田村奏天のTHINK BLUE #5

#5  罪の射程、あるいは、商業と祈りの間で

8月3日のトレードデッドラインまでに多くの選手が移籍。ドジャースはプロスペクト3名を放出し、現役最強左腕Tarik Skubalをローテーションに加えたことで、今年も話題の中心となった。他にも故障者が多発している捕手の枠でHunter FeducciaとBen Rortvedtを、枠の整理を主な目的としつつ昨年オールスターにも選出された投手Kris Bubicを獲得している。
他にも多くのトレードが成立した。だから、例えばAdley Rutschmanをオリオールズが放出したことが許せないことや、フィリーズがLuis Arraezを獲得したことでBryce Harperの外野を守る姿をもう一度見られるようになったこと、パドレスがCasey MizeとRobbie Rayの獲得で一層の脅威となったことなど、話したいことは尽きないのだが、触れたいのは別件だ。おそらくこの記事を書く上で触れておかなければならないことが、今日までの間にあった。その話をするために、珍しく詩歌の話を先にしよう。

昨今の俳壇に岩田奎という存在は、ある意味で君臨していると言って良いだろう。10代から華々しいキャリアを積み上げてきた岩田の第二句集として『敵』(書肆侃侃房、2026)は刊行された。
その表題は暴力的なエネルギーを帯びている。加えて、岩田の句の鋭い韻律や、意図的に用いられる異臭漂う名詞の存在によって、本書は敵を討たんと戦闘意欲に溢れているかのような印象を与えるだろう。しかし、ボクは本書をむしろ〈敵〉を過剰なまでに予防する一冊として読みたい。
それは例えば目次の配列からも言えよう。目次には「皆」「舌や腸」「力」「ライフ」「敵」「水の熱」と、生命的で動的なほとばしるモチーフが並ぶが、終章として「冗談」という語が置かれることで、それらは一瞬にして存在をくらませてしまう。また、それぞれの章題に対応する各句は《年忘死後の如くに皆ゐる》(「冗談」)《ありもせぬ舌や腸雛の膳》(「力」)《力なきものら運動会をせり》(「敵」)《みぞれみるみるライフへらして遊ぶ》(「皆」)《水鳥の心それぞれ敵をもち》(「力」)《欅枯れながらながるる水の熱》(「冗談」)《生は冗談アロハシャツはためきやむ》(「皆」)と、各章を逸脱して、攪拌されながら配置されており、さらには句の意味の中において、それぞれの存在が希薄化されている──「皆」はあくまで「死後の如く」いる、すなわち弔われうる=いずれくる不在と折り重なって存在しているという点において、「舌や腸」「力」「ライフ」は直接的にその存在が否定ないし削減されていく点においてその希薄さは明らかだ。他方で、「敵」「水の熱」「冗談」に対して、存在の希薄化と言えるだろうか、という疑問をあなたは抱くだろう。ボクは次のように読むのだけれどどうだろう。「水の熱」「冗談」は、それそのものが、そもそも存在としてあらわれていない点において、希薄化など不可能に一端は思える。しかし、「水の熱」を体感する「欅」は「枯れ」、「冗談」であることで「生」は確かさを失う。それぞれを認知する存在が不活性になっているのである。ここで「水の熱」「冗談」は語として確かに存在しながらも、認知のなかでその立場を不安定にされているのである。また、「敵」は、本書の表紙にその語を記載することで大きな存在として読者の前に一旦はあらわれるのだが、一句によって「それぞれの」と個別化がなされることによって、その存在は突如として矮小になる──。
それぞれの存在が希薄化するならば、〈敵〉とは、事前に名指された架空の怪物なのではないかと思わざるを得ない。本書は、一挙動すらもできない不在の〈敵〉を虚偽的に名指すことで、あらゆる存在を偽証し、攪拌し、しかしなぜか名指しうるために、ざらついた手触りのみを把捉する。例えばボクやあなたは、本書に横断的に出没する「水着」の存在を、捉え損ねながら確かにあったと述べざるを得ないだろう。
あるいは本書の予防は、その音声にまで反映される。各頁には縦書きの三句に加え、それらがいかに発声されるべきかを株に記載している──例えば《toshiwasure shigo no gotokuni minna iru》のように──。明らかに音声的な誤読を未然に防ぐための手段であり、その姿はさながら字幕だ。
字幕は、音声の不在を文字によって補いながら、しかし発話される際のノイズ──ここには音のノイズだけでなく、フィラーやアクセントといった、字義的意味をとらえるために不必要な情報も含まれる──を剥ぎ取り、その画面的構図が果たしていかなる情報を述べる瞬間であるのかを端的に差し示す。むろん、字幕がアクセシビリティを担保するのは当然であり、字幕は音の不在を確実に補う。しかし、その確実な機能は、他方で音声が有していたものを塗り替えてしまう力を多分に有するのである。『敵』はその意味で、字幕によっても予防をしている。しかし、予防に対して事後的に向かう者は不在だ。ボクやあなたがそう読んだかもしれないという可能性に対して事前に姿を与え、それを先んじて塗り替えるかたちで予防はなされている。
結果として『敵』は、あらゆる面において塗り固められている強固な城であり、それをもっともあからさまに装丁として表出させている。フリー素材のイラストを用いた──戦略的な意味での──キッチュな装丁は、複数の固有名詞をはじめとした本書に多分に現れる斬新な句材と親和性を見せながら本書の持つ独特の感性をより全面に押し出しつつ、他方で本書に向けられたあまねく言葉を動かずして躱してしまうような──本書は決して殴り返すような防衛はしない。なぜなら本書が名指す〈敵〉は先に述べた通りつねにすでに不在であり、影のように遠いからだ。一体不在のそれをどうやって殴ろうか。ならば収録句でもっとも意識すべきは《花柘榴拳固くらはずくらはせず》かもしれない──大きな隔たりを感じさせるものとなっている。
問題は、そのキッチュな装丁が、内容のエッジさを際立たせる以上に、その意図にかかわらず通俗性に接続されてしまい、商業的な装置になり得てしまうことだろう。本作の内容的な強度は微塵も疑わないのだが、果たして本作は、その装丁のもつ商業主義的な匂いに対して、どの程度の応答がなされているのだろう。

ボクがあなたに伝えたい話に戻る時間だ。別に野球に限ったことではないけれど、MLBは興行だ。どうしても商業的でもありうるし、ポピュリズムとは親和性があるし、政治が利用しようとすればとても便利な存在だろう。ボクはあなたに、やっぱり7月24日に行われたドジャースのホワイトハウス訪問について話さなければならないと思う。
優勝したスポーツチームがホワイトハウスを表敬訪問する慣習は野球に限らず見受けられる。19世紀後半に端を発し、1980年代以降に定例化したそれは、明らかにスポーツが政治利用されている瞬間だ。ホワイトハウスの職員がそのチームの優勝を真に寿いでいたとしても、そこでは、栄誉ある集団を祝福することによる、国民に対する体制側の持つ権威の、改めての周知が行われている。チーム側がホワイトハウスという権力を強く帯びた場を訪ね、迎えた権力者が祝辞を述べるという出来事は、権力者の存在を際立たせる〈儀礼〉に他ならない。加えて、チームが栄誉を得ているのみならず、その一員に他を凌駕する影響力を持った個人がいた場合、その〈儀礼〉はより強化されるだろう。その個人と権力者は、相互にその権威を承認しあってしまう。
このような背景を持っている以上、表敬訪問では意図にかかわらず政治性・党派性が強く機能する。それゆえ近年では選手個人が政治的な信条を理由として表敬訪問を辞退することが増えた。また、あくまで理由は「タイミングの都合」とされているが、NBAの2024-25シーズンチャンピオンであるOKCサンダーのように、チームそのものが表敬訪問を行わない選択をすることも出てきている。あるいは、トランプ政権第一期では、NFLのフィラデルフィア・イーグルスが表敬訪問を行うのに際し、多くの選手が辞退したことを受け、政権側から表敬訪問を中止したこともある。
そうした情勢に対して、MLBの球団ないし選手の仕草は、やや遅れた対応に感じる。その一因には野球文化がバスケットボールやアメリカンフットボールに比して白人選手の割合が多く、ファン層も含めて保守派と密接に結びついている背景もあるだろう。とはいえ社会情勢を踏まえれば、球団は、トランプという存在に対する距離感の問題をより繊細に捉えても良かったのではないか。
トランプと大谷のツーショット写真にボクやあなたが抱いた虚しさは、大谷の悪意によって生み出されたものではない。大半の人々がそう思っているように、おそらく大谷には善意もなければ悪意もなく、敵意もなければ好意もなく、彼はあくまで来た球を打ち返しただけであり、それが結果的にライトスタンドに突き刺さったにすぎない。けれど、大谷の立場は、現代において日本そのものとすら言えるほどのものだ──だからこそ国際問題を避けるために大谷は辞退できないのだ、という言説もあるが、納得できるものではない。むしろ国家の代表者としての側面を自覚的に有するのなら、断固とした暴力への反旗をあげるべきだった──。ボクやあなたも暴力に賛同しているかのように見える仕草を、一瞬でも晒してほしくなかったという切実な感情は、唾棄されてはならない。
例えばここで誰かが──意図の有無を問わず〈儀礼〉は執り行われてしまうということを無視しているが──、大谷にその意図はなく、責任の所在はトランプにあるという考え方によって大谷を擁護するとしたら、ボクやあなたはその危うさを指摘しなければならない。仮にその思考法をとるのであれば、そのとき大谷の免責を通じて、ボクやあなたといった非政治家たちから政治へ参与する権利を強く剥ぎ取ることになるし、また、トランプ当人に向けられたはずの責任は、トランプは直接手を下していない、であったり、トランプの思想は同時代的な諸構造によって発生したものだ、という理屈を通じて、ある諸存在を免責しながら続いてまた別の存在へとまったく転ぜられてしまう。ボクやあなたは政治に参与する権利──それは、死にたくない、殺したくないと叫び、それを実現しようとする権利も包含されている──を紛れもなく持つし、責任は別の存在に割り振られることで消しとられるものではない。また、責任の所在を他者に預け切ってしまうことは、ある当人の怒りや嘆きすらも、他者の所有物にしてしまう恐れすらある。
だからあるいは、大谷の仕草にとどまらず、スポーツ観戦をする際のボクやあなたの態度も罪の射程に入れながら、社会について考え続ける真摯さは大切なのだと言いたい。大谷に責任──その無感情がトランプの暴力に加担してしまった責任も、大谷即日本であるというような立場の責任も──を着せてしまっているのは間違いなくスポーツの商業主義的な、ポピュリズム的な側面を無批判に受け取ってきた側の責任でもある。知性的でありながら道徳的で生きるために、ボクやあなたは、とても大変なことかもしれないけれど、単に贔屓の勝利を切望するのではなく、せめて、興行スポーツという出来事の裏に隠れた複雑な諸問題、あるいは、興行スポーツが覆い隠してしまう社会の複雑な諸問題をどこかで忍耐強く意識し続ける必要がある。
野球は興行で、作品集はプロダクトだ。商業とともに生きてしまう。だからボクやあなたは、せめてその問題を意識し続けなければならない。どこかで誰かが泣いている──いや、泣き声さえも奪われている──のなら、そんなことをなんとかすべて失くせはしないかと夢想して、叫ぼう。スポーツには祈りの側面もあり、詩はそのための言葉になれる。

 

[ライタープロフィール]
田村奏天(たむら かなめ)
2000年、東京生まれ。立教大学文学研究科比較文明学専攻博士課程後期課程在籍、専門は近現代俳句。作家として、俳句・短歌・現代詩を中心に活動。別名義に「アトリエ ヒトノマ」。詩誌『透けやすい』同人、総合文芸同人誌『Rich』同人(Produce & Direction)。著書に『ヒトノマ』(七月堂、2024)。
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