第38回 なぜアンは林檎の並木道を《歓びの白い路》と名付けたのか?
南野 モリコ
桜が大慌てで開花しそうな陽気ですね。アンが一年でいちばん好きな春の到来です。今月はアンの「名付け」について深読みしてみました。「ふーん、こんな見方もあるのね。桜のミルクティー、飲みたい」というくらいに、気楽にお読みください。
アンが好きなものに「名付け」をするのは、「所有して愛情を注ぎたい」から?
『赤毛のアン』は、ノヴァスコシアの孤児院から孤児アン・シャーリーが、「男の子と間違って」プリンスエドワード島のマシュー、マリラ兄妹の住むグリーン・ゲイブルズに送られてきたところから物語は始まります。プリンスエドワード島の美しさに魅了され、卓越した言葉のセンスの持ち主であるアンは、《歓びの白い路》《輝く湖水》《恋人たちの小径》など、気に入ったスポットに「名付け」をしていきます。アン読者にとっては、もっともアンらしい部分のうちのひとつですよね。
グリーン・ゲイブルズの前の桜の木に《雪の女王様》と名付けています。さらに窓辺に置かれているアップル・ゼラニウムにまで「ボニーと呼んでもいい?」と言っています。マリラは「こんな子は金輪際、知らないね」と呆れつつも、「マシューが言うように、確かに面白い子だ」と認めかけています。
アンの「名付け」は、読者の心を掴んでいるように、マリラや周囲にいる人を楽しませるものであるのに違いありませんね。現代であれば、アンはその抜群のワード・センスを活かして、コピーライターやマーケティングの業界で成功しそうです。
しかし、どうしてアンは、林檎の並木道からゼラニウムに至るまで「名付け」をするのでしょうか?
確かにアンのように言葉が得意な人がキャッチーな名前を付けたら楽しいことでしょう。それに、名前がないよりある方が、話をする時に伝えやすいかもしれません。
でも《歓びの白い路》には「並木道」、《輝く湖水》には「バリーの池」というように、必要があれば自然発生的に名前が付くものです。マリラも最初のうちは「ゼラニウムに名前をつけるなんて、どういうつもりだろうね」と若干、引いていますよね。
その時アンは、「ものには呼び名をつけるのが好きなの。ぐっと人間らしく感じられるもの」と答えています。アンは、グリーン・ゲイブルズにやってくるまで、両親を早くに亡くし、引き取られたトーマス家、ハモンド家でもその家の子どもとして迎えられたわけではないので学校にも通っておらず、子どもとしての豊かさがありませんでした。
11歳になるまでアンは、自分を相手にしてくれる家族も友達もいなかったのです。子どもらしいおもちゃを持っていたとも思いません。アンには何も持っていなかったのです。アンは名前をつけることで、名付けたものを所有しているような気分になり、愛情を注ぐことで自分の物質的な寂しさを埋めようとしたのではないかと深読みしました。
アンは、自分だけの素敵なものを「好きなだけ愛したい」。
アンのおしゃべりから深読みすると、アンが最初に名付けをしたのは、本棚の中に住んでいる「ケイティ・モーリス」です。本棚のガラスに映った自分を友達だということにして、何時間でもおしゃべりしていたとアンはマリラに話しています。孤独を想像で紛らわしているアンに愛おしさが溢れだして止まらない章ですが、アンが名前をつけるのは「友達にして愛情を注ぎたいから」ということが、このエピソードから分かります。
グリーン・ゲイブルズに来た翌朝、アンは置いてもらえない悲しみをマリラに「素敵なものを愛さないでいるのはとても難しいわ。だからここで暮らすんだって思った時は嬉しかったの。いろんなものを好きなだけ愛せると思ったからよ」と言っています。アンは、思う存分、愛情を注げるものが欲しかったのです。
《歓びの白い路》も《輝く湖水》も、一目で好きになり、「友達」にしたかたった、自分の一部のように愛し慈しみたかった。アンの所有欲と卓越したネーミング・センスから「名付け」をし、《恋人たちの小径》も《ドライアドの泉》も生まれたのではないかと深読みしました。
筆者モリコもアンのまねをして今もなお、名付けを試みています。アンと違って、私の名付けは定着しないものがほとんどなのですが、それはやはりワードセンスの問題でしょうか。
[参考文献]
モンゴメリ著、松本侑子訳『赤毛のアン』(文藝春秋、2019年)
[ライタープロフィール]
南野モリコ
『赤毛のアン』研究家。慶應義塾大学文学部卒業(通信課程)。映画配給会社、広報職を経て執筆活動に。
Twitter:南野モリコ ID @names_stories