#3 ROOKIES!
今シーズンも三分の一以上が過ぎた。各球団・選手の明暗はすこしずつ分かれ出している。Dodgersを明のチームに分類することに異論はないだろう。多くの主力が怪我、あるいは不調にありながら地区首位を維持できている。なにより若手の躍動が印象的だ。新人王有資格者──前年までのMLB通算実績が、野手であれば打数130未満、投手であれば投球回数50イニング未満であり、尚且つ26人ロースター登録期間が45日未満である選手──こそ少ないが、PagesにRushing、Kim、佐々木、Freeland、Henriquez、Dreyer、Hurt、Kleinと、チームを支える若手が随分と現れた。とりわけWrobleskiが良い。ここまでの成績は防御率2.95、rWARは1.5を記録しており、7勝は山本と並びチーム最多。いわゆるセイバー指標はお世辞にもいい数字とは言えないにもかかわらず、リーグ屈指の成績を誇っていることもあり、多くのMLBファンが関心を寄せている。
MLB全体を見ても今年の若手は魅力的だ。特に新人王候補が面白い。村上宗隆(CHW)は開幕前の懐疑論を全て吹き飛ばし、20本塁打OPS.938、rWAR2.0の活躍。課題とされていた速球への対応も良く、屈指のパワーヒッターとしてその地位を確立した。現在は怪我で離脱しているが、復帰後も成績を維持できるか注目される。
しかし、この成績でも村上が新人王確定とは言えない。村上の怪我以降、むしろ圧倒的最有力として名が挙がるのはKevin McGonigle(DET)だ。今季開幕前の新人王予想では一貫して最上位に名が挙げられた彼の魅力は高いコンタクト力とスプリントスピード。出塁率は.383でア・リーグ5位、9つを記録した盗塁の成功率は100%。守備負担の高い三遊間を守るため、rWARとしては村上を越す3.7を記録する。村上の怪我の状況次第だが、新人王の確率はMcGonigleの方が高い。
その上、ア・リーグの新人王争いは2人だけで繰り広げられているものではない。開幕前の新人王オッズ1位だったSamuel Basallo(BAL)もいる。Oriolesには、同じ捕手に球界の次なる顔としても期待されてきたAdley Rutschmanがおり、ここ数年振るわなかった彼の成績が復調していることもあり、Basalloの出場機会は半分がDHである。この点は新人王レースで不利に働くだろうが、打線の中軸としてチームで3番目に二桁本塁打に到達、rWARもチーム4位を記録するなど、期待に応える成績を残しており、村上McGonigle両名にプレッシャーをしっかりと与えている。
ナ・リーグも熾烈である。最右翼にはJJ Wetherholt(STL)が挙がる。類い稀なる身体能力によって連日好守を披露し、走塁面でも評価が高く、結果rWARは3.0。xBA──どれだけヒット性の良い打球を打てているか──の低さが気がかりだが、マイナー時代のアプローチ面での評価を考えれば欠点ではなくさらなる伸びしろとみなせるだろう。
対してパワーという側面で違いを見せつけているのがSal Stewart(CIN)だ。今季の長打率は.453とナ・リーグの新人の中でも群を抜いた数字を残している。同一チームにElly De La CruzやEugenio Suarezといった名だたるスラッガーがいる中、本塁打数はチーム最多の13本を記録する。
そして新人投手として二人に立ち向かうのがNolan McLean(NYM)である。そもそもMetsは今年新人が豊作だ。外野のAJ EwingとCarson Bengeもそれぞれチームを牽引する働きをしており、チームが不調の今季、ファンにとっての心の支えとなっている。中でもMcLeanは、WBCアメリカ代表へ選出され、決勝戦で先発を任されるなど十分すぎる経験を積んで帰ってきた今季、88奪三振を記録。SO/9──9イニングで平均して何奪三振するか──は10.38で、怪物投手の跋扈するナ・リーグ内でも6位。86.6mphという平均打球速度も優秀な数字であり、三振が多く、被長打可能性の低い制圧型の投手として完成像が見え始めた。課題である四球率の高さがクリアされれば、数年後のCY賞レースでも名を見かけ得るだろう。
新人という言葉は文学にも存在する。この単語をMLBと同一の単語とみなしてよいだろうか。答えはむろん否だ。スポーツにおける新人と文学における〈新人〉は、むしろ真逆のシステムの中の言葉である。
MLBでは昨季、合計1470名の選手が出場した。うち、新人王有資格者は280を超え、全体の19.4%が新人だったことになる。数多くの新人が出現し、その中で最も秀でた選手を表彰すること。これがMLBにおける新人王のシステムだ──ちなみに、新人王として投票を受けた選手は合計23人だ。しかし、残りの約260名が出現しなかったことにはならず、彼らの成績は記録される──。
このようにスポーツにおける新人は、出現した数多くの新たな存在のことを指し、その〈出現した存在を評価する〉のが新人王というシステムだ。対して文学は、まず新人賞があり、それによって〈新人〉が出現する。換言すれば〈存在の出現を承認する〉のが新人賞である。〈新人〉はこの意味において、つねにすでにラベリングされ、プロデュースされている。
このスポーツと文学の差異は、単に身体と文字の差異ではなく、それぞれの構造の差異でもある。スポーツはリーグ・チーム・ロースターという枠組みを必要とし、それぞれの枠組みは、より多くの存在に入れ替わり立ち替わりの出現を要請する。
では文学の構造とは? 勘違いしてはいけない。それは壇ではない。壇は虚構であり、ボクやあなたの前には、ただ雑誌があるのみだ。より正確には総合誌・商業誌の存在、これが構造である。頁数に限りがあり、文字数にも限りがある構造。その限りによって存在の出現は制限せざるを得ず、その制限が結果的に権威性となる構造が、〈新人〉の根底にある。〈新人〉の出現は、〈新人〉にとって受動的に、雑誌の持つネットワークに受け入れられるというかたちで行われるものだ。
雑誌という構造そのものは本来的には悪いものではない。ときに問題を抱えるとはいえ、雑誌が文学に対して担ってきた機能は確かなものであり、その効果を無化することはできない。ただし、〈新人〉にとって出現が受動的な経験であるとき、能動的に動いているものが雑誌であることは事実だ。この点において、雑誌という構造には主体性があり、雑誌は〈新人〉に主体的に責任を負っている。
この責任のかたちのひとつとして、〈新人〉をいかにフォローするかがある。例えばそれは、個人作品集の出版や、定期的な原稿の掲載によってなされるだろう。であれば、それがどれほどまでに丹念に、精緻になされているか、ということを見れば、例えば雑誌そのものの機能不全に気がつくことができる──ボクもまた、〈新人〉と名指される存在でもあり、例えばあなたは某特集を思い浮かべながら、ボク自身に対して雑誌が負っている責任を前もって追及しているテキストとして本稿を読むだろうか。しかし、ボクの手元には自らの身体と関わるそれではなくて、もっと前の、ある特集が置かれている。新鋭を並べるに際して時代の名すら冠されていた特集。しかしあのとき、雑誌が責任を負おうとしたのは、各作家に対してではなく、問題を抱えた構造を維持し続ける各同人誌に対してではないか、とも思う。ならばそれ以後、それぞれの作家に対して、どれほどの責任が果たされたのだろうか──。
例えば、依光陽子の『ふ、は鳥に』(左右社、2026年)に──内在的なものではなく外在的なものとして──感じている違和感はここにあるかもしれない。本書に限らず、「第一」を冠する作品集に対して「受賞から〇〇年」「待望の」とコピーが打たれたときに感じる違和感。本書はより早く出るべきであったのではないか、プロデュースとして、より早い段階での刊行を考えてもよかったのではないか、というわだかまりは多少感じてしまう。
むろん、作品集が刊行されないことは、決して雑誌の問題のみに還元できるものではない。作品集の刊行は、経済的な事情、感情的な事情、事務的な事情、あるいは社会情勢的な事情など、多くの事物に由来する多くの事情がクリアされなければなされない。そのため、新人賞と刊行のタイムラグそのものを批評対象とするのはナンセンスだ。このわだかまりは、あくまでボク個人の、感情の問題として記述すべきである。
ただし、この感情の問題は、〈新人〉をアンソロジーによってフォローしようとするときに批評の舞台へと引きずり出される。この手のアンソロジーは読者に対して、各作家との出会いとして機能しなければならないし、その出会いは、〈新人〉と読者を密接に結びつけるものであった方が好ましい。しかし、作品集のない作家と読者がアンソロジーで出会ったとき、二者を親密にする手立ては果たして何が担うのだろう。
その意味では、最新号で終刊となったが「現代短歌パスポート」シリーズ(書肆侃侃房)が評価できる。7巻計70名が参加し、歌集未出版は、丸山るい・左沢森・相田奈緒の3名にとどまる。さらにそのうち丸山・左沢がプロフィールで第一歌集準備中を明言しており、ボクやあなたは、かの手立てを確かに予見できるだろう。
そしてかの手立ては、作品集の販売を促進するという意味で、商業的にも機能する。先に存在をほのめかした『現代詩手帖』2026年6月号(思潮社)の「新鋭特集」もまた、作家への責務と商業との両面の機能を働かせている。とりわけ特集内の記事「新鋭詩人2026profile」において、詩集刊行済の作家について書影を掲載することがこの機能を駆動させる。また、新鋭として22名もの作家を一挙に掲載すること、さらにその中の多くの詩人の作品に形態的、視覚的な特徴が見られることは、『現代詩手帖』の持つプロデュースの機能、すなわち、詩がつよく息をしており、そして詩の特徴がどこへ向かうかを暗示する機能が強く意識された結果である。
さて、『ふ、は鳥に』の名を出しながら、評が蔑ろになってしまった。さすがに不義理だ。改めて触れて本稿を閉じる。
依光の作品の魅力は生き生きとした動きを言葉の運びによって一句に刻みこむ点にある。そして、動きが一句の鮮明さを担うことで、抽象次元の言葉を一句に引き込むことを可能にする。表題句《ふ、は鳥になり昆布干す人が仰ぐ》の「ふ」は、息なのだろうか、雲なのだろうか……しかし、それが動きの中で鳥となり、他者がそれを遠く眼差す、その行為が繊細に描写されることで、「ふ」は「ふ」という抽象次元で確かに捉えられるものとして読者の手元に帰ってくる。このとき「ふ」は一句の手触りを規定するもの──いわゆる〈テクスチャー〉──として、軽さや広さを一手に担う。
さらにそうした動きの描写を重ねていくとき、そこには確かにある時間が引き込まれていく。《猿老いて枯芙蓉ともならんかな》から始まる「存続」と名付けられた句群や、《父の死と冬すきとほる蝉の屍と》といった父の死と真っ直ぐに向き合う「もうゐない」といった句群は、一句が動きの描写によって時間性を引き込み、そしてそれが隣の句の時間性と共鳴することで、句群全体を時間が流れ、ある種の歴史を記述するものとして、句集が立ち現れてくるのである。
じゃあ例えば依光が野球という、動き豊かなものを描写したらどうなるのだろう。野球のなかでボクやあなたが見落としているものが、依光の言葉のなかに写り込むだろうか。
