとに短編・掌編の執筆戦略を練り、2024年10月下旬から25年10月下旬までの1年間で、1700作を書く。現在、未発表短編1900作を数える。

【単著】『〈創造〉の秘密――シェイクスピアとカフカとコンラッドの場合』彩流社、2018年。『暁の新月――ザ・グレート・ゲームの狭間で』彩流社、2019年。『始源の火――雲南夢幻』彩流社、2020年。『疾駆する白象――ザ・グレート・ゲーム東漸』彩流社、2021年。『マカオ黒帯団』彩流社、2022年。『無限遠点――ザ・グレート・ゲーム浸潤』彩流社、2023年。

【共著】『シェイクスピア大事典』日本図書センター、2002年。『ことばと文化のシェイクスピア』早稲田大学出版部、2007年。The Collected Works of John Ford, Vol. IV, Oxford: Oxford University Press, 2023.

【論文】‘The Rationalization of Conflicts of John Ford’s The Ladys Trial’,Studies in English Literature, 1500-1900,32,341-59,1992年、など37本。詳細についてはウェブサイトresearchmapを参照。

【連載】『近代神秘集:生きもの編』、ウェブマガジン『彩マガ』彩流社、2025年4月16日より。

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