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[プロフィール]
聞き手・木村英昭 (きむら・ひであき) ジャーナリスト。ジャーナリズムNGOワセダクロニクル編集幹事。朝日新聞社を2017年8月に退社、早大を拠点にしたジャーナリズムプロジェクトの立ち上げに参加、現在に至る。
語り手・三輪祐児 (みわ・ゆうじ) 1953年生まれ。市民放送局UPLAN代表。東日本大震災を契機にジャーナリズム活動を開始。3500本以上の動画をYouTubeにアップし続ける。
【彩流社刊行関連書籍】
海渡雄一 編著、福島原発刑事訴訟支援団、福島原発告訴団 監修『東電刑事裁判で明らかになったこと』(A5判96ページ、1,000円+税)
海渡雄一 著、福島原発告訴団 監修『市民が明らかにした福島原発事故の真実』(A5判95ページ、1,000円+税)
海渡雄一、河合弘之、原発事故情報公開原告団・弁護団 著『朝日新聞「吉田調書報道」は誤報ではない』(A5判207ページ、1,600円+税)
七沢潔 著『テレビと原発報道の60年』(四六判227ページ、1,900円+税)
棚澤明子 著『福島のお母さん、いま、希望は見えますか?』(四六判232ページ、1,800円+税)
棚澤明子 著『福島のお母さん、聞かせて、その小さな声を』(四六判224ページ、1,800円+税)
山本宗補 写真、関 久雄 詩『なじょすべ』(A5判112ページ、1,800円+税)
原発「吉田調書」報道を考える読者の会と仲間たち 編著『誤報じゃないのになぜ取り消したの?』(A5判95ページ、1,000円+税)]]>
* * *
小学生の頃は電通の社宅で暮らしていた。現在の半蔵門病院(東京都千代田区麹町1丁目)のあるあたりだ。4階建ての3階。6畳2間の風呂なしの部屋だった。父と母、妹の家族4人で住んでいた。 家庭の食卓で交わした会話を今もはっきりと覚えている。 「5000円で車椅子に乗っている人間をデモ隊の前で転ばせて、それを隠しカメラで写し、『暴行するデモ隊』っていう記事を週刊誌に載せた」 「電通の社員に5000円を渡して、『赤提灯で美濃部の悪口を言え』と頼んでた。『美濃部は女囲っている』『横領している』と」 父は1971年には東京都知事選挙に立候補した、元警視総監の秦野章を応援していた。「革新都政」と呼ばれた美濃部亮吉の対抗馬だった。 食事をしながら「うまくいった」と成功談として語る父に、母は「あなた、そんな話やめてちょうだい」とたしなめた。 三輪の父は、とにかく新聞記者と弁護士が大嫌いだった。「あいつら」と呼んでいた。 テレビのニュース番組を見ながら悪態をつくこともしばしばだった。 「企業から金をとって、デモ隊と弁護士、新聞記者と山分けしているんだ。あいつら共産党だ。金のための汚いことを平気でやるやつらだ」 「水俣病の支援者は日当5000円をもらっている。金が目当てで、悪事を働く奴らだ。デモをする奴らは。会社に押しかけて権利を奪われたとい、真面目な会社を脅して金をもらっている」 「デモ隊にブスが多いのは、美人はいい会社に採用されるからその恨みで大企業にデモをするんだ。その金に群がるのが弁護士と新聞記者だ」 父がなぜそんなことを言っていたのか、三輪は父の言葉を聴きながら、理由はよくわからなかった。父が口癖のように言っていた言葉を覚えている。 「あいつらは金が目当てだ。大企業へのゆすりたかりをする。証拠はある。そうとしか考えられない。それが証拠だ」——。 三輪は「嫌ないやつらを俺たちはやっつける、やっつけるんだからどんな汚い手を使っていいんだ、正義だから許されるはずだ、と本気で思っていた」と生前の父を思う。 「父は〈正義〉をやっていた。本気でそう信じていたんです」 =敬称略 =つづく [プロフィール] 聞き手・木村英昭 (きむら・ひであき) ジャーナリスト。ジャーナリズムNGOワセダクロニクル編集幹事。朝日新聞社を2017年8月に退社、早大を拠点にしたジャーナリズムプロジェクトの立ち上げに参加、現在に至る。 語り手・三輪祐児 (みわ・ゆうじ) 1953年生まれ。市民放送局UPLAN代表。東日本大震災を契機にジャーナリズム活動を開始。3500本以上の動画をYouTubeにアップし続ける。 【彩流社刊行関連書籍】
海渡雄一 編著、福島原発刑事訴訟支援団、福島原発告訴団 監修『東電刑事裁判で明らかになったこと』(A5判96ページ、1,000円+税)
海渡雄一 著、福島原発告訴団 監修『市民が明らかにした福島原発事故の真実』(A5判95ページ、1,000円+税)
海渡雄一、河合弘之、原発事故情報公開原告団・弁護団 著『朝日新聞「吉田調書報道」は誤報ではない』(A5判207ページ、1,600円+税)
七沢潔 著『テレビと原発報道の60年』(四六判227ページ、1,900円+税)
棚澤明子 著『福島のお母さん、いま、希望は見えますか?』(四六判232ページ、1,800円+税)
棚澤明子 著『福島のお母さん、聞かせて、その小さな声を』(四六判224ページ、1,800円+税)
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正巳は1925年5月28日、鳥取県南西部にある、山あいの集落、黒坂村(現在の日野町)(*1)で生まれた。岡山県倉敷市と山陰地方の商都・鳥取県米子市を結ぶ伯備線沿いにあり、鳥取県内最大の河川、日野川(全長77キロ)の中流域の左岸に位置する集落だった。旧黒坂村にあたる地域には現在、429世帯・975人(*2)。最盛期の1950年には3578人が暮らした(*)。『角川地名大辞典』によれば、黒坂という地名は「周囲に9つの坂道がありこれを九路坂と称したことにちなむ」そうだ。その名の通り、今も周囲を山々に囲まれ、それはそれは、のどかな時間が流れている。 正巳が生まれたのはそんな集落だった。大正デモクラシーの自由の息吹が息を潜め出し、軍靴の足音が次第に鳴り始める時代だ。治安維持法が制定されたのも、正巳が生まれたこの年だ。しかし、中央での動きが軌を一にするように黒坂の地に届いたかは、わからない。 正巳はこの黒坂の名士の家に生まれた。この地域の大庄屋だった。私家版の『高島健之助・久恵をめぐる人々』(1985年)には三輪家の家系図も載っており、三輪家に残るこんな言い伝えが記述されている。 〈初代甚兵衛より大庄屋として黒坂最古の家柄をほこる。甚兵衛は自費をもって、上菅(かみすげ)から甚兵衛井手(注:用水路のこと)を開削し多くの田地を開いたという。明治以来四代伴吉が黒坂郵便局長となり、六代義胤まで勤めていた。〉 「六代義胤は父の兄で、父は七人兄弟の五男だった。父と家族でお墓参りに行ったことがあって、三輪家の墓はものすごく大きい。よく父は『黒坂は土葬だから、その下に樽が埋まってんだ。腐ってくると、その上を歩いた人がボコッと落ちることもあった。人魂が光っていたことがある』なんていっていた」 この義胤は大酒飲みだったようで、一代で三輪家の身代を食いつぶしたようだ。だから、物心がつくまでは正巳は「名士の坊ちゃん」として不自由のない暮らしをしていたはずだ。そして、兄の義胤の放蕩で家が傾いていく様を、身をもって体験したことになる。 「父は酒を飲む人をものすごく嫌っていた。そして、働かないで金を受給する生活保護者を『パチンコと酒飲んで金もらっている』と憎悪していた。この憎悪は、たぶん義胤のことがあったからなんだろうと思う」 私たちは黒坂を訪ねることにした。 =敬称略 =つづく 〈脚注〉 *1 1913年に黒坂村と菅福村が合併して黒坂村になった。その後、この黒坂村は黒坂町になり、1959年に日野町と合併して現在の日野町に至っている。 *2 2019年10月末現在。。鳥取県日野町役場住民課への電話取材、2019年11月12日。 *3 鳥取県日野町役場住民課への電話取材、2019年11月12日。 [プロフィール] 聞き手・木村英昭 (きむら・ひであき) ジャーナリスト。ジャーナリズムNGOワセダクロニクル編集幹事。朝日新聞社を2017年8月に退社、早大を拠点にしたジャーナリズムプロジェクトの立ち上げに参加(2018年に早大から独立)、現在に至る。 語り手・三輪祐児 (みわ・ゆうじ) 1953年生まれ。市民放送局市民放送局UPLAN代表。東日本大震災を契機にジャーナリズム活動を開始。3500本以上の動画をYouTubeにアップし続ける。 【彩流社刊行関連書籍】
海渡雄一 編著、福島原発刑事訴訟支援団、福島原発告訴団 監修『東電刑事裁判で明らかになったこと』(A5判96ページ、1,000円+税)
海渡雄一 著、福島原発告訴団 監修『市民が明らかにした福島原発事故の真実』(A5判95ページ、1,000円+税)
海渡雄一、河合弘之、原発事故情報公開原告団・弁護団 著『朝日新聞「吉田調書報道」は誤報ではない』(A5判207ページ、1,600円+税)
七沢潔 著『テレビと原発報道の60年』(四六判227ページ、1,900円+税)
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木村英昭
電通に勤めていた三輪祐児の父、正巳(まさみ)は反原発運動つぶしに関与していたのか──。私たちは正巳が生まれ、育った地に立った(*1)。*
[caption id="attachment_500025" align="alignnone" width="640" caption="日野川に沿って広がる黒坂の集落=2019年12月20日、鳥取県日野町黒坂"]
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そこは鳥取県の南西部の山あいの里、日野郡日野町の黒坂地区。鳥取県を代表する一級河川、日野川が大きくうねる。鳥取県の商業都市・米子市と岡山市を南北に結ぶ伯備線が日野川に併走する。1時間に数本、電車がガタゴトンと走る。429世帯975人が暮らしている(*2)。
まずは、黒坂の歴史をざっと遡ってみよう。
黒坂の隣にある根雨(ねう)地区が、江戸期の参勤交代の宿場町として賑わい、良質なタタラ製鉄の一大拠点として栄えた「商業の町」なら、ここ黒坂は鏡山城(かがみやまじょう)を中心にした城下町だった。
黒坂で近世の扉が開かれたのは1632年(寛永9年)。この年に池田光仲(1630-1693)が岡山藩から国替えになり、鳥取城へ移った。鳥取藩の中西部にある拠点の町は「自分手(じぶんて)政治」で統治された。藩主が統治するのではなく、藩の家老の家筋に当たる重臣(着座家)が統治を任された。この「自分手政治」は米子(西部)と倉吉(中部)の拠点地域のほか、それに準じる町でも実施され、その一つが黒坂だった(*3)。全国でも例のない統治方法だった。廃藩置県までの約240年間続いた。
藩政から完全に独立したものではなかったが、それでも藩主の重石(おもし)がないものだから、人の往来を促し、自由な気風を育んだのかもしれない(*4)。
黒坂は福田氏が治めた。福田氏は藩主の家臣ではあったが、着座家ではなかった。なのに「自分手政治」の任に就いた(*5)。福田氏は黒坂陣屋に家老や城奉行を置いた(*6)。
三輪祐児の父、正巳の3世代前のご先祖様、甚兵衛は1817(文化14)年 に生まれた。江戸の中期、9代将軍徳川家重が亡くなる前年だ。田沼意次が老中として幕政に影響力を持った時代、と言ったほうがイメージしやすいかもしれない。
そして、その江戸からはるか遠く離れた黒坂の地に、甚兵衛は根を下ろした。理由はよくわからないが、近くの野田地区(旧日野村)から移り住んだそうだ。甚兵衛は後に、黒坂での功績を称えられて「三輪」の姓を与えられる。鳥取県公文書館には「三輪家文書」の資料が残るほどの名士となった。
はたして正巳はどのようにして「天皇と科学技術の信奉者」になったのか。それを知るためには、甚兵衛のことから書き始めなくてはならない。
三輪甚兵衛。三輪家隆興の祖にして、功徳の人。黒坂の地で、その名を知らぬものはいなかった。
[caption id="attachment_500025" align="alignnone" width="640" caption="江戸期の黒坂の様子 (出典)黒坂鏡山城下を知ろう会『黒坂 歴史めぐり』"]
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(敬称略)
〈脚注〉
*1 2019年12月20日・21日。
*2 2019年10月末現在。日野町住民課への電話取材、2019年11月12日。
*3 中林保「近世鳥取藩の陣屋町」『人文地理』26巻4号、1974年、86頁。
*4 JR西日本の情報誌『グッとくる山陰2017秋号』には、黒坂同様に「自分手政治」が行われた米子が「町人が自由に商売できる独特の経済都市として発展」と記載しているが、『米子市史』には米子城を預かった荒尾氏の専制ぶりを記述する箇所もある。「自分手政治」が人びとの暮らしや経済・産業にどのような影響を与えたのか、なお研究の成果を待たねばならない。ただ、少なくとも米子が江戸期に山陰を代表する商業の町として発展したことは確かだ。
*5 日野町誌編纂委員会『日野町誌』1970年、106頁。『黒坂 歴史めぐり』には福田家4代目久武の墓碑の碑文の要約が紹介されている。それには、「代々山城国葛野郡越畑に居城し、周いの村を支配していた左衛門慰景通の時に福田姓を名乗る」とある。もともとは京都の出身ということになる。
*6 日野町誌編纂委員会『日野町誌』1970年、107頁。
〈参考文献一覧〉
青木通男「宝暦・天明文化」『日本歴史大事典3』小学館、2001年。
黒坂鏡山城下を知ろう会『黒坂 歴史めぐり』2011年。
JR西日本『グッとくる山陰2017秋号』2017年、2020年1月9日取得(JR西日本ウェブページ)。
杉本良巳編『米子・境港・西伯・日野ふるさと大百科 : 決定版』郷土出版社、2008年。
鳥取県『鳥取県史 第3巻 近世 政治』
中林保「近世鳥取藩の陣屋町」『人文地理』26巻4号、1974年、86-102頁。
中林保「近世鳥取藩の城下町」『歴史地理学紀要』19号、1977年、67-107頁。
中林保「近世鳥取藩の宿駅」『歴史地理学紀要』21号、1977年、145-174頁。
日野町誌編纂委員会『日野町誌』1970年。
米子市史編さん協議会『新修 米子市史』2004年。
米子市役所『米子市史』1973年。
[ライタープロフィール]
聞き手・木村英昭 (きむら・ひであき) ジャーナリスト。ジャーナリズムNGOワセダクロニクル編集幹事。朝日新聞社を2017年8月に退社、早大を拠点にしたジャーナリズムプロジェクトの立ち上げに参加(2018年に早大から独立)、現在に至る。
語り手・三輪祐児 (みわ・ゆうじ) 1953年生まれ。市民放送局UPLAN代表。東日本大震災を契機にジャーナリズム活動を開始。3500本以上の動画をYouTubeにアップし続ける。]]>


