阿部寛
新型コロナウィルス(Corona Virus Disease 2019(COVID-19))感染症拡大とその対策をめぐり、社会不安と偏見・差別が暴走し、感染患者とその家族や医療関係者に対して凄まじい社会的排除が全国的にくり広げられている。一方で、それに呼応するように「世間論」や「同調抑圧論」が静かなブームとなっている。
かねてより、わたしは「世間論」を基盤とした犯罪現象論や部落差別論を構想してきたが、思ったほど受け入れられなかった。
だが、コロナ禍における世間の暴走を目の当たりにした多くの人々が、われわれの行動準則たる「世間」の暴力性と排他性にようやく気付いたようだ。しかも、自分自身は「世間」には属せず、まるで対峙しているかのごとき主張も中には散見される。
しかし、ここは立ち止まって、この「世間」の正体をじっくり観察してみなければならない。このなんともつかみどころのない魔物を阿部謹也や佐藤直樹は、見事に腑分けしている。共通の時間感覚、贈与・互酬の関係、長幼の序、同調抑圧と排除、ケガレ観念などが複合的に連鎖反応するダイナミズムととらえている。この世間のとらえ方から判明することは、世間は変化を好まない、ということだ。しかし、これらの要素に分けてみても全体システムは判然としない。ここでは、個々の人間がどのように全体にかかわり、力が働いているのかが分からないのだ。
自分勝手なイメージで表現すると、まるで台風の眼だ。渦巻きながら暴風雨を巻き散らかし、しかも中心は真空で凪のように穏やかだ。いったん発生すると異常な勢力に発達し、コントロールできないほどの猛威を振るい、通り過ぎるとまるで何もなかったかのようにきれいさっぱりと無くなってしまう。個人としての責任も、加害・被害の判別さえ不明な不気味な現象。これは、きっと天皇制と深くかかわっている。
阿部謹也は、世間と個人の関係について、次のように指摘している。
個人は自分が世間をつくるのだという意識を全くもっていない。自己は世間に対して受け身の立場に立っている。個人の行動を最終的に判定し、裁くのは、世間だとみなされている。個人の性格にもよるが、世間の中で暮らす方が社会の中で暮らすよりも暮らしやすく、楽なのだ。そこでは長幼の序、先輩・後輩などの礼儀さえ心得ていれば、慣習どおりに進み、得体のしれない相手とともに行動するときの不安などはないからである。……
世間のルールは慣習そのものであり、何ら成文化されていないから、不満も批判も聞き流されてしまうのである。
世間が私たちを縛っているのではない。私たちが世間に縛られることを望んでいるのである。世間を離れては、自分が立ち行かないのである。(傍線は筆者)
阿部のこの指摘は非常に重要だ。個人(単独者)として他者や社会と相向き合う立場には立たず、独特の利害関係を形成する世間という軟体的共同体の中に紛れ隠れてしまう。なんとも陰湿でずる賢く、生臭い吐息のような、顔のない生き物だ。
わたしは、「世間」の構造と論理の解明は、個人と社会の成立、そして人権尊重の基盤づくりに欠かせないものであると同時に、非常な危うさも兼ね備えているとみている。
「世間」の観察・研究の主体である論者自体が、世間の中で生きているという紛れもない事実があるからだ。「反世間論」を唱えつつ、世間から容易には抜け出せない。この難題に挑むには果たしてどうすればいいか。
世間論を展開するときは、その論陣を張っている当の本人が、世間に生きているという明確かつ慎重な自覚がないと、根こそぎ世間に持っていかれるという恐ろしさがある。強烈な批判や指摘は可能ではあるが、その立ち位置が不明かつあいまいなのだ。とりあえずは、ことばの出所、発言者の立ち位置、ことばの主体性と社会的責任にこだわり続けること。単独者として、まつろわぬ民として、面倒くさく、厄介な奴として発言し続けることだ。
話題が変わるが、この連載の「あてにならないおはなし」というタイトルについてひとこと。結構たくさんの方々からご好評いただいているらしい。(あくまで、らしい)
そこで、この名に込めた思いを種明かししたい。
第一義的には、私の話は全くあてにならない。第二に、人を頼りにしてもいいけど、あてにしてはいけない。その最たるものが、お金、学歴、職歴、役職。第三に、成功体験をあてにしてはダメ。どんなときも物事は初体験だ。第四に、常識をあてにしてはいけない。さらに、自分の認識や価値観をあてにしてはならない。人の認識は、すべてその人の興味関心により形成され、偏見のかたまりだから、あてにしてはいけない。そして、正しさや正義は、かなりいかがわしいからあてにしてはいけない。
さあ、ここまでくると、頼りにするもの、あてにできるものは何もないじゃないか、と思うだろう。そう、それでいいのだ。人間は無力で頼りないものだから、確固たる信念などをもってはならないのだ。
だから、他者を愛し、痛みを分かちつつ、ともに生きるしかないのだ。確固たる信念は、他者を巻き込み、抑圧することにつながり、自己正当化にも行き着く。
最後に、ひと(生命)は、死につつ、生き長らえて、いのちを保っているから、一瞬たりとも留まっていない。だから、成長、発達、発展というのは、欺瞞的概念であり、合理的判断、エビデンス、数字は、フィクションである。その最たる例が、経済成長、原発の安全性、新型コロナ禍情報。
よって、様々なフィクション、偏見、欺瞞的概念を疑い深くあてにして、かつ解体して、そのつどそのつど、状況に応じた判断を、しかも理性的ではなく、全身的感覚でやっていく。その覚悟と実践を「主体」と言うのではないかな。
以上が、現時点での「あてにならないおはなし」の到達点。もちろんこれも、すぐに変化しますけど。
ではこの辺で。
[ライタープロフィール]
阿部寛(あべ・ひろし)
1955年、山形県新庄市生まれ。生存戦略研究所むすひ代表。社会福祉士。保護司。
20代後半から、横浜の寄せ場「寿町」を皮切りに、厚木市内の被差別部落、女性精神障害者を中心とするコミュニティスペースで人権福祉活動に取り組む。現在は、京都を拠点として犯罪経験者・受刑経験者、犯罪学研究者、更生保護実務者等とともに、ひとにやさしい犯罪学、共生のまちづくりを構想し共同研究している。