鏡の国のカラス
1 鏡
あれは、どこだったのだろうか。
私は高い樫の枝に止まり、午後の陽射しを背中いっぱいに受けながら、若葉が枝先まで広がった初夏の森を眺めていた。
葉と葉の隙間からこぼれた光が地面に細かな斑点をつくり、昨日の雨を含んだ土からは湿った匂いが立ちのぼる。遠くでは小川が石へ水をぶつけながら、途切れることなく音を響かせていた。
片脚を枝から離し、爪をゆっくり伸ばす。
首を曲げ、胸元の羽をくちばしで整えた。翼をわずかに開いて羽の間へ空気を通す。
ふっと、首筋の羽毛が逆立った。
動きを止めた。
風はなかった。枝先の葉もそよいでいない。なのに、胸の奥が妙に落ち着かなかった。
頭を上げ、右を見た。左も見た。それから背後の枝へも目を向けた。
森の中を走る小動物の影も、仲間のカラスの姿も見えなかった。
私は低く声を発した。
「何だ?」
返事はなかった。
枝を蹴って隣の樫へ移り、さらに上の枝へ飛び上がった。葉の間から森を見渡したが、どこにも異常らしいものは見当たらない。
それでも胸のざわつきは消えない。
首を伸ばし、森の向こうへ目を凝らす。
二つの人影が動いた。
一人は小さな娘だった。ヘアバンドで止めた金色の髪が肩まで垂れ、白い服の上へ柔らかくかかっていた。歩くたびに髪の先が揺れ、陽射しを受けた部分が淡く光っている。白いエプロンドレスの裾には森の草が何本か絡んでいたが、少女は気にする様子もなく、大きな瞳を左右へ向けながら歩いていた。
もう一人は男だった。こちらのほうが強く私の関心を引いた。
白銀色の鎧を身につけているのだが、やけにテカテカ光っているところを見ると、本物の銀ではないかもしれない。堪らん。
鎧にはいくつもの傷がつき、胸当ての一部はへこんでいた。肩当てには細い葉がはさまり、腰には袋や瓶、紐、金具、それに小さな木槌までぶら下がっている。
動くたび、それらが互いにぶつかって、がちゃり、からり、ことり、と森の中へ音を送り出していた。
男は白馬に乗っていた。
白馬も立派な体つきをしていたが、疲れているらしい。身体が揺れると腰の道具がぶつかる音を聞かされ、男が手綱を引くと、耳を伏せて長い首を低くした。
私は枝の上で頭を振った。
どうやら、馬は誰も乗せたくないらしい。
男が少女へ何か話しかけながら右手を大きく振った瞬間、馬が一歩横へ動いた。
男の身体が大きく傾いた。
慌てて馬の首へ両腕を回す。
「おっとっと」
白銀色の鎧が、がしゃん、と大きな音を立てた。
少女が両腕をこわばらせた。
「大丈夫ですか?」
男は顔を上げた。髭の間から黄色い歯を見せながら、何事もなかったように胸を張った。
「もちろんだとも」
体勢を立て直すと、得意げに続けた。
「今のは首すがりの術だ」
少女が口元を押さえた。
「そんな術があるのですか?」
「あるとも。拙者が今つくった」
少女はしばらく男の顔を見つめ、それから肩を震わせた。
男も口角を上げた。
どうやら、二人とも楽しんでいるらしい。
私は枝の上から二人を眺めたに過ぎないが、人間というものは妙なことをする。
森の中へ入ってきて木の実を拾うダムという男もいれば、小川で水をくむディーという奴もいる。私たちカラスを見つけると、急に立ち止まって指を向ける車掌もいた。
だが、馬から落ちそうになったうえ、それを自分で「術」だと言い張る騎士を見るのは初めてだった。
くちばしを軽く開いた。
「カア」
男がこちらを見た。
目が合って、枝の上で少し身体を低くした。
男は左足をゆらしながら、私を指差した。
「あそこだ」
少女が振り向いた。
「あれはカラスですね」
「ふん、見れば分かる」
少女が笑った。
「じゃあ、何が分かるのですか?」
男は顎へ手を当て、髭を指で撫でながら私をじっと見つめた。
嫌な感じがした。
私は枝の反対側へ少し移動した。
男の目も私の動きを追ってきた。
「あのカラスは、パンを発明した詩人に会ったことがある」
私は目をぱちくりさせた。
何を言っている?
少女が首を傾げた。
「どうして分かるのですか?」
男は人差し指を立てた。
「簡単なことだよ。あのカラスは、木の枝より辞書の上へ止まるほうが好きだからだ」
少女が鼻の穴をふくらませた。
私はカアと抗議の声を上げた。
辞書なんて知らない。
パンなら知っている。人間が森の近くへ捨てていった白い食べ物を、仲間と取り合った経験がある。
だが、パンを発明した詩人というのは知らない。
そもそも、パンをつくった者が詩人なのかどうかも怪しい。
私は男をじっと見つめた。
男は満足そうな笑みを浮かべていた。
少女が尋ねた。
「本当ですか?」
「もちろんだとも」
「じゃあ、詩人って、どんな人ですか?」
「それは拙者にも分からない」
少女が目を瞬いた。
「分からないのですか?」
男がまた左足を振ってうなずいた。
「分からないことほど本当らしい」
少女はしばらく男の顔を見つめていた。やがて吹き出した。
その声が森に広がる中、私は枝の上で羽を震わせた。
「妙な人間だ、カア」
少女の笑い声が止まった。
男が再び馬を進めた。
ところが今度は、馬の足元から伸びた蔓へ男の靴が引っかかった。
身体が前へ傾く。
男は両腕を振りながら馬の首へ手を伸ばした。
だが、馬が止まった瞬間、白銀色の鎧ごと地面へ落ちた。
「おっと」
どさ、がちゃ。
少女が駆け寄った。
「今度こそ大丈夫ですか?」
男は仰向けになったまま空を見上げ、少し考えた。
「大丈夫だ」
そして、さらに一言を付け加えた。
「これは餅つきの術だ」
少女は声を上げて笑った。
私は思わず足踏みをした。ただの尻もちではないか。
男は地面から起き上がると、鎧についた土埃を払い、何事もなかったように馬の手綱を取った。
少女も笑いながら後ろについて歩き出した。
二人は馬ともども森の奥へ進んでいった。
私はその後ろ姿を見送った。
少女の金髪が木漏れ日の中で揺れる。
男が左足を振り出すたびに白銀の鎧から金属音が響く。
やがて音を残して、二人の姿が木々の向こうへ消えた。
だが、男の言葉は頭の中に残った。
辞書、詩人、パン。そして、言葉。
私はくちばしで胸の羽を一枚引き寄せた。
「あれは、いったい何なんだ!?」
答えてくれる者はいなかった。
枝から飛び立った。
翼へ力を込め、樫の枝を下へ離しながら、少しずつ高い位置へ上がっていった。
さらに高度を上げると、風が翼の下へ入った。
翼を広げたまましばらく上昇気流に乗り、眼下に広がった森と、細い銀色の線になった小川、木々の間へ消えていく道を眺めながら、さらに上へ向かった。
胸のざわめきはまだ残っていた。
何かがある。何なのかは分からなかった。それを確かめたい。
翼を強く打った。上へ。もう一段、上へ。
雲の近くまで行こうとした。
思うや否や、目の前の空気が揺れた。
何もないはずの空の一部分が、陽射しを受けた水面のように細かく震えていた。
雲ではない。まして風ではない。
速度を落とし、首を伸ばした。
右の翼をわずかに下げる。揺れている空も同じ向きへ揺れた。
左へ動く。揺れも左へ動く。
翼を水平に戻す。目の前の揺れも元の形へ戻った。
私は鳴いた。
「カア」
すると、空の中から同じ声が返ってきた。
瞬きを止めた。目の前には何もない。それなのに――
翼を小さく打ちながら慎重に近づいた。
揺れる空が少しずつ近づいてくる。あと少しだ。
その瞬間、透明な面の向こうに黒いものが見えた。
ぼんやりした墨雫だったのが、近づいてくると一羽のカラスになった。
羽には艶があり、くちばしは鋭い。丸く黒い瞳がこちらを見つめている。
私は低く鳴いた。
「お前は誰だ?」
向こうのカラスは答えなかった。ただ、じっと私を見ていた。
私は一歩、空中へ踏み込むように翼を打ち、くちばしを近づけた。
向こうのカラスも同じように近づいてくる。
距離が急速に縮まった。
私は逃げず、そのまま進んだ。
くちばしの先が相手のくちばしに触れた。
かちり。
冷たい感触が伝わった。
私は相手と同じように反射的に首を引いた。
その瞬間、目の前にあったものが単なる空ではなく、どこまでも広がる透明な壁であることに気づいた。
私は壁の向こうを見つめた。
向こうのカラスも私を見つめている。
片方の黒い瞳には、私自身の姿が映っていた。
その奥に、空が揺れていた。
2 反転
私は透明な壁から離れ、翼を二度打って少し距離を取った。
だが、向こう側に広がる森が気になって仕方がなかった。
灰色の木々が並び、空は青くなく、銀色に光っている。風が吹いているように見えるのに葉はほとんど動かない。
こちら側の森とは何もかもが違っていた。
私はもう一度壁へ近づき、向こう側を覗いた。
さっきまで見えていた相手の姿は消えていた。
首を傾げながら壁へくちばしを押し当てた。
冷たく硬い。どこにも隙間はない。
壁の横へ回ってみても、右へ飛べば壁が続き、左へ回っても端は見えなかった。
そのとき、森の奥で白いものが動いた。木々の間を銀色の鎧が通り過ぎていく。
私は目を細めた。
白騎士だった。
森で見かけた男に間違いない。
樹下を歩きながら腰につけた袋を一つずつ開けては中を確かめ、首を振ってからまた別の袋へ手を入れている。
何かを探しているらしい。
私は壁へくちばしを押しつけた。
「おい!」
白騎士は振り返らない。
「お前も、ここにいるのか?」
声は届かなかった。
白騎士はそのまま森の奥へ進んでいく。
私は壁をくちばしで叩いた。
かち。
もう一度叩いた。
かち。
それでも白騎士は振り返らなかった。黙々と歩き続け、やがて木々の向こうへ姿を消した。
私は壁から離れた。翼を返し、いつもの樫の森へ帰ろうとした。
あそこには仲間のカラスがいる。いつもの枝もある。
戻れば、何も変わらないはずだった。元の森へ向かって飛び続けた。
しばらくすると、見慣れた樫の木が見えた。
枝には仲間が二羽止まっていた。
一羽が鳴いた。
「カア」
私は速度を落として枝へ降りようとした。
そのとき、白騎士のテカテカした鎧が頭に浮かんだ。
なぜ、あの森にいたのか。何を探していたのか。
考え始めると、枝へ降りる気持ちが急に薄れていった。手前で向きを変えた。
仲間の声が遠ざかる。
再び鏡のある空へ向かった。
飛びたいわけじゃない。
それでも翼は止まらなかった。
透明な壁が見えてくると速度を落とした。向こう側に広がる灰色の森を確かめる。
それから振り返り、遠くに見える樫の森を目に焼きつけた。
翼をたたみ、一直線に鏡へ向かった。
透明な壁が迫ってくる。衝突する寸前、翼を開いて身体を横へひねる。
壁のすぐ横を抜けようとした。ところが、透明な面そのものがこちらへ動いた。
「何だ!?」
避ける間もなかった。くちばしの先が面へ当たった。
がちん。
鋭い痛みが頭へ走った。
身体をひねって離れ、乱れた羽を震わせながら激しく上下する胸を落ち着かせた。
「カッ、たまらん!」
鏡を睨んだ。
向こう側には灰色の森がある。あそこに行きたい。
なぜなのか、自分でも分からなかった。
ただ、あの森の中へ行かなければならないという気持ちが残っていた。
再び鏡から距離を取った。
風向きを確かめる。向かい風が翼を押してくる。
いったん高度を上げ、翼をたたんで一気に降下した。
鏡が急速に迫る。銀色の空と灰色の森が目の前で大きくなっていく。
ここで逃げたら、あの森が何なのか、一生分からない。
目を開いたまま、透明な壁へ突っ込んだ。
衝突する。だが、今度は痛みがなかった。
冷たいものが羽の間へ入り込み、水へ飛び込んだような感触が全身を包んだ。
通過した瞬間には、羽ばたく感覚も水の感触も消えていた。風を切る音さえ聞こえない。
白い光が視界いっぱいに広がった。
その中で、ふいに体の周囲を細い流れが通り抜けた。
羽が引っ張られる。尾羽が持ち上げられる。
くちばしを閉じたまま、息ができないことに気づいた。なのに苦しくない。
ただ白い光の中を、何かに運ばれているような感覚が続いた。
小さな声が聞こえた。
「ありがとう」
翼を止める。声は消えた。
次の瞬間、身体が落ちた。
「えっ?」
慌てて翼を打ち、上へ昇ろうとした。だが、身体はさらに下へ落ちていく。
頭を上げて灰色の森を見た。頭を下げて銀色の空を見る。
「何だ、これは!」
必死に翼を打った。体を右へ傾ける。森が左へ動いた。
左へ傾ける。森が右へ動いた。
さらに翼を強く打った。だが、身体はもっと下へ落ちた。
「逆だ!」
尾羽を開いて風を受けると、身体が少し起き上がった。
それでも、自分が上へ向かっているのか、下へ向かっているのかさえ分からない。
三度、激しく翼を打った。
その瞬間、体の向きが大きく変わった。
頭が下を向き、足が上を向いた。
「何てこった!」
翼をばたつかせても落下は止まらない。
灰色の森が迫ってきた。
次々に現れる枝をかわした。身体を横へひねりながら羽先で葉を散らす。
銀色の空が足元にある。
そんな奇妙な光景を見ながら、私は森の中へ落ちた。
3 逆さの森
したたかに背中を打ちつけた。
私はしばらくぼうっとしていたが、どうにか身体を起こした。
脚を縮め、地面を思い切り蹴る。翼へ力を込めた。幸い、痛みはなかった。
何度か羽ばたきを繰り返すうちに身体が浮き上がった。
その途端、ばさっと音がして羽が数枚抜けた。
痛みに耐えながら身体をひねる。
木の幹へぶつかった。目の前に火花が散った。
それでも斜めになった身体を立て直し、枝のない空間を目指して飛んだ。
ようやく視界が開けた。
下には灰色の森が横たわり、上には銀色の空が迫っている。
だが、見えている方向と身体が動く方向は一致しなかった。
私は翼を止め、尾羽を少し開いて風を受けた。
風が尾羽の間を抜けると、身体がゆっくり起き上がる。
いつもと逆だった。
何度か試してみた。
右へ進みたいときには左へ翼を傾ける。左へ進みたいときには右へ傾ける。
見える方向と翼へ伝わる感覚が、まるでちぐはぐだ。
それでも翼と尾羽を少しずつ動かしているうちに、私はようやく上昇と下降を操作できるようになった。
一本の太い枝へ降りようとした。いつものように脚を伸ばし、爪を枝へ触れさせる。
その瞬間、身体が枝から離れた。
「えっ?」
脚を曲げ、枝をつかもうとした。
今度は爪が枝を捉えた瞬間、身体が上へ押し出された。
「何だ!?」
慌てて翼を打つ。身体が枝の下へ落ちた。
爪を開いて枝から離れ、尾羽を広げながら身体をゆっくり起こした。
もう一度、枝へ近づいた。今度は爪を伸ばさない。
枝の下へ身体を寄せ、樹皮へ爪先を触れさせた。
身体が止まった。枝の下へぶら下がっていた。
「どっちが上なんだ?」
枝そのものは、私の知っている枝と変わらない。樹皮もある。爪をかける場所もある。
なのに、止まり方だけが違っていた。
目を閉じた。
右の翼へ風が当たり、尾羽の先に触れた。自分の身体が少し左へ傾いている。
次第に頭へ血が上ってくるような感覚がした。のぼせているのではないか。
枝に止まっているはずなのに、逆立ちしているような感覚だ。
ふいに、白騎士の首すがりの術が瞼の裏に浮かんだ。
枝にすがってやろう。
目を開け、枝へしっかり身体を抱きつかせた。
そのまま枝を中心にぐるぐる回った。目が回った。何事も我慢だ。
今度は脚で枝を握りながら逆方向へ回転した。
めまいが収まるのを待つ。のぼせたような感覚も消えていった。
ようやく地面が地面らしく、空が空らしく見えてきた。
私はすぐに飛び上がった。
眼下には、思ったとおり灰色の森が広がっていた。
低く飛び続ける。
森にはほとんど生き物の気配がなかった。鳥の声も聞こえない。虫の翅音も聞こえない。
木々の幹は、どれも同じ方向へ伸びていた。
一本の木に取り付き、枝から樹皮へくちばしを当ててみた。
かち。硬い。
樹皮の隙間に細い線が見えた。くちばしの先でなぞってみる。
線は一つ、二つと続き、さらに下へ伸びていた。
自然についた傷には見えない。文字のようだった。
「何だ、これは?」
読めない。
もう一度、文字へくちばしを近づけた。
すると、木の奥から小さな声がした。
「忘れないで」
私は飛び退き、翼を広げながら周囲を見回した。誰もいない。
「今、何か言ったか?」
木は答えなかった。
私は森の奥へ飛んだ。
別の木にも細い線が刻まれていた。
さらに奥へ進むと、枝の先に小さな葉が一枚だけついていた。灰色ではなく、薄い緑色だった。
足を伸ばして止まると、葉がわずかに震えた。
「おはよう」
私は葉をくちばしでつついた。
同じ声音が返ってきた。
「ようこそ」
別の木の葉へ近づく。
「待っている」
さらに先へ進む。
「また会おう」
森の奥から、いくつもの声が聞こえてきた。
高い声もあれば低い声もある。幼い声も年老いた声も重なっていた。
私はその中から聞こえてくる言葉を一つずつ拾うように、耳を澄ませた。
「元気で」「ごめんなさい」「気をつけて」
一枚の葉へ止まった。
細かな文字が刻まれていたが、やはり読めない。
それでも、その葉から聞こえた言葉は、はっきり耳に残った。
「ごきげんよう」
遠くへ行く者を見送る声だ。
葉から離れ、樹冠を巡った。無数の葉が重なっている。
どの葉にも文字が刻まれていることに気づいた。
この森では、木も葉も、何かを残している。
すると、森の向こうから金具の触れ合う音が聞こえてきた。
からり。ことり。がちゃん。
低い枝へ移り、幹の陰へ身を隠した。
木々の間から白いものが見えた。白騎士だ。
一人で歩いている。馬はいない。
足元の枝へつまずきそうになって両腕を振ると、鎧が鳴った。
「おっと」
私は小さく鳴いた。
「カア」
白騎士が顔を上げた。
私は枝の陰から姿を現した。
男の目が私を捉え、やがてゆっくり笑った。
「来たか」
私は爪へ力を込め、かねてからの疑問をぶつけた。
「お前は、ここにも来られるのか?」
白騎士は答えず、葉へ耳を澄ますように顔を向けた。
森のどこかで声がした。
「ありがとう」
白騎士が目を閉じた。
私はさらに声を強くした。
「ここは何なんだ?」
白騎士が目を開き、森の奥を指差した。
「聞こえただろう?」
私は葉へ目を向けた。
さらに別の声がした。
「また会おう」
私は枝から飛び立った。
白騎士が後ろから声をかけた。
「待たれよ」
私は振り返った。
彼が急いで追ってくる。
鎧が鳴った。からり。がちゃり。ことり。
「おぬし、本当にせっかちだな」
私は速度を落とし、枝へ止まって、頼んだ。
「知っているなら、教えてくれ」
白騎士が私を見上げた。
「拙者にも、すべては分からないのだ」
私は首を傾げた。
「それじゃ済まされんぞ」
白騎士は森の奥へ目を向けた。
「ただ、あの森の奥には、まだ誰にも届いていない声がある」
私は耳を澄ました。葉が揺れ、無数の声が重なった。
枝から飛び立った。
「ならば、行ってみようじゃないか」
白騎士が後ろからついてくる。
私たちは森の奥へ進んだ。
4 言葉の森
森の奥から声が聞こえた。
「お母さん」
私はその声を追うように木へ近づいた。
細かな文字が刻まれた葉へくちばしを触れさせる。
だが、返ってきたのは別の声だった。
「また会おう」
私は葉から離れた。
後ろでは金属音が響いている。
がちゃり。
白騎士が枝を押し分けながら進んでくる。
「静かにできないのか?」
白騎士が腰の袋を押さえた。
「努力しているのだがね」
「ここには、何がある?」
「残された言葉だ」
「誰が残した?」
「分からない」
そのとき、森の奥から再び声がした。
「お母さん」
私は声のしたほうへ顔を向けた。
「ここも、鏡の向こうなのか?」
白騎士がうなずいた。
「そうだ」
「じゃあ、鏡の向こうにあった森は?」
白騎士は地面を指さした。
「ここだ」
「鏡はこの森へ入る入口だったのか?」
白騎士が髭をひねった。
「そういうことだ」
私は森の奥へ目を向けた。
すぐに飛び立った。
「待て!」
白騎士の声を背中に聞きながら、枝の間を抜けていく。
やがて木々が途切れた。狭い森の空地では不釣り合いなほど大きな楡の木が立っていた。
根元へ降りた。
幹には無数の文字が刻まれていた。
細い字も太い字もある。深く刻まれているものもあれば、長い時間の中で削られ、消えかけたものもあった。
幹へくちばしを近づけ、一つ一つを確かめた。
声がした。
「楽にして」
続けて別の声が重なった。
「気をつけて」「ごめんなさい」
声は右から左へ、頭上から足元へと移っていった。
その声を追うように、楡の根元を回った。
「どこにいる?」
答えはなかった。
突然、すべての声が消えた。
風は吹いている。葉も揺れている。なのに、森全体が沈黙へ落ちてしまったようだ。
動きを止めて首を回した。
「本当に消えたんだな」
そのとき、足元に細い光が見えた。落ち葉の隙間から銀色の光が漏れている。
くちばしで葉を一枚ずつどけた。
土の上に、小さな銀色のものが現れた。何かの種のようにも見える。光を反射していた。
首を伸ばした。
食べられるかもしれない。くちばしの先でつついてみた。
すると、種の表面に細い文字が一瞬だけ浮かんだ。
「ご苦労さん」
文字はすぐに消えた。
もう一度つつく。ころりと動いた。
光るものが気になって仕方がない。端をはさんだ。
その瞬間、声がした。
「こんにちは」
くわえていた銀色の種が、かすかに震えた。
驚いてくちばしを開いた。
銀色の種がころりと地面へ落ちた。
「しまった!」
種は根の斜面を転がった。
私はすぐに追いかけ、反射的にくわえた。
今度は離さない。
すると、森に風が走った。枝が大きく揺れた。
くちばしの中の銀色の種が、かすかに震えた。
文字を刻まれた葉が一斉に触れ合い、さわさわと音が森の奥へ広がっていく。
消えていた声が次々に戻ってきた。
「ありがとう」「元気で」「また会おう」
声は増え続け、やがて森全体を満たした。
私は銀色の種をくわえたまま近くの枝へ飛び上がった。
爪で押さえつけ、表面をよく眺める。
白騎士が騒々しく追いついてきて、楡の根元から見上げた。
「とうとう見つけたか!」
「これは何だ?」
白騎士が銀色の種をじっと見た。
「知らん」
「とぼけるな」
白騎士は髭を指でひねった。
「さてな」
楡の葉が揺れた。
「ありがとう」
私はもう一度、爪の中の種を見つめた。
銀色の表面には、葉の隙間から落ちた光が細く映っている。
くちばしを閉じた。
森の奥から小さな声がした。
「嬉しい」
振り返った。どの葉から聞こえたのかは分からない。
短く鳴いた。
「カア」
葉が一斉に揺れた。
白騎士が顔を上向けたまま、後方を指さした。
「潮時だ。帰ろう」
「どこへ?」
「おぬしが来た場所へ」
私は銀色の空を見上げた。
遠くに透明な面が浮かんでいる。鏡に違いなかった。
その向こうに、元の森がある。
ふいに銀色の種がはじけ飛んで羽の中へ入り込んだ。
私は翼を広げた。
5 鏡の向こうへ
透明な面の向こうには、見慣れた森が浮かんでいた。
緑の葉が枝いっぱいに広がり、茶色の幹が並び、陽射しを受けた土が広がっている。
その中には、私が最初に止まっていた樫の木もあった。
枝には二羽のカラスが身を丸くしていた。
私は翼を動かすのをやめた。
白騎士が下から声をかけた。
「帰れるか?」
「そう思う、カア」
白騎士がうなずいた。
「では、行くがよい」
私は鏡へ目を向けた。
最初にここへ来たとき、鏡へ激しくぶつかった。冷たく硬い壁だった。それが最後には、水のように私を通してくれた。
今度も、同じであってほしい。
近づくにつれて鏡の中の森が大きくなった。
向こう側のカラスもこちらを見ている。
私は風切り羽を少し震わせた。
向こうのカラスも羽を振った。
私は止まらなかった。
来たときと同じように目を閉じ、翼をたたんで、そのまま鏡へ突っ込んだ。
冷たい感触が、くちばしから羽全体へ広がった。
耳の近くで、いくつもの声が重なった。
誰かの話し声、笑い声、泣き声、誰かを呼ぶ声、別れを告げる声。
それらが一つの流れになり、身体の周囲を通り過ぎていった。
すぐ声が遠ざかった。
私は翼を開いた。光が羽の隙間を通り抜けた。
次の瞬間、私は元の空へ出ていた。
暖かな風が羽を包んだ。
銀色の空は消え、青い空がどこまでも伸びている。
下には緑の森が広がり、小川が木々の間を流れていた。
枝は上下逆さまではなく、羽ばたけば上に行くほど細くなっている。
すべてが見慣れた景色だった。
私は森の上を何度か旋回しながら、戻ってきたことを確かめた。
思いがけず、森の中から人の声が聞こえた。
翼を傾け、声のほうへ降下した。
あの少女が歩いてきた。金色の髪が陽射しを受けて光っている。
菩提樹の枝へ止まり、カアと鳴いた。
少女が立ち止まり、見上げた。
「あなた、あのときのカラス?」
「そう、カア」
少女が笑った。
「どこに行ってたの?」
私は首を伸ばし、上から少女を見た。
「ちょっと留守にしただけ、カア」
元々、ここの住民だ。文句があるか。
少女は菩提樹の根元へ腰を下ろした。
「ねえ、この前の話、覚えてる?」
白騎士の術中の姿が脳裏に浮かんだ。パンを発明したという詩人の話、辞書の話、それに、「分からないことほど本当らしい」という言い草まで思い出した。
「もちろん」
少女が草の上へ指を走らせた。
「私、まだよく分からないの」
「そうなのカア?」
「でも、あの人の話を聞くのは好き」
少女は顔を上げた。
「知らないことを聞くと、知らない世界へ行ける気がするから」
地面へ目を落とすと、菩提樹の根元に小さな隙間があることに気づいた。
私はたまらず枝から飛び降りた。落ちていた細い枝をくわえる。
少女が口を尖らせた。
「ただの枯れ枝じゃない、これ?」
私は枝をくわえ直し、その先を根元の隙間へ差し込んだ。
すると、胸元に隠していた銀色の種が枝沿いに落ちた。
「よく見るカア」
少女が息をのんだ。
「ここも知らない世界?」
私はくちばしで隙間の奥へ種を押し込んだ。
少女はしゃがみ込み、根元をじっと見つめた。
「大きくなるかな?」
私は白騎士にならって左足を振った。
「分からない、カア」
少女は根へ指を近づけた。だが、触れずに止めた。
「分からなくてもいいわ。待ってみるから」
私は菩提樹を見上げた。
枝の先で一枚の老葉が揺れていた。
私はそこへ飛び移った。
少女が立ち上がった。
「待って」
私は揺れる葉から下へ視線を投げた。
「もう行く、カア」
小さな右手が挙がった。
「どこかで会えるといいね」
私は首を縦に振った。
少女が笑った。
「じゃあ、またね」
私は葉を蹴って空へ上がった。
森を下へ遠ざけながら、振り返る。
少女は菩提樹から歩き出していた。
その姿を見届けてから、再び高度を上げた。
風が翼の下を押してくれた。
どこからともなく声が聞こえた。
「また来てね」
私は首をひねった。
少女の声にも、白騎士の声にも聞こえない。
灰色の森で耳にしたささやきに、どこか似ていた。
しばらく周囲へ耳を澄ませた。だが、もう何も聞こえなかった。
空耳だったのかもしれない。
短く鳴いた。
「カア」
遠くの森から仲間の声が返ってきた。
「カアカア」
私は声の方向へ尾羽を傾け、懐かしい樫の木を目指して飛び続けた。やがて見慣れた繁みが見えてきた。
枝には仲間たちが集まっている。
葉の繁った枝へ止まった私へ、一羽が顔を向けた。
「遅かったな?」
「少し遠くまで行ってたからね」
「どこへ?」
私は胸元へ目を向けた。
「逆さまの苦労は、口では表せない、カア」
答えると、彼は隣の枝へ移った。
夜が深くなるにつれて、仲間たちの声が一つずつ消えていった。
葉の隙間から月の光が落ちてくる。
目を閉じた。
羽の奥で、何かがかすかに震えた。
「ありがとう」
目を開いた。
暗い森には、誰の姿もなかった。
反対側の枝から、最後の声がした。
「カア」
私は短く鳴き返した。
「また明日」
完
[ライタープロフィール]
野上勝彦(のがみ かつひこ)
1946年6月、宮崎県都城市生まれ。10歳の秋、志賀直哉と出会い、感銘を受ける。20歳のとき関節リウマチを発症、慶應義塾大学独文科を中退。数年間、湯治に専念。画家になるか作家になるか迷った末、作家になろうと決める。長編小説20編以上の準備をするが、短編小説数編しか発表できず。31歳のとき、文学を学び直すため、早稲田大学第二文学部に入学。13年浪人という形になった。英文学専攻、シェイクスピア学を中心に学ぶ。足かけ5年間、イギリスに留学。留学中父親を亡くす。詩人のグループに属し、英詩を書き、好評を得る。1989年末、帰国。教員となる。2010年、本務校を退職。同僚先輩から借りた本代1000万円を完済。2017年、非常勤講師をすべて定年退職。2018年、最初の評論集が『朝日新聞』書評欄で取り上げられる。最初の長編小説を完成させたのが2019年。いずれも出版に際し、グリム童話研究家金成陽一氏の紹介により河野和憲社長(当時編集部長)のお世話になって、現在に至る。12歳の時、最初の短編小説を書いて以降、題材を2000本以上書き留める。題材帳をもとに短編・掌編の執筆戦略を練り、2024年10月下旬から25年10月下旬までの1年間で、1700作を書く。現在、未発表短編1900作を数える。
【単著】『〈創造〉の秘密――シェイクスピアとカフカとコンラッドの場合』彩流社、2018年。『暁の新月――ザ・グレート・ゲームの狭間で』彩流社、2019年。『始源の火――雲南夢幻』彩流社、2020年。『疾駆する白象――ザ・グレート・ゲーム東漸』彩流社、2021年。『マカオ黒帯団』彩流社、2022年。『無限遠点――ザ・グレート・ゲーム浸潤』彩流社、2023年。
【共著】『シェイクスピア大事典』日本図書センター、2002年。『ことばと文化のシェイクスピア』早稲田大学出版部、2007年。The Collected Works of John Ford, Vol. IV, Oxford: Oxford University Press, 2023.
【論文】‘The Rationalization of Conflicts of John Ford’s The Lady’s Trial’,Studies in English Literature, 1500-1900,32,341-59,1992年、など37本。詳細についてはウェブサイトresearchmapを参照。
【連載】『近代神秘集:生きもの編』、ウェブマガジン『彩マガ』彩流社、2025年4月16日より。
