蝶は風に舞って
1
僕はハム、柴犬だ。任務があってこそ、生き甲斐がある。そう信じるひとりだ。
頭が禿げて皺の深い貴志郎爺さんの命令で、いつも山沿いの小さな村の周辺をパトロールする。村のみんなは僕のことを気に入って、時々頭を撫でたり、お菓子をくれたりするから、ちょっと得意な気分だ。
今日は、村役場の戸口から外に出ると、三毛猫ペニーが花壇の縁石でひなたぼっこの最中だった。その視線はどこか遠く、山の稜線に向けられている。僕の顔を見て、鼻をつんと上向けると、ぼそぼそつぶやいた。
「この花壇も悪くないけどさ、あの山の向こうには、もっと広い世界があるんじゃない?」
気ままなペニーがこんな風に語るのは珍しかった。
不思議な気持ちに駆られて問いかけた。
「何考えてんの、急に?」
ペニーはただ薄く笑ってモンシロチョウと遊び始めた。
「ねえ、ハム。昔この村でさ、蝶々は神様の使いって言われてたらしいよ。ま、信じるかどうかは置いといて、真面目すぎるあんたには退屈かもだけど」
僕はちょっと心外な気持ちになって、この際、はっきり言うべきだと思い切った。
「いや、ちょっとそれ失礼じゃない? ていうか、ペニー、お前さ、寝てばっかで何もしてないって噂になってるぞ。蝶々と遊んでるだけじゃん」
ペニーが背伸びをして、顔を前足でぬぐった。
「噂なんてどうでもいいよ。ちゃんと夜はネズミ捕ってんだからさ。昼ぐらい蝶々と遊んだっていいでしょ?」
そんな言い訳は問題にしていられない。行動で示すだけだ。
「猫の相手は年寄りの仕事だよ。俺には村を守るっていうちゃんとした任務がある。貴志郎爺さんも喜んでくれてるしな」
ペニーがまた、少しからかうような口調になった。
「そりゃご苦労さま。あんたってさ、真面目に働いて擦り減ってくタイプの、歯車って感じ。で、擦り減った先に幸せがあるって、誰が決めたの? せいぜい頑張りなよ。みんな頼りにしてるよ」
その時、モンシロチョウが髭から飛び上がって、ペニーの頭に止まった。
僕は笑いをこらえきれずに、思わず吹きだしてしまった。
「はははっ、ペニー、お前ほんと蝶々と仲いいよな。手乗り蝶とか、ウケるぜ。なんかもう、似た者同士って感じだ」
なぜか不思議な行動をする蝶々には違いなかった。
ペニーは片目を開けて、のんきに構えたままだ。
「最高でしょ、春の日差しと蝶々って。あんたも少しはこういう時間、楽しんだら?」
花壇には水仙をはじめ春の花が満開だ。ホトケノザ、ツクシ、タンポポなど野草もある。
ちょっと苛立ってしまった。
「いや、遠慮しとく。俺はやることあるから。自由気ままもいいけど、責任ある立場もきびきびしてて、気持ちが良いって」
ペニーとモンシロチョウを残して、正門から外に出た。
2
春風が心地よく吹き抜けて、気分があがった。畑や土手にはシロツメクサやレンゲソウなど春の花が咲き誇る。青く小さな花もぱっちり開いていた。これはイヌノフグリというそうだ。今ならではの眺めで、無事平穏を喜ぼう。
「猫には、こんな充足感は分からないだろうな。任務がないと、幸福なんて感じられないよ」
僕は小川沿いに歩いた。ほどなく、土手に足跡を見つけた。その爪の形から、猪のものだとすぐに気づいた。
「村に危険が迫っているかもしれない」
僕は急いで役場に戻り、貴志郎爺さんに報告した。爺さんは素早く猟師たちに連絡を取り、その夜、猪は無事に仕留められた。猟師たちは大喜びだし、畑を荒らす乱暴者を退治したから、農家も感謝してくれた。猪鍋も食べられたし、万々歳だ。
帰りの夜道、静まりかえった村の空に、一頭のモンシロチョウがふわりと舞った。夜の蝶など、僕は今まで見た経験がない。しかも、それはまるで見えない風の筋に導かれるように、真っすぐ山のほうへ飛んでいった。
翌朝、僕はルーティンとして役場に向かった。花壇の縁では、ペニーが例によってモンシロチョウと遊んでいる。あの蝶が、昨夜(ゆうべ)のと同じものかは分からないが、何か引っかかる気がした。
「昨日の騒ぎ、見せたかったな。けっこう大捕物だったんだぜ」
ペニーが興味なさそうに片目をこすりながら欠伸をした。
「ふーん、まあ良かったじゃん。平和すぎるより、多少の波風あったほうが退屈しないし。村も盛り上がったんじゃない?」
僕は少し足で地面を引っ掻いた。
「ペニー、お前さ、他者(ひと)の働きに感謝とかないの? また蝶々と遊んでるし。ほんと、どうなってんの、その性格」
ペニーが蝶々と耳で遊びながら、首をひねった。
「いやいや、昨夜はネズミも出なかったしさ。それって、君らが頑張ってくれたおかげでしょ? ありがと」
ぜんぜんまともな返答はしてこない。マイペースもいいところだ。
僕は後ろ足で立ち上がった。
「素直に感謝すりゃいいのに。まあいいけど、結果的に、お前の生活も快適になるわけだしな」
ペニーが苦笑いを浮かべた。冷笑に近い。
「ほんと、あんたって言葉そのまま受け取るよね。もうちょい裏とか含みとか、考えないの?」
「は? 何それ、性格悪い言い回しじゃん。もっとストレートに言えばいいのに」
ペニーの目が金色に輝いた。
「何でも、言葉をうのみにしちゃいけないってことよ。パトロール犬なんでしょ? 私は、蝶々が花に来てくれる、それだけで十分なんだ」
その時、モンシロチョウがペニーの頭から飛び立ち、僕の鼻先に止まった。前足で追い払おうと一掻きした。
「って、わっ、こいつ、俺の鼻に止まった。おい、モンシロチョウ、任務中だっつーの!」
ペニーがにやりと笑った。
「あれまあ? あんたも蝶々と遊んでるじゃん。口では偉そうなこと言ってさ、結局、仲間入りだね」
僕は鼻を振って、ちょっと声を太くした。
「ちがうって、ただの偶然だし。ほら、菜の花のほうが甘いぞ。そっち行け」
驚いたことに、モンシロチョウはすぐに菜の花めがけて飛んで行った。
ペニーがへらへら笑った。
「えっ、それ通じたっぽくない?」
直後、へらへら笑いが、嬉しそうな微笑みに変わった。
「すごくない? ハムくーん」
僕は憤慨を抑えるのに苦労した。
「蝶々と会話なんかしてないっての。偶然、偶然!」
ペニーがまた片目を閉じて、ふうっと息を吐いた。
「ま、どうでもいいけどさ。大事なのは、蝶々が菜の花に行ったこと。それだけでオッケー」
僕は後ろ足で頭を掻いた。
「世の中、そんな単純だったら楽なんだけどな。でも、たまには立ち止まって、蝶と遊ぶのも悪くないかも」
3
桜が散って春も深まり、ついに僕が恐れていたことが起きた。
冬眠から覚めた熊が山から降りてきたのだ。飢えている上に凶暴なほどの力持ちだ。のそのそとした足取りで、村に続く道を歩いてきた。
村役場に近づくにつれ、周囲の緊張が高まった。猫たちは毛を逆立て、村人たちは家に隠れて熊の動きを見守った。僕は熊に向かって吠え立てたが、どうも相手の凶暴さをかき立てるだけのように思えた。
血みどろの決闘が起こる、僕はそう覚悟した。
そのときだった。
ひらり、と。
一頭のモンシロチョウが、熊の鼻先に舞い降りた。
あまりにも幻みたいな光景に、僕は思わず呼吸を忘れた。
熊は、まるでその蝶々が言葉をかけたかのように、ぴたりと動きを止めた。
風が一陣、村の奥を撫でていった。
どこかで誰かが、しゃっくりのような小さな声をあげた。
だが、熊は、一意専心を貫いたダルマさんさながら蝶々に面を向けていた。
蝶々はふわり、ふわりと舞い続け、鱗粉を光の粒みたいにまき散らして、熊の目の前で円を描いた。
熊の背は、筋肉がゆらゆら揺れた。蝶の動きに合わせて、あたかも踊りを披露しているみたいだ。
僕は自然に首が傾(かし)いで、思いを巡らせた。
──夢でも見ているのだろうか。
蝶々はまるで小さな扇のように、左にひらっ、右にふらっ、と舞いながら、少しずつ山のほうへ飛んでいった。
熊は、師匠に従う弟子よろしく一歩、また一歩と歩を進め、やがて森の奥へと姿を消した。
風が止んだ。空気が戻ってきた。
人々が、まるで埴輪のようにぽっかり口を開けていた。それから深い息をついた。
猫たちが毛をなでおろし、子どもが泣きそうな顔で笑った。
ペニーが相変わらずへらへら笑いを浮かべ、前足で顔をぬぐった。
「いやー、なんかすごい景色を見たね、ハムくーん。あの蝶々って何だと思う? 神様の化身とか、さすがに信じてないよね?」
僕はすっかり困惑して、貴志郎爺さんの許(もと)へ駆け戻った。
「あれは、一体全体、何なんですか?」
爺さんがにやりと笑って、タバコを一本口にくわえた。
「あの蝶々は、きっと、山の女神さまだよ」
僕は首を横に振った。ぜんぜん納得できない。ペニーのところに戻ると、彼女はいつも通り髭をふにゃふにゃ動かして、蝶の消えた航跡を目で追っていた。
僕は何が不服なのか自分でも理解がつかないまま、再び訊いた。
「なあ、ペニー。わかんないんだけど、ほんとうに、ありゃ一体何なんだ?」
ペニーがいつも通りの呑気な笑みを浮かべた。
「神様の使いかもしれないし、ただの蝶々かもしれない。知らないよ。でも、君が『何か』を感じたんなら、それでいいと思うよ」
僕の胸がまた大きく膨らんだ。
「でも、俺さ、ずっと『何かになる』ために頑張ってたんだよ。なのに、さ、蝶々は何者にもならずに、ただ舞っただけで、全部丸く収めちゃった」
言葉にしたとたん、自分の中にあった焦りや不安が、軽くなった気がした。
ペニーが眠そうに目を半分閉じて、むにゃむにゃっと口を動かした。
「『なる』ことばっかが人生じゃないよ。『ある』だけでも、案外すごいのかもね」
僕は風に揺れる花壇へと目線を移した。そこには、ただ在ることに徹した命たちが、まるで光輪のように咲き乱れていた。
了
[ライタープロフィール]
野上勝彦(のがみ かつひこ)
1946年6月、宮崎県都城市生まれ。20歳のとき関節リウマチを発症、慶應義塾大学独文科を中退。数年間、湯治に専念。画家になるか作家になるか迷った末、作家になろうと決める。長編小説20編以上の準備をするが、短編小説数編しか発表できず。31歳のとき、文学を学び直すため、早稲田大学第二文学部に入学。13年浪人という形になった。英文学専攻、シェイクスピア学を中心に学ぶ。足かけ5年間、イギリスに留学。留学中父親を亡くす。詩人のグループに属し、英詩を書き、好評を得る。1989年末、帰国。教員となる。12歳の時、最初の短編小説を書いて以降、ネタを2000本以上書き留める。2010年、大学を退職。同僚先輩から借りた本代1000万円を完済。2018年、最初の評論集が『朝日新聞』書評欄で取り上げられる。最初の長編小説を完成させたのが2019年。いずれも出版に際し、グリム童話研究家金成陽一氏の紹介により河野和憲社長(当時編集部長)のお世話になって、現在に至る。2024年、短編小説の執筆戦略を練り、ネタ帳をもとに書き始める。現在、未発表短編500作を数える。
【単著】『〈創造〉の秘密――シェイクスピアとカフカとコンラッドの場合』彩流社、2018年。『暁の新月――ザ・グレート・ゲームの狭間で』彩流社、2019年。『始源の火――雲南夢幻』彩流社、2020年。『疾駆する白象――ザ・グレート・ゲーム東漸』彩流社、2021年。『マカオ黒帯団』彩流社、2022年。『無限遠点――ザ・グレート・ゲーム浸潤』彩流社、2023年。
【共著】『シェイクスピア大事典』日本図書センター、2002年。『ことばと文化のシェイクスピア』早稲田大学出版部、2007年。The Collected Works of John Ford, Vol. IV, Oxford: Oxford University Press, 2023.
【論文】‘The Rationalization of Conflicts of John Ford’s The Lady’s Trial’,Studies in English Literature, 1500-1900,32,341-59,1992年、など37本。詳細についてはウェブサイトresearchmapを参照。