#1 Clayton Kershawのいないシーズンが始まる
MLBのレギュラーシーズンが開幕して、早くも1か月が過ぎようとしている。ロサンゼルス・ドジャースは、アリゾナ・ダイヤモンドバックスとの開幕カードを快勝してからというものの、地区1位を維持しながら順調としか言いようのないスタートダッシュを決めた。とりわけ、Andy Pagesは59試合でOPS1.206、WAR1.5の大活躍。ファンとしては、嬉しいかぎりだ。
ところで、ドジャースには2010年代から、チームの顔や魂という言葉で形容されてきた人物がいる。今年も彼はグラウンドに帰ってきた。しかし、長らく背負ってきた22番はその背中にはない。スーツ姿で現れたスター、3度のサイ・ヤング賞に輝き、2014年にはMVPとの同時受賞すら成し遂げた、通算3052奪三振を誇る歴代屈指のレフティClayton Kershawは昨年惜しまれながら引退した。ファンにとって、どんなに強かろうと、Kyle TuckerやEdwin D?azを獲得していようとも、心に少しの空洞を感じるシーズンに今年はなる。
この空洞はどんなに軽微なものだったとしても、やはり喪失の一種だと思う。そして喪失の感覚は、例えば、マウンドに立っているのはKershawではなく山本由伸であると、いまここに存在しないことを捉えるよりも、マウンドに立っている山本の投球を通じて、Kershawの姿をそこに捉えるように、いまここを通して、当時は感じ取れなかった存在の感覚を捉える方が近い。何も引退した選手に限った話じゃない。喪失は、やっぱり目の前にいないことを痕跡としてとらえることで、目の前にいたことを確認する作業だ。野球から離れた例を出せば、目の前のどのような歌も、あなたとあなたが失ったもの──夢、若さ、鍵、故郷、恋人……なんだっていい──を立ち上げてしまうように、ボクやあなたはいまここの物語を通じて喪失を体感する。安全地帯は「あの場所へ」ではなく「あの頃へ」と歌った。それが可能なのは、歌が虚構と結びついているからではなく、喪失がいまここの光景と結びつくことでしか感じ取られず、喪失を感じたのならばそのときは、いまここと、喪失したものがあった〈あの頃〉とが、感覚の内で地続きになるからだ。
喪失がそうした幻肢痛的なものであるなら、書く行為はともすれば喪失と隣合わせになってくる。何かを書くことは、写実的でなくても、本当にあった光景や感情の痕跡になってはくれないかと祈りながら、言葉という脆い代替物をあなたの目の前に提示することでしかない。もっといえば、詩における執筆行為は、現実化・実体化の不可能な理想すらも取り込めるのだから、このときボクやあなたは、そうした理想そのものの喪失を体感しているとも言える。
センチメンタルにいこう。ボクがたとえば、遠いあなたの幸せを今もただひたすらに祈っている、と手紙に書き添えるとき、ボクは言葉という代替物をその痕跡として、あなたに出逢い直しているのかもしれないし、もっといえば、このように書くことで、二人の前についぞ現れることのなかった、理想的な未来の輝きに手をかざしているのかもしれない。だとしたら言葉を使うということは、なんと健気で、素直で、儚いんだろう。
デネブ・ベガ・手は淋しくて水を買ふ
/大塚凱『或』(ふらんす堂、2025)
川沿いをバスは進んでいくようだみんなが今もいるすみれ組
/瀬口真司『BEAM』(書肆侃々房、2025)
俳句と短歌、ともに短詩型と呼ばれる文学形式だ。前者は連作「アフタージャーニー」のなかに、後者は連作「一寸法師試論」のなかに収録されている。とりわけ前者は本稿の話に対して示唆的な作品群だ。この連作は、主題を旅(ジャーニー)そのものとはしない。ときおりその情景が顔を出しても、それは書かれるということを通じて、いまここの話ではなく、いつかの、どこかの話として語り手や読者から離れ出す。連作全体を統御するのは、あくまで旅の後(アフタージャーニー)の空気感であり、その充足感と空虚さが、喪失の感覚を織り成している。
掲句については、上五〈デネブ・ベガ〉に触れるべきだろう。この修辞は、むろん俳句の定型が5・7・5であることに起因している。7・7・5の韻律もまた、俳句史上で重ねて選ばれてきた形式ではあるものの、『或』における大塚は、全体の音数を著しく崩す操作を進んでは採用しない。《春はあけぼの玩具のやうな剃刀も》はこの形式を採用しているが、これはあくまで〈春はあけぼの〉という措辞が、その歴史性によってもはや揺るぎない一語として定まっているがために許された操作だ。そのような一語として取ろうとすれば〈デネブ・アルタイル・ベガ〉と、大きく合計音数を崩すことを要請される夏の大三角は、そのままでは大塚の形式にはそぐわない。アルタイルは、この点において形式によって句から捨象される。
しかし、形式による捨象は、それによって織姫(ベガ)とカササギ(デネブ)を作中に取り残すこと、そして、彦星(アルタイル)の入るべき場所に記述されることで、その白い光がペットボトルの水へ与えられること、この2点によって景に転化してゆく。ボクやあなたは一句を通じて、織姫にカササギが橋渡しをする瞬間を見る。そのとき、織姫は彦星の手をまだ握っていないから、ボクやあなたは自らの手もまた、空を撫でていることに気がつくのだ。ゆえに手はその空ろを埋めようと水を買い求めるわけだが、ここでボクやあなたが自ずと自販機の水を買おうとするのは、風景が外を描いているからではなく、捨象されたアルタイルの存在を、いまここにある水によって捉え直すからだ。自販機の煌々とした白い光は彦星と重なりあいながら、織姫の喪失と再獲得――実際、語り手も水を買い、手を満たすことでそれを追走する――を、ボクやあなたの身体を通じて経験させるのである。
瀬口の「一寸法師試論」は、繰り返し愛を思い起こしてゆくという点で、常に喪失感を伴う連作だ。題に取り込まれた「一寸法師」は、〈碗の舟〉や〈武士の家系〉というフレーズによって実際のそれも顔を覗かせるが、小ささと、後に大人の姿となる──連作に合わせた言葉で告げるなら、当人が望もうが望むまいが物語によって大人の姿にされてしまう──その様を、ボクやあなたの経験に反響させるための存在として捉えることもできる。語り手は、幼いころその眼差しで受け取った愛を、何度も何度も手繰り寄せては、いまここの大きさの眼差しでそれを見通す。このとき、それがもう受け取れないことに繰り返し気づかされるのだ──喪失に繰り返し気づくこと。これが詩として記述することとイコールになることは少なくない──。
たったいま川沿いを進むバスを眺めるとき、語り手はそのバスの姿に幼少期の通園バスを重ねて捉えることで、たちまちいまここにあるバスは、あの頃のバスそのものにしか見えなくなる。〈進んでいくようだ〉という、どこか遠くを眺めている素振りになるのはそのためだ。しかし、いまここにあるそれに、あの頃を重ねるということは、何度も述べたように喪失の感覚に他ならない。関係はいくつも変わり、響かせていた声もどのようにしたって違うものになってしまったこと、あの頃しか受け入れることのできない愛が確かにあったことを、いまここにある代替物で感じ取る。時間という物語によって幾分も変わらざるを得なかった語り手は、いまここの風景に、あの頃の風景──しかし、その風景を語り手は実際に見てはいない。語り手が、仮にそのクラスに馴染めていようが、馴染めていまいが、当時はむしろ見られるものとして参与していた風景のはずだ。それはちょうど、物語の中の登場人物のように──を痕跡として発見することで、いまここと、あの頃の〈みんな〉がいる光景とが、感覚のうちで地続きになる。
思い起こされるクラスの様子は〈すみれ〉に溢れているだろう。むろん、クラスの名として記述された花は、当時そこに咲いていたわけではない。しかし〈川沿い〉の語と繋がることで、実際の草花を読み手に喚起させる。あの頃の景色は、それを喪失したことによって理想化されながら現前するのだ。語り手もボクやあなたも、たくさんのものを得る一方で、たくさんのものを失うことを運命付けられて成長する。しかし、喪失は失ったことによって編み出されるのではなくて、いまここにある代替物の存在する感覚を通してしか、その不在は感じ取れない。〈みんなが今もいる〉という存在の感覚は、決して接触のできない不在に違いないのに、理想化されながら手元に届き、ボクやあなたが確かに触れた瞬間にその姿を翻して消えてしまう。
ともかく22番のいないシーズンは始まってしまった。代わりにというつもりは一切なく、とりわけ日本のファンは18番や11番なんかを応援するだろう。個人的には70番のJustin Wrobleskiや90番のEmmet Sheehan、60-ILに登録中だが35番のGavin Stoneら若手投手らが一皮剥ける姿に22番の姿を重ねたい──ただし、全員の姿がローテーションに並び続けることはない気もする。ドジャースのデプスを考えれば、ローテーションの一角を担うSheehanはともかく、WrobleskiやStoneはデビュー済みの有望株として、トレードに用いられる可能性も高い──。そして、ボクらが今シーズン味わい続ける喪失の体感にぴったりの名前をしたプロスペクトがドジャースにいる。球団プロスペクトランキング24位に位置し、高出力の速球とチェンジアップを武器に、リリーフへの転向も検討されている63番の名はKyle Hurt。本稿締切当日に怪我人と入れ替わるかたちでコールアップされた彼の名を直訳すれば、「痛み」となる。
[ライタープロフィール]
田村奏天(たむら かなめ)
2000年、東京生まれ。立教大学文学研究科比較文明学専攻博士課程後期課程在籍、専門は近現代俳句。作家として、俳句・短歌・現代詩を中心に活動。別名義に「アトリエ ヒトノマ」。詩誌『透けやすい』同人、総合文芸同人誌『Rich』同人(Produce & Direction)。著書に『ヒトノマ』(七月堂、2024)。
