近代神秘集:生きもの編 第15回 オアシス守り

オアシス守り

俺はオアシスの番犬である。
砂色の毛並みの背中には黒い筋が走り、胸の毛は白い。
大きな耳は遠くの音まで聞き取り、鼻は風に乗ってくる匂いを逃さない。
日に焼けた土壁の陰に座っていると、旅人からは頼もしい犬だと言われる。
俺の仕事は町を見守ることだ。
昼は門の近くで見張りをし、夜は隊商のラクダたちの周囲を巡回する。主人の命令には従う。任務が終われば仲間たちと走り回って遊ぶ。
そんな毎日に、俺は何の不満も持っていない。
ある日、雲一つない青空が広がっていた。
俺は門の周辺を巡回していたが、石垣の陰に黒い影を見つけた。近づいてみると、一匹のサソリがじっと身を伏せている。
艶のある黒い甲殻は陽光を反射して鈍く光っていた。鋏は大きく開かれている。反り返った尾先の毒針は、ゆっくり左右に揺れていた。
正直なところ、少し警戒した。そもそも、毒を持つ連中なんて苦手だし、信用できないのだ。
鼻を鳴らした。
「おい。そんな顔をしていると、ますます根性曲がりに見えるぞ」
サソリは鋏をカチリと鳴らした。
「イヌ公。君は相変わらず満足そうな顔をしているな」
声音には皮肉が混じっていた。
俺は尻尾を軽く振った。
「当たり前だ。俺は主人の命令をきちんと果たしているし、暇なときは仲間と遊ぶ。それで文句はない」
サソリは小さく鼻で笑ったようだった。
「私はそれが不思議なんだ。どうしてそんなに満足していられるんだ?」
俺は肩をすくめた。
「満足していて何が悪い。俺は攻撃されない限り噛みつかないし、余計な争いも好まない」
サソリが尾を持ち上げた。
「君はそうできる。けれど私はできない。毒針があるだけで、先ず警戒されるんだ」
俺は正直に答えた。
「それはそうだろう。うっかり刺されたら大変だからな」
サソリは鋏を大きく広げた。
「だが、この毒は役にも立つ。人間は最近になって、そのことに気づき始めた」
俺は身を乗り出した。
「役に立つ?」
「人間どもは私を恐れるが、この毒を欲しがる者もいる」
驚きを隠せなかった。
「それは知らなかったな」
サソリが尾を少し高く掲げた。
「役立つものまで、恐れで片付けられる。いい気分じゃないね」
俺は相手を見直して尋ねた。
「それで、どうして町へ来たんだ?」
サソリの動きが止まった。
「砂漠が荒れているんだ」
声は先ほどまでより低かった。
「風が強くなりすぎた。砂粒が体に叩きつけられるし、そのうち砂に埋められる」
俺は眉をひそめた。
砂漠育ちのサソリがそう言うのだから、よほど酷い状況なのだろう。
「そいつは災難だったな」
「だから避難してきた」
しばらく考えた。
目の前のサソリは確かに毒を持っている。しかし、困っていることも本当らしい。
どうも、少しだけ誤解していたようだ。
俺は一歩横へ退いた。
「分かった。町に入るのは構わない。ただし悪戯はするなよ」
サソリは尾を少し下げた。
それが礼のつもりなのだろう。
俺は門へ戻り、鼻を上げた。砂漠から流れてくる匂いは、かすかに酸っぱかった。

数日後、俺はいつものように巡回をしていた。
日干しレンガの壁からは昼の熱気が立ち上り、焼けた砂が足の裏をじりじりと熱した。舌を少し出しながら、建物の陰を縫って歩いた。
すると、レンガ塀の隙間で何かが動いた。
鼻をひくつかせて近づいた。
いたのは一匹のトカゲだった。
黄褐色の鱗は砂とよく似ている。注意しなければ見落としてしまいそうだった。細長い体は痩せて見え、黒い目には疲れた色が浮かんでいた。
また避難民か。
声を掛けた。
「見ない顔だな」
トカゲは警戒するように身を低くした。
「砂漠から来たんだ」
声音には疲労が滲んでいた。
俺はサソリの話が脳裏に浮かぶ。
「やっぱり砂漠に異変が起きているのか?」
トカゲは大きく息を吐いた。
「異変どころじゃない。水は減るし、草は枯れるし、暑さは増すばかりだ」
そう言いながら尻尾をゆっくり動かす。
「昔はこんな場所じゃなかった」
俺は空を見上げた。
太陽は容赦なく照りつけている。
毛皮を着ている俺にとっても、辛かった。
「想像以上に酷いようだな」
トカゲは周囲を見回した。
「街には日陰があると聞いた。少しでも涼しい場所で休みたいんだ」
放っておけなくなった。
「ついて来い」
俺は歩き出した。
主人の家の裏には荷箱や石壁があり、昼でも陰になる場所がある。そこなら鳥の目にも付きにくい。
トカゲは俺の後をついてきた。
途中で何度も空を見上げていた。
「鳥が怖いのか?」
俺が尋ねると、トカゲは苦笑した。
「チゴハヤブサは恐ろしいよ。見つかったら追われる」
その声には本物の恐怖があった。
やがて暗い場所にたどり着くと、トカゲの表情が少し和らいだ。
「ここなら安心だ」
俺がそう言うと、トカゲは何度も頭を下げた。
「ありがとう。本当に助かる」
俺は照れくささを誤魔化すように、前脚で鼻先を掻いた。
入口の前へ腰を据えると、路地を行き交う気配へ耳を澄ませた。

それからしばらくして、妙なことが起きた。
巡回中の俺の耳に、遠くから不思議な音が届いた。
最初は風かと思った。
砂嵐でもない。
音はだんだん大きくなり、地面まで微かに震えているように感じられた。
立ち止まった。耳をいっぱいに立て、風向きに鼻を向けた。
「何だ、この音は?」
嫌な予感がした。
全力で主人のもとへ駆けた。
「大変です!」
主人は作業の手を止めた。
「どうした?」
「砂漠から変な音がします」
主人はすぐに門へ向かった。
俺も後に続く。
主人は手を眉にかざして遠くを見た瞬間、顔色を変え、声を張り上げた。
「一大事だ! あれはイナゴだ!」
広場にいた人々の表情がこわばった。口々に不審の声がもれる。
「イナゴだって?」
老人が肩を落とした。
「去年は畑が茎しか残らなかった」
農夫が拳を握る。
「麦も豆も食われ、家畜の餌までなくなった」
女たちは倉庫の戸へ手を掛けた。
「去年の冬は干し草まで煮て食べたのよ」
主人の顔にも焦りが浮かんでいた。
人々は慌てて食料を仕舞い始めた。
俺は急いでサソリとトカゲを探し出して、叫んだ。
「隠れろ! 危険だ!」
サソリが空を見上げた。
トカゲも同じ方向を見ている。
二匹の目が奇妙に輝いた。
サソリが呟く。
「危険? お前にはそう見えるのか?」
トカゲは舌を出した。
「俺には食事が飛んできたようにしか見えない」
俺は耳を伏せた。
「食事?」
二匹は顔を見合わせた。
「仲間を呼んでくる」
やがて空が暗くなった。
巨大なイナゴの群れが、砂漠の空へ黒い蓋を閉じるように迫ってきた。
翅音は金属片をこするような響きを立てていた。
群れはまっしぐらに城壁を越え、屋根や畑へ一斉に降り立った。
人々は棒や剣で応戦した。
払い落としても、空いた場所へ次の群れが降りてきた。
悲鳴が上がった。
「助けて!」
荷車の陰にいた小さな子供が、舞い降りたイナゴに囲まれて動けなくなっていた。
俺は駆け出した。
吠えながら群れへ飛び込み、前脚で払い、体当たりを繰り返す。
子供は泣きながら母親の胸へ飛び込んだ。
「ありがとう!」
だが空を見上げると、黒い群れはなお押し寄せてきていた。
農夫たちは畑を見つめて顔を青くした。
そこへ、石壁の陰からサソリたちが飛び出した。
鋏が閃き、毒針が唸る。
イナゴが次々と地面へ落ちた。
屋根やレンガ塀の上からは、トカゲたちが姿を現した。
細い体が矢のように走り、巧みに舌を伸ばしてはイナゴを飲み込んでいく。
俺は叫んだ。
「よし!」
しかし時間が経つにつれ、サソリたちの動きは鈍くなった。
トカゲたちも息を荒くしている。
食べても食べても、イナゴは減らなかった。
俺は広場を駆け回り、吠え、飛びかかり、群れを散らそうとした。
それでも状況は変わらない。畑の上にはなお無数の翅が舞っている。
胸が冷えた。前足が震えた。
俺は初めて、自分の力不足を思い知った。
天を見上げた。
黒い翅が黒雲となって蒼穹を埋め尽くしている。
イナゴは壁にも屋根にもびっしり張り付いた。
屋根も井戸も城壁も黒く染まり、動くものはすべて翅だった。
サソリには毒針があり、トカゲには素早い舌がある。
俺には吠えることしかなかった。
番犬なのに、町を守れない。その思いが胸に重くのしかかった。
農夫の一人が膝をついた。
「駄目だ」
広場から掛け声が消え、荒い息と翅音だけが耳に残った。
サソリも疲れていれば、トカゲも限界が近い。
そのとき、主人の声が響いた。
「諦めるな!」
主人は棒を振り上げた。
「まだ終わっていない!」
農夫たちが顔を上げる。
「畑を守れ!」
疲れ切った人々が再び立ち上がった。
女たちは布を振り回し、子供たちは石を投げた。
俺も走った。
サソリたちが鋏を振るう一方、トカゲたちも石壁を駆けた。
人々は倒れた者を起こし、水桶を運び、傷ついた者へ声を掛け合った。
やがて太陽が西へ傾く。
黒い雲のようだった群れは少しずつ薄くなり、翅音も遠ざかっていった。
夕暮れが訪れる頃には、空は再び青さを取り戻した。
広場には無数のイナゴの死骸が転がっている。
人々はその場へ座り込み、膝に手をついたまま動かなかった。
俺も荒い息をつきながら腹ばいになった。
主人が空を見上げた。
「終わったな」
俺は頷いた。
「どうにか」
サソリたちは尾を下ろし、トカゲたちは石壁の上でぐったりしている。
誰もが砂まみれだった。
俺は深く頭を下げた。
「ありがとう」
サソリは少し照れたように尾を揺らした。
「たまたま腹が減っていただけさ」
トカゲも笑った。
「仲間たちもしばらく食事に困らない」
俺はもう一度頭を下げた。
彼らがいなければ町は守れなかった。
畑を見ると、若い麦はかなり食われていたが、全滅ではなかった。
サソリが喉を詰まらせた。
「おいらの毒針だけでは無理だった」
トカゲが膨れた腹をおさえた。
「俺たちだけでも無理だった」
俺は皆を眺めまわした。
「皆で守ったんだな」
その日の夕方、主人は大きな手で俺の頭を撫でた。
「よくやったな」
主人の手は温かかった。

しかし平和は長く続かなかった。
数日後、門の周りを見回っていた俺は、風に混じる異様な匂いを嗅ぎ取った。
汗の匂いだった。
それも一人や二人ではない。何百人もの人間が一度に動くときの重い匂いだった。
さらに鉄の匂いもした。剣や槍の匂いである。
俺の尻尾がぴたりと止まった。
遠くから地鳴りのような音も聞こえる。隊商ではない。
嫌な予感がした。
全力で主人のもとへ戻ると、その袖をくわえ、門へ向かって走り、何度も振り返った。
主人が眉を寄せる。
「何か聞きつけたのか?」
俺は砂漠へ向かって吠えた。
主人は城壁の上へ登った。
しばらく遠くを眺めていたが、やがて顔色を変えた。
「軍隊だ」
その一言で町中が騒然となった。
翌日、地平線に、鉄の鎧をまとった兵士たちが現れた。槍を手にし、整然と隊列を組んで進んでくる。
町の門は、戦わずして開かれた。
主人の手が俺の頭に置かれた。震えていた。
俺は前へ出ようとしたが、その手は強く俺の頭を押さえた。
誰も兵士の前へ踏み出さなかった。
またたく間に軍隊は町を占領した。
制服に身を固めた髭面の将校が、主人たち町参事会員を集めて、宣言した。
「我が本国では飢饉に襲われた。子供たちが飢えている。ついては、食糧を提供してもらいたい」
主人が応えた。
「残念ながら、我が町はイナゴの被害に遭いまして、食糧は余っておりません。ご要望には応えたいのは山々でありますが、我らが窮状、ご賢察のほど、お願いいたします」
将校はしばらく黙っていた。
その顔には苛立ちだけではないものが浮かんでいる。歪んだ口がひらかれた。
「本官も好きで来たわけではない」
胸元から何度も折り畳まれた紙片を取り出した。
指先で一度だけ端を撫でる。
それから紙片をしまい、主人たちへ向き直った。
「これ以上、待つことはできん」
低い声だった。
「我々も、この町で争いたいわけではない」
深く息をついて、言葉を切った。
「だが、何も持たずに戻れば、任務を果たせん」
おもむろに主人たちを見据えた。
誰も頷かなかった。
将校はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
兵士たちはさっそく広場に陣を張り、道路側の倉庫を調べ、人々を監視した。
俺は巡回を続けたが、どうにも落ち着かない。
夜になると、主人が小さな声で言った。
「なけなしの食料だ。隠しておいて正解だった。だが、あいつらはまだ諦めていない」
俺は主人の顔を見上げた。
主人は髭を撫でた。
「何を企んでいるのか分かればな。通行税なんか上げられたらたまらん」
瞬間、俺はあることを思い出した。
サソリとトカゲだった。
俺はすぐに二匹を探した。暗い路地でサソリを見つける。
「頼みがある」
サソリは鋏を鳴らした。
「珍しいな」
「部隊が食糧以外、何を考えているのか知りたい」
サソリはしばらく黙っていた。やがて尾を揺らした。
「面白そうだ」
その夜、サソリは兵士たちの宿営地へ向かうため、石陰から姿を現した。
出かける前、尾を上げた。
「夜の砂は私の庭だ。誰にも見つからず、探ってこよう」
サソリは月明かりの届かない方角へ進んでいった。
翌朝、サソリは戻ってきたが、珍しく動きが鈍かった。
「何があった?」
尋ねると、サソリは鋏を鳴らした。
「昨夜は少々危なかった」
「どうした?」
「将校の天幕の近くで兵士に気配を察知された」
尾の先を見て、俺は息をのんだ。毒針の付け根が少し腫れていた。
サソリは平然と言った。
「逃げるときに石へぶつけた。あと少し遅れていたら踏み潰されていたかもしれん」
俺の尻尾が止まった。
「そこまでして調べてくれたのか?」
「なに、大したことじゃない」
「無事で良かった。それで、何か分かったか?」
「間もなく倉庫を接収するらしい」
俺は耳を疑った。
「本当か?」
「ああ。将校が話していた」
俺は急いで主人のもとへ戻った。
主人は俺の話を聞くと、すぐに数人の仲間を集めた。
「急げ。絶対、監視に見つかるな」
人々は灯りを落とした倉庫に集まった。
兵士たちの足音が遠ざかるたび、荷袋が一つずつ運び出される。
車輪には布を巻き、音を消した。
朝が来る頃には、倉庫の奥には空いた棚だけが残っていた。
二日後、兵士たちが倉庫を開けたとき、中は空になっていた。
主人は平然としていたが、俺は胸を撫で下ろした。
その後も軍隊は町を監視し続けた。
将校は激怒した。
「誰かが隠したな」
翌日、広場へ住民たちが集められた。
俺も主人の隣にいた。
髭を怒らせた将校は一人の農夫を前へ引きずり出した。
「食糧の在り処を知っているだろう?」
農夫は首を振った。
「知りません」
次の瞬間、将校が拳で農夫を殴りつけた。
農夫は砂の上へ倒れ込む。
広場が静まり返った。子供が母親の後ろへ隠れる。
将校は冷たく言った。
「嘘をつくな。次は容赦しない」
兵士たちは農夫を引き立てて行った。
夕方になって解放されたが、農夫の頬は腫れ上がっていた。
主人が言った。
「明日は私かもしれん」
俺は歯を食いしばった。
こいつらは本気だ。
この件以降、兵士たちの様子が違ってきた。
広場では例の将校が苛立った声を上げている。
「おかしい。倉庫接収のことを知っていた者は限られているはずだ」
俺は物陰から耳を澄ませた。
下士官が言った。
「誰かが情報を流しているのではありませんか?」
将校は腕を組んだ。
「その可能性だがな」
おもむろに周囲の兵士たちを見回した。
「裏切り者は必ず見つける」
声は低かった。
「必要なら町の者を全員調べる」
広場にいた住民たちは顔を伏せた。誰も反論の構えすら見せなかった。
翌日、将校は主人を呼び出した。
俺も後ろについて行った。
将校が主人をじろりと見た。
「最近、我々の計画が漏れている。心当たりがあるだろ!?」
主人は何も答えない。
「誰かが密かに動いているな」
将校の視線が俺へ向いた。
俺は思わず耳を伏せた。
「たとえば、その犬だ」
主人の顔が強張った。
「ただの番犬です」
「だが、妙にあちこち歩き回っている」
将校は兵士たちへ命じた。
「しばらく見張れ」
俺の胸がざわついた。
将校は地図を広げると、副官を呼び寄せた。
「予定は変える。動きが読まれている」
即刻、兵士たちは露骨に俺を監視し始めた。
門へ向かえば後についてきた。広場へ戻れば別の兵士が待っていた。路地へ入ると、角を曲がった先にも兵士の姿がある。俺が行く先々で見張りは途切れなかった。
監視は三日続いた。
そして、いつものように巡回していたときだった。
突然、兵士の声が響いた。
「やっぱり怪しいぞ!」
振り向くと二人の兵士がこちらへ駆けてくる。
「捕まえろ!」
「仲間も吐かせろ」
俺は反射的に走り出した。しかし前の路地にも兵士がいた。
左右から取り囲まれている。逃げ場がない。背中の毛が逆立った。
兵士の手が首筋へ伸びる。
その瞬間、兵士が飛び上がった。
「うわっ!」
足元に黒い塊がいた。
毒針を高く掲げ、兵士の靴の周りを素早く動き回っている。
兵士たちは即座に後ずさった。
「サソリだ!」
その隙に俺は路地へ飛び込んだ。だが安心する暇はない。前方は行き止まりだった。
俺は足を止めた。
しまった。背後から兵士たちの足音が迫る。
そのとき頭上から声がした。
「こっち!」
トカゲだった。
石壁の上から尻尾を振っている。
「右の箱の裏だ!」
言われた通りに飛び込む。そこには崩れかけた石壁の隙間があった。人間は通れない。
俺は体をねじ込み、どうにか潜り抜けた。
兵士たちは反対側まで回り込めない。
怒鳴り声が遠ざかっていく。
「どこへ消えた!?」
ようやく安全な場所へ出た。大きな吐息が漏れた。心臓が激しく鼓動している。
しばらくしてサソリも現れた。
「助かった」
俺が言うと、サソリは鋏を鳴らした。
「君は鼻は利くが、追われるのは得意ではないな」
トカゲも笑った。
「だから仲間がいるんだろ」
俺は首の横を後ろ足で搔いた。

トカゲは前脚を宙に浮かせて言った。
「今度は自分の番だからな」
俺はうなずいた。
「ほう」
「俺たちは壁の隙間も、屋根の上も通れる。人間が歩けない場所を進んで、町中を調べた」「さすがだな」
「兵士がどこを見張っているか、全部分かったぜ」
砂の上に尻尾で地図を描く。
「ここは安全だ。あっちは危険だ。兵士は広場と東門を重点的に見張っている」
尻尾の先が少し欠けていた。
俺は眉をひそめた。
「怪我をしたのか?」
トカゲが苦笑した。
「石を投げられた。危なかったよ」
だが、すぐに話を続けた。
「これで人間たちは兵士の目を避けて動ける」
その夜遅く、今度はサソリが戻ってきた。
動きは普段より少し重い。
鋏を鳴らした。
「分かったぞ。反抗しそうな住民を捕まえるらしい」
俺は首を傾げた。
「いつだ?」
「今夜だ」
主人のもとへ駆ける。
主人はすぐに町の仲間たちへ知らせた。
人々は足音を忍ばせて動き始めた。荷物を抱え、安全な道へ急ぐ。
すると、遠くで角笛が鳴った。
俺は背筋を伸ばした。
兵士たちの足音が、一斉に立ち始める。
主人が顔をしかめた。
「早い。予定を変えたのか?」
俺も主人とともに走った。
そのとき、路地の奥からトカゲが転がるように飛び込んできた。
息を切らして叫ぶ。
「まずい! 東門にも兵士がいる! こんなに素早いとは!」
主人の顔色が変わった。
「何だと!?」
そのとき、遠くで怒鳴り声が上がった。
「いたぞ!」
鼻先へ乾いた革と油の匂いが流れ込んだ。
兵士たちの足音が、路地へ迫ってきた。
まだ避難が終わっていない。
最後に残っていたのは、一つの家族だった。
母親と老人、それに小さな子供が取り残されていた。
主人が叫ぶ。
「急げ!」
そのとき、風向きが変わった。
俺は鼻を上げた。
汗と鉄の匂いが横手から流れてくる。前だけじゃない。
「主人! 右の路地にも兵士がいます!」
主人が振り返った。
「迂回してきたか!」
家族は走り出した。
だが子供が石畳につまずいた。
「いたっ!」
転び、立ち上がれない。
兵士たちの足音がいっそう近づく。
母親が振り返った。顔は真っ青だった。
俺は迷わなかった。
子供の前へ飛び出し、身を低くする。
「乗れ!」
母親は驚いた顔をさらしたが、すぐに子供を抱き上げて俺の背へ乗せた。
小さな腕が首にしがみつく。震えている。
俺は地面を蹴った。
「しっかり掴まれ!」
その瞬間、兵士たちが角を曲がってきた。
槍の穂先が月光を反射する。
「逃がすな!」
俺は全力で走った。
細い路地へ飛び込む。背後で足音が迫る。
兵士は速い。このままでは追いつかれる。
そのとき、屋根の上から声がした。
「右だ!」
トカゲだった。
石壁の上から尻尾を振っている。
「こっちへ来い!」
俺は指示通りに曲がった。
さらに細い路地へ入る。人間には通りにくい道だ。
だが兵士たちは追ってくる。
距離は縮まりつつあった。まずい。
そう思った瞬間、前方の石壁の上へ黒い影が飛び出した。
サソリだった。尾を高く掲げている。
「おい!」
わざと目立つように鋏を鳴らした。
兵士たちが足を止める。
「サソリだ!」
「気をつけろ!」
サソリは石壁の上を走った。
兵士たちの視線が一斉に向く。
「逃がすな!」
何人もの兵士が追いかける。
槍が突き出された。穂先が尾の横をかすめる。
だがサソリはひるまない。
石壁から石壁へ飛び移りながら兵士たちを引きつけていく。
その隙をついて、トカゲが叫んだ。
「今だ!」
兵士の大半はサソリを追って走っていった。
だが一人だけは立ち止まり、俺たちの足跡へ目を落とした。
「待て。犬はこっちへ逃げたぞ!」
槍を構えた兵士が路地へ駆け込んでくる。
トカゲが石壁の上で叫んだ。
「見つかった!」
母親は子供を抱き寄せ、老人の手を引いて路地の奥へ走り出した。
俺は兵士の前へ飛び出し、大きく吠えた。
槍が突き出される。
「うるさい犬め!」
俺は身をひねってかわし、そのまま反対の路地へ駆けた。
兵士の足音が背後に迫る。
曲がり角を二つ回ったところで身を翻し、石壁の隙間をくぐり抜けた。
トカゲの声が頭上から聞こえる。
「こっちだ!」
導かれるまま細い路地を抜けると、家族の匂いが強くなった。
俺は胸をなで下ろし、そのまま皆と荷箱の陰を通り抜ける。
やがて隠れ場所へたどり着いた。
家族全員が中へ入る。
母親はその場に座り込んだ。老人も肩で息をしている。子供は俺の首を抱き締めた。
小さな声だった。
「ありがとう」
俺は舌を出してぜえぜえ息をした。
しばらくしてトカゲが現れた。
さらに遅れてサソリも戻ってくる。尾には砂が付いていたが無事そうだった。
サソリが言った。
「うまくいったな」
トカゲも頷く。
「まさに」
その夜、兵士たちの足音が町中を巡った。扉を乱暴に開ける音や怒鳴り声が途切れることはない。
俺は暗い路地で鼻を上げた。
兵士たちは何度も家へ踏み込んでは、空っぽの部屋の匂いだけを残して出てきた。
広場では将校が怒鳴った。
「どこへ消えた!」
兵士たちは肩を落としていた。
結局、夜の作戦は失敗に終わった。
その後も軍隊は食糧を探し続けたが、何も見つけられなかった。
翌夕方、俺は将校を見かけた。
彼は副官と二人でオアシスの縁に立っていた。
手には小さな布袋がある。
中から取り出したのは、何度も読み返された紙片だった。手紙だろう。
将校はしばらくそれを見つめると、端を指でなぞった。
「もう少し待っていてくれ」
消え入りそうな声で呟いて、袋へ戻した。
その横顔は、見覚えがないほど疲労を濃くしていた。
来町してから十日の後、兵士たちはついに町を去った。
出発の朝、髭がさらに伸びた将校が、一度だけ振り返った。俺と視線が合った。
俺も見返した。
将校が言った。
「やはり、お前だったのか?」
俺は尻尾も振らず、何も答えなかった。
将校が小さく笑った。
「そうか」
それだけ言うと背を向けた。
最後の兵士の姿が砂漠の向こうへ消える。
広場では避難していた家族が抱き合った。
子供が俺を見つけた。小さな手を振る。
「おーい!」
俺は尻尾を振った。
もう誰一人、通行税の話をする者はいなかった。
俺はようやく肩の毛が逆立つのを感じなかった。

軍隊が去った翌朝、俺はオアシスの縁を歩いた。
水面には青空が映り、風は穏やかだった。
主人がやって来て、俺の頭を撫でた。
「よくやった」
俺は尻尾を振った。
主人はしばらく俺の顔を見ていたが、やがて微笑んだ。
「お前も、いい仲間を持ったものだ」
俺は路地へ向かった。
石陰にはサソリがいた。いつものように尾を揺らしている。だが、毒針の付け根にはまだ傷跡が残っていた。
サソリは俺に気づくと鋏を小さく鳴らした。
俺は鼻を鳴らした。
壁の上のトカゲは俺を見ると、ひらりと飛び降りて欠けた尻尾を揺らした。
「やっと平和が戻ったね」
俺も前足で地面を掻いた。
「そうだな」
サソリの傷跡は痛々しく、トカゲの尻尾はまだ色が薄い。
我が身といえば、前足は砂にまみれている。
広場へ出ると、肉屋の子供が小さな肉片を差し出した。
サソリは少し迷ったあと、鋏でそれを受け取った。
壁の上ではトカゲが日陰を探して歩いていた。
その下を通る荷運びの男は、ぶつからないよう半歩だけ脇へ寄った。
井戸端では女たちが水をくみ、誰も足元を気に留めなかった。
パンの香りが流れてくる。
屋根の上では派手な色の小鳥たちがさえずっていた。
朝の風が毛並みを揺らす。
オアシスの水面がきらりと光る。
俺は辺りを見回した。そして、いつもの門に戻った。
何事もないようにと願いながら。

 

 

[ライタープロフィール]

野上勝彦(のがみ かつひこ)

1946年6月、宮崎県都城市生まれ。10歳の秋、志賀直哉と出会い、感銘を受ける。20歳のとき関節リウマチを発症、慶應義塾大学独文科を中退。数年間、湯治に専念。画家になるか作家になるか迷った末、作家になろうと決める。長編小説20編以上の準備をするが、短編小説数編しか発表できず。31歳のとき、文学を学び直すため、早稲田大学第二文学部に入学。13年浪人という形になった。英文学専攻、シェイクスピア学を中心に学ぶ。足かけ5年間、イギリスに留学。留学中父親を亡くす。詩人のグループに属し、英詩を書き、好評を得る。1989年末、帰国。教員となる。2010年、本務校を退職。同僚先輩から借りた本代1000万円を完済。2017年、非常勤講師をすべて定年退職。2018年、最初の評論集が『朝日新聞』書評欄で取り上げられる。最初の長編小説を完成させたのが2019年。いずれも出版に際し、グリム童話研究家金成陽一氏の紹介により河野和憲社長(当時編集部長)のお世話になって、現在に至る。12歳の時、最初の短編小説を書いて以降、題材を2000本以上書き留める。題材帳をもとに短編・掌編の執筆戦略を練り、2024年10月下旬から25年10月下旬までの1年間で、1700作を書く。現在、未発表短編1900作を数える。

【単著】『〈創造〉の秘密――シェイクスピアとカフカとコンラッドの場合』彩流社、2018年。『暁の新月――ザ・グレート・ゲームの狭間で』彩流社、2019年。『始源の火――雲南夢幻』彩流社、2020年。『疾駆する白象――ザ・グレート・ゲーム東漸』彩流社、2021年。『マカオ黒帯団』彩流社、2022年。『無限遠点――ザ・グレート・ゲーム浸潤』彩流社、2023年。

【共著】『シェイクスピア大事典』日本図書センター、2002年。『ことばと文化のシェイクスピア』早稲田大学出版部、2007年。The Collected Works of John Ford, Vol. IV, Oxford: Oxford University Press, 2023.

【論文】‘The Rationalization of Conflicts of John Ford’s The Lady’s Trial’,Studies in English Literature, 1500-1900,32,341-59,1992年、など37本。詳細についてはウェブサイトresearchmapを参照。

【連載】『近代神秘集:生きもの編』、ウェブマガジン『彩マガ』彩流社、2025年4月16日より。

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