第6回 「愛すべき伝説の男」
阿部寛
人生は、出会いの縦糸と別れの横糸が織りなす織物だ。どれ一つとして同じ色柄はない。私の織りの基調は、20歳代後半、ある男との出会いによって劇的に変化した。
遠方から大きく手を振って近づいてくる男がいる。赤のベレー帽に紫のダボシャツを着て、首には大きな望遠鏡をぶら下げている。
「どっから来たと? 何しに来たと?」
何とかこれだけは聞き取れた。奇妙ないでたちだが、ニコニコした笑顔と愛嬌のある瞳から、悪い男ではなさそうだ。
この男の名前は、中西清明。寿町を初めて訪問した日、最初に声をかけてきたのがこの人だ。寿町への来訪者を監視するのが役割でもあるかのように、愛用の望遠鏡で新参者を見極め、わたしに声をかけてきたのだ。
中西さんは、太平洋戦争中に博多で脳性小児まひを抱えて生まれた。母は出産とともに亡くなり、博多帯職人だった父は、戦地から茫然自失の状態で帰還し、日々酒浸りで死んでいった。近所の子どもたちが、歩けない彼をリヤカーに乗せ小学校に通った。「兵隊になれない役立たずの男児」として、教師からも同級生からもひどいいじめを受けた。敗戦後の混乱と貧困の中、両親がなく障害を抱える彼が、生き抜くためにどれほどの苦労をしたか、想像を絶するものがある。彼が好意を寄せた同級生の女児Oさんの家族は、米屋を営み、クリスチャンであったためか、唯一彼をやさしく受け入れた。しかし、身寄りのない彼に対する世間のまなざしは冷たかった。彼は、孤児の一団に加わって、時には人のものを失敬しながら飢えをしのいだ。
幼少期は教護院(現在の児童自立支援施設)に保護され、その後どのような診断を下されたかは定かではないが、精神病院に収容された。当時の精神病院では精神外科治療としてロボトミー(前頭葉を切除する手術。日本では1938(昭和13)に開始され、1975(昭和50)年に日本精神神経学会がロボトミー手術の廃止宣言を出すまで続いていた。)が行われており、治療に耐えられず自殺者も出た。彼も、電パチ(電気けいれん療法)により、上下の歯がすべて抜け落ち、総入れ歯となった。私が初めて会ったとき、彼の話がほとんど聴き取れなかったのは、聞きなれない博多弁とサイズの合わない入れ歯が外れて口から飛び出してくるからだった。
このままでは殺されると思い、彼は病院からの脱走を企てた。3度目の脱走で何とか成功し、横浜へ向かったが、無賃乗車が見つかって「御用」(逮捕)となり、横浜・寿町で生活するに至った。
「どうして、横浜に来たの?」
私はそう尋ねた。精神病院に入院中、ラジオから当時大ヒット中の「伊勢佐木町ブルース」が流れた。「タラッタ、タラララ〜ララ〜、ア〜ア〜」という青江三奈のハスキーボイスにしびれ、「きっと天国のようなところに違いない」と思い立って電車に飛び乗り、伊勢佐木町のある横浜をめざしたという。
この数奇な運命と独特のキャラクターを持つ中西さんとの出会いは、私への神様からのギフトだった。
野宿者殺傷事件の調査のため寿町を訪れたことを告げると、彼はすぐさま寿生活館に案内し、寿日雇労働者組合の鹿児島正明委員長を紹介してくれた。
「今度は、いつ来ると?」と尋ねるので、次回の訪問日を告げて別れた。すると、なんと彼は、約束の時刻に殺傷事件の関係資料を両手いっぱい抱えて、生活館で待っていた。
「これ、やるけん、しっかり調べてよ。」
「えっ?いいんですか。ありがとうございます。」
そう答えたものの、私はその真意を測りかねていた。まだ1回しか会ったことがなく、親しい間柄でもないのに、見ず知らずの者になぜ、ここまでするのかと戸惑いもした。
しかし、彼の打算のない純真な感情表現は、私の心臓を射抜いた。当時の私は、ずいぶんと余計な思惑とか、「配慮」を身につけていたのだ。中西さんの驚くほど無垢なふるまいに当惑し、時には迷惑とさえ感じながらも、次第に私の狭い了見や邪念が一皮ずつそぎ取られ、「ありがとう」「やったね」と素直に感謝できるようになっていった。まあ、すべからくいい加減になり、生きるのが楽になった、とも言える。
中西さんのエピソードは数限りないが、忘れがたい思い出を一つ披露したい。
1985年5月、たまり場ユンタークを開設以来、毎日入り浸っていた彼が、ある日忽然と消えた。簡易宿泊所の部屋に荷物を置きっぱなしで、1週間経っても、2週間経っても帰
ってこない。そして1カ月も過ぎたころだったろうか。
「おう、今帰ったで〜」
大声で、息せき切って現れた。
「今まで何やってたんだよー。みんな心配してたんだぞ。」
「いやあ、えらいめにおおたで〜。おふくろに怒られる、怒られる」
待てよ。お母さんは出産後すぐ亡くなったので、彼は母親の顔を知らないはずだが。
つまり、こういうことだった。
生活保護の支給日に、保護費全額を手にしてお母さんに会おうと青森の恐山に向かった。イタコがお母さんの霊を降ろしてくれて、母親と対話をしたところ、
「清明、ちゃんと働いているか? しっかり生きんと承知せんぞ!」
と、ひどく叱られた。母親に平謝りに誤って電車に飛び乗り、母のお墓がある博多に向かった。墓前に手を合わせ、深くわびたあと、幼少期にお世話になったOさんの家を訪れ、何泊か居候をした。博多の街をぶらぶら遊び少し悪さをしたのち、横浜に向けて電車に乗った。どうやら金も尽きて、無賃乗車で帰ってきたようだが、今回は捕まらずに改札を通り抜けたらしい。
1週間ほど、悪びれるそぶりもなく、たまり場でタダ飯を食い、寝泊まりした後、ドヤに戻って行った。
寿識字学校の学友で、たまり場ユンタークの会員第1号、7年間のたまり場活動において、激しく喧嘩し、最も頼りになった相棒。
たまり場ユンタークを閉じた後は、原木哲夫・初美夫妻が主宰する障害者作業所「シャロームの家」で人生を全うした。
「あんな奴はもう2度と出てこない」と原木夫妻は語る。
寿町の愛すべき伝説の男である。
(つづく)
[ライタープロフィール]
阿部寛(あべ・ひろし)
1955年、山形県新庄市生まれ。生存戦略研究所むすひ代表。社会福祉士。保護司。
20代後半から、横浜の寄せ場「寿町」を皮切りに、厚木市内の被差別部落、女性精神障害者を中心とするコミュニティスペースで人権福祉活動に取り組む。現在は、京都を拠点として犯罪経験者・受刑経験者、犯罪学研究者、更生保護実務者等とともに、ひとにやさしい犯罪学、共生のまちづくりを構想し共同研究している。