スージー鈴木のロックンロールとしての日本文学 第24回

第24回 永井荷風『つゆのあとさき』と谷崎潤一郎と大貫妙子と木村充揮

スージー鈴木

 

実は、満を持して、村上春樹を取り上げようと思っていた。しかしあえなく挫折。こちらの準備や気概が足りなかったのか、ある初期2作品は身体が受け付けなかったのだ。やれやれ。

 

というわけで今月は、かつて『濹東綺譚』が身体に馴染んだ永井荷風『つゆのあとさき』で行く。タイトルも、さだまさしの同名曲が好きだった私を惹き付けたから。これ、いってみればドタバタ喜劇のような1作だった。

 

——銀座の有名カッフェー「ドンフワン」でトップを張る女給君江は、うぶで素人のような雰囲気ながら二股三股も平気な女。そんな彼女の身辺でストーカーのような出来事が起きるが、君江は相も変わらず天性のあざとさで男たちを悩殺し、翻弄していく。しかし、にわかにもつれ始めた男女関係は思わぬ展開を呼び……

 

文庫本の裏表紙に書かれた概要。途中、落語「五人廻し」のようなドタバタになり(オマージュか?)、騒がしいまま、最後まで突っ走る快作。ただラストに、一応悲劇性があって、読後感をちょっとだけ深いものにするが。

 

というわけで、個人的には『濹東綺譚』ほど盛り上がらずに、ササッと読んだ、という感じなのだが、巻末についていた、谷崎潤一郎の「『つゆのあとさき』を読む」という解説文に、大いに感化されたのだ。谷崎潤一郎は、この作品を以下のような文脈で称賛する。

 

——なぜなら、この小説は近頃珍しくも純客観的描写を以て一貫された、何の目的も、何の主張もそれ自身のうちに含んでいない冷めたい写実的作品だからである。もちろんこの小説以外にも、客観的描写の外見を備えた作品は多いことであろうが、この小説におけるが如く、作者が完全にその作品の世界から遊離し切っているものは、近来あまり見当らない。

 

「純客観的描写」「何の目的も、何の主張もそれ自身のうちに含んでいない冷めたい写実的作品」「作者が完全にその作品の世界から遊離し切っている」……言われてみれば、そうかもしれない。「ドタバタ喜劇」のような手触りは、登場人物が作者の手から離れ、勝手にワチャワチャ動いた結果の物語として生まれたものと言えるだろう。

 

 

  • 大貫妙子と谷崎潤一郎の共通点

 

ここで話は急展開。今年の1月9日にNHK Eテレで放送された『スイッチインタビュー「安田成美×大貫妙子」』という番組における大貫妙子の発言が心に残ったのだ。

 

彼女は、テレビで見る若いバンドについて「こんなに自分のことばっかり歌ってどうするの」「なんで自分の中ばっかりのことを歌いたいのかな」と思うというのだ。そして「かえって外側にあることを歌った方がいいのにな」とまで。対して対談相手の安田成美が「(大貫妙子の歌には)自分の持っている、生きてきた・経験したことが入り込める余地がいっぱいあって」と返すのだが。

 

谷崎潤一郎の『つゆのあとさき』評と、大貫妙子の音楽観、歌詞感は、「作(詞)家の自我と作品を安易に直結させるな」という一点において響き合っている。

 

もちろん人間が書くわけなのだから、作者の自我は多かれ少なかれ反映されよう。というか、反映させるために人間は書くのだろう。しかし、自我=「内側」を埋め込むためだけに作品を紡ぐな、自らの「外側」を「客観的」「写実的」に書けと、彼(女)らは言っていると受け取った。

 

今の文学などよく知らないが、Jポップの多くの歌詞は、広い意味での「私小説」になっていると思う。そんな状況への違和感が大貫妙子にはあるのではないか。その違和感、私にもある。

 

  • 何にも言うてへん歌を発車メロディに

 

ここで永井荷風、大貫妙子という新旧東京の世界観から、文章は一気に大阪に飛ぶ。まるで東京から関西に転居した谷崎潤一郎の人生のように。

 

私の知る限り、もっとも「外側」、さらには風景を「客観的」「写実的」に描いた歌詞は、木村充揮『天王寺』だ。読みは「てんのうじ」。梅田、難波に続く、大阪市内3つ目の繁華街である。1997年3月19日発売のアルバム『俺らのハウス』収録。特に大阪ではスタンダードとして知られる1曲である。

 

 

「♪大阪ミナミの玄関口は 通天閣がそびえ立つ天王寺」から始まる歌詞は、とにかく天王寺界隈の風景しか歌っていない。それは徹底していて、一応「これがオイラのふるさと天王寺」というフレーズは出てくるものの「オイラ」は物語にまったく関与しない。というか、歌詞全体が、天王寺の風景しか描いていないのだから、物語自体が存在しないのだ。

 

この曲の徹底した客観性・写実性に気付いたのは、あれは、いつだったか、MBSラジオの朝の人気番組『ありがとう浜村淳です』に、木村充揮が出演したときである。浜村淳が、若干呆れ気味に「この歌詞は、何にも言うてへん。ただあるがままを歌っているだけやん(笑)」という意味のことを言ったのだ。

 

一瞬「そんなしょうもない歌なのか」と思ったのだが、コンマ数秒後、二瞬目に「だからこそ、この歌が染み入るのか」と考え直した。安田成美風にいえば、だからこそ「私の持っている、天王寺界隈で経験したことが入り込める余地がいっぱいあって」と。

 

と書いているうちに、この記事、『つゆのあとさき』からかなり離れてしまったが、しょうがない。「あとさき」考えず書いているので。というわけで、『つゆのあとさき』や永井荷風に戻らずに締めたい。

 

JR西日本は、『天王寺』をなぜ天王寺駅の発車メロディにしないのだろう。でも現在の『あの鐘を鳴らすのはあなた』は別の意味でいい曲なので(主観的な歌詞だが、さすが阿久悠、聴き手が入り込める余地がいっぱいある)「キタの玄関口」=JR大阪駅の発車メロディに昇格させればいい。そして天王寺駅には『天王寺』を。

 

なぜなら今のJR大阪駅の発車メロディの曲、やっぱ好きやないねん。

 

[ライタープロフィール]

スージー鈴木(すーじーすずき)

音楽評論家、小説家、ラジオDJ。1966年11月26日、大阪府東大阪市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。音楽評論家として、昭和歌謡から最新ヒット曲までを「プロ・リスナー」的に評論。著書・ウェブ等連載・テレビ・ラジオレギュラー出演多数。

著書…『日本の新しい音楽 1975~』(日刊現代)、『日本ポップス史 1966-2023』(NHK出版)、『沢田研二の音楽を聴く1980-1985』(日刊現代)、『大人のブルーハーツ』(廣済堂出版)、『サブカルサラリーマンになろう』(東京ニュース通信社)、『〈きゅんメロ〉の法則 日本人が好きすぎる、あのコード進行に乗せて』(リットーミュージック)、『弱い者らが夕暮れて、さらに弱い者たたきよる』(ブックマン社)、『中森明菜の音楽1982-1991』(辰巳出版)、『幸福な退職 「その日」に向けた気持ちいい仕事術』『サザンオールスターズ 1978-1985』『桑田佳祐論』(いずれも新潮新書)、『EPICソニーとその時代』(集英社新書)、『EPICソニーとその時代』(集英社新書)、『平成Jポップと令和歌謡』『80年代音楽解体新書』『1979年の歌謡曲』(いずれも彩流社)、『恋するラジオ』『チェッカーズの音楽とその時代』(いずれもブックマン社)、『ザ・カセットテープ・ミュージックの本』(マキタスポーツとの共著、リットーミュージック)、『イントロの法則80’s』(文藝春秋)、『カセットテープ少年時代』(KADOKAWA)、『1984年の歌謡曲』(イースト新書)など多数。

 

 

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