将棋会館にて
夜もとっぷり暮れている。
〈明日は山田誠六段との対局だ。時間がない!〉
トントンとノックして入ってきたのは友人の相澤信。
「お前、まだやっていたのか。俺が昼に訪ねてきた時から将棋盤の前で検討していただろ。俺が奨励会にいた頃と違って、最近は将棋会館で検討なんかあんまりしないだろう。みんな家でパソコンに搭載されたAIを使って練習してるって聞くぞ」
「家にいるより将棋会館にいる方が集中できて……それに……」
「それに?」
「この将棋会館にいれば信くんにまた会えるような気がして! 信くん、ここに来たってことはまだ将棋に未練があるんだよね!?」
「未練なんかないさ。仕事の休み時間に新聞の詰将棋の問題をひまつぶしに解いてみるとか、今でも将棋は嫌いじゃないから、近くに寄ったついでにふら~っと将棋会館に立ち寄っただけさ。俺はな、奨励会にいる間はずっと、平均台の上でバランスをとっていたといっていい。でも26歳でそこから落ちた。落ちたらどうなるか分かるか?」
「そりゃ、痛いよね」
「痛いさ。落ちた瞬間はな。でもそれだけであとはどうなる? 目の前に地面が広がっているだけさ。それにいいこともある」
「いいことって?」
「もう平均台の上であれこれやらず、どこへでも行っていいのさ。自由になるってことだ。俺は再就職先は飲食店にしたぞ。大抵の人は働いているふりしているだけだ。最近の若いモンはけしからん! なんてな」
「あの……今日はありがとう」
「?」
「別に今日来てくれたのはついでじゃなかったんでしょう? 僕が明日級位戦でプレッシャーがかかってるから励ましに来てくれたんでしょう? 別に負けても死ぬわけじゃないって」
「お前も大変だよな。プロになったばっかに」
「そんなの分かってたことだよ」
しばらく話をして、相澤が出ていこうとした時、深山が相澤のシャツの裾をつかんだ。
「なんか話してて分かった。もうここに来ることはないってことでしょ!?」
「……昼ここに来た時分かったんだ。ここは俺のいる所じゃないって。ついでにといったが今日ここに来たのはそのことを確認するためだったといえる。もう奨励会やめて十年経つもんな。あっという間だったな。じゃあな。早く寝ろよ」
裾を離さない深山。
「次会えるのはいつ?」
「さあ。少なくともここで会うことはないだろうな」
「行っちゃうつもり?」
「……」
なんとか引き留めるために言葉をたくさん費やして時間を稼ごうとする深山。なかなか適切な言葉が思いつかない。
「そ……そうだ! 対局しようよ。よく二人で嫌んなるくらい指してたじゃん!」
「もう俺は将棋漬けの毎日をやめて十年経つんだ。お前との実力差もすごいだろうよ」
「じゃ……じゃあ、将棋倒しは? 二人で子どもの頃、普通の将棋にやんなったら遊んでたじゃん! ジャラジャラ(盤面を一度片付けて駒を箱から出す音)」
「もう俺たちはガキじゃない。三十過ぎのおっさんなんだ。今更そんなことをやっている場合じゃない。いいか、こんな落伍者がいうのもアレだが将棋を指す機会を大事にしろ。お前プロだろ。俺なんかにかかずらってエネルギーを無駄にするな。とりあえず明日の勝負に集中しろ。今度こそじゃあな。明日に障るからもう寝ろよ。バタン(ドアを閉める音)」
もう少し検討しようと棋譜を並べていると、涙がハラハラ出てきた。将棋盤の上に点々と跡がつく。この出会いが今生で最後のものになるだろうことを直感したから。
Fin