田村奏天のTHINK BLUE #2

#2 ふたりのFitzgeraldを重ねて

4月28日、ドジャースはTyler Fitzgeraldを獲得した。2024年にはショートを中心に計6つの守備位置に就いたユーティリティプレイヤーだ。ちなみに、この守備位置には投手も含まれている。  T.Fitzgeraldは今年3月にサンフランシスコ・ジャイアンツからDFAとなると、4月初頭にトレードでトロント・ブルージェイズへ移籍する──DFAは決して解雇とは言えない。選手をMLBに出場できる40人から外すことだ。選手をDFAにした際、球団は40人枠内で獲得したい球団がいないか伺いを立てる。T.Fitzgeraldの場合、ジャイアンツがDFAし、それに対してブルージェイズが応答したことでトレードが成立している──。そして今回、ブルージェイズからもDFAされたところをドジャースが獲得したわけだが、その思惑は彼をMLBで起用することにはなさそうだ。主戦場であるショートはMookie Bettsが不動のレギュラー。控えには複数ポジションを守るHyeseong KimとSantiago Espinal、今季限りでの引退を示唆しているMiguel Rojasがいる。

確かにKimはマイナーオプションがあり、Espinalは成績が芳しくない。しかしKimをマイナーに送る、あるいはEspinalをDFAするならば、そのタイミングは本来二塁のレギュラーであるTommy Edmanが怪我から復帰する時が適切に思われる。T.Fitzgerald獲得の意図は、Edman不在のなか、新たな怪我人が出てしまった際の緊急要員としての側面が強い。さらに言えばその役割も、BettsがILから復帰するまで二遊間を任されたプロスペクト、Alex Freelandの方が優先順位は高い。そのためT.Fitzgeraldは基本的にドジャース傘下のオクラホマシティ・コメッツで過ごすだろう。Edmanが戻ってくれば、3度目のDFAになるかもしれない。

コメッツにはデプス要員が複数所属する。なかでも興味深いのは、Ryan Fitzgeraldの存在だ。年明けにミネソタ・ツインズからDFAになりウェーバーでドジャースへ移籍。シーズン開幕前に重ねてDFAとなったが、獲得に名乗り出る球団はおらず、マイナー残留を選んだ。

2人のFitzgeraldは親縁関係ではないが、その共通点は名前には留まらない。共にショートを中心に内外ほとんどのポジションをこなすユーティリティであり、MLBで投手として登板も経験している。むろん同姓ないし同名の選手が同一球団に所属することは珍しくない。コメッツには投手のRyder RyanとRiver Ryan──こちらは兄弟だ──もいる。過去にはドジャースで捕手のA.J.Ellisと二塁手のMark Ellisがレギュラーとして起用されていた。どちらも守備の名手という印象が強い。

同一球団でなくても良いならば、極め付けはMax Muncyだろう。ドジャースと、オークランド・アスレチックスに在籍する2人は両者ともMaxwell Muncy、チームの正三塁手であり、誕生日も共通だ。双方ともにアスレチックスにドラフトされキャリアをスタートさせている。違いとしては今季の成績だろうか。前者、M.S.Muncyはチーム一番乗りの2桁HRに到達しrWARは2.1を記録。35歳とは思えない最高のシーズンを送っているのに対し、後者、M.P.Muncyは打棒が振るわずrWARは-0.2。とはいえまだ23歳。いくらでも巻き返せる。

この偶然を前に、名というコンテクストをどのように捉えよう。ここで挙げた例は恣意的なものであるが、しかしこうした偶然の混ざった恣意性とともに、名が体をあらわし、規定する──例えばFitzgeraldはデプスユーティリティの名前、Muncyは正三塁手の名前、というように。もし仮に、別の「大谷翔平」が登場したら、ボクやあなたは二刀流を期待してしまうのだろうか?──という幻想がボクやあなたを取り巻くはずで、であればボクやあなたが、〈名〉という呪縛から離れて何かを受け取ることは可能なのだろうか。

例えば、ボクの姓は極めて驚きのないものであり、同姓の人物は簡単に見つけられる。あなたが思い浮かべたのは、探偵役の俳優や同姓同士のお笑いコンビなどだろうか。こと詩歌のことを考えるのならば、おそらくいの一番に田村隆一の名が挙がる。『荒地』詩人として、戦後詩を牽引した1人である田村隆一は真っ直ぐに〈カッコいい〉言葉、振る舞いを選んできた作家だ。イメージはやはり宝島社の「おじいちゃんにも、セックスを。」というコピー──これは田村隆一の言葉ではない──が打たれた広告だろうか。

田村隆一の〈カッコいい〉詩といえば名作「四千の日と夜」や「帰途」が思い浮かぶ。でも、〈名〉のことを考えるなら、『死語』(河出書房新社、1976)収録の「白い紙」が適切だ。

詩篇は《もうこれまでに/いったい なんど白い紙に/ぼくは署名してきたのだ?》と始まり、続けて筆記具が羅列されるものの、そののちに詩篇の中では「鉛筆」や「Gペン」を直接的に握る描写はなされず、暗に《署名をしてきた》と述べられるばかりだ。詩篇が語るのはむしろ、自分の所作がいかに〈署名行為〉と化してきたかである。語り手は祖母から初めて筆と硯を買ってもらった記憶を遡るが、《ぼくは仰高西尋常小学校までの道を/歩いて行く/雪と泥で//道はぬかっていて/以来/署名してきたのさ なんども》と、その記憶は買ってもらったことではなく、雪道の中を歩んでいく記憶に侵犯される。

このとき、次のように言えるはずだ。語り手にとって初めての〈署名行為〉は、祖母から受け取った筆と硯によって字義通り白紙に名を記すことではなく、硯と筆を受け取るために、雪道に泥を広げ続ける歩みそのものだったのである。これまでの歩みがすべて〈署名行為〉と化すならば、作品として編まれた声を、完全に名や身体から引き剥がすことができるのだろうか、という悲しい問いに突き当たる。詩篇のなかには、《画用紙の裏》からはじまり、《手紙》《商業英作文》《軍事的ノート》《領収書》《トラベラー・チェック》等いくつもの署名先が列挙されるが、しかし、それらが「祝儀袋」ではなく《祝儀不祝儀》に行き着くことを踏まえれば、署名先は単なる紙としてではなく、ある個人の──田村隆一のことを考えれば、おそらくは彼の〈カッコいい〉雰囲気のために脚色された一個人であるようにも思うが──歩みとして記述されていたことに気が付くはずだ。詩篇は《言語の細い線 暗い海狭 一篇の詩のそのすぐ/あとに》と閉ざされる。末尾にメタ詩としての表現が顔を覗かせていることを、作家の身体に還元する読みによって捉えるのであれば、田村隆一は、〈詩人・田村隆一〉という名と、カッコいい佇まいが形成されていく過程に非常に自覚的であったと言える。そして、一切の血縁関係にない田村姓であるところのボクや幾人かのあなたは、田村隆一によって生成された〈田村〉以後に言葉を紡いでいる。〈田村〉の言葉は、その意味で〈カッコよさ〉を無自覚に帯びるときがあるやもしれない。

他方、近年活躍している田村姓の作家として思い浮かぶのは、歌人・田村穂高だろうか。

母の名で父を呼んだらふりかえる父に抱かれたその夜の母
/田村穂高『霧に貌』(書肆侃侃房、2026)

最新の第2歌集に収録された1首だ。本歌集全体を統御するのは、ある人物の外殻としてあるはずの身体と、しかしそこから溢れてしまう、身体そのものや身体による行為を制御するはずだった感情や感覚たち。〈名〉も溢れ出るもののひとつだ。その身体を規定するはずが、〈名〉の在り処は詩語のうちでずらされ、むしろ名付けられたはずの身体の現前性を砕いてゆく。《木の老いと人の老いとはちがうけど祖父の名にある〈幹〉のひと文字》《生姜湯を飲みくだす喉 兄の名を思いだそうとするとき痛む》といった歌群のなかには、ある身体を規定するために編み出されながら、しかし語り手という他者の「眼」や「喉」を介するとき、本来還るべき身体のいま・ここを見失って浮遊する〈名〉が見てとれる。本歌集の書き振りはその意味で、田村隆一とは向きを異にしていると言えるだろう──むろん、そこで田村穂高の言葉にあえて〈カッコよさ〉を見ることも不可能ではない。それもまたある意味で〈名〉をいま・ここの身体から引き剥がし、貼り直す行為だ。宙吊りな〈名〉にいくらでも色付けがなされ、ボクやあなたはその中間地帯で身じろぎすることしかできないのか──。

掲歌の読みの難しさは「母の名で父を呼ぶ」という不思議さにのみあるのではない。ふりかえる存在が父であるか母であるか、あるいは《ふりかえる》ことが、身体動作なのか追憶なのか、幾重にも読みが重なっていることにある。ここで、詩型の短さを口実に双方の読みを保存することは容易だが、しかし読むという行為は、一方の読みを捉えるとき、どうしてもその瞬間にもう一方の読みを撃ち落としている。

だからこの歌の中で〈名〉は二重に在り処を失っている。意味上の操作として母から父へ譲り渡されるために、そして文体の操作によって母も父も呼びかけを受け取りうるために、〈名〉は単一の身体に対する記号としては信頼を失うのだ。このとき、〈名〉の麓には、抱き合いながら重なり、混淆した身体が横たわっている。さながら読むという呼びかけを前にしたテクストのように──

ちなみにドジャースに入団する以前、R.Fitzgeraldの存在がにわかにドジャースファンの間で話題となったことがある。その理由は昨年夏にトレードでドジャースからツインズへ移籍した外野手、James Outmanとのツーショットだ。チームメイトとなった彼らの姿は瓜二つであり、ファンの間では兄弟説まで囁かれていた。チーム名も踏まえるとなお数奇な出来事であり、どうやら何かと重なる運命にあるのはRyanの方だ。

 

[ライタープロフィール]
田村奏天(たむら かなめ)
2000年、東京生まれ。立教大学文学研究科比較文明学専攻博士課程後期課程在籍、専門は近現代俳句。作家として、俳句・短歌・現代詩を中心に活動。別名義に「アトリエ ヒトノマ」。詩誌『透けやすい』同人、総合文芸同人誌『Rich』同人(Produce & Direction)。著書に『ヒトノマ』(七月堂、2024)。
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