近代神秘集:生きもの編 第14回 アントミル――空洞考

アントミル――空洞考

1 列の中で

ぼくが生まれたとき、世界はすでに列になっていた。
湿気が巣の壁に染み込み、脚音が細い通路の奥から絶えずさらさらと響く。かすかな震えが、地面の奥で眠るように続いている。
ぼくは働きアリだ。
草花の種、虫の脚などは言うまでもなく、ときには死んだ仲間の身体さえ運ぶ。
前のアリの腹が揺れ、視界を細かく乱す。床には匂いが残り、ぼくらはその痕跡をなぞって進む。
ある日、地上任務の帰り、横穴の陰に萎びた老アリが立っていた。
脚は細く、乾いた土が身体にこびりついている。右の触角の先が欠け、断面は、何かに擦り切られたようで、妙に目に残った。
老アリは脇から、列の流れそのものを見ていた。
ぼくが近づくと、低く乾いた声で言った。

「若いな」

ぼくの動きをじっと見つめる。視線は、顔ではなく歩き方に注がれているようだった。

「前だけを見ていれば、余計なものは見えない。それが一番楽だ」

褒められたのかどうか、ぼくは曖昧に返した。

「ご親切に、ありがとうございます」

老アリはしばらく黙り、短い触角をわずかに震わせた。

「気をつけろ」

「何にですか?」

老アリは、ゆっくりした口調をつかった。

「終わらない列はない」

それから床を見た。

「残るのは跡だけだ」

意味はよく分からなかった。

「そうなんですか?」

通路の奥から酸の匂いが漂い、監督アリが近づいてくる気配がした。
ぼくは姿勢を正し、列へ戻った。
振り返ると、老アリの姿はもうなかった。目に入ったのは、横穴の闇だけだ。

2 前のアリ

あの日から、ぼくは前のアリの腹を見るたびに老アリの言葉を思い出すようになった。
前の腹は、世界を覆い隠す薄い膜のように揺れた。向こう側に何があるのか見極める前に、揺れがすべてを遮った。
列はいつも通り続いていた。食料が運ばれ、幼虫は育ち、監督アリが通りを見回っている。
匂いは道というより、同じ場所を何度もなぞった痕跡のように平均的だった。
おかげでぼくらは同じ角を曲がり、同じ通路を進める。
その日の帰り、狭い通路で前のアリが一瞬だけ立ち止まった。後ろのアリがぶつかり、さらに後ろもつかえた。
すぐに列は動き出したが、その短い停止に、ぼくは妙な引っ掛かりを覚えた。もしもっと長く止まったら――そんな考えが胸をかすめた。
不穏を振り払うように、ぼくはすぐさま前を向いた。前も、その前も、ただ前を見ている。 そのときふと気づいた。
――誰も行き先を見ていないのではないか?
刹那、地面の奥からかすかな震えが伝わってきた。 酸の匂いが混じる。監督アリの気配だ。
姿は見えないのに、列の揺らぎを察知しているようだ。
震えは止まらず、遠くで大きなものが動いているように感じられた。
前のアリも後ろのアリも気づきさえしない。列はいつもの速さで流れていく。
ぼくは列へ戻った。だが次の一歩だけ、ほんのわずか遅らせた。後ろのアリが腹をぶつけ、列が一瞬だけ揺れた。それでも誰も振り返らなかった。
胸の奥が小さくざわめいた。

3 円の予感

地上へ出て、外気に触れた瞬間、ぼくは背中にかすかな視線のようなものを感じたが、風だと思いすぐ忘れた。
草むらの向こうに見える黒い影は群れだった。だが、ぼくの知る群れとは違う。
フレミングが無数に集まっていた。とても一匹ずつを見分けられない。
群れ全体がひとつの生き物のように揺れ、ざわざわとした低いうねりが伝わってきた。
匂いはほとんどなかった。草の匂いでも土の匂いでもない。
ただ、大勢の身体が同じ場所を通り続けたあとに残る、薄く擦り減った跡だけが漂っていた。
形は波のようだった。
一匹が動くから全体が動くのではなく、全体の揺れが一匹ずつの身体を動かしているように見えた。先頭も後尾もない。
ぼくは近づいた。
群れの縁に若いフレミングがいた。
そのとき、群れの端がぼくの脚に触れた。
触れたのは個体ではなく、動きそのものだった。
ぼくの脚は一瞬だけ群れのリズムに合わせて動きかけた。
自分の意思ではない。
その感覚に、本能的な恐怖を覚えた。
ぼくは訊いた。

「どこへ行くんだ?」

若いフレミングは首を少し動かし、考えるような仕草をした。

「分からないんだ、アリ」

声には迷いも焦りもなく、ただ何かへの一途な頑固さがこもっていた。

「誰が決めた?」

「誰も決めていないよ」

「じゃあ、なぜ歩く?」

「みんな歩いているからだ、アリ。気づいたら動いていた」

ぼくは戸惑った。
群れはゆっくり進んでいるのに、目的地が見えてこない。
匂いを追っているようにも見えない。
動きが動きを呼び、揺れが揺れを生んでいる。
ぼくは言った。

「止まればいいだろ」

フレミングは問いの意味を探すように首を傾けた。

「止まる?」

声音には驚きも反論もなく、ただ初めて聞くかのような、言葉への戸惑いがあった。
彼は何か言いかけたが、顔を背け、そのまま群れへ戻った。すぐに他の個体に紛れ、もう見分けられなかった。
ぼくは群れを見つめたまま、理由の分からない寒気を覚えた。
彼らが危険だから怖いのではない。
目指す場所が見えていないのに止まらない。これが恐ろしかった。
不意に老アリの言葉がよみがえった。

「列は、ときどき終わらなくなる」

ぼくは自分に言った。

「終わるときは、どんなときだろ?」

踏み固められた土の匂いが、ほんのわずかに鼻先をよぎった。

4 正しい道

草原で仲間たちは絶えず前へ進んでいた。
しかし近づくにつれて、ぼくは奇妙な違和感を覚えた。
脚音が途切れない。
列というものは本来、わずかな揺らぎを含んでいる。荷を運ぶ者がいれば、戻る者もいる。狭い場所では一瞬の停滞も生まれる。
だがここでは違った。
さらさらという音が、同じ調子のまま立ち続けている。
草の葉先に登ると、そこから全体が見渡せた。
思わず首が伸びた。
仲間たちは前へ進んでいる。だが、どこかおかしかった。
列が途切れない。どれだけ目で追っても、行進の始まりと終わりが見つからなかった。
ぼくは、位置を変えて、ようやく気づいた。
仲間たちは輪を描いていた。
最初は意味が分からなかった。ただ、ひたすら前へ進んでいるように見える。
しかし目で追っているうちに、同じ場所へ戻っていることに気づいた。
輪は途切れていなかった。しかも、かなり大きい。
内側にも外側にも無数の個体が連なり、黒い帯となって流れ続けている。
それぞれの身体は動いている。それなのに全体としてはどこへも向かっていない。
ぼくは草を降りた。
足元の感触が妙だった。土が沈まない。草原の地面は普通もっと柔らかい。
だがここでは脚先が弾かれる。何度も踏まれ続けた場所だけが持つ硬さだった。
深い溝には脚跡が重なり合い、どれが新しくどれが古いのか判別できなかった。
円の内側へ進むにつれて匂いが変わった。土の匂いではない。運ばれている食料の匂いでもない。乾いた殻と古い死骸が長い時間をかけて土へ混じっていく匂いだった。
中心には黒いものが散らばっていた。最初は石ころと思ったほどだ。
近づくにつれて形が見えてきた。
ぼくは足を止めた。 それは仲間たちの残した殻だった。
顎や脚の欠片が白く風化し、長い年月をかけて積み重なっていた。
風が吹くたびに軽い破片が転がった。その上を列の個体が歩いていく。
誰も立ち止まらないし、足元も見ない。前を行く個体の腹だけを追っていた。
ぼくは中心に立った。外周では脚音が絶えないのに、ここは空洞のように静かだった。
すると、一匹のアリが列からわずかに外れた。
脚がもつれたのだろう。身体が傾き、横倒しになった。
後ろの個体がそれにぶつかった。さらに後ろの個体も重なった。
倒れたアリは起き上がろうとしていた。脚を動かし、身体を持ち上げようともがく。
しかし流れは止まらなかった。後続の個体がその身体を踏み越えていく。
ぼくは思わず脚を踏み出した。倒れた仲間の殻に触れようとしたとたん、外周の流れがぼくの身体を押し返した。一匹の力では逆らえなかった。ぼくは殻の前で立ち尽くすしかなかった。
そのうち倒れた個体の姿は見えなくなった。だが列の流れだけは少しも変わらなかった。
ぼくは目を離せなかった。
ほんの少し前まで生きていたのに、誰も見ていない。
仲間たちは最初から存在しなかったかのように歩き続けている。
胸の奥が熱くなった。
倒れた仲間に対してなのか、列に対してなのか、それとも自分に対してなのか分からない。
助けようと思うと、触角は震えたが、身体は動かなかった。
そのとき外周の流れがわずかに揺れた。
揺れは波のように広がり、ぼくの脚にも伝わった。
すると自分でも気づかないうちに身体が円と同じ方向へ動き始めた。
一歩進んだ。もう一歩進んだ。
ぼくはそこでようやく異変に気づいた。
命じられたわけではない。誰かに押されたわけでもない。
それなのに脚が前へ出ていた。
踏み固められた土には濃い匂いが残っている。
多くの個体が通った道ほど匂いは強くなり、それが正しい道のように感じられた。
身体は否応なく匂いのほうへ引かれていく。あと数歩で列に触れるところだった。
ぼくは慌てて向きを変えた。
その拍子に触角の先が殻の破片に擦れた。
鋭い痛みが走った。
ぼくは転がるようにして円の外へ逃れた。しばらく動けなかった。
胸の奥で何かが激しく脈打っていた。
外周ではなお流れが続いている。
仲間たちは死骸の上を通り過ぎながら歩いていた。
それでも誰も前を見失っているとは思っていないようだ。
老アリの言葉がよみがえった。

「終わりという形が潰れる」

円の中心を見ると、何もなかった。ただ殻だけが残っていた。
終わった者たちの匂いが次の個体を呼び、新しい脚跡が古い跡をなぞる。
円は、ただ続いているという事実によって続いていた。
そのとき背後から声がした。

「何を見ている」

振り向くと、いかつい形相の監督アリが立っていた。
ぼくは立ち上がった。

「止めなければなりません」

監督アリはぼくを見なかった。視線は円の外周へ向けられている。

「何をだ?」

「この流れです」

監督アリはしばらく黙っていた。
やがて低く言った。

「列は乱れていない」

「でも仲間が死んでいます」

「死ぬ者はどこにでもいる」

「それでも、このままでは」

「黙れ!」

監督アリの声は鋭かった。
ぼくは思わず身をすくめた。

「列に戻れ!」

「しかし」

「戻らなければ、お前は外側になる」

その声音は命令というより宣告に近かった。
監督アリは円の中心を一瞥した。目には、初めて見るような光があった。
まるでずっと前から知っていたものを見るような眼差しだった。
監督アリは静かに言った。

「列は続いている。続いているものを止める必要はない」

ぼくは答えた。

「続いているだけでは駄目なんです」

中心では風が吹くたびに殻が転がっている。
外周では新たな脚音が重なっていく。
死んだ個体の残した匂いが新しい匂いに覆われ、新しい匂いがさらに次の個体を呼んでいた。
それでも列は乱れない。
いや、乱れないからこそ続いているように見えた。

5 海霧

ぼくは巣に戻った。
列はいつもと変わらず流れていた。
前の腹を見て歩き、匂いを追い、荷を運ぶ。
ぼくもその中へ復帰し、昨日と同じ角を曲がり、一昨日と同じ通路を通った。
だが、以前と同じようには歩けなかった。
踏み固められた土を見るたびに、円のことを思い出した。
中心には殻が積み重なり、倒れた仲間は流れの中へ消えていった。
それでも列は止まらなかった。
日が過ぎても、その光景は頭から離れなかった。
さらさらという脚音は変わらず続いている。
けれど、その音は以前よりも虚ろに聞こえた。
やがて暴風の匂いが巣の奥まで染み込む日が来た。
列はいつもより速く流れていた。
前を歩く仲間たちは何も知らない。あるいは知っていても考えない。
ただ前の腹を見て歩いているだけだった。
ぼくは列を離れた。
再び地上へ出ると、案の定、風が強かった。
草は一方向へ押し倒され、空は低い雲で覆われている。
遠くから絶え間ない震えが伝わってきた。
ぼくは草むらを進んだ。
少ししてフレミングの群れが見えた。以前より大きかった。
群れは黒い帯となって草原を横切っている。
一匹一匹は小さい。
しかし全体がまとまると、生き物というより流れそのもののように見えた。
近づくにつれて地面が震えた。
無数の脚が同じ方向へ動く。そこで生まれる微かな振動が足元から身体へ伝わってくる。
ぼくは群れの縁へ向かった。
すると見覚えのある顔があった。以前に話した若いフレミングだ。
彼は話すたびに左の前脚で地面を掻く癖がある。それで彼だと分かった。
彼はぼくを見ると、わずかにヒゲを動かした。

「また来たのか、アリ?」

「聞きたいことがある」

若いフレミングは苦笑するような表情を見せた。

「ぼくも聞きたいことがある」

「何をだ?」

「止まるということだ」

ぼくは黙った。
彼は群れの流れに押されながら話していた。身体は前へ進み続けている。
それなのに会話だけが流れから少し外れているようだった。
彼は言った。

「考えてみた、アリ。前にお前が言っていたことを、な」

「止まるってやつか?」

「そうだ」

「難しい言葉だな」

彼は少し笑った。

「小さいころのことなら覚えている」

「何を?」

彼は首を傾けた。

「草の種を追いかけていた」

「他には?」

彼は少し笑った。

「風に飛ばされた白い綿毛を追いかけたものだ。捕まえたと思ったら、また飛んでいった」

そう言うと、左の前脚で地面を掻いた。

「あれは面白かった気がする、アリ」

群れがわずかに揺れた。

「止まろうとしたことはあるのか?」

ぼくが尋ねると、彼は少し考えた。

「ある」

「どうなった?」

「怖くなった」

「何が?」

彼は後ろを振り返った。そこには無数のフレミングがいた。

彼は小さく言った。

「分からない。ただ、止まったら置いていかれる気がした」

「どこへいくのか?」

「それも分からない」

ぼくはやむを得ず答えた。

「それは、ぼくにも分かりようがない、フレミング」

彼は以前の自分を見ているようだった。行き先を知らない。それでも流れから離れられない。
そのとき群れの奥で小さな乱れが起きた。数匹が転び、周囲の個体がよろめいた。
ぼくは思わず身構えた。
しかし群れは止まらなかった。
倒れた個体は周囲の流れの中へ埋もれていき、ほどなく見えなくなった。
何事もなかったように群れは前へ進む。
若いフレミングもそれを見ていた。声がかすかに震えている。

「最近は増えてる、アリ」

「何が?」

「転ぶやつが」

彼は左の前脚で土を掻いた。少し間を置いてから続けた。

「昨日も見たし、おとといも見た」

「それで平気なのか、フレミング?」

「でも誰も話さない」

「なぜだ?」

「話しても変わらないからだ」

老アリの声と重なって、ぼくの胸がざわついた。
海の匂いが漂い始めた。
潮の香りに混じって、群れそのものの匂いが流れてくる。以前より強かった。
若いフレミングがぽつりと言った。

「最近、ときどき思う」

「何をだ?」

「ぼくたちは歩いているんじゃない」

風が強くなった。草原の向こうから白いものが流れてくる。
彼は続けた。

「歩かされているんでもない。たぶん、流れているだけなんだ」

そこで、ぼくは円のことを思い出した。
匂いが匂いを呼ぶ。脚跡が脚跡を呼ぶ。誰も命じていない。
それでも続く。
白いかたまりが草原へ広がった。最前列の姿が消え、次の列も見えなくなった。
いつしか群れ全体が白の中へ溶け始める。若いフレミングの輪郭も薄れていった。
ぼくは叫んだ。

「こっちへ来い!」

彼は聞こえたのかどうか分からなかった。かすかにこちらを向いた。
その表情は不思議なほど穏やかだった。
彼の言葉が聞こえてきた。

「たぶん無理だ。もう自分がどこにいるのか分からない」

霧がさらに濃くなった。
彼の姿は半分ほど白の中へ沈んでいる。それでも脚だけは動き続けていた。
ぼくはもう一度叫んだ。

「止まれ!」

若いフレミングは少し考えるように首を傾けた。

「お前は難しいことばかり訊くんだな」

「そうか?」

彼は困ったように言った。

「止まるって、どうやるんだ? 考えているうちに歩いてしまう」

それから苦笑いした。

「だから考えるのに向いていないのかもしれないな」

それを最後に彼は白の中へ沈んだ。
ぼくは思わず前へ出た。

「待て!」

自分でも驚くほど大きな声だった。
なぜ追いかけたのか分からない。知り合ったばかりだった。名前すら知らない。
それなのに、何かが失われた気がした。
白い海霧が草原を覆っている。
ぼくは霧の中へ脚を踏み入れた。白さが触角を覆い、匂いが消えた。次の一歩を踏み出したとき、ぼくは自分がどこにいるのか分からなくなった。胸が締めつけられ、ぼくは慌てて後ずさった。霧の外へ戻ったとき、脚が震えていた。
群れも消えた。しかし震えは続いていた。
どこかで無数の脚が動いている。流れが続いている。
ぼくにはそう思えた。
海鳴りが聞こえた。
さらさらという脚音とも違い、円の中の流れとも違う。
もっと遠く、もっと深いところから響いてくる音だった。
ぼくはしばらく霧を見つめていた。
その白さの向こうに何があるのか分からない。
だが一つだけ分かった。
列も群れも違うように見えて、どこかで同じものにつながっている。
風が吹いた。海の匂いが薄れていく。
ぼくは巣への道を引き返した。
出入口から中に入ると、通路の奥に監督アリの影が見えた。

6 空洞

円の中心である空洞は、静かだった。
踏み固められた土は黒く磨かれ、無数の脚跡が幾重にも重なっていた。
中心には殻があって、白く乾き、ひび割れていた。
ぼくは縁に立った。
遠くから列の音が聞こえてくる。
さらさら、さらさらと、変わらず続いていた。
声がした。

「来ると思っていた」

縁の外側に、例の老アリがいた。
欠けた触角を土につけたまま、殻を見つめている。
ぼくはその隣へ寄った。

「フレミングたちを見てきました」

「そうか」

「彼らも止まれませんでした」

老アリが答えた。

「やはりな」

風が吹き、殻の破片が転がった。
ぼくはしばらく中心を見つめていた。
ほどなくして口を開いた。

「あなたは、いつからここにいるんですか?」

老アリはすぐには答えなかった。欠けた触角だけがわずかに動いた。

「長い、若いの」

「どれくらいです?」

老アリが静かに応じた。

「覚えていないというより、数えるのをやめた。数えていると戻りたくなる」

ぼくは意表を突かれ、老アリの目をのぞきこんだ。

「戻りたかったんですか?」

「ああ」

返事は思ったより早かった。
老アリは少し目を細めた。

「お前は監督アリを見ただろう?」

「見ました」

「昔、わしもあの役目をしていた」

ぼくは思わず老アリを見つめた。
――監督アリだったのか。
老アリは構わず続けた。

「列を整える役目だった」

老アリの声を聞きながら、ぼくはいかつい監督アリを思い浮かべた。通路の角に立ち、列を見ている姿だった。酸の匂いが漂っていた。
列がわずかに乱れるたび、監督アリはそこへ向かっていく。
ぼくには監視としか思えなかった。
だが老アリの声には懐かしむような響きがあった。

「若い頃は誇りだった」

「誇り?」

「列が続くことが正しいと思っていた」

「違ったんですか?」

「ある日、一匹の若い働きアリが来た」

「それで?」

老アリが続けた。

「お前と同じようなことを言った」

「何て?」

「この列はどこへ向かうのか、と」

ぼくは息を止めた。

「わしは叱った」

老アリが小さく笑った。笑ったというより、顎がわずかに動いた。

「余計なことを考えるなと言った」

「考えるな、って!?」

風が吹いた。空洞の砂が少し崩れた。
老アリが言った。

「そいつは納得しなかった。だから自分で確かめに行った」

「円へ?」

「ああ」

「それで、どうしたんです?」

「戻ってこなかった」

老アリはそれだけ言った。
遠くの脚音が急に大きく聞こえた。

「探さなかったんですか?」

老アリは即座に答えた。

「探した。探して、見つけた」

「どこで?」

老アリは中心の殻を見た。

「ここだ」

老アリはそれ以上続けず、欠けた触角がわずかに震えていた。
白く乾いた殻が風に転がった。
老アリは目を逸らさなかった。そして、おもむろに言った。

「どれがそいつだったのかは分からなかった。だが、ここにいた」

ぼくは殻を見たが、ただの殻だった。それなのに急に重く見えた。

「それで列を離れたんですか?」

老アリがうなずいた。

「ああ。最初は怒っていた」

「誰に?」

「監督アリに」

ぼくは黙って言葉をうながした。

「次は列に怒った」

老アリが続けた。

「その次は円に怒った」

欠けた触角がわずかに震えた。

「最後には自分に怒った」

「なぜ?」

「わしも同じだったからだ。列を守っていた」

老アリはふいに黙った。
風が吹いても、中心から目を逸らさなかった。
ぼくは思わず声を上げた。

「じゃあ、知っていたんですか?」

老アリは答えなかった。

「知っていて止めなかったんですか?」

空洞に風が吹いた。
老アリはなお黙っていた。
ぼくの触角が震えた。
胸の奥で何かが暴れている。
円の中の死骸、霧へ消えたフレミング、前だけを見て歩く仲間たち。
そのすべてが一挙に脳裏に浮かんだ。

「だったら」

頭の芯が赤く燃えて、言葉が続かなかった。
この爆発を誰に向ければいいのか分からない。
さらさらという脚音が耳についた。円の中心では殻が風に転がった。
老アリが土を見つめ、ついに口を開いた。

「止められたはずだ」

「黙らせたんですね?」

「だから、あいつを殺したのは円だけではない。わしもその一部だった」

「それは、厳しかったですね。それからずっとここにいるんですか?」

「ああ」

「何か変わりましたか?」

老アリは首を振った。

「何も変わらん」

「それでも?」

老アリの口調は断固としていた。

「それでもいる」

遠くで列の音が続いていたが、彼は振り返らなかった。
ぼくは改めて尋ねた。

「じゃ、何か見えたんですね?」

老アリが殻に目線を投げた。

「見えたわけじゃない」

「態度を変えたとでも?」

「見なくなったんだ」

「何を?」

老アリが遠くの列へ目を向けた。

「前だけ見ることを、止めたのさ」

さらさらという脚音が一段大きく聞こえた。とどのつまり、列は変わらず流れている。
しかしぼくには、その音がもう以前と同じには聞こえなかった。

7 跡のない場所

ぼくは列の脇で立ち止まった。
前へ進めば以前と同じだ。空洞へ戻れば老アリと同じになる。
どちらも違う気がした。
ぼくはしばらく動かなかった。
巣へ戻ると、流れは変わらず続いていた。
監督アリが通路に立っている。
だが以前ほど大きくは見えなかった。
ぼくは働きアリらしく移動をはじめた。
空洞の静けさが、まだ身体のどこかに残っていた。
老アリの言葉を思い出す。

「見えたわけじゃない。見なくなったんだ」

ぼくは列を見た。
前を行く個体も、その前の個体も、さらに前の個体も、延々と荷を運ぶ。
流れは変わらない。だが以前とは少し違って見えた。
前だけではなかった。
壁には古い傷があった。湿った土の隙間から細い根が伸びていた。
荷を落として慌てて拾い直す若い働きアリがいる。
通路の脇には使われなくなった横穴もあった。
ぼくは初めてそれらを見た気がした。
列は進んでいる。
ぼくはゆっくり列と歩調を合わせた。
脚先が踏み固められた土に触れる。
匂いは変わらない。仲間たちも変わらない。
列は相変わらず流れていた。
ぼくは意を決して、その中へ入った。
前の個体が歩いている。その腹が視界に入る。
ぼくは以前と同じ距離を保った。だが前だけは見なかった。
ときどき横見をし、たまに後ろを振り返り、折にふれて天井を眺めた。
そのたびに列は少しだけ遅れそうになった。けれど誰も気づかなかった。
流れはそのまま続いていた。
ぼくが変わっても列は変わらない。
老アリの言った通りだった。
前だけを見ることはできなくなっていた。
列は世界のすべてではなくなったからだ。
通路の先に曲がり角が見えた。その向こうにも流れは続いている。
ぼくは、前の個体についていきながら、前だけに捉われないようにして歩いた。
そのとき足元で何かが転がった。小さな殻の欠片だった。
風もないのに動いている。
よく見ると、一匹の幼い働きアリが触角でそれを押していた。
訓練中なのだろう。列から少し外れた場所にいる。
幼いアリは、ふいに通路の脇へ目を向けた。
誰もいない。匂いも薄い。踏み固められてもいない。
彼はしばらくその場所を見つめていた。
やがて慌てたように列へ戻ろうとしたが、その直前、もう一度だけ振り返った。
ほんの一瞬だった。
ぼくは目を離せなかった。あの視線は、かつての自分と同じだった。
さらさらという脚音が流れている。
音質は変わらない。
けれど、ぼくにはもう同じ音には聞こえなかった。

[ライタープロフィール]

野上勝彦(のがみ かつひこ)

1946年6月、宮崎県都城市生まれ。10歳の秋、志賀直哉と出会い、感銘を受ける。20歳のとき関節リウマチを発症、慶應義塾大学独文科を中退。数年間、湯治に専念。画家になるか作家になるか迷った末、作家になろうと決める。長編小説20編以上の準備をするが、短編小説数編しか発表できず。31歳のとき、文学を学び直すため、早稲田大学第二文学部に入学。13年浪人という形になった。英文学専攻、シェイクスピア学を中心に学ぶ。足かけ5年間、イギリスに留学。留学中父親を亡くす。詩人のグループに属し、英詩を書き、好評を得る。1989年末、帰国。教員となる。2010年、本務校を退職。同僚先輩から借りた本代1000万円を完済。2017年、非常勤講師をすべて定年退職。2018年、最初の評論集が『朝日新聞』書評欄で取り上げられる。最初の長編小説を完成させたのが2019年。いずれも出版に際し、グリム童話研究家金成陽一氏の紹介により河野和憲社長(当時編集部長)のお世話になって、現在に至る。12歳の時、最初の短編小説を書いて以降、題材を2000本以上書き留める。題材帳をもとに短編・掌編の執筆戦略を練り、2024年10月下旬から25年10月下旬までの1年間で、1700作を書く。現在、未発表短編1900作を数える。

【単著】『〈創造〉の秘密――シェイクスピアとカフカとコンラッドの場合』彩流社、2018年。『暁の新月――ザ・グレート・ゲームの狭間で』彩流社、2019年。『始源の火――雲南夢幻』彩流社、2020年。『疾駆する白象――ザ・グレート・ゲーム東漸』彩流社、2021年。『マカオ黒帯団』彩流社、2022年。『無限遠点――ザ・グレート・ゲーム浸潤』彩流社、2023年。

【共著】『シェイクスピア大事典』日本図書センター、2002年。『ことばと文化のシェイクスピア』早稲田大学出版部、2007年。The Collected Works of John Ford, Vol. IV, Oxford: Oxford University Press, 2023.

【論文】‘The Rationalization of Conflicts of John Ford’s The Lady’s Trial’,Studies in English Literature, 1500-1900,32,341-59,1992年、など37本。詳細についてはウェブサイトresearchmapを参照。

【連載】『近代神秘集:生きもの編』、ウェブマガジン『彩マガ』彩流社、2025年4月16日より。

タイトルとURLをコピーしました