近代神秘集:生きもの編 第4回 カラスの芸術塔――濡れ羽色の神殿

カラスの芸術塔――濡れ羽色の神殿

 

――これは、ずっとあとになってから綴った回想録だ。

――若い頃の私は、自分が庭園とそこで起こった出来事を、いつか誰かに語り継ぎたいと願っていた。以下は、あの塔をめぐる日々の記憶である。

 

わたしの名はクロエモン。都会のはずれ、小さな庭園のケヤキの枝で生まれ育ったカラスだ。

生まれた時から、わたしには拾い癖があった。それは幼いころ、母が色鮮やかなガラス片を持ち帰って巣に飾ったのがきっかけだった。その輝きは、餌とは全く違う特別な何かをわたしに教えてくれた。そして、その瞬間から、世界の中の「特別」を探し求める癖がついたのだ。

いや、もっと正確に言うなら、価値あるものを見分ける目を持っていたのだ。たとえば、ある日、風に飛ばされてゴミ捨て場に落ちていた金色の針金。

人間の言葉で言うなら「真鍮」というやつだ。それは、ただの針金じゃなかった。太陽の光に当たると、まるで黄金の糸のようにきらめき、わたしの目を奪った。

持ち帰って巣の近くの隠し場所にしまい込む。針金を曲げて輪にし、別のガラス片と組み合わせて、風が吹くとキラキラと回る飾りに仕立てた。まるで、宝石をまとう王者の城だ。これは何かを伝えるものになるかもしれない――淡い期待がなかったと言えば、嘘になる。

しばらく後、公園の池の脇で、わたしは鏡を見つけた。

手のひらほどの大きさの、ふちが欠けた古い鏡だった。落とし物か、捨てられたものか。だが、それはわたしにとって宝だった。わたしはその鏡をくちばしで持ち上げ、陽のあたる高台へ運んだ。

鏡の表面に映るのは――まるで別の世界だ。

左右逆の木々。反転した雲。そこに映るわたしは、もう一羽のわたしでありながら、どこか異国の王者のような気配を纏っていた。何度も、蹴上(けあ)がりをして、威厳ある姿勢を確かめた。

そのもう一羽のわたしが何かを語りかけてくるような、そんな気さえしていた。

以来、わたしは針金と鏡を組み合わせ、塔のようなオブジェを作り上げていった。ある者はそれを変わり者のガラクタ芸と笑ったし、ある者は黒の神殿と呼んだ。ちょっと洒落たものは、濡れ羽色の神殿とも。

いつしか、公園を訪れる他の生き物たちの間で、小さな噂が広がり始めた。

お喋りスズメがわたしを見上げて言った。

「あの塔はただの飾りではない。何か秘密を隠しているに違いない。だろ?」

わたしは首をひねってみせただけだったが、その噂話が、いつからともなくカラスたちの間にも飛び交うようになった。

秘密を包み込む――そう、わたしは内奥を表現しようとする芸術家でもあったのだ。

その日は、塔を完成させたばかりで、心がどこか落ち着かなかった。塔には何かが足りない――そんな思いが引っかかりながらも、何が足りないのか見当もつかなかった。

時あたかも、わたしは奇妙な老者に出会った。人間ではない。長い髭を生やした亀だった。夕暮れの静けさを破るように、池の水面からぬっと現れた。大きな甲羅には苔がびっしり生えている。

思わずわたしは問いかけた。

「その甲羅、庭園みたいだな。どれくらい手入れしてるんだ?」

亀は首をゆっくりと上げて、不敵に笑った。

「風がやってくれる。わしはただ、じっとしておるだけよ」

わたしは呆れて思わずカアと叫んだ。

「ずいぶん気楽な、楽隠居なんだな」

亀が私の皮肉を完全無視して、首を上げた。

夕暮れの光が池面を朱に染める。

私の心臓がひと跳ねし、羽の先がかすかに震えた。

苔むした甲羅の隙間に、見慣れぬ威厳が宿っている。

「ほう。お前の塔、なかなかの趣よのう」

わたしは身構えた。カラスにゴマをすってくる動物は、えてしてろくなやつではない。

「誰だ、おまえは」

「わしは、白寿亀(はくじゅき)じゃよ」

亀は池の近くで生まれ、数百年の間、この庭園で静かに過ごしてきたという。かつて人間がこの池を埋めようとした時、仲間の亀たちを守り抜いた記憶がその琥珀色の瞳に宿っていた。彼は自分が目立つ存在ではなくとも、見つめ続けた庭園の変化に深い愛着を持っているようだった。

「おまえの塔、ただの飾りではなかろう。何か祈りが込められておるな」

わたしは虚を突かれた。秘密ではなく?

「どんな祈り、だと思う?」

亀は目を細めながら続けた。

「この塔が、ただの個人的な作品で終わらぬことを、わしは見届けたいものじゃ。遠い未来、お前の塔が仲間たちの記憶にどう残るのか、楽しみじゃのう」

わたしは強がりではなく、真実のつもりで口をとがらせた。

「解釈は見るものそれぞれ。こっちは材料と仕上がりを示すだけさ」

「そうじゃ。光の針金。反射の鏡。それらは、ものを見るのではなく――見せるためのものじゃろう?」

図星だった。塔の奥に、薄氷を包んだような鈴が見えた。

わたしは何か言葉では伝えきれぬ想いや、美しさ、あるいは未来への兆し――そんなものを伝えようとしていた。

「それを、どうするつもりじゃ?」

私は口ごもった。

「わからない」

「ならば教えてやろう。塔に必要なのは、心の芯じゃ。飾りだけでは、風に吹き飛ばされて終わるだけだ」

そう言って、白寿亀は甲羅の下から一枚の貝殻のような石を取り出した。

「これを芯に据えてみよ。夜露を受けて小さく星屑を宿す『青い雫』じゃ」

言い伝えによれば、この石は月夜に降りた朝露が長い年月をかけて凝結したものだという。実際には、緑珠石という石が原材料だ。

淡い翡翠の輝きは、夜の静寂と森の息吹を閉じ込めた証のようだった。

ひんやりとした冷たさを指先で感じるたび、幾千年にわたる時の重みが胸に沁み込む気がした。

白寿亀は乗っていた蒼い石を蹴って、池の中に姿を消した。

その夜、わたしは塔の中心に緑珠石を据えた。

針金の輪に吊るされた鏡は、夜風に揺れながら、星を映し、わたしの影を何重にも投射した。

そのときだった。

あのわたしが、動いたのだ。

そう、鏡の中のわたしが、こちらに語りかけてきた。

「おまえは、なぜそんなにも見せたいのだ?」

とっさに応えた。

「美しいからさ」

胸の奥を細い鋭い刃がすり抜けるようだった。

冷えた鏡面に映る自分は、無言のままこちらを見据えている。

鼓動が耳元で響き、言葉を探す呼吸が乱れた。

鏡のわたしが身を乗り出した。

「じゃあ、誰に?」

「まだ見ぬ誰かに。仲間に。空に――自分自身に」

鏡のわたしが笑った。

「では、それを受け取る者がいなかったら? おまえはそれでも塔を作るのか?」

意味を解しかねて、息を吐いた。

「は?」

次の瞬間、孤独、という観念が脳裏に閃いた。観るものはたくさんいるけれど、分かるものがどれだけいるか、判断できない。

さっき逃げ去ったスズメには、期待するほうが間違っている。

見る者のいない美。語る相手のいない想い。虚空に向かって叫ぶ詩。

受け取ってくれる者がいないという現実。

白寿亀が残した青い石は、これ見よがしに孤独の象徴といわんばかりに、塔の先端に孤立していた。

それでもわたしは、ひとりで塔に修正を加え続けた。なぜなら、芸術だからだ。芸術家が孤独なのは、論を待たない。

 

ある日、嵐がやってきた。

強風が雷鳴とともに吹き荒れる。雨は横なぐりに叩きつけ、塔の針金は悲鳴をあげた。

停電――闇が覆った瞬間、稲妻が空を裂き、塔の鏡がまるで大気を切り裂くような激しい反射を放った。針金は風に煽られてぐにゃりと曲がり、塔全体が軋む音が耳を貫く。衝撃で、頂上の針金が宙に舞い、激しい雨粒とともに地面に叩きつけられた。

最後の瞬間、塔全体がゆっくりと傾き、まるで長い戦いから退く巨人のように崩れ落ちた。その音は雷鳴に飲み込まれながらも、地面に響き渡り、わたしの胸を締め付けるほど強烈だった。鏡が次々と砕け、星の光を映していた針金が泥に染まる姿は、あまりにも儚く、美しかった。

翌朝、わたしは呆然と立ち尽くした。

塔は、完膚なきまで形を失っていた。

部品の残骸を見て、わたしは深い息を吐いた。

「まあ、見事に壊れたもんだ。これ、アートの新しい形ってことにしたらどうかな?」

一羽のスズメガが控えめに近づいてきた。

彼のからかいめいた声が、忘れかけていた私の心に小さな波紋を立てた。

「ガラクタが壊れてゴミになっただけさ。残骸がさらに芸術だなんて、聞いた覚えはないぜ」

仲間のカラスたちは遠慮してか、翼でそっと口元を抑えた。

雨が止み、世界は嘘のように静けさに包まれた。風が、拾ってきた塔の残骸を少しずつ散らし、空気には湿った土の匂いが漂っている。

その時、ふと緑珠石の在処が気になった。どこを探しても見つからない。

わたしは仕方なく、枝につかまって趣味の蹴上がりをやった。上下逆さまに眺めたら、何か新しい見方が生まれてくるのではないか。期待外れだった。

スズメに限らず庭園を訪れる者たちは、バラバラに散った残骸を見ては静かに囁き合った。

「あそこには何か特別な意味があったに違いない」と。

そしていつしか、塔の名前が「濡れ羽色の神殿」として語り継がれるようになった。それはあたかも、崩れた塔が風に記憶を託したかのようだった。

間を置かず――あの白寿亀が池から顔を出した。しれっとした表情で言う。

「よい塔じゃった」

わたしは顔をしかめた。

「壊れたぞ。おまえのくれた芯でさえ、何も守れなかった」

亀が静かに頷いた。

「石が万能だなんて、言っておらんぞ。それに、守ることがすべてではない。塔とは、壊れた後に何を残すか、が本質よ」

わたしの脳裏には、ひとつの言葉が鳴り響いた。

――形あるものは必ず壊れる。

ならば、形を捨てるのは、どうか。

――ここまで書き留めて思うのは、塔のかたちを失っても、魂を込めた思いは消えないということだ――。

わたしは残骸に視線を送った。

「あとに残すもの?」

「見た者の胸に何を刻むか。触れた者の心に何を宿すか。塔は形ではなく、記憶として残るのじゃ」

亀は言いたいだけ言うと、水に潜った。

そんなある晩夏のことだった。

空気が湿り、セミの声に混じって、どこからか小さな音がした。

――チリリン。

風鈴の音だ。ごく微かな、澄んだ優しい響き。

音の出所を探して飛んでいくと、それは庭園の外れ、小さな廃屋の縁側にぶらさがっていた。

そこには、風鈴とは似ても似つかぬ平らな鏡がひとつ吊られていた。

かつての鏡はもうない。その代わりに、薄く削ったガラス片が何枚も小風鈴として垂れ下がっていた。

風が吹くたび、そのガラス片が軽やかに震え、かすかな金属音ではなく、透明な鈴音を放つ。

わたしは思わずつぶやいた。

「ガラスの鈴?」

そんなものを誰が――

と、そのとき、廃屋の影から、ひとつの声がした。

「聞こえるかい? これは風の記憶だよ」

そこにいたのは、年老いた一羽のスズメだった。色褪せた羽をまとい、あたかも古い記憶の断片のようだった。

「おまえ、何者だ?」

「ただの見届け者さ」スズメは羽をふって小さく笑った。「おまえ、あの塔、少し高くしすぎたんじゃないか? スズメなら飛ぶのに息切れする高さだぞ」

わたしは何羽かのスズメを思い出した。

「そこに登るのはカラス限定。スズメは横で見てればいいだろう?」

スズメがくちばしで羽を整えた。

「ふん、見届けるのはわたしの専門だからな」

スズメはかつて都会で暮らし、人間たちが作る音や物語を観察してきたという。

「風の音や、塔の記憶と比べれば、人間たちの音はいつもどこか急ぎすぎているんだ。観て察する者としての意見だよ」

そう語りながら、彼はゆったりとした風の中で物事を見届けることに自らの役割を見いだしているようだった。

「観察する、だと?」

「そう。あの白寿亀と会話していたのも、塔に緑珠石を据えた夜も。塔が嵐で崩れたあと、おまえが何も言わずに片づけていた朝も、ね」

わたしはとっさに言葉を発した。

「監視していたのか?」

スズメの首が鷹揚に回った。

「監視じゃないな。目的が違う。わしはただ、見ただけをおまえに伝えたにすぎん。監視者はそんな真似はせんだろ? 塔は壊れても、音は残る――そうおまえに知らせてやりたかったが、そんな程度のことは知っているだろう?」

わたしは頷いた。

「一度見たものは忘れない。だけど壊れた形は、音として別のものになる」

「じゃあ、今度は音を元に築く番じゃないか?」

「そういう手も、あるかもな」

スズメは、濁った瞳の奥でかすかに笑った。

「そのガラス片が鳴るたび、風が記憶として胸にしみ込むのだ――見えない塔なんだ」

わたしは、それが揺れるたび、空間が歪むような気がした。

――チリリン。

確かに聞こえた。いや、聞こえるというより、思い出されたのだ。

「風の記憶? 確かに見えなくとも音はする」

「おまえの塔には、誰かが勝手に物語をつけたようだな」スズメが羽を震わせた。「伝説ってやつは、作った者よりも、見た者が勝手に作り上げるもんだ。それこそが、記憶の塔というものだろう?」

私は心外な気持ちをくちばしの先で表した。

「とんでもないデマをでっち上げる奴がいるものさ。世の中にはその手の奴が五万といる」

「伝聞ってやつだ。そこから伝説になっていく。音は強烈だな」

「噂に戸は立てられない、っていうくらいだからな」

スズメが眉に唾をつけながら言った。

「塔は十の試練を越えた者にだけ見える、って教えてるけど。それも、でっち上げなのかい?」

わたしは皮肉を吐きつけた。

「まあ、お前が目の前に見たわけだから、十の試練を越えたんだろうな」

スズメがクスっと笑った。

「見ていてやるよ。試練なんかなくても、見えるものには見えるわけだからな――鏡みたいに」

そうか、鏡か。鏡はその役割だったのか。

あの、鏡の中のわたしの顔は、虚像だった。ただ、見えるにすぎない黒い顔。そうすると、この老いぼれスズメも、単に見えている虚像かもしれない。

わたしは風鈴を指さした。

「その鏡は何なんだ?」

スズメが皮肉な笑いを浮かべた。

「鏡は虚像しか返さない。それは、掴めない真実だ。どうしてだか、分かるか」

わたしは誤魔化されるわけにいかない。

「それは反射だからだろう」

スズメが悔しそうに頷いた。

「よかろう。じゃあ、上下逆さまにならないのは、なぜだか分かるか?」

わたしはガラクタ集めで習得した経験を思い起こした。

「上下逆さまになるためには、レンズのように透過せねばならない。そうすりゃ上下逆さまになるなあ」

「それでもつつけば届くのさ。違いが分かったろ? 鏡の向こうのカラスをつついてもそいつを掴むわけにはいかん。お前のは、虚像に過ぎなかったんだよ」

わたしは老いぼれスズメの話の核心がようやく分かった。

「芸術を、虚像扱いするのか? 冒涜する言葉だな」

老スズメが大きくくちばしを開いた。

「芸術のつもりが虚像を掴む。お前らしいよ」

わたしは、大きな羽ばたきをして鏡の鈴を鳴らした。老スズメのほうは、パッと翼を広げたかと思うと、廃屋の中に姿を消した。まるで、そこに住み着いた亡霊でもあるかのように――ふいっと消えた。チリリン、音と共に。

――そうするうち、最近、見かけぬ若者が塔の痕跡を辿っているらしいという噂が耳に入った。

わたし、クロエモンは、つくづく年をとった。羽はかつてより鈍くなり、声もかすれて鳴きづらくなった。意識する度に嫌になる。だが、風を読む目と、音に宿る記憶を聞く耳だけは、まだ冴えている。意識に降る無数の響きが、かすかに塔の骨を鳴らした。

あれから、石の鈴、瓶の風口、羽根のこすれる枝の継ぎ目――それらが風に鳴り、新しい芸がお披露目となった。

若きカラスたちは言った。

「ここには物語がある」

「この枝で寝ると、夢に塔が現れるんだ」

記憶の回廊にようやく風が通った。

見えないまま、そのかすかな記憶の構造は、遠くで誰かの心に小さな塔を建てているかもしれない。

こういうやり方も、悪くない――そう思った。

ある朝、見知らぬ若者がわたしを訪ねてきた。

全身を煤で汚し、羽先を火傷で焦がしたようなそのカラスは、まるで風の噂のように現れた。

「クロエモン様、ですか」

様だって? 耳を疑った。あの、噂で耳にした若者か?

「わたしはユキマルと申します。あなたの塔の後継者となるべく旅してきました」

「後継者?」

「はい。この地に、記憶を音に変える術が伝わると聞きました。それは、かつて『濡れ羽色の神殿』と呼ばれた伝説の塔の技。そこに至るための音の地図が、いまや失われつつあるのです」

わたしは、軽く頭が痛くなるのを感じた。

まさか。伝えたはずのないものが、伝説になっていた。

「誰がそんなことを言っていた?」

「都では、火事で仲間を失いました。鳴いても、風は何も残さないと思いました。けれど、誰かが音を撒いていたと聞いて、それを確かめたかったのです。都の西の松林に、濡れ羽色の神殿の語り部を名乗る者がいます。彼は、塔は十の試練を越えた者にだけ見えると教えます。そして、その試練の一つに、塔の創始者の元を訪ねよとあったのです。あなたの名と共に」

わたしは口を開けたまま、空を見上げた。

「十の試練」だと? あの老いぼれスズメ、デマの出所を知っているのか?

それは――つまり――誰かが勝手に、わたしの行いを伝説に仕立て、今も広めているという証拠だ。

どこぞの商売人か宗教屋の仕業か。もしかすると、いや、まさかな。

白寿亀?

いや、あの亀ならこんな嘘じみた話は仕立てない。

わたしが教わったのは、むしろ「塔とは壊れたあとの記憶のこと」だったはずだ。

わたしは若者ユキマルに問うた。

「それで、どうしたいのだ?」

彼は真っ直ぐに、煤けた目でわたしを見た。

「わたしも塔を作りたいんです。見える塔じゃない、音の塔、記憶の塔を。けれど、まだ芯が足りない気がする。どうか、あなたの塔の残響を、聴かせてください」

わたしは迷った。

これは愚かな誤解かもしれない。伝説に踊らされている軽薄もの。けれど、その眼差しは真剣だった。かつての自分を見ているようでもあった。

「ならば、ついてこい」

わたしはユキマルを、かつての塔の痕跡へと連れていった。

そこには、まだ風が鳴っていた。

緑珠石の芯は失われて久しかったが、針金の残骸が鳴らす音が、わずかに思い出の音を残していた。

「耳を澄ませ」

ユキマルは目を閉じた。

風が吹いた。チリリン――ガラスの響きが、わずかに蘇った。

そのときだった。彼が小さく、ひとりごとのように言った。

「この音、あの地図に描かれていた青い雫と、同じ記号」

わたしは聞き逃さなかった。

「何だと? 青い雫?」

その「青い雫」とは、雨上がりの水面にひとしずく落ちた露が空の色を宿し、夜露が凍りつくほど冷えた早朝にだけ蒼く輝くという伝承の宝玉だ――白寿亀の言葉に嘘はあるまいとは思うが。

「ええ。地図にこう記されていました。青い雫を受けし者、最後の塔の芯を得る、と。これを、あなたが持っているのではと」

わたしは思わず笑った。

青い雫――塔の支えになるはずだったのに。

わたしは、ユキマルの前に指差した。

「これが、お前の求めているものだ」

泥に沈んだ真鍮の針金やガラスの砕片が散らばるなか、一片だけが朝日にきらりと光った。

砕けた鏡のかけらは、遠い雲の影を映しながら、壊れた過去を淡く記憶として呼び起こしていた。

彼は、目を見開いた。そして、涙を一筋、落とした。

「これが、思い出すための芯、なんですね。目に見える塔を信じすぎた自分に、音で語る塔の意味を思い出させてくれました」

わたしは少し磨きをかけてやった。

「嵐に耐えられず、時の重みに耐えられず」

彼は首を振りながら胸を叩いた。

「私の目は節穴でした。何か象徴的な宝石があるものとばかり思っていました。自分の観念に騙されていたわけです」

何の変哲もないガラス片こそが求めるものだと分かって、がっかりした。そんな様子が一瞬見えたが、姿勢を立て直した。

「百聞は一見に如かず、でした。わたしは一歩手前で踏みとどまれたわけです」

この若者は、誤った地図に導かれ、偽りの塔を目指していた。だが、この破片を見て、現実を突き付けられた。

わたしはひと言、返した。

「一見は真実にあらず。見たからといって無批判に呑み込むのではなく、すべて検証すべきだよ」

偽物の虚飾性に耐えきれず、自ら問いを立て、本物の記憶に立ち戻った者の目付きだ。

つまり彼は、偽りを疑うことで、自ら舵を切り、本物の塔へと歩を進めたのである。わたしはわずかに助け舟を出しただけだ。

さもなければ、私に到達するはずがない。芸術とは、まさにそのようなものであるだろう。本物の芸においては、一点の嘘も生きる余地はない。

ユキマルが青い雫を風鈴の芯に据え、それをそっと胸に抱く姿は、かつてのわたし自身を映し出しているようだった。その雫は、塔の記憶だけでなく、音の中に生き続ける新しい可能性を象徴しているのだろう。たとえ本物は失われてしまっても、物は代わりのもので間に合うのだ。

それから数日後、ユキマルは旅立った。青い雫を風鈴の芯に仕立て、自らの塔をどこかに作ると言った。

わたしはただ、そっと見送った。何も伝えずに。

塔は、もはやわたしのものではない。

音も、記憶も、誰かの心の中で響くものだ。

 

わたしは、老いが深刻な程度にまで進んでしまったらしい。

目はかすみ、羽は抜け落ち、足はよぼよぼだ。

難聴で耳すら当てにならないが、風のなかに、ときおり誰かの囁きを感じるようになったのは、いつからだったか。

ある日、霞んだ視界に細い金属パイプが揺れるのが見えた。

枝の先にぶら下がったそれは、風鈴の代わりにわずかに羽根同士が触れ合う音を鳴らしていた。

芯には、あの、失われたはずの緑珠石。響く音は――かつての塔の音と似ていたが、どこか若く、力強かった。

それは、塔の最初の点だった。

その晩方、わたしは池の端で、正真正銘、白寿亀と出会った。

「やっとガラクタの塔が、本物になったようじゃの」

あの声だ。静かでしわがれた声。

その皮肉な口調に、一面の真理が立ち上がる。

――カラスの芸術、壊れて初めて芸となる。

わたしは首を振って問いかけた。

「まさか、おまえが地図を描いたんじゃあるまいな」

返事は素気なかった。

「お前の頭は、それほど粗雑なのか?」

わたしは質問を変え、くちばしの先を尖らせた。

「なぜ偽物の緑珠石を置いた?」

老亀が涼し気に無表情を装った。

「真実に気づくか、試したかったからじゃ。お前の芸術を支える芯は、素材ではなく問い続ける意志じゃよ」

わたしは抗議の意気込みで翼を大きく広げた。

「意思だと?」

亀は甲羅から一枚の黒い羽根を取り出し、そっと差し出した。

「これがお前の本当の芯。塔という形が壊れても、問いは残る」

わたしは目を閉じた。

――チリリン。

あらゆる形は壊れる。だが、そこに込めた問いだけは消えずに響き続けるのだと、わたしは知った。

 芸術家カラスは、実像にしろ虚像にしろ、存在そのものがとかく誤解されるのはやむを得まい。

どうせなら、左右逆に見えるより、上下逆さまに見えるほうが、蹴上(けあ)がりが趣味だったわたしには好みであるが。

 

 

 

[ライタープロフィール]

野上勝彦(のがみ かつひこ)

1946年6月、宮崎県都城市生まれ。10歳の秋、志賀直哉と出会い、感銘を受ける。20歳のとき関節リウマチを発症、慶應義塾大学独文科を中退。数年間、湯治に専念。画家になるか作家になるか迷った末、作家になろうと決める。長編小説20編以上の準備をするが、短編小説数編しか発表できず。31歳のとき、文学を学び直すため、早稲田大学第二文学部に入学。13年浪人という形になった。英文学専攻、シェイクスピア学を中心に学ぶ。足かけ5年間、イギリスに留学。留学中父親を亡くす。詩人のグループに属し、英詩を書き、好評を得る。1989年末、帰国。教員となる。12歳の時、最初の短編小説を書いて以降、題材を2000本以上書き留める。2010年、本務校を退職。同僚先輩から借りた本代1000万円を完済。2017年、非常勤講師をすべて定年退職。2018年、最初の評論集が『朝日新聞』書評欄で取り上げられる。最初の長編小説を完成させたのが2019年。いずれも出版に際し、グリム童話研究家金成陽一氏の紹介により河野和憲社長(当時編集部長)のお世話になって、現在に至る。2024年、短編小説の執筆戦略を練り、題材帳をもとに書き始める。現在、未発表短編1000作を数える。

【単著】『〈創造〉の秘密――シェイクスピアとカフカとコンラッドの場合』彩流社、2018年。『暁の新月――ザ・グレート・ゲームの狭間で』彩流社、2019年。『始源の火――雲南夢幻』彩流社、2020年。『疾駆する白象――ザ・グレート・ゲーム東漸』彩流社、2021年。『マカオ黒帯団』彩流社、2022年。『無限遠点――ザ・グレート・ゲーム浸潤』彩流社、2023年。

【共著】『シェイクスピア大事典』日本図書センター、2002年。『ことばと文化のシェイクスピア』早稲田大学出版部、2007年。The Collected Works of John Ford, Vol. IV, Oxford: Oxford University Press, 2023.

【論文】‘The Rationalization of Conflicts of John Ford’s The Ladys Trial’,Studies in English Literature, 1500-1900,32,341-59,1992年、など37本。詳細についてはウェブサイトresearchmapを参照。

【連載】『近代神秘集:生きもの編』、ウェブマガジン『彩マガ』彩流社、2025年4月16日より。

 

 

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