魂ムマシン/指環物語
ある日、須崎博士(博士は自称。博士号すら持っていない。)が道を歩いていたところ、紫のローブに身を包んだ妙な風体の老婆が露店らしきものを筵(むしろ)を敷いて開いている。老婆はバーゲンセールのようにさあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃいと大声を張り上げるわけでもなく、ちょこんと正座をして無表情にしているだけである。おまけに普通は商品を複数個並べるはずなのに、一個しか置いていない。煤けた薄茶色の紙袋が置いてあるだけである。袋の口が上向きの順当な置き方ではなく、口を下向きにして袋の底を上向きにしたさかしまの置き方がしてある。
「これは何ですか?」
「過去の世界に誘(いざな)う装置でございます。」
「どうやって使うのですか?」
「……」
しばらくにらみ合いが続いたが、向こうは黙りこくるだけで何も言葉を発しない。やがてこちらが根負けして
「いくらですか?」
と訊くと
「千円でございます。」
と答える。高い。こんな小汚い紙袋に千円とは。そう感じて
「あの……値切ってはもらえませんか?」
「一切そういうのはお受けいたしません。あなた様に買っていただかなくても、こちらは次のお客様がいらっしゃるのを待つだけでございますから。」
と言ったきり沈黙したままである。最初にらみ合いになったときから感じていたが、この婆、大分強情なようだ。自分も若くはなく、結婚もせずオカルト道に邁進して早幾年月。好き勝手なことばかりして生きてきた。そんなわけだから自分も鷹揚ではないと思うが、こいつは輪をかけてひどい。商売っ気がなさすぎる。武家の商法だ。
またにらみ合いしてみたが、相手は黙ったきり。これがこいつのやり口のようだ。こっちが譲歩するまで沈黙を貫く。その手は桑名の焼き蛤とも思ったが、普段この婆さんを見掛けることがない。ここで機会を逃して二度と会えなくなったら袋を入手できずオカルト研究者の名折れだ。千円は少額詐欺かもしれないが、噴水にコイントスをして吉凶を占うようなものだと考えればいいだろう。ええいままよ!購入したれ。
「ありがとうございます。」
初めて不気味なだけだった婆が愛想笑いめいた笑みを浮かべる。この時だけ表情を作るから、一層気持ちの悪さを感じる。
そのまま散歩を切り上げて研究所兼自宅に足早に戻る。
「過去の世界に誘うっていっていたから、腐ったものがよくなるのかな?」
悪くなったリンゴを袋に入れてみたが何も変化が起きない。博士は冷蔵庫の中を引っかきまわして次から次へと試した。黒くなったバナナ、芽の生えた玉ねぎ、茶色くなった豚バラ肉……。どれも変化がない。やっぱりあいつは山師だったか!怒りがわいて、首ねっこを捕まえてやろうと、すぐ現場に戻ったが、もう売れたからということで店じまいしたのか、老婆の姿は影も形もなかった。
ダマされたかと肩を落としたが、それでも思案したらあのとき露店では紙袋を逆さに置いていたことに気づいた。もしかしたらこの袋に物を入れるのではないのかもしれない。ここで不意に思いだしたのは昔2人1組の手品師の背の低い方が魔法の箱を被って、頭部をクルクル回転させるやつだ。「いつもより多く回っておりま~す」とか言いながら。この袋は頭に被るためのもので、被ったら若くなれるのかもしれない。古代からのタブーを犯すのに心臓がドクンドクンと高鳴りながら袋を被ってみた。意識が遠のくがすぐに我に帰る。どこかに立っている。鏡に映っているのは紅顔の美少年! 若返ったと思って慌てて紙袋を外してみるが、目の前に拡がる光景はいつもの乱雑な部屋であり、洗面所に走ってみたが、鏡に映っているのはひげ面のおっさんであり、全然変わっていない。どういうことだろう?そういえばあそこはどこだったんだろう?もう一度袋をこわごわと被ってみるとやはり眼前に鏡があり、少年だった頃の自分が映っていた。それと怒った様子で太った上半身赤シャツの男の子が近づいてくるのが分かる。かけ声がするので後ろを振り返ったら十才前後のヨウスケ君がでっぷりした体を揺らしながら、
「おい、さっきトイレに行かねえか誘って断ったくせに結局お前いやがるじゃねーかよ!」
と吐き捨てるようにいった。自分の斜め後ろには白の小便器が並んでいる。ちょっと考えて分かった。ここは学校かもしれない。ワーワー歓声が響き渡るのでトイレの窓から外を見やったら、子どもたちがみんな遊んでいる。ドッジボールをしたりサッカーをしたりするなど活発だ。みんな遊んでいるということは昼休みということか。この紙袋は過去の世界に誘うということだから時間を巻き戻してくれる装置ということか。連れションなんて女子じゃあるまいし恥ずかしくて断ったのか。ゴメンゴメンと適当にあしらった後、トイレを出て5-1という札を目指す。連れションしている場合ではない。しておけばよかったことをしたい。たしか5-1はトイレを出て1つ左の教室だ。
教室の戸をガラガラ開けて入った。そこには級友とあやとり遊びに興じているキョウコちゃんの姿があった。糸の絡みつく小さなぷよぷよの肉厚の手が成人以上になってオジサンになってしまった自分の目からは幾分幼く見えるが、育ちのよさは充分うかがわれる。バレエを習っていたんだよな。だから背筋が自然にピンといつも伸びているんだ。そして彼女の周囲に漂う清潔な高級石けんの匂い!これを吸い込むと脳髄が刺激され天にも昇る心地がする。自分にトイレの臭いがまつわり付いていないか心配になり自身の周りをクンクン嗅ぐ。トイレの芳香剤なのかなんなのかキンモクセイの香りがするがまあいいだろう。それから近づく。「東京タワー」が終わって二人のあやとりが一段落した後で
「あ……あのさ……」
「何?」
「今からニワトリ小屋のそばに一人で来てくれない?」
「どうして?」
「大切な話があるから。」
「ちょっと待ってて。ゴメンね、ミオちゃん、すぐ終わるから。」
外は秋晴れの涼しい空が広がっている。ワーワークリアクリアという歓声やボールのドンっという音が時折小気味よく響く。常にニワトリ小屋からはクークックックが流れ、時折コケコッコーという鳴き声が響く。
「あ……あのさ。」
「?」
「そろそろ……」
「??」
ダメだ。もう眼前に広がっている光景は遠い過去のものなのに、したいことは現在に影響を与えはせず、もはや夢の中の光景のように何を言おうと何をしようと自由なのに顔が火照るのを感じる。
「僕たち付き合わない?」
「……ゴメンなさい(ペコリ)。」
「ど……どうして?」
「他に好きな人がいるから。じゃ、私ミオちゃん待たせてるから。」
「えー!」
茫然自失とする僕。その場から不敵な笑みを浮かべて風のように去ってしまったキョウコちゃん。他に好きな人がいたなんて。告白してみなければ分からなかった。後にキョウコちゃんは17歳の冬に肺の病気で亡くなってしまうけど、キョウコちゃんは好きな人に告白したんだろうか。キョウコちゃんの人生、彼女を待ち受ける早すぎる死という不幸な運命を知らず、風のように去っていく姿にホロリとくる。何にせよ告白してみてよかった。心のしこりがとれた気がした。徐ろに紙袋を外す。目の前には散らかった部屋が広がっている。顎を撫でてみて、ひげがジョリジョリ生えているのを感じ、自分がおっさんであることを確認する。これは自分の悔恨を解消してくれる装置だ。博士は早速自分のホームページ、「須崎博士研究所」にこの情報を載せた。以下のような説明文を付した。
あなたの人生において悔いはありませんか?
誰しもが人生においてこうしておけば良かった、ああしておけば良かったと後悔しているはず。それを解消してみませんか?この紙袋は頭にズッポリ被りさえすれば過去にタイムスリップし、本懐を遂げることができるでしょう。
やってきたのは碌でもない連中ばかりだった。
「今の株価表をもとに株を買って大儲けしたいじゃと?常識的にもダメだし、法律上もインサイダー取引にあたり違法じゃろうが!」
「今の亭主が嫌だから別の人を振り向かせてその人と結婚したい?おまえさんの子どもが消滅するし、別の子ができるかもしれなくて、その子が殺人犯になったらどうする?あきらめなさい!」
もうこのページを閉じようか、そう考えたとき、我ながら胡散臭いホームページに藁にもすがる思いで飛びつく人がまだいたのか、一人研究所を訪ねる女性がいた。
「あの……ホームページを拝見してお訪ねしたんですけど。」
四十代位の女性。
「おまえさんも御主人に不満が?」
「まあありますけど、もうあきらめています。でも取り消したいのはあって、昔こういうことがありまして……」
回想する。
「今日新しい仲間が来た。アメリカ帰りで(アメリカ?アメリカ!外国だってよ!と生徒のざわめく声。)コラッ静かに!アメリカ帰りで慣れないと思うからみんな仲良くして、いろいろと教えてあげるように。」
先生はチョークで「寺内正雄」と黒板に書きつけ、パンパン(手をはたく音)する。
「さあ、入ってきて、自己紹介しなさい。」
ツカツカツカ。黒いピカピカのランドセルを背負って、一人の男の子が教室に入ってきていう。
「テラウチマサオです。アメリカのカリフォルニアってところから来ました。みんなよろしくお願いします。」
パチパチパチ(拍手)。
「じゃあ、あそこの席へ。」
空いている後ろ左隅っこの私の隣の席へ座る。
「よろしくね」
「よろしく」
休み時間になると、黒山の人だかりができる。アメリカってどんなとこなのかとか、英語がしゃべれるのかとか。でも数日中にカリフォルニアのことはあらかた聞きつくしたし、英語もそれっぽいことをいっていて発音も本場アメリカ仕込みとは思うが、習ったことがないし、近所に外国人が住んでいるわけでもないので、”Hello.My name is Masao Terauchi. How are you? Fine too, thank you.” “I’m fine, thank you. And you?”以外良否がよく分からない。数日経つと同級生も取り囲まないようになり、級友はいつものグループごとに固まってつるんでマサオ君は独りで教科書を読んでいることが多くなった。私は半ば無理して担任の先生のように話しかけた。
「マサオ君、偉いね。休み時間でも教科書読んで。」
「もう読み終わりそう。カリフォルニアにいた頃は教科書はこれよりずっと分厚かったんだよ。」
「えっ、そうなの?」
「うん。のっけてる話が多くて。」
なんだ、みんなが訊いていないことがまだあるじゃん。外人はアソコの毛も金髪なのかとか、毎日の飯はハンバーガーなのかとか下らないことばっかりみんな訊いて。それからは私が唯一の話し相手になった。シートン動物記とかの読んだことのある本について。でもマサオ君は大多数のバカな連中でもその仲間に加わりたかったのか、何日かすると大きな風呂敷包みを持ってきて
「うちの父さん、アメリカの会社と取引があるから珍しいものがいっぱいあるんだぜー」
風呂敷包みを開いて舶来物の品を見せる。ほとんどが、昆虫標本など男の子向けの品ばかりで女の私には魅力的な品と目に映らなかった。それでも唯一つが私の興味を惹いた。光るダイヤの指環だった。龍口(たつのくち)が二頭向かい合い、中央に大きな珠が据えてある。日本製ではなく、中国の香りがする。もちろんダイヤは模造品であったが、それでも小学生の私には十分魅力的に映った。リングの細工が精妙なのと「舶来物」であり日本の夏祭の露店では買えないことからいや増して魅力的に千佐子の目には映る。
「ねえ。これなんだけど……」
「ああ、それ?」
「貸してくれない?」
「ああ、いいよ。ちゃんと返してくれれば。」
「ありがとう!」
家に帰ったら自分の部屋に引籠り、寝転がって電灯に模造ダイヤ(ガラス製)を翳(かざ)してうっとりと眺める。
ダイヤの話を聞きつけて、目ざとく親戚の女の子もやってくる。キャッキャキャッキャとはしゃぎ、ガラス玉なのに、
「大きいのねえ」
「よく光ること」
などと尾崎紅葉『金色夜叉』のようなことを言い出す。しばらく女王様ごっこも交えながら指環をもてあそんでいたがその内にお人形さんごっこやままごと遊びなど別のことに熱中して指環のことなど忘れてしまった。ふと気付く。あの指環はどこにいったんだろうか?どちらの人間の指にもはまっていない。
二人とも顔を青くして慌てて家探しをする。親などにバレたら人様から借りたものを返すことすらできないと怒られるので、一緒に遊んでいるフリをしながら指環を探索する。遊ぶ演技もしないといけないので、気もそぞろになり、指環探しに集中できなくなる。刻限が近づいてくる。タイムアップ、時間切れだ。親戚の子はゴメンね、ゴメンねといいながらおいとまするが、私は独りとり残された気分になる。別の日にお店にて似たようなものを買えないかとうろついたが、やはりリングのデザインが特殊でお誂え向きのものはみつからない。
学校にて私は低姿勢でマサオ君に謝った。
「弁償はするから。いくらだった?あっ向こうはドルよね。ここ、日本だからお小遣いは円でもらっているの。円でもいい?日本のお金で500円くらい?今日は持ち合わせがないから、おこづかいがもらえる月末まで待って。」
「もういいよ!」
「あ、そうだ! 利息も返さないといけないわよね。」
「勝手にやってろ!」
「何よ!こっちは弁償するっていっているのに、その突っ張ねた言い方!」
その日私はふて腐れて結構遅くまで校庭で遊んでしまった。大なわとびやらゴム跳びやらやっていたが、みんな帰ってしまった後もうんていや鉄ぼうで時間を過ごした。帰ったら意外とアッサリ見つかった。テレビの上にチョコンと置いてあった。既に何回か探したはずなのに。まあいいや、明日返そう。今日は遅いし。
翌日マサオ君の机を見ても空席だ。変だ。この時間だったらとっくに席に着いて教科書を読んでいるはずなのに。あっそうこうしている内に先生がやって来ちゃった。
「えーマサオ君は昨日この学校からアメリカの小学校に転校してしまいました。お父様のお仕事のご都合だから仕方ありませんね。みなさんへ伝えたいメッセージは『みんな、ありがとう』だそうです。それでは授業を始めます。」(チョークのカリカリいう音)
ガーン。垢ぬけた転校生がいくらもしない内に去っていくなんて、風の又三郎のようだ。周りは授業の準備にとりかかり、ガサゴソ音をさせて筆記用具入れから鉛筆を取り出すなどするが、千佐子は心ここにあらずである。
回想から現実に戻る。
「そんなわけで、私、マサオ君と喧嘩したまんま別れてしまって。それが心残りなんです。だから先生がお持ちの道具さえあれば!」
「その頃に戻りたいのかね?」
「はい!」
「しかし倫理の矩(のり)を越えることは許されんぞ。馬のレースの結果を見てから当たり馬券を買おうなんて私利私欲に基づく行為は言語道断だし、興味本位で自分を殺してみるとかいうのもダメだ。わしの仮説ではもう今の自分というものが存在しているんだから、過去の自分を殺そうとしても邪魔が入って決してうまくいかないと思うんじゃが。仮説を検証するという学問上の興味も湧いたが倫理上の問題が頭をよぎり、あえて試さなんだ。過去への影響は最小限に留めるんじゃぞ。」
「はい。」
博士はやおら紙袋を取り出して千佐子の頭に被せる。彼女の意識はフッと遠のいたが、間もなく意識が戻ると、校舎が目の前に屹立していた。
たしかに三十年前だ。懐かしい。石川啄木の短歌で「その昔 小学校の 柾屋根(まさやね)に 我が投げし毬 如何になりけむ」 というのがある。小学生の時には卒業してもまた来よう来ようと思っていたのに、結局なんだかんだで忙しく暇がなくて来ることなんてできなかった。VR(仮想現実)などではない。VR特有の悪酔いがないし、自分の背格好まで変わっているもん。背は縮んでいるし髪型もツインテールになっている。年のころは十一才だろうか。あの水たまりもある!水たまりをバシャバシャッとやりたい誘惑に駆られたが、博士との約束を思いだし、過去への影響を最小限に留めるために我慢した。
今何時だろうか。時計を見るために教室へ行かなければ。教室へ行くまでの道程ではひたすら沈黙を貫いていた。級友に声をかけられたり一緒に帰ろうと誘われたりしたが、無駄な過去への影響はなるべく抑えるのが博士との約束だったので、「ちょっと今急いでいるから」という返事もなしに無視して、今私に話しかけるんじゃねーぞオーラを出しながら歩を進めた。角を曲がって「5-3」という札がかかっている教室に入る。入ってみるともう誰もいないようで、掃除も行き届いて机もピシッと列が真っすぐになっている。わずかな余熱で教室に人がいて、暖房がついていたことが辛うじてわかる。教室に入って右側を見たら丸時計が高い所に掛かっている。時刻は3時50分を指している。そのとき校内放送も流れてきた。忘れ物をしないで帰りましょうと帰宅を促している。壁にかかっていた日めくりのカレンダーによると、今日は1月19日だ。早く帰らなきゃ!日が暮れてしまう!最短ルートはもっと別にあるんだろうが、今地図なんか探している暇はない!うろ覚えの経路で帰路につく。途中で白いバカ犬に吠えられた。最近犬に吠えられたことがないから油断していた。もう怖くはないと思っていたが、犬に吠えられるのは久しぶりでしかも当時は集団で下校していたはずだから、虚を突かれて思わずキャーッとのけ反った。無我夢中で走って逃げたら、大通りに出てしまったようだ。自動車がプワーンプワーン通っていることからも窺われる。でもどうやって戻ればいいのか、見覚えもないので分からない。そこで人に尋ねようと思った。なるべく親切そうなおばさんにしよう。昔若い男の人に道聞いたら無言で指だけ方向を指し示された上に、それがデタラメでひどい目に遭ったことがあるから。コツコツ歩く白い服を着た女の人に上水通りはどこか尋ねたら、真っすぐ元来た道をたどって2つ目の四つ辻を左に曲がれば上水通りだという。ついていこうかと訊くから走りたいので、と断ったら気を付けて、走って転ばないように言われた。戻って2つめの四つ辻を左に曲がったら本当に上水通りに当たって、ようやく見覚えのある通学路に戻れた。道がデコボコしているから気を付けないと。この坂をのぼりきれば家まであともう少しだ。
家に着いた。もう今は取り壊しちゃっているけれど、この門構え、間違いない。台所兼リビングルームでは母親が台所に立って家事をしており夕餉の匂いが立ち込めている。母親のそばでは祖母がテレビドラマを観覧しており、その番組にいちいちツッコみをいれて感情移入している。母親はすっかり老いて家事もできず今では宅配弁当を受け取る毎日だし、祖母は十年前に他界した。もう決して戻ることのない光景に涙が滲み、思わず袖で涙を拭う。母親の腰もとに抱きついてしまいそうだ。
「お帰り、千佐子。何やってんの?顔を拭いて。突然やってくるなんて、『ただいま』位言いなさい。それより宿題は済ませたの?」
うん、と適当にいってランドセルを自分の部屋に投げ捨てにゆく。身軽になったところで外に飛びだす。アレはあるわよね。ポケットに確かな重みを感じる。マサオ君の家は私の家から800メートル先にある。彼の家に近づくと、何だかウィーンガシャンと音がする。マサオ君の家に着くと
「荷物はこれで全部ですね。」
といってトラックの扉を閉める作業員の姿があった。
「じゃあ、先に行ってますから。」
走り去るトラック
「マサオ君!」
後ろを振り返るマサオ君。
「ひ……引っ越しちゃうの知ってたの?」
「お別れしたくって。これ……」
ガサガサとポケットを探ってみるとあった。固いものを感じる。ハンカチを取り出して、その包みを披いてみせるとそこにはキラキラ光る指環。大切なものは木の実といい、いつもハンカチに包んでいた。
「マサオ君、本当にゴメンなさい!」
「ど……どうしたの?」
「私、分かっていなかった。弁償するしないの問題じゃなくて本心から謝ってほしかったんでしょう?だからあの時怒ったんだよね?」
「ま……まあ。手紙書くから住所教えて。」
住所を教えると、母親らしき人が出てきて、もうタクシーの時間だという。
「手紙書くからね!」
タクシーは走っていった。沈みゆく太陽に吸い込まれるように。
ここで紙袋を外す。
「博士、ありがとうございました。これで胸のつかえがとれた気が致します。」
千佐子は帰宅して家の鍵を開けて入って、二階の寝室の引き出しを開けてみる。おかしい。ここに指環がたしかにある。渡したはずなのに。一度会ってどういうことか確かめてみなきゃ。「寺内正雄」とネット検索すると姓は変更していないようで、出てきたでてきた。面影がしっかり残っている。デザイナーをやっているんだ。どうやらアメリカを本拠地に活動しているようだ。”Masao Terauchi”で検索するともっとヒットして専用ホームページも設けられているようだ。両腕を組んで、厳めしい印象を与えようとしているのが妙に可笑しい。そのページに”Contact”というのがあったので、そこをクリックすると、お問い合わせフォームがでてきた。四苦八苦の末、夫にも手伝ってもらいながら、文章を英訳してもらい、和文と英文と両方で送った。「お久しぶりです。突然の連絡、ごめんなさい。竹内(旧姓:小島)千佐子といいます。堀籠小学校にいたんだけど覚えているかしら?積る話もあると思いますが近いうちにまた会ってゆっくりとお話できたらうれしいです。」
そうしたら日本語で返事が来て会えるとのこと。今たまたま自分の個展で日本に来ているそうだ。場所は向こうの指定で、グローバルに展開しているカフェになった。指環も持っていこうか逡巡したが、もうすっかりリングが錆びて、指環全部がピカピカきれいだったあの頃とは全然異なりみすぼらしかったので、持っていく気にはなれなかった。
喫茶店でソワソワと落ち着かなく待っていたら、チリンチリン。ドアのベルが鳴る音。
「マサオ君だよね?」
「やあ、ひさしぶり」
姿を現したのは四十代の恰幅のいい男性。デザイナーだけど奇抜な格好はしておらず年相応の服装をして頭髪は薄くなっている。写真と異なり、柔和だという印象をうける。向かいの席についてエスプレッソのMを頼む。こっちのMはあっちのMより小さいなあ、”Supersized free”(増量無料)もないし、と独り言ちる。
「お……覚えている?」
「何を?」
「ほら、マサオ君がお父様の転勤についていって転校するから引っ越しの日に挨拶したじゃない。」
「いいや、引っ越しの日は君ばかりか誰にも会っていないよ。」
「そ……そんな。嘘でしょ?」
「友達もろくにいなかったし、先生には絶対転校することを事前に誰にも知らせてくれるなっていったから確実さ。動かしがたい事実だよ。」
それから私たちは取り留めのないことをしゃべった。転校した後どういう暮らしを送ったのかということについて。卒業した学校のこと、就いた仕事のこと、結婚したこと、子どもができたこと、子どもの反抗期のこと、年老いてきた親のことについてまで話が及んだ。
そういう話をして別れた。どこそこでまた会おうともいわずに。
翌日抗議の意味でツカツカと須崎博士研究所に入る。
「ああ、お前さんか。どうした?」
「どうしたもこうしたも、何も変わっていなかったわよ。引っ越しの日は私はおろか、誰にも会わなかったですって。」
「ええっ!?なんじゃと!?」
やや憤然とした調子で紙袋を指さして
「こんなもの何にもできない、無価値物。過去にタイムスリップなんて羊頭狗肉よ!」
と言い捨てて去ってゆく千佐子。
呆気にとられた須崎博士。しかしやがて
「思いだしたぞ……こんな話を。」
昔、外科手術で脳を露出させ、そこに電極を刺す実験が行われた。その時被検者には過去の映像がありありと浮かんで恰(あたか)も過去を体験しているようだったという。この装置も似たようなものだろう。記憶は操作できるが事実は変えられない。過去に本当に行けて事実が変えられるなら今の時代にも未来の人々が闊歩するだろうが、実際には怪しげな「未来人」なるものがインターネット空間で名乗りを上げ、うごめいているだけだ。過去を変えられるなんて幻想なんだ……。
もうこんな薄汚れた紙袋、クローゼットの奥深くにしまいこんでしまい、小物を適当に入れた。ホームページからもこの紙袋については削除してしまった。
でも一か月後千佐子は菓子折りを包んで研究所に来た。千佐子の来訪に思わず身構えて、どういう風の吹き回しか怪訝に思って尋ねる須崎博士に千佐子はカクカクシカジカと以下のごとく話す。
改めて指環をみると、錆が青いのを中心に生えて随分汚れている。汚れを取ろうと、自転車のサビ取りを噴きつけて磨いてみたが錆は全然とれない。あんまり熱心にやると、リングが摩耗してしまうだろうからこれ以上はやらなかった。あの時返してしまえればよかった。三十年以上前だったらリングの部分もピカピカときれいだったのに。なぜこうなるまで放っておいたのだろう?日々の生活に追われてあえて考えないようにしていた。私の人生の悔いはこれだった。今からでも指環を返さなきゃ!また会いたい旨をいって懇願して、多忙なのは承知だが時間を作ってほしいと頼んでまたもや夫に手伝ってもらって英訳してもらって英文と和文と両方載せる。もしかしたら指環を返すだけなら郵送で、といわれてしまうかもしれないが、直接会って話したいことがあったのだ。
……
同じようにチリンチリンと鳴る音。やはりマサオ君はエスプレッソのMを頼む。ソワソワと落ち着かなく千佐子は席についている。
「前で終わりじゃないなんて、今度は何?」
「マサオ君、これ覚えている?」
ポケットからくたびれたハンカチに包まれた模造ダイヤの指環を取り出す。ダイヤの部分はキラキラ輝いているが、金属のリング部分は錆が出ている。
「こ、これは……」
ガタンと椅子を後ろに押しやり立ち上がって一礼。
「ゴメンなさい。」
マサオ君は気圧されたようになり、びっくりした様子であとずさりする。
「ゴメンなさいも言えず、指環もずっと返さなきゃ返さなきゃと思っていたんだけど、失くしちゃってそのままに……今更不必要かしら。こんな安っぽいもの。身につけたいとしてもメッキも剝げちゃったし指の太さも関節の太さも変わっちゃっただろうし。今まで借りっぱなしにしていてゴメンなさい(深々と頭を下げる。)・・」
黙っていたマサオ君。やがてポツリポツリと語りだす。
「(少し鼻声になりながら何かをこらえるように)僕、うれしかったんだ。また会おうなんて。誰も覚えていないだろうし、覚えていたとしても興味もないだろうって。父親が転勤ばっかりしていたから、サーカス団員の子どものように学校の友達がいなかったんだ。でも君は覚えてくれていたんだね。」
「だってマサオ君、大人びてみえたし賢そうだったじゃない。教科書熱心に読んで。」
「友達がいなくてそうするしかなかっただけさ。」
笑いあう二人。
目を指環に落として少し考えた様子のマサオ君は
「個展の最終日、来てくれない?最終日は自分が展覧会に出席してパフォーマンスをやるんだ。」
最終日千佐子が展覧会に足を運ぶと、午前10時半ごろにショーは始まった。東山魁夷を思わせる大海原を描いたと思ったら、その上に一羽の鳩の絵を描いた。次はノアの方舟よろしくオリーブでも鳩に咥えさせるのかと思ったら違って、あの指環を紙の下がマグネット磁石になっているのか指環をペタンとくっつけて鳩に咥えさせた。
「ご来場の皆様に個人的な体験を語ることをお許しください。この指環はおよそ30年前に私の友人が私から借りたものです。この指環をめぐって喧嘩がありましたが、最後には融和に至った。本来ならば旧約聖書に沿って、平和のシンボルとしてオリーブの枝を鳩に咥えさせるべきですが、この指環はオリーブよりも自分にとって平和の象徴として相応しいものであると考えます。」
パチパチパチ(拍手)
展覧会終了後、マサオ君はすぐにカリフォルニアに戻らなければならない。空港にて
「ゴメンなさい、マサオ君。弁償云々の問題じゃなくて心からの謝罪が欲しかったのね。」
「一体何のこと?」
「いいから。こっちの話。ずっと私が気に病んでいたこと。」
「お問い合わせフォームの返事じゃなくて直接メール書くからね!」
マサオ君の体はエスカレーターによって吸い込まれていった……。
須崎博士は千佐子が出ていって紙袋を取り出ししじっとばらく見つめた後、意を決したように、紙袋についていた埃を落とし自分のホームページ、「須崎博士研究所」において紙袋の写真を載せ直した。でも説明文は以下のように変えた。
あなたの人生において悔いはありませんか?
誰しもが人生においてこうしておけば良かった、ああしておけば良かったと後悔しているはずです。
この装置は過去に時間を巻き戻してくれるわけではなく、過去の記憶をリアリティをもって思い出させるだけです。そういう意味では何の役にも立ちません。しかし、「今」の時点で悔いを解消しようと思って行動を起こそうというきっかけにはなるはずです。悔いを悔いとも思わず、妥協して人生をやり過ごしていませんか?この装置は悔いを悔いとして対峙させ、変わるきっかけを与えてくれるはずです。
Fin