あてにならないおはなし 第18回

阿部寛

前号で書いたとおり、わが小論文が『中央評論』に掲載されたあと、私のもとにいくつかの反応が届いた。いろんな意味で「問題作」だったようだ。
研究者仲間の声は複雑だった。祝福のメッセージあり、「え、阿部の論文が掲載されたの?」という驚きと「嫉妬」の表現あり、「この論文の趣旨には賛同できない」という痛烈な批判もあった。
教授方からも好対照の声が寄せられた。「これは刑事法の論文ではない」と、わざわざ電話までかけてこられた先生がいたが、わたしは、「この先生は研究者として終わってるなあ」と、あきれ果てもした。
もう一方で、学部のときのクラス担任・相馬康久教授からは、真心のこもったお手紙を頂戴した。論文を熟読し、わがことのように喜んでいる先生らしい内容だった。相馬先生は、トーマス・マンや太宰治の研究者で、われわれのクラス担任になったのは、ドイツ留学から帰ってこられたばかりのときだった。当時は、大学移転反対闘争真まっただ中で、血気盛んな自己主張の強い学生たちを抱えて先生はずいぶん苦労されたと思う。ドイツ語の授業をクラス討議の時間として提供してくださったり、学生たちの誘いに応じて、夜な夜な神田お茶の水界隈に繰り出して、飲みかつ語り明かした日々のことは忘れがたい思い出だ。
大衆団交の広場となった駿河台校舎中庭の夕暮れの風景を眺めながら、「阿部君、夕闇に紛れながらそろそろ繰り出しますか」とお誘いになる先生の振る舞いがなんとも格好良くて、あこがれたものだ。
八王子に校舎が移転してからは、こんな学生と教員の交わりも途絶えてしまい、残念なことだ。

ところで、小論文執筆当時というのは、わが人生の大転換期であった。修士論文を書き上げて博士課程に進学し研究生活を続けるかどうか悩んでいた。研究者として実力不足は本人が一番よくわかっている。経済的な問題もある。私が所属する法学研究科や指導教授のもとには、博士課程後期(博士課程)やオーバードクターの優秀な先輩たちがごっそり居残っていて、わたしが大学の教員や研究者として採用されることは至難の業だと判断した。さらには、最も優秀とされた先輩が、指導教授との関係のねじれによって就職の機会を絶たれた事件が発生した。結局この先輩は、法曹界に入り裁判官としての道を歩んだ。

さらにはわたし自身の個人的事情もあった。従前より抱えていた悩みやもやもやがピークに達し、にっちもさっちもいかない状態になっていた。
以前にも書いたが、生来的に身体的・精神的に脆弱なものを抱えていた。18歳で上京し、生活・文化環境と人間関係が激変して心身の不安定状態が一気に悪化した。
大学3年生のとき、家族の中心軸であった母の突然の死去。初孫に恵まれ、新居の完成・転居を直前にした53歳の正月、脳溢血により倒れわずか数時間で亡くなった母の去り際は、家族全員に決定的影響を及ぼした。最も大きなダメージを受けたのは、父親だった。母に頼り切って生活してきた父は、風呂を沸かすことも料理を作ることもまったくできない状態だった。その父が毎日仏壇の前で声を上げて泣き、まるでなにかに取りつかれたようにルームランナーの上で走り続けていた。
20代後半になった長男の兄は、結婚をし、嫁を迎えて阿部家を支えるように急かされた。母の死による失望感と家族形態の揺らぎを大急ぎで埋め合わせするように、家族・親戚が一丸となった。母の死によりぽっかり空いた大きな穴を埋め合わせることなど到底できるはずがないのに、そのことさえもわからなかった。
大学3年以降の私自身の心身の絶不調も、母の死と家族関係の揺らぎが大きく影響したのだと思う。わたしは幼いころからずいぶん母親にかわいがられた。ある時、姉が「なして寛ばっかりめんこがんなや?」と母に尋ねたことがあった。母の答えは「寛はばっちっこ(末っ子)で、母ちゃんどいっしょにいる時間がおめだづより短けべ。ほれはかわいそうだべや〜」だった。さすがの姉も返す言葉がなかったそうだ。
わたし自身は、母のことが大好きで尊敬をしていたが、その一方で、10代半ばになると母からの愛や期待がわずらわしくなってもいた。両親は、よく夫婦喧嘩をしていたが、それがエスカレートすると、母は決まって「寛が大人になったら、父ちゃんと離婚して寛どいっしょに暮らすがらな」と泣き叫ぶのだった。幼いわたしにとって母のことばは重すぎて押しつぶされそうだった。そのため、大学進学の一番の目的は、両親との別居であり、故郷からなるべく離れた大学をめざした。あくまでも両親が生きていることが前提の別れであり、永遠の死別を想定したものではなかったはずだった。ところが現実は非情で、母の死は突然やってきて、わたしは母の死に目にも会えず、親孝行をすることもできなかった。
兄の結婚は早くも破綻して離婚、故郷を離れて東京でのきつい仕事と不規則な生活のため体を壊した。毎夜のごとくかかってくる兄からの電話はひどくしつこく迷惑で、わたしは終いには怒りを爆発させて兄を非難し、電話を切った。兄は両親からの期待に必死で答えようと努めた。両親が亡くなった後も兄からは、親を非難することばを聞いたことがない。兄は、家族にも、会社にも、様々な迷惑をかけたが、誰からも憎まれず、不思議なくらい好かれる人間だ。その純朴なくらいの一途さは、自分自身の自由と意思を後に回してでも「長男として」、「会社の後継者として」ふるまわなければならないとつとめたがゆえのことだが、結局うまくいかなかった。
父は、ついに兄への期待をあきらめ、自分自身が再婚し、阿部家の家長と会社の代表者を継続した。こうして始まった父の夫婦生活は、当然のごとく妻(義母)との関係がうまくいかず次々と問題が起こった。
この間、姉とその夫(義兄)が会社も家も何とか支え続けた。姉は、そもそも声楽家になりたかったが、故郷に帰ってからはピアノ教室を開業し、その教師となった。母の死後は、まるで母親代わりのように生きた。義兄は、姉との結婚前は風来坊の自由人で、わたしは彼の旅や学生運動の話に大きな影響を受けた。東京下町生まれの彼も、自らの選択でもあったとは思うが、様々ないきさつに巻き込まれ、その後、父が創設した会社の後継者となった。
一方わたしと言えば、ひとり勝手気ままな生活を続けていた。体調の回復とともに大学院に入学し、犯罪学の研究者をめざした。家族の大変な状況を知った上での選択である。
父は一度だけ、わたしに対して故郷に戻ってきて、自分が立ち上げた会社の役員として働かないかと頼んだことがある。私の生活の安定と、兄と義兄との不仲を案じてのことだったと思う。しかしわたしは、父の依頼をきっぱりと断った。つくづく薄情な人間だと思う。しかし、家と会社のためにわが人生を投じることだけは絶対やりたくなかったのだ。会社の後継者は、働く者から信頼を得た者がなるべきであり、血縁関係者はあえてならない方が良いと思ったのだ。その気持ちは今も変わらない。

このように大学院での研究生活の行き詰まりと、私の家族関係の修復しがたい事態が重なり、にっちもさっちもいかない状況に至ったころ、1983年に横浜「浮浪者」襲撃殺傷事件が起こった。10代半ばの少年たちが、簡易宿泊所街周辺の野宿生活者を集団で襲撃し、殺傷した。事件を調べ始めると、不良少年たちによる「浮浪者」襲撃という言葉ばかりが踊り、事件の真相にはあえて触れない報道が目立った。さらには寿町に関する情報は「暗黒の町」「無法地帯」「足を踏み入れてはならない危険な街」という類のものが多く、強い違和感を感じた。
そして、どうしても自分の目で犯行現場を見て事実を確かめたいという思いが高まっていった。

(つづく)

[ライタープロフィール]
阿部寛(あべ・ひろし)
1955年、山形県新庄市生まれ。生存戦略研究所むすひ代表。社会福祉士。保護司。
20代後半から、横浜の寄せ場「寿町」を皮切りに、厚木市内の被差別部落、女性精神障害者を中心とするコミュニティスペースで人権福祉活動に取り組む。現在は、京都を拠点として犯罪経験者・受刑経験者、犯罪学研究者、更生保護実務者等とともに、ひとにやさしい犯罪学、共生のまちづくりを構想し共同研究している。

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