あてにならないおはなし 第38回

第38回 わが個人的識字論について

阿部 寛

一般的には「識字」はどのように理解されているのだろう。

広辞苑(第4版)では、識字とは「文字の読み書きができること」と説明されている。

また、ユネスコ(UNESCO United Nations Educational Scientific and Cultural Organization 国際連合教育科学文化機関)の定義では、「日常生活で用いられる簡単で短い文章を理解して読み書きができること」と説明されており、識字率については、「総成人人口(15才以上)に対する推定成人識字者の割合を百分率で表したもの」としている。

2020年のユネスコの調査によれば、2004年~2018年における各国の識字率は次の通りとなっている。識字率が90%以上の国はインドネシア、オマーン、サウジアラビア、ベトナム、タイ等21か国、80~89%の国はエルサルバドル、ジャマイカ、イラク等15か国、…(中略)…30~39%の国は中央アフリカ、マリ、ギニア等5か国、30%以下の国はチャドとなっている。総計すると、世界にはいまだに文字の読み書きができない人が約7億7300万人いると推計されている。

では日本の識字率はどうか。文部科学省は全国的規模での識字の実態調査を実施していないため、その実際は不明であるのに、日本の識字率はほぼ100%に近いという「虚構」がまかりとおっている。

しかしながら、1960年代以降、福岡の被差別部落から始まった識字運動と各地の識字教室、在日コリアンの人々が学ぶ識字教室、戦後に来日した多くの移住労働者が学んでいる全国各地の日本語教室などとその学習者をどう認識するのか。さらに、夜間中学で学ぶ人たち、高校中退者、不登校の経験者など、学習権を保障されずに、文字の読み書きに苦労している人々は「非識字者」ではないのか?

さらに、非識字者に対する差別や社会的排除が強烈な日本社会においては、非識字者であること、文字の読み書きに苦労している事実を告知することが極めて困難だ。つまり、日本においては、そもそも識字及び識字率に関する公式データがなく、それに加えて「非識字」の事実を公表しにくい現実があるために「非識字者」の「暗数」が多数存在する。

 

さて、識字活動や識字運動についての考え方は、どうであろう。「文字の読み書きを修得する取り組み」という理解もあれば、「被抑圧者の解放教育」とする考え方、また「文字の読み書きができるかできないかを超えて、獲得したことばと文字で、自分自身の生き方や社会の在り方を変革する、生き直しの営み」と認識する理論と実践など、多様である。

国際的にはブラジルのパウロ・フレイレ『被抑圧者の教育学』(新訳・三砂ちづる、亜紀書房、2010年)があり、日本においては横浜寿識字学校を主宰した大沢敏郎の『生きなおす、ことば 書くことのちから―横浜寿町から―』(太郎次郎社エディタス、2003年)などが、識字運動や識字活動の理論と実践の重要な基本書となっている。

ここでは、それらを踏まえつつ、わたし自身が各地を放浪し、たどり着いた先々で出会った人々とともに立ち上げた「識字(語りと綴りの場)」のことをお話したいと思う。

 

まずはじめに、30代半ばの男性で統合失調症を抱えるKさんとの共同学習において起きた「不思議な」出来事を紹介したい。

Kさん親子とわたしたちとの出会いは、北海道浦河町にある精神障害者を中心とする生活拠点・浦河べてるの家が主催する「当事者研究大会」の場だった。神奈川県厚木市に拠点を置くアジールの会は、女性の精神障害者専用のコミュニティ・スぺース兼就労支援施設で、設立当初から「食」とミーティングを活動の中心に据えていた。それゆえ、浦河べてるの家が発案した、ミーティングのユニークな理論と実践について注目していた。「3度の飯よりミーティング」、「手を動かすより口を動かせ」というキーワードにドキドキし、そこから発展した「当事者研究」に大注目した。アジールの会は、べてるの家の取り組みに希望を見出し、毎年浦河を訪問し、べてるの家のメンバーを厚木に招待し、相互交流を重ねてきた。

「精神障害を抱える当事者が、自分自身で、かつ仲間同士で悩みと苦労の情報公開をし、その経験知と技を共有する」当事者主権の生活態度が全国的に注目され、2004年第1回当事者研究全国交流集会が開催され、アジールのメンバーも研究報告を行った。

そして、2007年に第4回当事者研究全国交流集会の場で、Kさん親子と出会った。

当時のKさんは、統合失調症の影響のためか他者との対話が極めて困難で、日常生活において居場所となる場や就労支援施設を求めて各地をさまよっていた。そして、一縷の望みを胸に浦河べてるの家にたどり着いたのだった。そこで、壇上で研究発表する同郷のアジールの会のメンバーの姿を見出し、Kさんのご両親は歓喜して声をかけ、交流が始まった。

しかし、残念なことにアジールは女性の精神障害者専用の居場所兼就労支援施設で、男性であるKさんは利用できない。ただ、アジールのメンバーも通っている地域人権学習会「ぼちぼち」は男女共学の居場所兼学習の場であるため、そこに通ってみようということになった。

わたしがKさんとお母さんにお会いしたのは、アジールの会が経営する玄米おにぎり喫茶「はなしやぼの」だった。Kさん母子が来店された知らせを受け、わたしはすぐに飛んで行ったが、すでにKさんの姿はなかった。「3分と座り続けていられないんです」と失望する母親が、なんとか「ぼちぼち」に通わせたいと懇願し、Kさんが統合失調症を発症してから今日までのKさんの生活状況と居場所探しの「長い旅」についてお聴きした。

「通うか通わないかはKさんに任せて、まずはお母さんが通ってみたらいかがですか」。

わたしは、そうお答えして、ぼちぼちの次回の開催日時と場所をお知らせした。

2007年6月、Kさんとご両親がぼちぼちの開催会場に現れた。ぼちぼちは、ミーティング、識字、人権学習の3つを柱に取り組んでいる。のべ3時間に渡る学習時間は、慣れてくるとあっという間の時間なのだが、Kさんにとっては果てしなく長い時間に感じられるのではないか。18時から始まった学習会だが、Kさんは10分と続けて座ることができず、学習会の部屋から姿をくらました。ところが、まもなく、Kさんは戻ってきた。ビニール袋を手にぶら下げて、その中には缶コーヒーが1個入っていた。しばらくすると、Kさんは再び部屋から出て行った。そして、戻ってきたときにはビニール袋の中に、缶コーヒーがもう1個増えていた。この不思議な行為がもう一度繰り返されたが、Kさんは結局ミーティングでは声を発せず、識字ではペンを持たず、人権学習ではひとりごとを言い続けたものの、学習会から失踪することはなかった。

「信じられません」。

そう語るご両親の目には、涙があふれていた。

当時は、月3回ペースでぼちぼちは開かれていたが、Kさんは休まず参加した。次第に、わたしたちはミーティングで語るKさんのことばとそのニュアンスをなんとなく感じ取れるようになり、彼の日々のくらしの様子や、苦労や悩みがぼんやりと想像できるようになっていった。そして、半年後にはミーティングの司会を担当できるようになった。
ぼちぼちのミーティングでは、次の4つのテーマについて語り合う。

「今の気分と体調はいかがですか?」
「最近、良かったことは何ですか?」
「最近、悩んだり苦労したりしたことは何ですか?」
「さらに、良くしようと思うことは何ですか?」

これは、浦河べてるの家のミーティングのやり方にならったものだ。

あるとき、Kさんは相模川に魚釣りに行く途中で、自転車のチェーンが外れてしまい、大変苦労したことを語った。

Kさんは「自転車がチェーンを外して、とても困っていたんです。」と表現した。学習仲間からは「自転車が困ったの? なるほどね~」

と、自転車に思いを寄せ、まるで痛みを共感するKさんの身体感覚あふれる表現に、深く感心したのだった。
さらに、識字の場面でもKさんの表現に少しずつ変化が表れた。

Kさんの文章は、すべて漢字で、続け字。しかも、末尾は「御座候」の文体なのだ。さらに加えて★〇?や絵文字が入り混じっていて、書いている意味がほとんど分からない。何度も見直し、声に出してもその意味が解読できない。わたしたちは、ほんとに悔しかった。一生懸命書き、読み上げた自分の文章が、だれひとり分かってくれない。そのときKさんの気持ちはどうだったのだろうか。

何とかわかりたいと、わたしたち学習仲間は必死で取り組むが、ついにわからない日々が続いた。

 

そしてある時、「奇跡」が起こった。

Kさんが「ぼちぼち」に通い始めて1年が経った2008年7月、暑い夏の日だった。識字のテーマは「ひまわり」。

Kさんのお母さんは次の文章を書いた。

「女満別の大地に広がる「広大なひまわり畑」を目の前にして、空に向かって元気に咲く姿にちょっと勇気をもらいました。今思うと当時の私は、たくさんのまよいをかかえて〇〇と旅をしていた様に思います。今、皆さんに会えて勇気をもらうことが出来ました。空に向かって咲くひまわりは大好きです。」

(注)〇〇は、息子であるKさんの名前。

そして、Kさんは次の文章を書いた。

「ゴッホのひまわり
初めて絵画を見たのは、ゴッホのひまわり。夏日、切符、を、持ち、新宿西口駅前に着き◇◇◇◇◇。すぐに東郷美術館に行く。◇◇◇◇。三度鑑賞三度順列二度見学。そして、目当て、のゴッホの絵画「ひまわり」へ。見て、すぐに額縁の題名を見る。ファン・セ・バスチャン・ゴッホ。三度も、ひまわり、ひまわり、ひまわりと。◇◇絵画の傑作自分の名前は〇〇〇〇、ゴッホの名前はひまわり。」

Kさんの文章はすべて楷書体であった。

(注)〇〇〇〇はKさんの氏名、◇◇◇◇は解読不明

 

わたしたちがともに創り上げた「識字」。生きる悩みと苦労を決して手放さず、分かち合うことによって立ち上がる、学びほぐし・生きほぐしの「場所」と表現活動。そのダイナミックナな相互作用、能動でも受動でもない、「中動(おのずから)」の在り様。

計画し、意図したら、そこには余計な配慮や強制の力が働き、自然の分解や発酵や醸造は生じない。そんなきわめてナイーブないとなみが、そこにはあった。

次回は、Kさんのミーティングや識字で誕生したことばや文章が、決して「奇跡」ではなく、自然ないとなみの所産であったことを、あらためて振返ってみたい。

~次回に続く~

 

 

阿部 寛(あべ・ひろし)

1955年、山形県新庄市生まれ。生存戦略研究所むすひ代表。社会福祉士。保護司。 20代後半から、横浜の寄せ場「寿町」を皮切りに、厚木市内の被差別部落、女性精神障害者を中心とするコミュニティスペースで人権福祉活動に取り組む。現在は、京都を拠点として犯罪経験者・受刑経験者、犯罪学研究者、更生保護実務者等とともに、ひとにやさしい犯罪学、共生のまちづくりを構想し共同研究している。

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