あてにならないおはなし 第37回

第37回 あらためて「識字」を考える

阿部 寛

この連載も、いよいよ最終盤にさしかかってきた。ここで、改めて「識字」について考えてみたい。

わたしが「識字」に出会ったのは、以前にも書いたように、横浜の簡易宿泊所街・寿町で取り組まれていた寿識字学校だった。

 

寿識字学校には前史がある。かつて寿識字学校をけん引した大沢敏郎さんの著書『生きなおす、ことば 書くことのちから―横浜寿町から』(2003年10月、太郎次郎社エディタス)を参照して、寿識字学校発足の経緯を略述したい。

 

1978年12月1日、長岡長一さん(「愛称「ちょうさん」)が住んでいた簡易宿泊所「永楽荘」の3畳一間の部屋で発足した「寿寺子屋」が、寿識字学校の端緒である。その当時、寿町で暮らす日雇労働者やその支援者によって「寿夜間学校」が開催されており、それぞれが自分史を語り、日本の政治・経済・文化の構造と矛盾について学習していた。その席で、長岡さんが夜間学校を主宰していた野本三吉さん(当時、横浜市職員)に向かって次のように要望した。

 

「おれは、二日間しか学校に行っていない。だから文字の読み書きができない。あ・い・う・え・お、から字を教えて欲しい」

 

この長岡さんの勇気と決意のひとことから寿町の識字学習が産声を上げた。

1980年6月には、簡易宿泊所「マンション丸光」の4階6畳の和室に場所を移動し、さらに1981年3月に寿生活館4階の会議室に学習の場を移し、「寿識字学校」と名称を改めて「全公開」の識字学習がスタートした。つまり、「寿寺子屋」に集う日雇労働者限定ではなく、寿町で生活する住人、さらには寿町の外から出かけてくる人も含めて参加自由という学習形態をとった。

 

その4年後、わたしは「寿識字学校」に始めて参加した。1982年12月から83年2月にかけて連続して発生していた「横浜「浮浪者」連続殺傷事件」(横浜日雇労働者連続襲撃虐殺事件)を単独調査するために寿町を訪れ、寿町の住人が自主的に取り組んでいる地域活動に感銘を受けた。その中でも、私自身の興味・関心を最も引き付けたのが寿識字学校だった。

わたしは、小学校6年、中学校3年、高校3年、大学4年、大学院3年、その他予備校2年と、学校教育体験期間が人一倍長い。

そのため、読み書きには苦労がなく、「識字学校に通う人たちに、文字の読み書きを教えられるのではないか」と、思い込んだ。

その傲慢かつ軽率なわたしの考えは、初参加のときに強烈なカウンターパンチを食らった。

初めて参加した日の寿識字学校での衝撃的な出会いは、本連載の第4回目「自分のことばが欲しい」に記したとおりである。わたしの前に眼光鋭く立ちはだかった溝畑光夫さんのひとこと、「自分の人生を語ってみろ!」は、識字の本質そのものであり、「生きることと学ぶことが一体」のものだった。

 

大沢さんからは、「経済的に恵まれ、両親の愛を受けて大学院まで行かせてもらったのだから、これからはその恵みを「社会」に返してくださいね」と、声をかけられた。

そうだ、わたしがやり続けてきたことは、「もらったものは自分一人で抱え込まずに、社会の人々に返すこと」。この一念だったように思う。

その後、日雇労働者連続殺傷事件の調査を続けながら、毎週金曜日夜には識字学校に欠かさず参加した。

八王子にある大学院からは次第に足が遠のき、わたしはついに大学院をやめ、寿町のドヤに住み込んで日雇労働を始めた。

翌年には、寿町そばに創設された「たまり場ユンターク」の住込み管理人となり、その後は、横浜市内のアパート、厚木市内の被差別部落、民間アパートやマンション、さらには京都へと住まいを移し、さまざまな仕事と地域活動をしてきた。何度か転居し、生活と地域活動の場を変えてきたが、その活動の柱に「識字」が座っていた。

 

1985年5月、寿町のそばに「たまり場ユンターク」が開設され、その活動のひとつが寺子屋ユンタークだった。そこでは寿町で暮らす精神障害者や日雇労働者、近所のこどもたち、大学生などが「識字」に取り組んだ。

 

1995年5月、神奈川県厚木市で被差別部落のこどもたちとの勉強会が始まり、それが核となって、地域人権学習会「ぼちぼち」が誕生した。参加自由のスタイルを取ったため、学習者は、被差別部落出身者、精神障害者、ベトナム難民、ブラジル移民経験者、発達障害者、清掃労働者、教員、牧師など様々だった。ここでの活動の柱は、識字、ミーティング、人権学習だ。

 

2010年6月、民主党政権のもと内閣府モデル事業パーソナル・サポート・サービスがスタートし、全国各地で生活困難を抱える若者たちを伴走型で支援する事業が動き出した。神奈川県では横浜市青少年局が窓口となり、NPO法人ユースポート横濱が受託した。相談室の名前は「生活・しごと∞わかもの相談室」(通称「若者相談室」)。そこに相談者として訪れた若者たちとともに、わたしともう一人の相談員冨江真弓さんが主となって、PS事業とは別の自主活動として共食の会、当事者研究等を立ち上げた。同じころ、横浜市石川町にある障害者の生活と就労の場、NPO法人「シャロームの家」(原木哲夫さん・初美さんが運営)から「識字」をやろうとわたしに声がかかり、識字教室「ゆったり会」が始まった。そこに若者相談室のメンバーが合流させてもらった。

 

2016年11月には、長期受刑者の社会復帰プログラム開発研究を目的としてAPS(After Prison Support)研究会が発足した。共同代表は、石塚伸一さん(龍谷大学法学部教授)と五十嵐弘志さん(NPO法人マザーハウス代表理事)の2人で、受刑経験者、犯罪学や刑事学の研究者や実務者、更生保護の実務者、犯罪加害者家族、その他の支援者などが参加し、京都と東京で交互に月1回ずつ定例研究会を開催している。その活動の一環として受刑経験者の当事者ミーティングと識字が毎月1回東京で開催され、わたしと安髙真弓さん(社会福祉専門の大学教員)が共同学習者としてAPS研究会から派遣されている。

 

以上が、わたし自身の識字学習活動歴である。振り返れば、これまで自分の生活の場を求めて各地を放浪してきたが、決して「識字」を手放さなかった。手放したら、寂しくて、ひどく孤独で、生きる気力や意欲を失い、調子が悪くなったのではないだろうか。

 

次回からは、識字で出会った人々とその作品を中心に、わたし自身の経験に基づいた「識字とは何か」を語りたいと思う。

 

 

[ライタープロフィール]

阿部寛(あべ・ひろし)

1955年、山形県新庄市生まれ。生存戦略研究所むすひ代表。社会福祉士。保護司。 20代後半から、横浜の寄せ場「寿町」を皮切りに、厚木市内の被差別部落、女性精神障害者を中心とするコミュニティスペースで人権福祉活動に取り組む。現在は、京都を拠点として犯罪経験者・受刑経験者、犯罪学研究者、更生保護実務者等とともに、ひとにやさしい犯罪学、共生のまちづくりを構想し共同研究している。

 

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