あてにならないおはなし 第10回

第10回 「心身バラバラの意味をちょっと深掘り」

阿部寛

青年期の暗夜行路の微かな灯となってくれたものの一つが「森田療法」であったことは、前回書いたとおりである。何人かの読者から「実は私も森田療法の治療を受けていました」というご連絡をいただいた。マイナーな治療法と思っていたが、治療経験者も結構いるようだ。私にとってこの療法は、青春の絶望期には絶対無二の救済策であったが、今は不安や混乱時の必携アイテムであり、自分の身体に「大丈夫かい」と語り掛けるときの深呼吸みたいなものかもしれない。そもそも森田療法のスタンスは、一つの正義や真理を信奉することとは相容れない「間合い」のようなものだ。

今回は、心身バラバラ状態の意味を別の視点からもう少し深掘りしてみたい。

心身ともに「もう無理だ」と悲鳴を上げているのに、その事実を受け容れず、さらに叱咤激励し無理を強いる。なぜそうするのだろうか。自らの現実を受容しない「かたくなさ」は、どこから来るのか。「自己評価の低さ」とか「他者承認欲求の強さ」とかだと理解すべきなのか。いやいや、そんなのんきな話ではないのだ。<自分の物差し>が欠けているのと、頑なな固定観念や行動準則が、痛々しいほどに内面化しているのだ。

「モノ」「コト」のあり様を究めるには膨大な時間と手間がかかる。与えられた「問題(非現実的設問)」に解答することは容易なことだ(しかし、私にとっては逆に容易ではなかったけれど)。なぜなら、生きている状況も消去され、初めから「正解」が設定されているからだ。ここでは、自己の生き方や、他者や社会との関係性を振り返り、学びほぐしをし、生き直しをする「批評」と対話の営みが徹底的に排除されている。現状受任と従順の極みであり、いかに社会的適用をするかを訓練するのだ。わたしたちが与えられてきた学校教育や職場研修の大半がこれだ。だから、リアリティもなければ、知的関心もわかない。受苦も共感も生まれない。だが、わたしたちの日々のくらしや人生は、喜びや悲しみ、悩みや苦労の連続で、矛盾に満ちており、一刻も停止しないダイナミックなものだ。そこでは、状況を見極め、一瞬一瞬にひたり、その中で醸成されつつある予兆を直感的に感得する力と、問題設定の視点とセンスが求められる。つまり、どのように自分で(自分たちで)「問題を立てられるか」が肝心なのだ。

それ故、ここで生じる戸惑いや苦悩は、「病い」ではなく、実在論的葛藤であり、哲学的営為だ。しかし、現代社会は、ぐずぐず悩むこと、じーっと見つめること、首をかしげて疑うこと、もつれからまり葛藤すること、他者とどっぷり語り、思いを分かち合って状況を変えることを許さない。それらの営みは、非効率的で非生産的な無駄であり、商品交換体系と消費社会においては、経済的発展の阻害要因でしかない、とみなされる。

そもそも、わたしをかけがえのないいのちとして誕生させ、育ててくれた自然、風土、歴史・文化、両親・家族、ことばに対して、

「無価値なもの・劣位なもの」と評価する思考や価値観は、どのようにして形成されたのだろう。

資本主義の発展、高度経済成長、商品交換体系の浸透の中で、人間の労働力を含めたあらゆるものが「商品」という尺度で測られ、あらゆるいのちの営みの場である自然は、生産手段として徹底的に消費しつくされてきた。利潤の追求と経済発展のためには、自然(空気・水・土・山・川・海・一切の生命)も人間さえもが、生産手段として消費される。

農地から引きはがされた農民は、出稼ぎに行き、さらには工場労働者や日雇労働者となって家庭も故郷も崩壊していく。農家の若者は「金の卵」ともてはやされて都会へ奪われて地元には戻ってこない。幼少期から始まる進学競争で「勝ち抜いた」者は、都会の大学へ進学し、就職活動を経て給与所得者となり、企業に従属し、人生の大半を賃労働に費やす。長期にわたる学校教育プログラムの中で、資本主義社会の労働者や企業人間となるために欠かせない時間感覚、労働と余暇の効率的分配、指揮命令への従順等を内面化していく。

ここでの「グッド・ライフ・モデル」は、労働力という「商品」が「お金」という物神を味方にして、「商品」と化したあらゆるものを獲得でき、それが人間の幸せに直結するという共同幻想だ。人間の成長・発達段階なるものが設定され、各年齢期における生活モデルと評価基準が設定される。そこから漏れる者、逸脱する者は、「社会的脱落者」としてマイナス評価され、排除されていく。

そこでは、分解と合成の同時存在的「動的平衡」(福岡伸一)であるいのちのメカニズムや自然との物質代謝という実在的論理は一切無視されている。

さらに日本社会には、阿部謹也や佐藤直樹が指摘するように、「世間」という行動準則が頑強にはびこり、個人や社会、人権が成立することを阻んでいる。強烈な同調抑圧と異質なものの排除、共通の時空間を生きているという感覚、贈与・互酬の関係、長幼の序、ケガレ意識などが状況に応じて微に入り細に入り発動する。ここでは、個人の主張さえ容易ではない。

新型コロナウィルス感染症に対する政府・自治体の対応、マスコミの報道、専門家の分析と見解、各業界の対応、民衆のふるまい。どれもが、社会防衛の観点からの社会統制と「社会的悪=ケガレ」撲滅運動さながらだ。社会防衛と生命の安全、歪んだ死生観と「世間」の論理が協働したとき、被害者として守られるべき感染者とその家族、治療の最前線で格闘する医療関係者までもがケガレた存在とされて攻撃対象とされ、社会的排除が強烈に作動する。ここには愛も受苦も共感もない。

新型コロナ現象に乗じて資本制社会の危機的状況を回避する策動、政権の立直しを図る者、ITやSNSの新たな可能性を高唱して利潤獲得の好機とする者、新たな生活スタイルを提唱しそれに順応しようとする者などなど。

それらは、現代の資本制社会や人間社会の諸矛盾や持続不可能な現実を見えなくさせる

作用として意図的に、あるいは無自覚に働いている。

もう一方で、コロナ現象をめぐる全体主義的潮流に的確に反応し、批判と抵抗をする者たちも出ている。「ソーシャル・ディスタンス」という言葉と行動様式に対して、インドでは「不可触民」といわれて差別されてきたアウト・カーストの人々が抗議行動を起こしている。日本では、ハンセン病回復者たちが、感染力が極めて弱い細菌による病気で、早期治療で治るにもかかわらず、官民一体となって地域社会から一掃され隔離施設に強制収容され、断種・堕胎さえ強いられた体験から、「コロナ騒動はまるで無らい県運動のようだ」と鋭く指摘している。

話が飛躍しすぎていると思われるかもしれないが、私が言いたいのは、私個人の身に起こった個人的出来事には、実は社会状況や生存環境が大きく作用しているという観点を持ち続けたいし、そうしなければならない、ということである。

また、ふるさとの歴史と文化、気候風土、共同体のしきたりを賛美しようと考えているわけでもない。若かりし頃、ふるさとの閉塞した精神風土と地縁・血縁の縛りに嫌気がさして飛びだした行動は、誤りではなかったと思っている。いまでもふるさとに帰ると、優しさと善意の真綿にくるまれて快感に浸るのも事実だ。しかし、それは3日と持たず、居心地が悪くなってしまう。ほんとうに困ったものだ。

こんな矛盾に満ち、絶望的な現実ではあるが、大いに混乱し、あがき、あきらめ、かつあきらめずにしのいできた。そして耐え難い状況になった時は、なりふり構わずとんずらをかました。どうやら耐え難い状況の中での凌ぎにおいて逃走の下準備が仕込まれていて、時間の流れを徐行ないし一旦停止して、深く潜考し、次の生活の方向性と場の選考が模索されているようだ。だから、次の場での素敵な人との出会いと活動に恵まれたと思う。そこでの判断と行動は、理性的、効果測定的なものではなく、経験知と直感的・予知的判断とでもいうべきもので、他者の事情はいっさいお構いなしの身勝手極まりない生存戦略であったと思う。この場をお借りして、関係各位に深くお詫び申し上げる。許してね〜。

<主な参考文献>

阿部謹也『西洋中世の愛と人格—「世間論」序説−』(朝日新聞社出版)

佐藤直樹『「世間」の現象学』(青弓社)

福岡伸一『動的平衡』(小学館新書)

[ライタープロフィール]

阿部寛(あべ・ひろし)

1955年、山形県新庄市生まれ。生存戦略研究所むすひ代表。社会福祉士。保護司。

20代後半から、横浜の寄せ場「寿町」を皮切りに、厚木市内の被差別部落、女性精神障害者を中心とするコミュニティスペースで人権福祉活動に取り組む。現在は、京都を拠点として犯罪経験者・受刑経験者、犯罪学研究者、更生保護実務者等とともに、ひとにやさしい犯罪学、共生のまちづくりを構想し共同研究している。

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