あてにならないおはなし 第17回

阿部寛

筆者直筆のイラスト(本連載のサムネイルに使用)

連載第16回の最後で触れたが、1984年2月、中央大学大学院法学研究科刑事法専攻博士課程前期の履修科目「法理論(法解釈学)」の単位レポートを担当教員の櫻木澄和教授に提出した。数日後、先生本人から直接電話をいただき、「相談したいことがあるから、研究室に来るように」と呼び出しを受けた。

「あらら、なんかしくじったか。もしかしたら、ひどく怒られるかも?」と覚悟を決め、緊張しまくりで研究室のドアをノックした。

「おい、このレポート、すごくいいなあ。法学部の新入生に「法学入門」としてぜひ読ませたいと思ってるんだが……」

「へっ? あ、はい……」

さっそく中央大学出版部に連れていかれ、先生から編集責任者を紹介された。タイトルも内容も単位レポートそのまま、「法解釈の理論と実践?『法の解釈』論争を読む—」となり、『中央評論』(167号、1984年4月号)に掲載された。『中央評論』は、中央大学の総合教養雑誌で、編集責任者の説明によれば、本誌の執筆者は、本大学の教授や著名な評論家が主で、大学院生の文章が掲載されるのは極めて異例ということだった。

うれしかったなあ。
そして、わたしは有頂天になった。

あれから37年、今回改めてこの小論文を読み返してみた。

んっ? ん〜、難しいなあ。これ、ほんとに
わたしが書いたのか? ずいぶん力み、爪先立って書いてるなあ。もう少しわかりやすいことばで書けないものかなあ。
いまのわたしだったら、どのように書くだろうと考えてみた。おそらく、大幅な書き換えをしたいところだが、ここではその要点だけをいくつか書いてみることにする。

まず第1に、法解釈における実践主体と社会的責任についてだ。この点に関して、小論文では次のように指摘している。

「法解釈は権利闘争、階級闘争の最前線としての位置にあり、法の「理論」と「実践」とのかかわりあいが、強く要請され、法実践主体の社会的役割・責
任の問題が厳しく問われる場面である」

ずいぶんと堅苦しい表現だが、確かにその通りだ。そして、法解釈論争において議論されたのは、いわゆる「法解釈専門家」の認識と態度、理論と実践だった。しかし、法実践主体とは、裁判官等の法曹や法学研究者等の法解釈専門家に限られず、すべての人たちのはずだ。労働者と資本家ばかりでなく、こども、女性、男性、性的マイノリティ、高齢者、障害者、被差別部落民、外国人、難民、先住民、患者・元患者(ハンセン病回復者や新型コロナウィルス感染者等)及びその家族、犯罪者や被害者及びその家族、野宿者……等々多様なアイデンティティを抱えながら、日々生き抜いている人たちだ。
しかも、法解釈の専門家とひとくくりにされる人たちも、その職業柄法解釈の専門的知識と経験的技術を要求される人ではあるが、一人ひとりは具体的なアイデンティティを持ち合わせる生身の人間である。
国家や大企業などの大きな権力におもねたり、市民のいのちや暮らしを蹂躙し、自然を破壊すること合理化するような法理論を展開すること、あるいは法的判断を避けたりすることは、厳に慎まなければならないが、現実には、権力者やその所属する組織から大きな圧力をかけられる。そのような状況の中、自らの信念に基き、民衆の人権保障の立場に立って法解釈を実践することは至難の技であろう。裁判(官)の「中立性」というフィクションを打ち破り、裁判官を孤立させない民衆の側からの応援と共闘関係をつくるには具体的にどうすればいいのか、そこをわかりやすく記述すべきだった。

第2点目は、わたしたち一人ひとりの日常生活態度や権利意識を、法解釈の理論と実践としてどうのように位置付ければいいのか、という点である。小論文では、この点について次のように記述している。

「だが、国民は、社会的諸矛盾に不満を抱きながらも、それを法的に処理することに「合意」するのを戸惑うほど希薄な権利意識を持ち合わせており、そのことと法的闘争の未組織化とが悪循環に陥っており、司法の反動化がそれを加速化する。法律家の怠慢が厳しく問われなければならない。」

なんと傲慢な発言だろう。わたし自身はどこに立ってものを見、誰に向かって発言しているのだろうか。自分自身は「法解釈専門家」であり、「民衆は権利意識が低くて困る」という差別・偏見に満ちた物言いで、深いため息が出る。
現代資本主義国家における階級闘争・権利闘争と法解釈という大きな物語を描きながら、社会変革の方法や手続きも具体的に示し得ないで、ただただ吠えている。大きな物語の展開は、話の本筋を難しくし、かつ分かりにくくして法実践の場から身を遠ざけている。と同時に、日常的に身の回りで起きている、あるいは自分が起こしている出来事や人権侵害に対しては、言い逃れや責任回避をしている。
しかし、形ばかりの自己批判をしていてもだめだ。ささやかのことから、たった一人でもできることはある。今すぐにでもできることはある。できることは何かを考えてみることはできる。身近な誰かといっしょに考え、いっしょにやってみない、と声をかけてみることはできる。
そんなふうに自分を励ましてみようと思う。

第3に、法理論や法の正義は、人間の利益調整で事足りるのか、という問題である。
チッソによる不知火(しらぬい)海汚染(いわゆる水俣病事件)や福島原発事故等の公害や人災の場合は、私的所有と国家所有、経済成長と利益追求を優先とした「開発」という名の全生命系破壊である。本来、海(水)、大気(空気)、大地(山・川・森)等の自然は無主のものであり、切り分けて国家や民間の所有物=商品にして交換してはならないものだ。被害に対する損害賠償や漁業権保障や立退料を支払えば法的紛争処理となるという人間社会の一方的法理論自体が、根本的に通用しない緊急事態となっている。人間中心主義のもと、自然侵略を当然とする「開発」と経済発展、私的所有と商品交換の暴走をいかにコントロールし、全生命系を守る哲学と生活様式の変革・創造が喫緊の課題となっている。現代社会における法解釈学は、このような状況認識に基づく新たな法理論と実践が強く求められている。

第4点目は、日本において「個人」や「社会」、法的ルールは成立しているのか、という問題である。日常生活世界をコントロールしているのは、実定法なき行動準則=「世間」だ。いま、世の中のあらゆる場面で、ルールも民主的手続きも正義もなく、権力者の暴力行為と同調圧力が蔓延している。わたしたち自身が「個人」として、法実践主体として行動し、差別・抑圧的な「世間」の構造と論理を解体していかなければならない。その闘いの法的理論と実践はどのように実現したらいいのだろう。ぜひ、話し合いたいものだ。「世間」の構造と論理については、本連載の第14回「世間論再考」で触れているので、参照願いたい。

最後に第5点目、法解釈論争で登場しているのは、男性研究者ばかりだという問題だ。
1950年代から始まった「法の解釈論争」に、ただの一人も女性研究者が登場していないことだ。発言をしなかったわけではない。発言の場を与えられなかったのではないか。わたしが大学院にいた当時、極めて優秀な女性研究者がおり、わたし自身その研究者から最も深く学び、刺激を受けた。この人の修士論文は非常に優れていたし、指導教授の論文制作にも最も貢献していたが、研究者の道を断念せざるを得なかったようだ。法解釈者の社会的責任を考える上で、学者や研究者が活動する大学や学会等という場の体質、利害関係ネットワークや非民主的・差別的体質が厳しく問われなければならないと強く思う。

[ライタープロフィール]
阿部寛(あべ・ひろし)
1955年、山形県新庄市生まれ。生存戦略研究所むすひ代表。社会福祉士。保護司。
20代後半から、横浜の寄せ場「寿町」を皮切りに、厚木市内の被差別部落、女性精神障害者を中心とするコミュニティスペースで人権福祉活動に取り組む。現在は、京都を拠点として犯罪経験者・受刑経験者、犯罪学研究者、更生保護実務者等とともに、ひとにやさしい犯罪学、共生のまちづくりを構想し共同研究している。

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