第25回 村上春樹『風の歌を聴け』と山下達郎とあの頃の喫茶店
スージー鈴木
村上春樹を読まねばと思ったのだ。
何といっても国民的作家である。読まずに死ねるか、とまでは思わないが、この連載の中で、取り上げないわけにはいかない、とも思ったのだ。
『風の歌を聴け』は、大学時代に読んだ記憶がうっすらとある。うっすらということは、大して感動もしなかったのだろう。今、あらためて、40年ぶりぐらいに読んでみようと思った。
「こりゃしんどい!」
読んでいて、しんどい、つらい。で、このしんどさ、この連載で読んだ本の中で、どれかに感じたのと似ているぞ。と、一瞬考えて、村上春樹と似ても似つかぬ、あの作品だと気付いた。
三島由紀夫『金閣寺』だ。徹頭徹尾、ある強烈な美意識で塗り固められた文体。書き手が、その美意識文体に、うっとりしていながら書いているさまが目に浮かぶような。
結論から言えば、私は、その美意識うっとり文体に跳ね飛ばされた。ダメだったわ。ハルキストのみなさん、すいません。
でも並行して読んだ、『回転木馬のデッド・ヒート』という短編集はとても面白かったのだ。となると、私を跳ね飛ばしたのは、天下の村上春樹が処女作に込めた気合いと気負いだったのかもしれない。
- 「風吹き文体」とあの頃の喫茶店
『風の歌を聴け』の美意識うっとり文体を、もう少し具体的にいえば、まずは「英文学翻訳体」とでもいうか。英文学なんてちゃんと読んだことのない私には、まずこの時点で、距離を置きたくなる。
そして手触りが乾いていて、無機的で、ツルッツルな文体。つまりはタイトル通り「風が吹いている文体」。
ここで思い出すのは、『風の歌を聴け』が発表された1979年前後の喫茶店のあり方のことだ。カフェではない喫茶店。一般論としての喫茶店のこと。
音楽評論家・渋谷陽一の著作『ロック微分法』(ロッキング・オン)に掲載されている「ソフト・アンド・メローと喫茶店」というコラムは、当時(おそらく1980年前後)の喫茶店のあり方に関する、優秀な批評になっている。
「日本の都市とアメリカあたりの都市を比較して、最も異なる事のひとつに喫茶店の数がある」とした上で、当時の日本における喫茶店の奇妙さについて、こう書いている。
——現在、日本の都市における喫茶店の商品はコーヒーではなく、その店の提供する風景なのだ。原宿や青山あたりでエスカレートする喫茶店の室内装飾は、いかにここではない場所を作りあげるかという目的の為だけに血道をあげているという感じである。お客の方もその風景にいじましくしがみつき、全くさびしくなる光景だ。
私は『風の歌を聴け』の「風吹き文体」に、渋谷陽一の喫茶店評と同じような印象を受けたのだ。つまりは「ここではない場所」に連れて行ってくれる「幻想の風景」に連れて行ってくれる、乾いた無機質な文体だ。渋谷は続ける。
——現在、このような風景を商売のネタにしているものは多い。女性誌や男性誌の多くがそうだし、音楽産業のかなりの部分もそうだ。その他もろもろの消費活動の多くは風景を売る事によって成立している。日本中が、ここではないどこかを求めて、幻想の風景を求めて動いているわけで、全くグロテスクな話である。
「幻想の風景」としての「風吹き文体」。同時期の片岡義男や田中康夫よりも、より徹底的に乾いた風の吹いた文体に、私は、正直乗り切れなかったのだ。
ただ乗り切れなかったのには、たぶん一時期、自分自身が、「風に吹かれたがっていた」というトラウマが影響しているように思うのだ。

青と白の対比もいい感じ
- 山下達郎を聴きながら食パンを食べる朝
「風吹き文体」への違和感を書きたくなるのは、「風吹き音楽」に惹かれていた時代があったからだと、私はよく分かっている。
その多くは洋楽で、特に学生時代、例えばイーグルスなどのアメリカ西海岸モノを聴くときには、木造の下宿にサンタモニカの風を取り入れる気分で聴いていた(もちろんサンタモニカについて、当時の私は何も知らない)。
あと、もっと白状すれば、山下達郎『FOR YOU』(82年)と、彼のいたシュガー・ベイブ『SONGS』(75年)を、学生時代の一時期、毎朝聴いていたことがある。
朝7時30分になると、オーディオタイマーに連動したカセットデッキが回りだし、『SPARKLE』のあのイントロが流れる。『FOR YOU』や『SONGS』を聴きながら食パンを食べると、こちらも木造の下宿にサンタモニカ、というか、こちらは東京の港区や渋谷区、さらに湘南の風が流れる感じがしたのだ。
嘘ではない、本当のことだ。私は、というか80年代は、そんな時代だったのだ。言ってみれば、貧しい時代だったのだ。今よりも? 今と同じく?
そんな山下達郎食パン生活は長くは続かなかった。考えを改めたから。『FOR YOU』や『SONGS』の流れる喫茶店の扉を開けて、どんよりと湿った無風の空気を受け止めなければならないと思った。
そして、サンタモニカでも港区でも渋谷区でも湘南でもない、目の前の湿気に溢れた無風状態の中を生きていくことに決めてから、もう30年以上が経つのだ——長くなったが、これがたぶん、今の私が「風の歌」を聴くことが出来なかった理由である。
補足的にいえば、これが、令和における「風吹き音楽としてのシティポップ」ブームにザワッとする理由でもある。「風の歌を聴く前に、湿った空気を吸い込んでみろよ」と言いたくなる。
しかしそれでも、『FOR YOU』や『SONGS』は、今でも聴けるから不思議だ。耳が成熟した結果だと思う。特に『SONGS』なんて、今の私は、どんよりと湿った無風の音楽として聴くことが出来る。「ここではない場所」ではなく、「ここ」の音楽だと解釈できる耳を勝ち得たのだ。
待てよ。ということは、村上春樹の奏でる風の歌にも湿った空気を感じて、いつか聴ける日が来るのかも。まずは神宮球場で耳を澄ませてみようか。やれやれ。
[ライタープロフィール]
スージー鈴木(すーじーすずき)
音楽評論家、小説家、ラジオDJ。1966年11月26日、大阪府東大阪市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。音楽評論家として、昭和歌謡から最新ヒット曲までを「プロ・リスナー」的に評論。著書・ウェブ等連載・テレビ・ラジオレギュラー出演多数。
著書…『ライバルたちのJポップ史 』(祥伝社)、『日本の新しい音楽 1975~』(日刊現代)、『日本ポップス史 1966-2023』(NHK出版)、『沢田研二の音楽を聴く1980-1985』(日刊現代)、『大人のブルーハーツ』(廣済堂出版)、『サブカルサラリーマンになろう』(東京ニュース通信社)、『〈きゅんメロ〉の法則 日本人が好きすぎる、あのコード進行に乗せて』(リットーミュージック)、『弱い者らが夕暮れて、さらに弱い者たたきよる』(ブックマン社)、『中森明菜の音楽1982-1991』(辰巳出版)、『幸福な退職 「その日」に向けた気持ちいい仕事術』『サザンオールスターズ 1978-1985』『桑田佳祐論』(いずれも新潮新書)、『EPICソニーとその時代』(集英社新書)、『EPICソニーとその時代』(集英社新書)、『平成Jポップと令和歌謡』『80年代音楽解体新書』『1979年の歌謡曲』(いずれも彩流社)、『恋するラジオ』『チェッカーズの音楽とその時代』(いずれもブックマン社)、『ザ・カセットテープ・ミュージックの本』(マキタスポーツとの共著、リットーミュージック)、『イントロの法則80’s』(文藝春秋)、『カセットテープ少年時代』(KADOKAWA)、『1984年の歌謡曲』(イースト新書)など多数。
