あてにならないおはなし 第33回

第33回 わたしの体験的居場所論 その8

阿部 寛

 

今回は、「わたしの体験的居場所論」からいったん飛躍するが、個人的居場所論を語る上で欠かせない、前置きのお話をさせていただきたい。

 

わたしには、「計画性」というものがない。いろいろと能書きは垂れるけど、理性的ではない。直感、思い付き、ひらめきは、好きだし、センスがいい方かもしれない。小さい頃は、いろんな境遇を生きる大人たちに囲まれていたため大分変わった子どもだった。小学生のときは毎週日曜の朝にNHK総合で放映される「日曜討論」を見て、いっぱしの政治評論を父親と闘わせていた。

しかし、「社会」に適応しないといい暮らしはできない、というくらいの「思慮=浅知恵」を身につけ始め、高度経済成長期を生き抜く戦略として受験勉強に集中した結果、中学生のときは成績優秀かつ従順な少年となる。次第に、学校の成績で人を評価し、優劣をつける価値観、それと表裏をなす差別・偏見を身につけていった。

高校生時代をどう生きていたのか、わたしにはほとんど記憶がない。常にイライラし、情緒不安定、誰かれなく噛みついていた。そんな中で、強烈な印象として記憶に残る出来事が起きた。大学受験を目前に控えた高校3年生の秋、クラス対抗スポーツ大会が開催された。雨天が続き、泥んこ状態のグラウンドコンディションの中、サッカーの試合が強行された。そして、わしたちの前の試合では、頭からまっさかさまに転倒した男子学生が、意識を失い救急搬送された。それでも大会は続行され、わたしたちの試合では、ボールを奪い合う相手チームの選手から右足を強打され、わたしは右下肢の脛骨と腓骨の両方を折る重傷を負った。そして再度、救急車が出動され、わたしは市内の外科病院に担ぎ込まれ、2カ月の入院生活を送ることとなった。

スポーツ大会の開催強行と2名の学生の重軽傷事故が発生ということで、学校側の主催者責任についてはどんな議論がなされたのだろうか。わたしには、教職員の誰かから直接の謝罪も、事故についての責任及び改善対策について説明も受けた覚えがない。

一方、友人たちからは熱い友情を受けた。

受験を控えた高校3年の同級生たちが、かわるがわる授業のノートを持参してくれた。特に、柔道部のT君は毎日のように病院に見舞いに来ては面白い話をして笑わせた。さらには、小・中学校時代の同級生も、わたしの入院を知って、何人も駆け付けてくれた。ほんとうに、ありがたいことだ。

しかしながら、友人・知人の心配や励ましのことばとは裏腹に、当時のわたしの正直な気持ちを言わせてもらえば、「ああ〜、これでオレの大学受験は終わったな。やっと休める」と安堵したことだけは、鮮明に覚えている。

おそらくは、以前から徐々に、「いい大学に入って、いい会社に就職して、高収入を得て、結婚をして、安定した家庭生活を築く」という人生設計を立てることに疑問を持ち始めていたが、この入院事件が、既定路線からの離脱を決定づけたように思う。

わたしの中・高校生時代は、1960年代後半から70年代前半、全国各地で学園闘争やベトナム反戦闘争が展開された時期と重なる。山形の山間地域に息をひそめて暮らすわたしも、次第に社会変革の潮流の影響を受けていった。時代閉塞の社会状況と、地縁・血縁と家父長的人間関係が色濃く残る精神風土から抜け出したいと、地域からの脱出をもくろんでいた。

その後の、東京暮らし、大学浪人生活、大学入学と神田・お茶の水から多摩への大学移転問題での反対闘争云々については詳細を省くが、法学部に在籍した4年間は、留年することもなくなんとか卒業できた。

学問の自由と大学の自治並びに移転闘争に燃えた者、司法試験に挑戦する者、公務員試験に挑む者、企業への就職を希望する者など、学友たちはそれぞれに自らの人生設計を立て、各地へ散っていった。

そんな中、わたしは、ゆっくりと自分のペースを崩さず、その日暮らしを続けていた。先の人生に不安がなかったわけでは決してないが、具体的な目標を見いだせずに、「何か」を待ち続けていた。その当時の法学部生には「司法試験受験」というモラトリアム期間が社会的に許される言い訳があった。わたしには、弁護士・検事・裁判官等の司法職になる意思も希望も可能性もなかったが、無職・無目的の説明が面倒くさいため、「あっ、そうです。司法試験受験生です」と答えることにした。

だが、わたしの無計画性、将来設計のなさをしっかり見抜いている人たちがいた。同じゼミに所属する女性がそのひとりだ。わたしは彼女のことが好きで、また彼女もわたしに好意を抱いていた。卒業も近づき、進路の決まらないわたしにしびれを切らし、「阿部君は、卒業後の生活はどうするの?」と尋ねてきた。わたしは正直な気持ちをありのままに彼女に伝えた。

「わかんない。」つまり、何も考えていない、ということだ。

彼女は思い切ってわたしの本心を聞こうと尋ねたのだろう。「私と一緒に生活するつもりがあるのか」と。

「阿部君は、何を考えているのかさっぱりわからないわね」

彼女から吐き捨てられた、ため息混じりのフレーズが、わたしたちが交わした最後の言葉となった。わたしは、彼女を引き留めるものを何一つ持ち合わせていなかった。

学部を卒業した後、新宿の「しょんべん横丁(親不孝通り)」の焼き鳥屋でアルバイトをしたり、家庭教師をしたりしてなんとか食いつなぐうち、もう一度犯罪学を勉強したいという思いが募ってきた。「アメリカ犯罪学研究会」(藤本哲也先生主催)の門をたたき、そののち法学研究科刑事法専攻の大学院生となった。

 

振り返ると、わたしの学歴は非常に長い。

小・中・高校の12年間、大学受験の2年間の予備校生活、大学4年間、そして2年間のフリーターの後、大学院修士課程3年。合計、
21年間も学校というところに通ったことになる。しかも、1983年2月に発生した横浜日雇労働者襲撃事件(マスコミは浮浪者殺傷事件と報道)の調査のため、横浜の簡易宿泊所街「寿町」に通い始め、ほとんど研究室には戻らず、1984年からは日雇労働者となった。わたし自身の最終学歴が、大学院修士課程中退なのか、除籍なのか、よくわからない。まあ、どうでもいいけど。

わたしの職歴と言えば、29歳のときの日雇労働者から始まって、部落解放同盟神奈川県連合会専従職員、精神障害者の就労支援施設を運営するNPO法人代表理事などに従事してきたが、履歴書を提出したことは一度もなかった。

生まれて初めて履歴書を提出したのは55歳の時。2011年4月、横浜パーソナル・サポート・サービス「生活・しごと∞わかもの相談室」(以下、「若者相談室」と言う。)だった。その直前の2011年3月11に、東日本大震災が発生し、若者たちの生活や就労状況は困難を極めていた。

 

採用面接試験では、こんなやり取りがあった。「若者相談室」の代表Iさん(30歳代の若者、NPO法人理事長)が、わたしの手作りの履歴書をじーっと見つめている。そして、にっこり笑って、

「いいですねー。僕は初めてこんな履歴書を拝見しました。職歴の1行目、『日雇労働5年』。そんな人を相談員として探していました」

この一言で、一発採用。

なんともいい加減な採用試験だったが、それほどまでに、わかものを取り巻く「生きづらさ」の状況は、深刻だった。

〜つづく〜

 

[ライタープロフィール]

阿部寛(あべ・ひろし)

1955年、山形県新庄市生まれ。生存戦略研究所むすひ代表。社会福祉士。保護司。 20代後半から、横浜の寄せ場「寿町」を皮切りに、厚木市内の被差別部落、女性精神障害者を中心とするコミュニティスペースで人権福祉活動に取り組む。現在は、京都を拠点として犯罪経験者・受刑経験者、犯罪学研究者、更生保護実務者等とともに、ひとにやさしい犯罪学、共生のまちづくりを構想し共同研究している。

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