近代神秘集:生きもの編 第9回 雪母――猫譜

雪母――猫譜

 

1 斜面

淡い風が雪面をなでるようにすべり抜けていった。

ぼくは猫だ。明るい茶色の体毛は雪の反射を受け、金粉のようにきらめく。背中をかすめる冷気が、体毛の根元をぞくっと震わせた。

ここが山道を覆った雪の斜面であることが容赦なく思い知らされた。

凍りついた草の先同士が擦れ合い、かすかな音を立てた。音に混じって、雪が動く気配があった。

ぼくは斜面の途中で足を止めた。空から落ちてくる雪の花弁は、羽根のように軽いのに、地面に積もると急に重たそうな顔をする。さっきまで土と枯れ草の匂いがしていた山道は、もう冷たい白に覆われて、舌先に触れた空気は、冬の味だけを運んできた。

一歩踏み出せば、前足が白い層にそっと吸い込まれた。肉球の隙間に雪が忍び込み、ひやりとした感触が広がった。

嫌いじゃない。でも、好きとも言えない。この感触は今だけのものだ。辺りは静かで、ぼくのしっぽが揺れるたび、積もった雪がさらさらと小さく崩れた。

麓からの風がヒゲをかすかに揺らした。耳を寝かせると、周囲の音が遠くへ退いた。

音は弱く、匂いも飛び、動くものはぼくと、降り続ける雪だけだ。

斜面の凹凸は雪に覆われ、白い膜が静かに広がっていった。

境目がわからないのは少し不安で、少し楽しい。

ぼくはもう一度、慎重に足を出した。

足跡が白い面に点々と刻まれていく。ほどなく雪に飲み込まれてしまうはずだ。

化石のように何億年も後に掘り返される心配はない。ここでは、足跡も雪も、ほんの数か月、自らの存在を示すに過ぎないのだから。

 

2 雪だるま

斜面を下るうち、枯れすすきの先で、雪面に根を張ったような白い塊が目に入った。

雪だるまだった。高さは一メートルほどもあろうか。胴体はほぼまん丸で、顔の部分が少しひしゃげていた。

両眼は丸い黒石、鼻に炭、口は少し深く彫り込んであるだけだった。整った顔ではないのに、不思議と目を引く佇まいだった。大黒様を白くしたと思えばよい。

周りには足跡などなかった。新雪で埋もれたのだろう。

それにしても、こんな山道の途中に誰が作ったものか。かなりの労力が必要だったに違いない。少しの不審が胸の底にわだかまった。

頭と肩に新雪がつもって、饅頭のような形になっている。光を反射せず、吸い込むような灰青色を呈していた。

さすがに、胸の奥に説明のつかないざわめきが広がって、足を止めたまま、じっと見入った。

白い塊が、風とは無関係にかすかに身じろぎした。ぼくの凝視に耐えられなくなったか。風の向きとは合わなかった。

思わず身を沈めたが、目だけはしっかりとその姿を追っていた。

動くものなら、確かめずにはいられないのがぼくの性分だ。

雪だるまの足元に近づくと、雪が円形にたわんでいた。沈みは、雪だるまの胴より、わずかに後ろへずれている。まるで踏み出した足跡の名残のようだった。足などないのに。

鼻先を近づけ、匂いを探ると、雪塊の奥に、湿った大地の香りが潜んでいた。この斜面にはない匂いだった。

驚いたことに、雪だるまの白い頭部が、ぎしりと軋むようにこちらへ向きを変えた。

黒い石の目が、ぼくを捉えた。

口は新雪で見えない。けれど、白い層の向こうから、鈍い波動がじわりと押し寄せた。

――見ていたぞ。

耳で聞いたのではなかった。

体毛の根元に触れるような、重さのある伝わり方だった。

背筋に冷たい震えが走った。とはいえ、逃げようとは思わなかった。

威圧も苛立ちも感じられなかった。ただ、こちらを認識している声色だけがあった。

雪だるまの向きと、波動の方向が奇妙に呼応している。体は沈黙したまま、頭部だけが確固とした方向を指し示していた。

その先には、まだ何も見えなかった。木立も、窪地も、目印になるものはない。

それでも、胸の奥で、歩みを促す衝動が静かに芽生えた。

白い指し示しに導かれるように、ぼくはそちらへ向きを変えた。

 

3 道下

すると、雪だるまの白い体が軋むような音を立てながら、ゆっくりと傾いた。見るうちに斜面を転がりはじめた。なんだ、これは。

ぼくは「止まれ、止まれ」と言いながら、白い塊を追いかけて駆け下りた。尻尾の先に触れる雪が、風に揺れてぱらぱらと落ちた。

あっという間の出来事だった。雪だるまは斜面下の地蔵に衝突するや、頭を胴にぶつけ、反動で起き直ったまま、その足元に形を保っていた。

地蔵は傾くかと思ったが、涼しい顔で直立の姿勢を崩していかなった。

ぼくは慎重に足を運びながら斜面を蹴った。雪を踏むたびに、細かな粒が弾けて音を立てた。

滅多に見られない取り合わせに、口元が我知らずほころんだ。滑稽感がぼくの警戒心を少し和らげたようだ。

地蔵の足元の雪が、呼吸するようにわずかに凹んだ。

反射的に姿勢を低くし、耳を後ろへ倒した。ヒゲが、地蔵の気に呼応するように震えた。

ふいに足元の大地が低い唸りを発した。

ぼくは思わず腰を落とした。

声ではなかったが、言葉の形を持たないまま、意識の奥へ染み込んできた。

「痛いじゃないか」

地蔵の発信だった。

どきんと大きな脈が打ち、尻尾がぴんと立ってしまったほどだ。

地蔵は口を動かしていなかった。しかし、確かにそう言ったのだ。

今度は雪だるまの言葉が伝わってきた。

「まあ、斜面なんだから、転がるのは仕方ないさ」

雪だるまの口も雪にふさがれていた。それでも意味ははっきりと届いた。

地蔵の言葉は、地面を伝って響いてくるようだった。

「それにしても、予告くらいしてくれ。心構えがいるのは、地蔵だって同じなんだから」

ぼくはその苦情を、体毛の根元で受け止めていた。

雪だるまの言葉は短かった。

「ごめん」

その硬い響きには、確かな悔いが宿っていた。

ぼくはしばらく硬直したようになった。

物言わぬと思われていたものが、意思疎通する現場に立ち会ったのだ。おいそれと体を動かせるものではない。

不可思議さのうちに可笑しさもこみ上げ、最後に微かな恐れが胸の中で入り混じった。

頭を冷やしてから、ぼくはやっと地蔵の前に座って、じっと見上げた。

地蔵は、あんぐり口の開いたぼくを見おろしているように見えた。

雪だるまは最前の姿勢のまま、目玉ひとつ動かしていない。

ぼくは思った。

――もしかしたら、地蔵は思いもよらぬことなど、語ってくれるかもしれない。この雪坂のこと、あるいはもっと古い椿事変事など。

その可能性に胸がざわついた。

地蔵にはりついた白い面が、内側から押し上げられるように膨らんだ。呼吸のようでもあり、記憶が動くようでもあった。

ぼくは耳を立て、地蔵の気に集中した。

雪だるまは不動の姿勢を決め込んで地蔵の横にいた。その存在は、地蔵の語りを促しているようにも見えた。

石像の奥から、静かな波がゆっくりと解き放たれた。声ではなかった。しかし、意味が形になりかけていた。

胸の奥で心臓がひとつ跳ねた。ひょっとすると、ぼくの期待が叶えられるかもしれない。

もぞもぞ尻を動かして地蔵の前で座り直し、尻尾を体に巻きつけた。

風が止まり、雪坂が静寂を植えた。

地蔵の胸から気が飛び、ゆっくりと言葉の形を取り始めた。

その瞬間を待っていたのだ。地蔵が語るものが何であれ、一語たりとも聞き逃すまいとヒゲをピンと伸ばした。

はたして、地蔵の言葉が、地面を伝わって響いてきた。

「おまえは猫じゃな。良い猫だったか?」

ぼくは小さく喉を鳴らし、肯定の気を返した。

「まあ、普通の猫だ。よくもわるくもない」

地蔵の言葉は、淡々としていた。

「猫はいい。季節が巡っても姿を保つ。雪に埋もれても、また出てこられる」

しかし、その奥に沈んだ重さがあった。

ぼくはヒゲをしなわせた。

「つまらん。虎だったら良かったかもしれんがね」

地蔵はぼくの返事を完全に無視して、雪だるまのほうへ視線を向けた。

「欲張るものではない。あれを見よ。ぜんぜん違うぞ」

雪だるまは黙っていたが、どこか気まずそうに見えた。

ぼくは我慢できずに言った。

「大きな図体で、坂を転がり落ちたからね。あんたも痛いと言ったくらいだ」

地蔵が目をじろりと光らせた。

「春になれば、あれは消える。形も、声も、匂いも、すべて溶けてなくなるのだ」

思わず身を縮めた。

雪だるまが消えることくらい分かっていたが、地蔵がそれを嘆きとして語るとは思わなかった。

地蔵の声は、雪片を通してゆっくりと流れてきた。

「毎年のことだ。冬が深まると、あれは現れる。雪の中から、あるいは風に運ばれて、いつの間にか立っている」

ぼくは口を歪めて答えた。

「人間が作ったんだよ」

地蔵が動かぬ首を傾けたように見えた。

「まあ、かもしれんな。崩れたときの姿は、作り手が誰でも、目が当てられん」

当の雪だるまは、少しだけ体を縮めたように見えた。

積み重ねた季節の深さが、声に滲んでいた。

「私は石だ。季節が巡っても変わらない。だから、あれの嘆きを聞く羽目になってしまった」

「そうなんだ」

「おまえは知らないだろう? あれが春の前にどれほど怯えるかを」

ぼくは首をかしげた。雪だるまが怯えるという発想は、ぼくにはなかった。

「形あるものは壊れるとは、よく言うよね」

石の胸奥から、穏やかな響きがそっとこぼれた。

「消えるのは怖い。形がなくなるのは恐ろしい。声が薄れるのは辛い。あれは毎年それを味わうのさ」

ぼくは冷静な口を利いた。

「仕方ないかもしれないよ」

「私は石だから、あれの気持ちを完全にはわからない。だが、聞くことはできる。聞くしかできないが」

雪だるまを見ると、目を丸くしたままだ。地蔵の言葉を否定する様子は伺われなかった。

なんと、地蔵がぼくに向き直った。

「そこの金色猫よ。おまえは季節の匂いを追える。だから、あれの嘆きを知っておいてほしい」

ぼくは地蔵の言葉を胸の奥で受け止めた。

「そのくらいだったら、問題ないよ」

雪だるまの体が、ほんのわずかに震えたようだった。

地蔵の言葉は、根雪に沈むように静かだ。

「石の私は、ご覧の通り動けない。けど、あれに限らず、通りすがりの嘆きを聞いてきたのだ」

ぼくは地蔵に近づくや、首を伸ばして足元の匂いをたどろうとした。何も嗅ぎ取れない。逆に質問を返した。

「そいつは、蓄積があるってことだろ?」

地蔵の言葉が、雪におおわれた台座の辺からゆっくりと響いた。

「猫、しっかり聞け。おまえが来たのは、偶然ではないのかもしれない。冬のものたちが、おまえに何かを託そうとしているのかもしれないぞ」

話が違った方向に行きそうで、意向をつかみかねたが、胸の毛が静かに脈打った。

雪だるまは、地蔵の横でじっとしていた。その姿は、消える運命を抱えながらも、どこか穏やかだった。

ぼくはほんの少し警戒した。

――地蔵は、ぼくに語らせようとしているのかもしれないな。

 

4 雪の下

石像の奥底で、何かの気配が静かに立ち上がった。

ぼくは座ったまま耳先をわずかに前へ向けた。

石肌の奥から低い唸りが静かに伝わってきた。

「昔のことを話そう」

――そら、始まったぞ。

胸の奥に冷たい緊張が走った。

「この雪坂が、まだ雪坂ではなかった頃の話だ」

地蔵の周囲の雪が、古い情景を呼び起こすようにかすかに波打った。あたかも記憶が動く音のように感じられた。

「そいつは、面白そうだね」

「かつてこの場所は、風が草原を渡るだけの静かな斜面だった。草が揺れ、虫が鳴き、人が通った。私はその道の脇に置かれ、行き交う者を見守っていた」

ぼくは地蔵に首をのばした。鼻先に触れた冷たさの奥に、どこか懐かしい匂いがかすかに混じった。その正体はすぐに霧のように散ってしまい、胸の奥に小さなざわめきだけが残った。

「たくさんの人が手を合わせて、拝んだでしょ?」

「まあな。ある年、冬が深くなり、雪が大量に降り積もった。私は雪に埋もれ、世界の音が遠のいた。だが、その冬は特別だった。雪の中から、あれが現れた」

地蔵は雪だるまのほうへ視線を向けた。

白い輪郭が、気まずげにわずかに沈んだ。

「不意に、ですか? 珍しいことも起こるんですね」

「あの冬、雪の中に形がひとつ現れた。 人の手かどうかは、今でも判断がつかん」

これは仰天ものだ。尾の先が反射的に跳ね上がった。

「そんな馬鹿な。誰かが作らなきゃ、雪だるまなんて存在できませんよ」

「そうでもないのだ。自然は知牲では測り知れないものだぞ。ともかく、雪だるまは現われて、しかも言葉を持っていた。声ではなく、気配で語った。今、おまえが聞いたように」

「言葉まで持っていたんですか? 小鳥が言葉を持っているのは知ってますがね」

地蔵の足が雪の下からのぞいたようだった。

「あれが何を思っていたのかは分からん。ただ、消える前のあれは、ただ冬の間だけしか存在できないことを嘆いていた」

ぼくは雪だるまを見た。どこか間の抜けた穏やかな表情を漂わせていた。

「冬だけの期間限定品って、いっぱいありますよ、お地蔵さん」

「無暗に一般化するものではない。あれが何を覚えていたのかは分からん。あれに限って言えば、毎年、初めて会うような気配だった」

「いくらお地蔵さんでも他者(ひと)の内部まではね。けど、気温が上がれば解けるのが雪。誰にも防げませんよ」

地蔵の言葉には、長い年月の重みがあった。

「私はあれに言った。消えることを恐れるな、とな。だが、あれは恐れた。消えたくない、ってな」

ぼくは地蔵の目を見上げ、思案につれ頭をわずかに傾けた。

「存在さえしなかったものが、あるってのに?」

「存在し損なったものは、嘆きようがなかろう? 仮定の話はできんが、それから何度も冬が巡った。雪だるまは現れては消え、消えては現れ、した。私はそのたびにあれの嘆きを聞いた」

「同じ嘆き節じゃ、退屈でしょうに」

地蔵の鼻は、微動だにしなかった。

「だが、ある冬、あれは言った。『いつか、私のことを思い出してくれるものが現れるだろうか』と」

胸の奥の空気をそっと押し出した。

「作り主が見てるじゃないですか?」

白い影は、無言でその場に根を下ろしていた。

石の目が、静かにこちらへ意識を寄せた。

地蔵が気を飛ばした。

「先の季節を読み取ることは、石にはできなかった。だが、今日、おまえが来た」

「何だ。ただの当て馬ですか? 都合が良すぎますね」

「猫よ、念を押しておく。おまえは動ける。季節を越え、雪の上を走り、風の匂いを追える。だから、あれの嘆きを知ってほしい。あれの存在を覚えていてほしい」

ぼくは地蔵の言葉を胸の奥で受け止めた。

「まあ、記憶に留める程度なら、ぼくにもできますが」

雪だるまの白い輪郭が、かすかに揺らいだ。

地蔵の言葉は、口が開かない分、くぐもって聞こえた。

「昔のことは、それだけだ。だが、おまえが来てくれたお蔭で、あれは少しだけ救われたのかもしれんな」

ぼくは雪だるまのほうへ向き直り、鼻先を近づけた。

雪だるまは動かなかったが、その気配はどこか柔らかかった。

ぼくは改めて思った。

――この雪道には、ぼくの知らぬ物語がまだ幾つも眠っている。

 

5 告白

地蔵の話が終わると、雪道は、音を吸い込んだように沈黙した。

ぼくはその場に座り、白い斜面をしばらく見つめていた。

雪だるまの白い輪郭は、転がったためか、少しいびつになっていた。だが、その気配は、張り詰めているようだった。いつの間に?

やがて、雪の膜越しに、ゆっくりとした重さが伝わってきた。

「話しておきたいことがある」

ぼくは耳先を、わずかに前へ向けた。

「聞きましょう」

しばらく、沈黙が続いた。

風が立って、雪だるまは言葉を乗せた。断定を避けるかのように、柔らかかった。

「おまえは、覚えていないだろう」

ぼくは首をふった。

「そもそも、元を知らないんで」

「覚えていなくて、いい。あれは、とても短い時間だった」

思わず小首を傾げた。

「短い時間なんて、いくらでもありますよ」

雪だるまの気配が、かすかに揺れた。

「それでも、忘れられない瞬間がある」

まじまじと雪だるまを見た。

「たしかに、それはあり得るね。何もかも追いかけていた時期もあったよ」

丸い輪郭は崩れかけているのに、どこか必死さが滲んでいた。

「おまえが、まだ小さかった頃のことだ」

胸の奥で、何かがわずかに引っかかった。 その感触は、冬の夜に寄り添った体温の名残に似ていて、 ぼくは思わず前足を固くした。

「小さかったころ?」

「雪の夜だった。風が強く、匂いが消えやすい夜だった」

ぼくは思わず、背を伸ばした。口調に、遠い感触が混じっていたからだ。

「小さな体が、震えていた。それを、胸に抱えて、必死に舌で整えた」

喉の奥が、きゅっと縮んだ。

「ああ、そんな覚えが」

「体温を分けるしか、なかった」

ぼくは前足で雪を踏みしめた。肉球に伝わる冷たさが、なぜか胸に響いた。

「それで?」

問いかけた声は、自分でも驚くほど低かった。

語調は、雪よりも静かに落ちた。

「春を、待てなかった」

ぼくは口をつぐんでしまった。返す言葉が、形をなさなかった。

地蔵の気配が、わずかに動いた。

「あれの言葉は、偽りではないぞ」

ぼくは地蔵を見上げた。

「見ていたのかい?」

「この場所に在るものは、来ては去る。私は、その多くを見送ってきた」

「さもありなん、で」

雪だるまの気配が、ほんの少し、緩んだ。

地蔵が首をふるなんて、見たことがあるだろうか?

「おまえが歩き出したのも、見ていたぞ」

胸の奥で、何かがピカッと繋がった。

ぼくは、もう一度、雪だるまを見た。その白さの奥に、なぜか、懐かしい匂いがあった。

「あんた」

言葉は、そこで止まった。

雪だるまは、答えなかった。だが、その気配は、否定もしなかった。

長い沈黙が、雪空の下に落ちた。

やがて、雪だるまの重さが、ゆっくりとこちらへ向いた。

「もし、そうだったとしても」

気配は、慎重だった。

「今のおまえが、こうして立っているなら、それでいい」

ぼくは、ふたたび前足をのばし、雪の上に置いて言った。

「都合のいい話ですね」

なのに、声は荒れなかった。

「そうかもしれない。わたしは早く逝きすぎたのだから」

雪だるまの輪郭が、わずかに震えた。

ぼくは、何も言わなかった。言えば、何かが壊れる気がした。

風が吹き、雪面が小さく鳴った。その音だけが、確かだった。

ぼくは思った。

――この白い形が、何であれ、ここにいる理由は、ひとつではない。

雪の坂道は、なお静かに地をはっていた。

だが、空気の底で、何かが動き始めているのをぼくは感じた。

 

6 最期

空気の端に、春の柔らかな温度がそっと忍び込んでいた。それはまだ名も持たぬ気配で、雪道の隅に、かすかに漂っていた。

風の匂いが変わり、雪の粒は、触れれば崩れそうなほど脆くなっていた。

ぼくはそれを感じるたび、胸の奥で、落ち着かない波が小さく揺れた。雪だるまの体が、日に日に薄くなっていたからだ。

近づくと、冷たさの奥に、どこかで一度だけ触れた温度が潜んでいる気がした。その気配に胸のさざ波がわずかに強まった。

ある朝、ぼくは雪だるまの前に立ち、しばらく動けずにいた。

白い形は、光に溶ける途中のように、輪郭を曖昧にしていた。足元の雪膜を通して、弱い気配が、そっと震えた。

「来たか」

声というより、触れた指先に残る湯気のようだった。

「お馴染みの、だよ」

それだけ言うのが精一杯だった。

「もう、大丈夫だ」

気配には、以前の怯えはなかった。だが、強さもなかった。ただ、静かだった。

ぼくは白い体のすぐ脇へ、そっと身を寄せた。雪の冷たさが、頬に沁みた。

喉の奥で、音にならない息が揺れた。

「おかあ」

言葉は、途中でほどけた。

雪だるまの気配が、かすかに揺れた。それは風ではなく、内側からの震えだった。

「母として、おまえのそばに、もっといたかった」

背中に振えが走った。

「いて欲しかったよ、あなたに」

「おまえが大きくなるのを、見たかった。だが、待つだけの力が、足りなかった」

ぼくは顔を白い体に埋めた。外側は冷えていたが、その奥には、確かな温もりがあった。

「湯たんぽ、みたいだ」

自分でも、なぜそんな言葉が出たのかわからなかった。

雪だるまの気配が、ほんの少し、柔らいだ。

「そうかもしれないね」

それきり、長い沈黙が落ちた。雪道が、息をひそめたようだった。

やがて、白い輪郭が、ゆっくりとほどけ始めた。光の中へ、形が溶けていく。

地蔵の気配が、静かに動いた。

「雪だるまよ」

声ではなかった。だが、石の奥から、確かな重みが伝わってきた。

「よく、ここまで来た」

それ以上、地蔵は発信しなかった。

雪の体は、淡雪が陽にほどけるように、静かに軽くなっていった。引き留めることは、できなかった。

「ありがとう」

かすかな気配が、胸の奥に触れた。

「黄金の子」

その言葉が、雪の地面に沈んだ瞬間、白い形は、ふっとほどけた。

ぼくは目を見開いたまま、その場に立ち尽くした。

雪の粒が舞い、斜面に明るい光が落ちていた。残ったのは、掌に乗るほどの、小さな白い欠片だけだった。

鼻先でそっと触れた。冷たかった。奥に残っていた匂いが誰のものか。

ぼくは、それを胸いっぱいに吸い込んだ。

「ああおかあ」

風が、優しく体毛を撫でていった。

 

7 地蔵

雪だるまが消えたあと、坂道は音を抱え込んで沈黙していた。

ぼくは小さな残雪のかけらの前に座り、しばらく身じろぎもできなかった。ほんとうに根が生えたように、だ。

柔らかな風が路面を撫で、光が静かに揺れている。世界が、ゆっくりと冬を見送っていた。

地蔵が静かに気配を動かした。台石に積もった雪越しに、低い重さが、胸の奥へと伝わってきた。

「そこの猫よ」

ぼくは顔を上げた。

「ここには、また、あんたとぼくだけになりましたね」

「静かになったな」

ぼくの感慨を外すように言って、地蔵が黙った。

姿勢は変えず、ぼくは首だけまわした。

「山道にふさわしく」

風が通り抜け、残雪の面に細かな筋を残した。

「夭折は、音を立てぬ。だが、確かに重さを残す」

ぼくは雪のかけらを見つめた。そこにはもう、母の形も、温もりもなかった。

「消えたら、終わりですかね?」

地蔵はすぐには答えなかった。長い沈黙のあと、石の奥から、ゆっくりと気が滲んだ。

「終わりは、形が尽きたところにあるとは限らん」

ぼくは耳を後に傾けた。

「形がなくなっても、匂いが残ることはあります。猫ですから」

「それでよい」

地蔵の言葉は短かった。その短さが、雪の下へ沈んでいくのを感じた。

ぼくはまだ不審が渦まくのを感じた。

「それでも、残されたほうは、どうしたらいいんでしょうね?」

「昔も、似たことがあった。行き倒れなど、日常茶飯だったよ」

それ以上、地蔵は語らなかった。

ぼくは問い返そうとして、やめた。言葉にすれば、軽くなる気がしたからだ。

風がまた吹き、残雪の粗い面がわずかに波打った。雪だるまがいた場所には、淡い光だけが残っている。

「母は」

ぼくは、そこで言葉を切った。

地蔵の気配が、こちらへ向いた。

「願いは、歩みに宿る」

箴言風の断言だけが返ってきた。

ぼくはゆっくりと立ち上がった。足先が少し沈み、雪がきしんだ。

胸に聞けというのだろうか。

「歩くしか、ないんですね?」

「止まることもできれば、座ることもできる。だが、いずれ、足は前を向く」

そうしたものだ、と聞こえたかもしれない。定かではないまま、ぼくは一歩、踏み出した。雪は、もうまばらだった。

上から振り返ると、地蔵は変わらぬ姿でそこにあった。石は何も失わず、何も追わず、ただ在り続けている。

ぼくは嘆息を吐いた。

「助かりましたよ、お地蔵さん」

返事はなかった。だが、残雪の下から、確かな重みが返ってきた。

雪だるまの消えた場所に、最後の一瞥を送った。もう痕跡さえなかったが、胸の奥には、消えぬ匂いが残っていた。

ぼくは向きを変え、まだらな坂道を上り始めた。天と地の境目は、雲のせいではっきりしなかった。春一番の先陣が滑りこみそうな気がしないでもない。

 

 

[ライタープロフィール]

野上勝彦(のがみ かつひこ)

1946年6月、宮崎県都城市生まれ。10歳の秋、志賀直哉と出会い、感銘を受ける。20歳のとき関節リウマチを発症、慶應義塾大学独文科を中退。数年間、湯治に専念。画家になるか作家になるか迷った末、作家になろうと決める。長編小説20編以上の準備をするが、短編小説数編しか発表できず。31歳のとき、文学を学び直すため、早稲田大学第二文学部に入学。13年浪人という形になった。英文学専攻、シェイクスピア学を中心に学ぶ。足かけ5年間、イギリスに留学。留学中父親を亡くす。詩人のグループに属し、英詩を書き、好評を得る。1989年末、帰国。教員となる。2010年、本務校を退職。同僚先輩から借りた本代1000万円を完済。2017年、非常勤講師をすべて定年退職。2018年、最初の評論集が『朝日新聞』書評欄で取り上げられる。最初の長編小説を完成させたのが2019年。いずれも出版に際し、グリム童話研究家金成陽一氏の紹介により河野和憲社長(当時編集部長)のお世話になって、現在に至る。12歳の時、最初の短編小説を書いて以降、題材を2000本以上書き留める。題材帳をもとに短編・掌編の執筆戦略を練り、2024年10月下旬から25年10月下旬までの1年間で、1700作を書く。現在、未発表短編1830作を数える。

【単著】『〈創造〉の秘密――シェイクスピアとカフカとコンラッドの場合』彩流社、2018年。『暁の新月――ザ・グレート・ゲームの狭間で』彩流社、2019年。『始源の火――雲南夢幻』彩流社、2020年。『疾駆する白象――ザ・グレート・ゲーム東漸』彩流社、2021年。『マカオ黒帯団』彩流社、2022年。『無限遠点――ザ・グレート・ゲーム浸潤』彩流社、2023年。

【共著】『シェイクスピア大事典』日本図書センター、2002年。『ことばと文化のシェイクスピア』早稲田大学出版部、2007年。The Collected Works of John Ford, Vol. IV, Oxford: Oxford University Press, 2023.

【論文】‘The Rationalization of Conflicts of John Ford’s The Ladys Trial’,Studies in English Literature, 1500-1900,32,341-59,1992年、など37本。詳細についてはウェブサイトresearchmapを参照。

【連載】『近代神秘集:生きもの編』、ウェブマガジン『彩マガ』彩流社、2025年4月16日より。

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