阿部寛
前回のお話は、1983年に発覚した横浜「浮浪者」連続襲撃事件について、マスコミ報道と専門家のコメントを手がかりに、わたしなりの意見も添えて検討してみた。
今回は、青木悦の著作『「人間」をさがす旅─横浜の「浮浪者」と少年たち─』(民衆社、1984年)と『やっとみえてきた子どもたち─横浜「浮浪者」襲撃事件を追って─』(あすなろ書房、1985年)を再読し、さらには、本事件に関する本ではないが、同時代の社会状況に関して書かれた著作をヒントに、現時点でのわたしの考えを述べてみたい。
「浮浪者」と名づけられ、殺害された須藤泰造さんはどのような人生を歩んでこられた「人間」だったのか。青森県出身、享年60歳。中学卒業と同時にお菓子屋に丁稚奉公したが、第2次世界大戦が勃発し、召集令状により満州に出兵させられた。日本の敗戦により青森に戻り、26歳で餅菓子屋を始め、結婚し夫婦で必死に働いた。ある年の暮れ、正月用のお餅を夜通しでつきつづけ、注文品の配達をすべて終え、夫婦は土間に倒れこむように眠り込んだ。少し前から体調を崩していた妻は、冷え込んだ土間で凍死してしまった。その後、須藤さんの人生は大きく変わった。店をたたみ、青森を出た須藤さんは、日雇労働を続け、体をこわして仕事ができなくなった。稼ぎがなくなれば当然宿代も払えないため野宿せざるをえない。山下公園を生活の場とした須藤さんの暮らしぶりは、人に迷惑をかけないように公園から立ち去るときは、わずかばかりの荷物を丸めて片付け、ゴミをきちんと捨てていたという。須藤さんは浮浪者ではなく、青森出身の60歳の男性で、必死で働きつづけ、体調を壊して山下公園で静かに暮らす「人間」だった。
殺害現場の状況はどのようなものだったのか。殺害日時は、1983年2月5日午後9時頃。酷寒の夜、人影も途絶えた山下公園で、10人以上の少年たちから襲撃された須藤さんの惨状を想像するといたたまれない。
しかし、事実は全く違ったのだ。山下公園は、冬の間でさえ昼夜問わず、人の姿は途絶えず、かなりたくさんの人々が集まっていた。公園内の店も明け方まで営業し、公園内の明かりも煌々と点いていたというのだ。つまり、須藤さんは、たくさんの人々が見ている前で、少年たちに襲われ殺されたことになる。
事件が起きてから3か月後の朝日新聞の記事によれば、浮浪者襲撃事件は少なくとも8年以上前から多発していた。神奈川県警により設置された「暴力的非行集団補導解体推進本部」の調査では、426人の少年少女が補導、逮捕され、その中で57人の少年少女が浮浪者襲撃をやったと告白した。襲撃は日常的に行われていたことになる。
荒涼たる精神情況・殺伐たる心象風景に驚くばかりだ。浮浪者襲撃を実行した少年少女は、狂気と残虐性を持つ異常者なのか。殺害現場を黙認し、傍観し、扇動し、あるいは見過ごし、見捨て、逃走した多くの人々は、異常者か。
わたしならどうするだろう。止めるか、逃げるか、警察に通報するか。見なかったことにするか。用事や仕事で先を急いでいたらどうするだろう。被害者が見知らぬ浮浪者でなく、知り合いだったら……。
あなただったらどうするだろう。
わたしたちはいかなる時代状況を生きているのだろうか。
この事件から約10年後の1995年3月20日に発生した地下鉄サリン事件。オウム真理教信者たちによって朝の通勤ラッシュの電車内に猛毒の神経ガス・サリンがまかれ、14人が死亡、6300人が重軽傷を負ったテロ事件だ。
作家・詩人(当時は共同通信記者)の辺見庸は、偶然その現場に遭遇した。辺見の証言によれば、凄惨極まりない国内最大の無差別テロ事件の現場は、きわめて静寂だったという。
朝の職場に向かう多くの人々は、呻き苦しむ被害者を跨いで足早に職場に向かっていった。また、現場から地上に抱えられた被害者たちについては、ある人の周りには、たくさん人が群がり快方を受け、またある人の周りには誰一人おらず放置されていた。つまり、駆け付けた者たちは、被害者の知り合いか利害関係者であり、利害関係にない被害者については、まるでその存在さえ認知されない「見捨て」が生じていた。加害者となったサリン散布の実行犯は、与えられた任務をひたすら誠実に実行し、地下鉄に同乗し現場に立ち会った人々は、仕事に忠実に、遅刻しないように先を急いだ。その忠誠さの真っただ中で、被害者は置き去りにされ、見捨てられた。まるでその存在さえなかったかのように。
浮浪者襲撃事件の加害少年たちは、「街のゴミ」と認知された「浮浪者」を、誠実に片付けたのだろうか。社会的存在たる「人」の条件として、仕事(収入)・住まい・居場所があげられる現代社会において、少年たち、さらには事件を目撃した人々には、浮浪者は人としての欠如態であり、片付けられるべき存在に見えたのだろうか。
1985年に藤田省三は「「安楽」への全体主義─充実を取り戻すべく─」という文章で次のように書いている。
かつての軍国主義は異なった文化社会の人々を一層殲滅することに何の躊躇も示さなかった。そして高度成長を遂げ終えた今日の私的「安楽」主義は不快をもたらすもの全てに対して無差別の一掃殲滅の行われることを期待して止まない。その両者に共通して流れているものは、恐らく、不愉快な社会や事柄と対面することを怖れ、それと相互的交渉を行うことを恐れ、その恐れを自ら認めることを忌避して、高慢な風貌の奥へ恐怖を隠し込もうとする心性である。
生活の隅々まで徹底した「安楽への自発的隷属」は、悩み・苦労の源を「根こぎ」にする「恐るべき身勝手な野蛮」である。
少年たちは、安楽への全体主義を「誠実に」修得した「模範生」だったのか。
まずもって問われるべきは、わたしたちの時代状況であり、「高度消費社会」「高度技術社会」のあり様とそれを支えている精神的基盤ではないのか。
藤田の指摘は、恐ろしいほど的確である。
最後に、藤田の主張を踏まえ、「世間」の構造と論理及び犯罪学的視点を加味して再考察し、本稿を閉じたいと思う。
わたしたちは、わたしたちが生きている歴史的・社会的・文化的そして政治的状況に対して、恐れ、目を背け、逃避し続けている。
その見て見ぬふりを可能ならしめ、さらには責任転嫁を合理化する(言い逃れ)する国家装置と社会装置がある。
ひとつは、社会的共同生産物たる特定の行為類型に対して、「犯罪」と定義し、その行為者を特定し、個人的責任を科する国家による刑事司法手続きと装置。
もうひとつは、人権と社会の概念とは似て非なる責任主体無き「世間」の構造と論理。
この二つが、「安楽」への全体主義を下支えしている精神的・物理的基盤の重要な要素ではないだろうか。
[ライタープロフィール]
阿部寛(あべ・ひろし)
1955年、山形県新庄市生まれ。生存戦略研究所むすひ代表。社会福祉士。保護司。
20代後半から、横浜の寄せ場「寿町」を皮切りに、厚木市内の被差別部落、女性精神障害者を中心とするコミュニティスペースで人権福祉活動に取り組む。現在は、京都を拠点として犯罪経験者・受刑経験者、犯罪学研究者、更生保護実務者等とともに、ひとにやさしい犯罪学、共生のまちづくりを構想し共同研究している。