近代神秘集:生きもの編 第13回 擬死――カナブンの条

 

擬死――カナブンの条

1 樹液の宴

わたしはコナラの幹にしがみついていた。
夜の森は静かだが、その内側では小さな奪い合いが続く。飴色の樹液が裂け目から滲み、熟れた果実のような甘い匂いが漂っていた。
樹皮に一対の鉤爪こうそう(脚の爪)を食い込ませ樹液を舐めていると、横から強い衝撃があった。

「おい、カナブン。そこは俺の場所だ」

青黄色の光沢を放つコガネムシが前脚でわたしを払い、ためらいもなく割り込んできた。

「流れているものに境目はないだろう」

「あるんだよ、カナブン。俺が先だ」

コガネムシが樹液をかき回し、足場が揺れる。
押し返しながら上を見ると、月は枝葉に遮られ、森の底には湿った闇が溜まっていた。
そのとき、頭上の糸が震えた。

「どちらも退かないなら、結論は出ないよ」

クモが糸を揺らしながら降りてきた。
幹の裏からはカマキリが現れ、低い声を出した。

「お前ら、騒ぎすぎだ」

遠くで羽音が重なり始める。森の空気が押し下げられるように震え、幹を抜ける振動が変わった。

「アオバズクだぞ。どうするんだ?」

「まだ距離があるな、カナブン」

羽音が急速に近づく。
コガネムシは一瞬だけ口を離し周囲を見回すが、すぐ戻った。

「擬死できるか、カナブン?」

「できるさ」

逃げではない。外れるための手だ。そう思っている自分に、そのとき気づいた。

「意味あるか?」

「場面によるよ、コガネムシ」

カマキリが鎌をわずかに揺らした。

「選べなくなったときが本番だ」

その刹那、頭上で羽音が弾けた。誰もが息を殺す。
わたしは鉤爪へ力を込め、ゆっくり樹液から口を離した。
宴は中断された。まだ終わってはいない。

 

2 昼のざわめき

光に押し上げられるようにして、わたしは目を覚ました。夜のあいだ幹を満たしていた湿り気は薄れ、朝の熱がゆっくり森へ降り始めている。コナラの樹皮は乾き、ざらつきが強くなっていた。
昨夜あれほど濃く流れていた樹液も、今は細い筋となって裂け目を伝うだけだ。甘い匂いは残っているが、深夜のような酩酊する重さはない。
昼の森は、夜とは違う意味で落ち着かない。見えすぎるのだ。葉の隙間から落ちる光が幹を白く照らし、そのたびに身体の輪郭が浮かび上がる。風が吹けば影が揺れ、脚の位置まで露わになる気がした。
わたしは幹へ腹を押しつけたまま触角で探る。昨夜とほとんど同じ場所に、コガネムシがしがみついている。

「まだいるのか、カナブン?」

声には疲れが混じっていたが、強がりも消えていない。樹液の近くに身体を寄せたまま、落ち着きなく上を気にしている。昨夜の押しの強さはなく、腹を低くしていつでも飛び退ける構えだ。

「簡単に捨てられるわけがないだろ」

「大胆だな」

森の奥でヒヨドリが鳴く。
乾いた声に合わせるように、コガネムシが低く言った。

「それとも、動けなかったか?」

わたしは鉤爪を裂け目へ掛け直す。

「動く理由がない」

「見えてないだけだ」

昼の光の中では、相手の触角の震えがよく分かる。昨夜より細かく短い。空気の変化を拾おうとしているのだ。
そのとき、幹の裏から緑の影が現れた。カマキリだった。
夜より輪郭が鋭く、薄い翅の筋まで見える。複眼には昼の光が硬く反射し、その視線だけが異様に落ち着いていた。

「昼は違う。見えるぞ」

同時に枝が揺れ、落ちた影が幹を滑る。コガネムシの脚が一瞬緩むが、すぐ掴み直した。

「来てる、カナブン」

わたしは触角を伏せ、身体を幹へ押しつけた。樹皮の凹凸が腹へはっきり伝わる。昼は視界が利きすぎ、何もかもが露出している気がして動けなくなる。
カマキリの問いには嘲りより確認の色が強い。

「擬死か?」

「近い」

風が止み、森のざわめきが一瞬沈む。
コガネムシは逃げる方向を探るが決めきれない。決めたときには、その方向へ遅れることを知っているのだ。

「動くなら今だ、カナブン」

だが、脚は幹に貼りついたまま、次の選択肢がどこにも見つからなかった。鉤爪を樹皮へ食い込ませたまま姿勢を保つ。
昼の光は残酷だ。夜なら誤魔化せる輪郭も、昼はすべて浮かび上がらせる。翅の線も脚の角度も触角の震えも、そこにいるという事実そのものも。
身動ぎすれば見つかる。だがじっとしていても見えている。その境界は曖昧だった。
頭上で葉が鳴り、枝を踏み換える重みが幹の内側へ鈍く響く。
コガネムシが息を詰め、カマキリは微動だにしない。
わたしはただ幹へ身体を押しつけ続けた。
昼は、見えすぎる。
だからこそ、どこまで不動を貫いてよいのか分からなくなるのだ。

 

3 落下

最初に来たのは風だった。
頭上の枝葉がざわりと鳴り、その直後、重い羽ばたきが空気を押し潰すように降ってくる。昼の光に満ちていた森が、一瞬暗く沈んだ。
来た。
そう理解するより先に、衝撃が幹を震わせた。
コガネムシの脚が滑る。
昨夜から幹に広がっていた樹液の跡だ。乾ききらなかった粘りが、踏み込んだ爪をわずかに狂わせた。
声にならない気配だけが漏れる。

「――っ」

奴は後脚を大きくばたつかせ、体勢を立て直そうとした。だが遅い。踏み換えるより早く、影が上から覆いかぶさる。
鋭いくちばしが、背を深くはさんだ。
硬い殻が軋む音がした。
見ると、コガネムシの身体が浮き上がった。脚が空を掻き、触角が激しく震えた。必死に幹を探っている。しかし、もう何も掴めない。
空気の輪郭がわずかに歪み、そのまま闇色の羽の中へ消えていく。
最後まで動きだけは速かった。だが、その速さごと持ち去られた。
残された幹が、妙に寂しかった。
あれほど強く割り込んできたのに、終わりはあっけなかった。その沈鬱さが、わたしの殻の内側にまで入り込んだ。
次はわたしの番だ。そうなるはずだった。
頭では分かっているのに、身体は動かなかった。いや、動けなかったと言うべきかもしれない。
風が来る。
巨大な羽ばたきがすぐ横を通り抜け、幹の表面を強く叩いた。空気そのものが押し流され、脚の感覚が浮く。
掴んでいたはずの樹皮が、不意に遠くなる。
身体が外れた。落ちる――わたしは何もしなかった。
前翅を閉じる。脚を引き寄せる。腹を丸め、身体を固く縮める。
抵抗もしない。
飛ぼうとも思わなかった。ただ、落ちていく。
光が揺れる。
枝葉の隙間が流れ、昼の空が何度も反転する。幹が遠ざかり、代わりに湿った地面の匂いが近づいてきた。
風だけが耳の周りで鳴っている。
自分がどこまで落ちているのか、もう分からない。
やがて衝撃が来た。
枯葉の層へ身体が沈み込み、その下の湿った土が鈍く受け止める。殻の内側へ、遅れて重さが響いた。
それでも、わたしは身じろぎしなかった。脚の一本すら震わせない。
触角も伏せたまま、ただ身体を閉じている。
上ではまだ羽音が続いていた。
枝が揺れ、葉が擦れ、何か硬いものを砕く音が混ざる。だが、その気配は少しずつ遠ざかっていく。
落ち葉の隙間から見える空は細かった。
光は届いているのに、ここには別の暗さがある。
土の匂い。腐った葉の湿り。見えないものがうごめいている気配。
地面は、樹の上とは違う。
ここでは静謐のものから順に、土へ近づいていく。
そのことを思い出しながらも、わたしはまだ微動だにしなかった。
動けば、生きていると見なされる。だが、硬直していれば――。
世界の流れから一度だけ外れる。擬死とは、その短い断絶のことだ。
そこまで考えたところで、頭上の羽音が完全に遠ざかった。
森に、自若さが戻ってくる。
落ち葉に沈んだ姿勢のまま、気配だけが地面へ溶けていった。

 

4 地面の湿り

落下の余韻が、殻の内側でゆっくり揺れていた。
動く気配も、迫る気配もない。ただ、落ち葉の重みと、土の匂いが秘かに積もっていく。
時間さえも薄くなる。
わたしは沈んでいた。逃げるでもなく、抗うでもなく、ただ沈むという形だけが残っていた。脚をわずかに曲げれば、それだけで全身が軋みそうだ。
頭上では枝葉が揺れている。
立っているはずの音も、地面まで届くころには遠く、くぐもった響きへ変わっていた。
樹の上にいたときとは空気が違う。ここには湿りが沈殿している。腐った葉の匂い、湿った土の匂い、古い樹液が発酵したような甘い臭気。それらが幾層にも重なり、重く低い空気になっていた。
地面では、止まったら分解される――この実感が、じわじわと身体へ染み込んでくる。
わたしは前翅を閉じたまま、触角も伏せていた。落葉の陰へ半ば埋もれた姿勢で、ただ形だけを残している。
やがて、小さな振動が近づいてきた。
乾いた脚音。アリだ。
最初の一匹が、わたしの前脚へ触れる。細い脚先が殻をなぞり、そのまま離れた。かと思えば、別の角度からまた触れてくる。
触れて、離れ、また触れる。そのさばきには迷いがない。
さながら、こちらの境界を測っているかのようだった。
――検分されている。
そう思ったとたん、身体の内側が強く縮こまる。全脚が固まった。
わずかでも脚を引けば、発覚する。
アリたちは匂いを確かめるように触角を震わせ、わたしの身体の縁を何度も往復した。そのたびに、小さな脚が殻の継ぎ目へ入り込む。硬さや隙間を調べているのが分かる。
地面は近すぎた。
樹の上では距離があった。危険は上空から降ってきても、まだ逃げる余白があった。
だがここでは違う。触れられる。そのこと自体が恐ろしい。
土の下で何かが動いた。
湿った感触が落葉の層を押し上げ、柔らかく太いものが近くを通っていく。ミミズだろうか。地面そのものが呼吸しているように、枯葉がゆっくり持ち上がる。
わたしの身体もわずかに浮いた。
それでも固着だ。なされるまま、揺れへ身を任せる。
時間の感覚が曖昧になっていく。
どれほどそうしていたのか分からない。
やがて、アリたちの態度が変わった。触れるだけではなくなったのだ。
押す。持ち上げる。引く。
複数の脚が同時に身体へ掛かり、わたしを運べるものとして扱い始める。
全身の奥で、反射が跳ねた。後脚が、ほんのわずか震えてしまう。
――しまった。
そう思うより早く、鋭い痛みが走った。アリが噛みついたのだ。
脚の節へ食いつき、硬い顎で締め上げる。さらに別の一匹が翅の縁へ取りつき、身体を固定しようとする。
――見抜かれた。
擬死が破れた。
その理解だけが、熱のように広がる。だが、ここで暴れれば終わる。脚を振れば、さらに集まる。下手すれば、蟻酸をかけられて仮死状態にされるだろう。
飛ぼうとしても、落葉に絡まる。
身体の内側で焦りが膨らんでいくのに、わたしはなお身を起こせなかった。
湿った土の匂いが強くなる。
落葉の隙間の暗がりで、無数の小さな気配に覆われた。
ここでは、生きていることより、崩れていくことのほうが自然なのだ。

 

5 夜の再会

どれほど長く静止していたのか、自分でも分からなかった。
仰向けでアリたちに乾いた地面まで運ばれた。周りに落ち葉もない。きっと巣の近くだ。
わたしはじっとしたまま、日が暮れるのを待った。夜気が地面へ降りるにつれ、見られている感覚は弱くなった。
そこで初めて体勢を変えた。身体を起こし、ほんの一瞬だけ前翅を開く。閉じ込められていた後翅がかすかに震え、湿った空気が翅膜を撫でた。その感触に自分でも驚く。飛べそうだ。
脚を踏み直す。後翅を振って土を離れると、身体が軽くなる。地面が遠ざかった。
慌てたアリたちはわたしの脚に噛みついたが、上空まで連れていった。
暗闇の中でコナラの幹が見えた。夜露を吸った樹皮は黒く湿り、ところどころに樹液の光が鈍く浮かぶ。
わたしは同じ幹へ戻った。脚が触れて、粒立ちの感触が身体中へ広がり、ようやく輪郭が戻った気がした。
樹皮に鉤爪を食いこませると、連れ戻ったアリたちを、丁寧に脚から外した。
いきなりカマキリの声が立った。

「戻ったか、カナブン?」

昨夜とほとんど変わらぬ位置に張りつき、幹と一体になったように息を潜める。だが複眼は正確にこちらを捉えていた。

「まだいたのか、カマキリ?」

「いるさ。動けるうちはな」

感情は薄く、ただ事実だけが置かれている。
上ではクモが糸を張り直していた。細い糸が月明かりで銀色に浮かび、クモは切れた部分を一本ずつ繋いでいく。
カマキリが続けた。

「生きてるのは少ないよ。何匹か食われた」

軽い声が糸の上から落ちた。

「残りは逃げた」

樹液場の空気は昨夜とは違って、虚しすぎる。あれほど重なっていた翅音が少なく、幹に集まる気配もまばらだ。樹液は流れているのに、群がる個体が減っている。
わたしは幹の端へ移動した。短く歩き、止まり、また少し進む。ひとつの場所へ身体を固定しない。逃げ道を残すように脚の掛け方を変える。地面で学んだことが、まだ身体に残っていた。
不動だけでは足りない。止まったものから触れられるからだ。
上空で羽音がした。身体が反射的に硬くなる。影が幹を横切り、わたしの前を通り過ぎて反対側へ降りた。直後、小さな羽音が短く途切れる。何かが捕まったのだ。
クモが糸の上で揺れた。

「それ、追いにくいね」

誰に向けた言葉か分からない。
カマキリは黙ったまま鎌を畳み、ただ待っている。いわば、隠行だ。
その静寂の中で、わたしだけがわずかに脚をずらした。
距離が保たれていた。それが重要だった。
目で身体の輪郭が特定されれば、次には掴まれる運命だ。地面ではアリがそうで、上空では鳥がそうだ。
気づかれないのではない。そこにいないことになる。それが擬死に近い。だが完全ではない。見つかる場所にいる限り、いつかは拾われる。
外れ続けなければならない。位置から、視線から、触れられる順番から。
樹液の匂いが夜気の中でゆっくり広がっていた。その甘さの周囲を、わたしたちは黙ったまま漂っている。生き残った者だけが、まだ幹へしがみついていた。

 

6 崩れる均衡

わたしは幹の裂け目へ鉤爪を掛けた。夜露を吸った樹皮は冷たく、荒れ肌の奥に湿りが残っている。爪先で繊維が軋み、その感触が遅れて返ってきた。
掴んだはずなのに、その確かさだけが遠い。触れた感覚と身体が止まった感覚がわずかにずれている。わたしは脚を止めた。
上ではクモが糸を張り直していた。昨夜より網は粗く、切れた箇所を繋ぎながら忙しく働いている。だが不意に脚が止まった。

「揺れてるぜ、カナブン」

クモが糸を弾くと、震えが網全体へ広がる。

「一点じゃない。広い範囲だ」

横ではカマキリが首を傾け、触角が空気を探っていた。

「もう入ってるな、くも」

強い風圧が襲ってきた。空気が横殴りに叩きつけ、幹が揺れる。枝葉が鳴り、わたしの身体も樹皮へ押しつけられた。
クモの糸が大きくたわむ。

「切れる!」

乾いた音とともに一本の糸が弾け、網が歪む。
クモは別の糸へ移ろうとしたが、横殴りの風にさらわれた。空中で脚をばたつかせたが掴めず、闇へ消えた。残った糸だけが揺れている。
カマキリは驚きもなく言った。

「一つ消えた」

順番を数えるようだった。
カマキリが一歩前へ出る。鎌がわずかに開き、複眼が上空を追う。踏み込み、鎌を伸ばす。狙いは正確だったが、横から別の風が叩きつけた。前脚が外れ、衝撃が来る。重い何かが頭部へぶつかり、身体が浮いた。

「来た」

それだけ残し、カマキリも闇へ消えた。葉が少し揺れ、すぐ元に沈んだ。
残ったのはわたしだけだった。
逃げるでもなく、留まるでもなく、ただ外れ続けの構えを保つ自分に気づいた。
背後で羽音が膨らむ。近い。空気の圧が背へ触れ、幹が震える。
わたしは即座に判断した。
――気配を消す。
鉤爪を深く押し込み、腹を幹へ密着させ、触角を伏せる。風が横をかすめ、身体がずれるが離れない。焼けるような感覚だった。
すぐ近くで別の羽音が暴れ、小さな甲虫が引き剥がされていく。
だが風はわたしを避けるように流れた。
羽音が旋回し、探っている。やがて遠ざかり、枝先が二度揺れた。何かが止まり直した重みだ。遠くで殻を砕く音が響く。
わたしは鉤爪の力を緩めたが、安心は来ない。平伏が遅れて染み込む。

「終わったか?」

答えはない。切れた糸だけが揺れている。
脚を掴み直す。まだ震えていた。

「違う。外れただけだ」

風は止んでいる。だが幹の奥には振動が残っていた。残ったのではない。見えていなかっただけだ。
時間だけが伸び、身体はその端に置き去りにされたままだった。
だがそれは先ほどの静止とは違う。見られているあいだ、位置が固定されたものから狙われる。だがさっきは、触れられる瞬間まで「そこにある」と定まっていなかった。
だから外れた。
そう思うと、幹の粗目が再び遅れて爪先へ返ってきた。

 

7 残らない位置

幹のひび割れが、触れたあとでゆっくり形を持つ。わたしは脚を止めた。
夜の森は一見寂莫せきばくだが、奥では翅音や枝葉のこすれる音が絶えず流れ、樹液の甘い匂いも漂っている。
その中で、わたしだけが嚙み合っていないようだった。行為の前に、動いたあとの気配が先に立つ。位置があとから追いついてくる。
わたしはゆっくり一歩上へ進んだ。爪が樹皮をつかみ、凸凹が返る。止まった感覚が遅れてくる。身体は次へ移ろうとしているのに、前の位置がまだ残っていた。

「ずれている」

前は、ただ樹液を奪われまいと踏ん張っていた。今は違う。踏ん張れば狙われる。ずれる体勢そのものが、生き延びる形になっていた。
気配が揺れた瞬間、上空で羽音が止まる。わたしは反射的に身を伏せた。何かがいる。気配が幹を撫でているが、視線は定まっていない。探しているのに焦点が合っていない。
触角を振る。風はあり、匂いもある。だが距離の感覚が曖昧だ。近いのか遠いのか、頭上か横か、位置そのものがぼやけている。
さらに一歩踏み出す。頼れるのは鉤爪の感触だけだった。
隙間を小さな影が横切る。アリだ。地面から登ってきたのだろう。黒い身体が忙しく震え、わたしの脚の脇を通り過ぎる。だが触れない。すぐそばなのに、こちらへ気づかない。
わたしは不動堅固に徹した。いや、動いているのか止まっているのか、自分でも曖昧になっていた。
再び羽音が鳴る。今度は近い。風が降り、葉が揺れ、幹を冷たい空気が滑る。だが影は止まらず、わたしの上をかすめて通り過ぎる。探しているが掴めていない。
脚の力を少し緩める。完全に抜けば落ちる。それだけは確かだ。重さだけが、まだ身体をここへ繋ぎ止めている。

「ここにいる」

自分への確認だった。

だが、その確認はいつも遅れる。位置は先に決まらず、あとから追いつく。
だから狙われる形にならない。動きの中で、ようやく輪郭が定まる。
その感覚が、ぼんやり広がっていた。
どこにもいないはずの視線が、少し遅れて幹を通り過ぎる。
わたしはそれ以上静謐を乱さなかった。
いや――未動の構えだけが、あとから型として残った。

 

8 見られない状態

静けさが、まだ身体の奥に残っていた。休息ではなく、長く息を止めたあとの痺れに近い。凝固の苦しみだ。脚を少し曲げるだけで、平穏が崩れそうだった。
わたしは幹へ身体を寄せたまま触角を振る。風は一定で、夜気が上から下へ流れている。樹液の甘い匂いも薄く広がり、生き物を呼び寄せていた。
遠くで翅音が重なるが、この幹の周囲だけは森閑としている。切れた糸も、カマキリの姿もない。生き残ったものさえ去ったあとの虚無が残っていた。

「見られていない」

呟いても確信はなかった。
ただ視線の重みが薄れている。頭上からの圧が弱い。それだけだった。
前脚をわずかに曲げ、すぐ止める。奇妙な感覚が走る。
微動の後の、止まった感覚が同時に来ない。先に身体だけが移動し、あとから《そこにいる》という輪郭が追いついてくる。
そのとき、淡い光が走った。細長く鋭い光が幹を照らす。
月明かりではない。光は揺れながら横切り、わたしの上で一度止まりかけたが、輪郭を撫でて滑っていった。幹の荒れ肌が白く浮かび、わたし自身は半歩ずれた場所にいるようだった。
遠くで人間の声がした。

「まだいるのか?」

巨大な気配が枝葉を揺らし、光が再び幹をなぞる。今度は近い。白い筋が触角をかすめ、前翅の縁を照らす。
ほんの一瞬、輪郭が浮かび上がり、身体が反応する。逃げる準備だった。だがすぐ力を戻す。
身じろぎ一つで、均衡が崩れるのが分かった――
いや、違う。ただの凝固だけでは足りない。
理解が熱のように広がった。
擬死とは、動かないことではない。見つからないままでいることだ。
視線が触れても位置が定まらず、輪郭を照らされても、そこにいると確定されない。だから外れる。
光は幹を滑り続けるが、わたしを掴めない。少し遅れて通り過ぎていくだけだ。
やがて光が離れ、人間の足音も遠ざかる。気配が払われた。
わたしは凝固を解かなかった。
しかしその未動は以前とは違う。
視線から外れ続けるように、位置そのものが曖昧になっている。
幹へ触れている感覚が、遅れて身体へ残った。

 

9 記録のない反復

青白い光が遠くで揺れていた。夜の森を漂うように泳ぎ、枝葉の隙間へ滲んでは消える。そのたび幹がかすかに照り返した。人間の持つ光だ。
昼間と同じ種類なのに、今は冷たく、どこか湿った熱を含んで見えた。
わたしは幹へ身体を押しつけたまま、その揺れを見ていた。本来なら気配を伏せるべきだったが、その光には別の反応が生まれていた。触角がわずかに上向き、前翅が少し開く。飛ぶためではない。逆だ。引き寄せられている。
光が揺れるたび、殻の内側がざわつく。危険とは違う、もっと深いところを掻き回される感覚だった。
遠くで翅音が重なる。何匹もの甲虫が光の周囲でぶつかり合い、軌道を乱しながら旋回している。硬い音が混ざり、殻がぶつかるか砕ける音が響く。それでも集まっていく。
わたしは触角を伏せようとしたが、身体の内側が先に反応してしまう。幹を掴む鉤爪にも力が入りにくくなっていく。光へ向かいたい。その衝動がむくむくと膨らんでいた。

「違う」

掠れた声が漏れる。
擬死は保たれているはずだった。視線から外れ、位置を曖昧にし、見つからない状態に近づいていた。
なのに今は、自分から輪郭を作ろうとしている。見つかる側へ寄っていこうとしている。
光が揺れるたび、後翅が震えた。止められない。外から刺激されているのではなく、内側が先に開いている。
また翅音が弾け、何かが光へぶつかり落ちていく。
だがすぐ別の翅音が重なる。同じ軌道、同じ衝突、同じ失敗が繰り返されている。
誰も記録していない反復だ。
光へ向かったものは、輪郭を持ちすぎて砕ける。形が定まりすぎた瞬間、外れられなくなるのだ。
わたしは幹へ額を押しつけた。ざらつきが遅れて触角へ返る。

「これは」

言葉が続かない。擬死が破れた。その理解だけがはっきりしていた。
原因は外ではない。鳥でも風でもない。わたし自身だ。
不動で外れていた輪郭が、内側から再び形を持ち始めている。
見つかりたいわけではない。それでも引き寄せられる。
光はなお、遠くで揺れていた。

 

10 穴

光が消えた。突然だった。
ついさっきまで森の奥で揺れていた青白い光が、不意に断ち切られる。残像が葉の隙間へ薄く残り、そのあと、闇が一気に濃くなった。
夜の森が沈む。
音までも深く吸い込まれ、羽音さえ遠くなる。
幹へ身体を預けたまま、しばらく呼吸の拍子すら変わらなかった。
光へ引かれていた感覚が、まだ殻の内側に残っている。後翅の震えも完全には収まっていない。だが、その熱は少しずつ冷えていった。
沈静が戻る。
すると今度は、別のものが浮かび上がってきた。
幹の輪郭だ。
暗闇の底で、コナラの表面がゆっくり形を持ち始める。
ささくれた粗面。裂け目。乾きかけた樹液の筋。
触れている部分が、遅れて確かになっていく。
わたしは前脚を一歩進めた。爪が樹皮へ掛かる。
そのとき、感触がはっきり返ってきた。
今までとは違う。
触れてから遅れて理解するのではない。接触と存在が、同時に重なっている。
その感覚に、わたしは一瞬身を引き締めた。
脳裏で、鋭い閃きが走る。
先に位置があり、あとから触れるのではない。
そこへ合ったものだけが残る。
合わなかったものは、最初から存在しなかったように外れていく。
そういうことだったのかもしれない。
頭上で羽音が止まった。真上だ。
巨大な気配が枝を軋ませ、夜気がわずかに沈む。だが、何も降りてこない。
わたしはまだ同じ姿勢だ。
いや、凝固静止というより、輪郭を強く定めないまま幹へ沿っている。
数瞬のあと、羽音が離れた。
枝葉が揺れ、気配は別の方向へ流れていった。
わたしはゆっくり触角を上げる。
風がわたしを撫でたが、触れた感触を持たなかった。あたかも、わたしの輪郭を避けるように、風のほうから外れていった。
闇の中に、青白い点がいくつも浮かんでいた。
最初は、錯覚かと思った。よく見ると、違う。
小さな光点が森の奥に滲み、それぞれがわずかに揺れている。人間の灯りなのか、別の虫の反射なのか、分からない。
ただ、そのすべてがこちらを向きかけていた。見られる気配だけが増えていく。
わたしはさらに一歩進んだ。物音を立てずに。
樹皮の裂け目を選び、影の重なる角度をなぞるように鉤爪を置く。
見つからない角度だけを、そっと辿っていく。
頭上を影が横切る。羽音は止まらない。しかし、降りてこない。
わたしの輪郭が、そこへ固定されない。
脚を前に出すたび、世界の形が少しずつ決まっていく。
先に世界があるのではない。触れたものだけが残る。
選んだのではない。ただ、外れなかった。
その結果だけが、あとに残る。
わたしは止まった。だが、それは静止ではなかった。
動かなかった時間の痕跡が、まだ身体の外側へ薄くまとわりついている。
落葉の湿り。樹皮の干からび。光から外れ続けた輪郭。
それらが殻の周囲に薄い膜のように残り、わたしの位置を曖昧にしていた。
遠くで、また羽音がした。
だが今度は、こちらへ降りてこない。
気配だけが幹をかすめ、そのまま通り過ぎていく。
わたしは触角をゆっくり伏せた。
夜気は冷えている。
コナラの奥では、細くなった樹液がまだ流れていた。
その甘い匂いが、闇の底で途切れず続いている。
森は何も変わっていない。
狩るものも、食われるものも、なお迷走し続けている。
ただ、わたしだけが少し外れていた。
見つからない位置に、なお留まり続けた。

 

 

[ライタープロフィール]

野上勝彦(のがみ かつひこ)

1946年6月、宮崎県都城市生まれ。10歳の秋、志賀直哉と出会い、感銘を受ける。20歳のとき関節リウマチを発症、慶應義塾大学独文科を中退。数年間、湯治に専念。画家になるか作家になるか迷った末、作家になろうと決める。長編小説20編以上の準備をするが、短編小説数編しか発表できず。31歳のとき、文学を学び直すため、早稲田大学第二文学部に入学。13年浪人という形になった。英文学専攻、シェイクスピア学を中心に学ぶ。足かけ5年間、イギリスに留学。留学中父親を亡くす。詩人のグループに属し、英詩を書き、好評を得る。1989年末、帰国。教員となる。2010年、本務校を退職。同僚先輩から借りた本代1000万円を完済。2017年、非常勤講師をすべて定年退職。2018年、最初の評論集が『朝日新聞』書評欄で取り上げられる。最初の長編小説を完成させたのが2019年。いずれも出版に際し、グリム童話研究家金成陽一氏の紹介により河野和憲社長(当時編集部長)のお世話になって、現在に至る。12歳の時、最初の短編小説を書いて以降、題材を2000本以上書き留める。題材帳をもとに短編・掌編の執筆戦略を練り、2024年10月下旬から25年10月下旬までの1年間で、1700作を書く。現在、未発表短編1900作を数える。

【単著】『〈創造〉の秘密――シェイクスピアとカフカとコンラッドの場合』彩流社、2018年。『暁の新月――ザ・グレート・ゲームの狭間で』彩流社、2019年。『始源の火――雲南夢幻』彩流社、2020年。『疾駆する白象――ザ・グレート・ゲーム東漸』彩流社、2021年。『マカオ黒帯団』彩流社、2022年。『無限遠点――ザ・グレート・ゲーム浸潤』彩流社、2023年。

【共著】『シェイクスピア大事典』日本図書センター、2002年。『ことばと文化のシェイクスピア』早稲田大学出版部、2007年。The Collected Works of John Ford, Vol. IV, Oxford: Oxford University Press, 2023.

【論文】‘The Rationalization of Conflicts of John Ford’s The Ladys Trial’,Studies in English Literature, 1500-1900,32,341-59,1992年、など37本。詳細についてはウェブサイトresearchmapを参照。

【連載】『近代神秘集:生きもの編』、ウェブマガジン『彩マガ』彩流社、2025年4月16日より。

 

 

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