あてにならないおはなし 第41回

第41回 世界を取り戻し、切り拓く識字

日本社会で生きるヴェトナム難民との出会いと学びほぐし

阿部 寛

「阿部さん、勉強は一生です」

ヴェトナム難民のクンさんの口癖だ。このことばには、過酷な人生を生き抜いてきたクンさんの哲学と闘志が込められている。

 

クンさんの識字作品に触れるに先だって、

ヴェトナム難民を含むインドシナ難民に対して日本政府が採ってきた1975(昭和50)年から1994(平成6)年までの対応について概観しておく。

 

1975年4月、「サイゴン陥落」によるヴェトナム戦争終結後、インドシナ3国(ヴェトナム・ラオス・カンボジア)では、社会主義体制への移行と内戦勃発から逃れた大量の「難民」が発生した。

同年5月には、初めてのヴェトナム難民が千葉県に上陸しているが、その当時、日本には難民を受けいれる法制度がなかったため、かれらは「水難者」として短期間の上陸を許可された。しかも、日本に到着した難民たちに直接対応したのは、カリタスジャパン、国連難民高等弁務官事務所、宗教団体、日本赤十字社などであり、日本政府の対応は大きく遅れた。

1978年、日本政府が重い腰を上げて閣議了解手続きによって一時滞在中のヴェトナム難民の日本への定住を認めた。1979年7月、内閣にインドシナ難民対策連絡調整会議事務局を置き、定住促進の諸施策を推進することとした。同年11月、財団法人アジア福祉教育財団に業務委託し、財団内に難民事業本部が設置された。日本へ定住を希望する人への日本語教育、健康管理、就職あっせんを目的として、1979年12月、兵庫県姫路定住促進センターを、1980年2月、神奈川県大和定住促進センターを開設した。1982年2月、長崎県大村難民一時レセプションセンター、1983年4月、東京都品川区に国際救援センターが開設された。

1989年以降、ヴェトナムから国外脱出した人々は、難民条約の規定に準じて「難民」であるか否かを審査(スクリーニング制度・難民資格審査)されるようになり、政治難民・経済難民・偽装難民に分類された。

1994年、ジュネーブでインドシナ難民国際会議が開催され、インドシナ3国の情勢安定による難民流出の理由なしとされ、「インドシナ難民問題」に事実上の終結宣言が行なわれた。これにともない、日本における「インドシナ難民」行政は大幅に縮小され、各地の定住促進センター(難民収容施設)が閉鎖された。

 

クンさんの人生は、ヴェトナム戦争とその終結後の難民生活、とりわけ日本における難民政策及び日本社会・日本人の差別・偏見に翻弄され続けた。

 

クンさんは12歳のとき、ボート・ピープルとして台湾沖を漂流しているところを米軍艦船に救出され、日本に来た。最初の寄港地は神戸で、その後は、広島、姫路、長崎県大村、神奈川県大和など各地の難民定住センターを転々とし、そして厚木にたどり着いた。

 

わたしたちの勉強会(地域人権学習会「ぼちぼち」)にクンさんが初めて参加したのは、2001年9月である。厚木市内にある精神障害者の作業所(障害者就労支援施設)に通所し、市内の日本語教室に通っていた。当初は、たまにふらりと立ち寄る程度の参加であったが、2009年の夏以降、毎回のように参加するようになった。

その理由を推測してみると、次のことが考えられる。

クンさん初参加のときは、学習会の参加者は被差別部落出身者、精神障害者、不登校経験者などの20代~30代の若い世代であった。

その後、東京大空襲(1945年3月10日)被災者で学校教育を受けることができなかった60代の精神障害を抱える女性、ヴェトナム難民の40代の女性とその娘、50代のブラジル移民経験者等が学習者として加わったこと、学習内容のスタイルが、ミーティング、識字、人権学習の3本柱に変化したことなどが、クンさんに良い刺激を与えたかもしれない。その他、クンさんのことばを借りれば、「日本語教室は、日本語の読み書きばかりでつまらないし、覚えられない」と言う。クンさんは、どうしても話したい、書き記したいことがたくさんあるのに、日本語教室では日本語の正しい読み書きを厳しく指導され、添削されるために、学習意欲が著しく削がれていた。

 

クンさんの識字作品から、クンさんが歩んだ人生をたどってみよう。なお、クンさんの成育歴に添った形で紹介するため、執筆日時とは相前後している。

 

〇2010年3月11日

3月10日が東京大空襲の日であったことから、「平和」について語り合い、書き、読み合った。

 

「私は、2さいのとき、公園にいました。かれ葉ざいがふってきて、1分で身体マヒになりました。お父さん、お母さんが、私の命を助けてくれました。」

(㊟ベトナム戦争時の米軍による枯葉剤作戦、その枯葉剤が含む猛毒ダイオキシンは、ベトナムの兵士・民衆のみならず、米韓の兵士にも今なお深刻な被害を与えている。)

 

〇2009年7月10日

「農する誇り~山下惣一さんに聞く~」(日本経済新聞2009年7月9日)を読んで、

「土」をテーマに書き、読み合った。

 

「私のふるさとは、ベトナムのニャチャンのいなかです。9さいのとき、午前中学校で勉強したら、昼には家に帰ります。

ごごは、お姉ちゃんと私は、お弁当をもって、畑にいるお父さんのところに行きます。とちゅう、首までつかって川をわたります。川の中には大きなヘビがいて、とてもこわかったです。

みんなでお弁当を食べたあと、畑仕事をします。じゃがいもをたくさん作りました。とれたじゃがいもは、大きなカゴに入れ、頭にのせて川をわたります。

ベトナム戦争のとき、とっておいたじゃがいもを食べて、うえをしのぎました。」

 

〇2009年5月27日

長田弘の詩「なくてはならないもの」を読んで、思い出したことを書いた。

 

「12才、日本に来ました。広島の小学校をそつぎょうするとき、校長先生が「クンちゃんの笑顔が一番」といってくれました。

中学校に入学するとき、小学校の教頭先生が来てくれて、「クンちゃんを3年間めんどうみてください」と言いました。クラスのたんにんは、36才の数学の先生でした。2年生になって家族の事情で、兵庫県姫路の中学校に転校しました。あとで、広島の中学校のたんにんが、訪ねてきて、いろいろ心配してくれました。この先生は、私にとって、なくてはならない人です。今でもわすれられず、会いたいです。手紙を書きたいけど、住所もわかりません。」

 

〇2009年4月22日

長田弘の詩「手紙14―微笑について」(詩集『すべてきみに宛てた手紙』所収)を読んで、思い出したことを書いた。

 

「二十三ねんまえ、中学2年生のとき、はつ恋をした。キャンプに参加して、体がわるいため、いじめられた。私は、泣いて遠くに行きたい、死にたいと思った。そのとき、高校2年生の男の人が、私を助けて、守って、死ぬまでわすれない。それから彼とは二度と会わない。」

 

〇2010年4月23日

「もう一度訪れたい場所」をテーマに、書き読み合いました。

 

「中学校一年生から三年まで兵庫県姫路市にいました。中学二年のとき、修学旅行に行くのですが、そのお金がありません。

私とお父さん、お姉さん、弟の四人生活は、大変でした。それで、私は修学旅行に行かない、と言いました。先生は「ぜったいに行きなさい、楽しいよ。みんなといっしょに行きましょう」と、すすめてくれました。

それで、お父さんと、お姉さんが、いっしょうけんめい働いて修学旅行代5万円を作りました。そして修学旅行行けることになりました。先生とみんなで、新幹線に乗って笑顔で、楽しかった。

一番楽しかったのはディズニーランドでした。朝、すごい雨がふって、何も見えない。でも、楽しかった。ディズニーランドの中のホテルに泊まりました、

朝ごはん、昼ごはん、夜ごはんも食べました。みんなで風呂に入りました。14才、15才、はだかは、とてもきれいでした。

バスで富士山に行きました。

バスで山に登ると、雲が下に見え、まるで飛行機に乗っているみたいでした。

三日目は東京タワーに行きました。

すごい高くて、ビックリしました。

みんなで買い物して、バスと新幹線で帰ってきた。」

 

〇2010年3月23日

「私にとってのしあわせ—食べ物の思い出」をテーマに書きました。

 

「わたしにとってのしあわせ

日本に来て長いけど、未来は

明日死ぬか分からないけど

起きたら冷ぞうこに何もなくても、水をのんで、しあわせになる。」

 

〇2010年4月6日

「顔」をテーマに、一行のイメージに取り組んだ。(㊟「一行のイメージ」とは、提示された単語から思い出すシーンや出来事を一行で書くもので、学習者には最も人気がある学習メニュー)

 

「朝は元気な顔、三時からはイヤな顔」

 

 

識字の時間は、学習者の人生体験を時間に即して順序良く書いているわけではない。ひとつの単語や詩などの「教材」から呼び覚まされた記憶を記述している。

学習者は、文字の読み書きを修得すると、自分の人生の歩みを振り返り、記録する。自分自身で、仲間とともに、それぞれの人生の記憶を呼び覚まし、記録し、「生きほぐし、生きなおす」ために、文字を覚え、声に出し、書き始める。文字の読み書きとは、本来そういう表現活動であることに改めて気づく。

人は、人生のこれまでをいったん立ち止まって振返り、記憶を呼び覚まし、記録し、さらにこれからを生きていく。識字という時間と場所は、個々人のかけがえのない、固有のいのちのいとなみどうしが、出会い、交差して社会化され、その独自性と共通性、普遍性を獲得していく。

それぞれの生きた時代や社会状況によって束縛され、疎外されてきたいのちのいとなみが、「情報公開」され、共通の場と時間を共にし、もみほぐされ、分解・発酵して、新たな生が創り出される。まさに、世界を取り戻し、新たな世界が切り拓かれる。

クンさんの人生は、戦争が巻き起こす殺戮と暴力と破壊と被害に翻弄され続けてきた。

その中で、必死に生き続けてきた歴史的表現者であり証言者だ。人間という生き物はいかに弱く、愚かなものであるかを思い知らされると同時に、どんな逆境の中でも知恵と技を駆使して必死に生き抜いていく人がいるという事実に感動する。

クンさんの生きた証としての記録の中に、クンさんと出会ったたくさんの人々が登場する。そして、わたしとあなたのまなざしとふるまいが、クンさんの心の中にしっかりと刻印されている。

クンさんと出会い、ともに悩みと苦労を分かち合った仲間どうしとして、互いにどこまで身もだえしながら語り合い、聴き届けることができてきたか。「悶え(もだえ)加勢(かせ)」し続けることができているか。識字の本義にかかわる一大事だ。

 

【主な参考資料】

〇川上郁雄「日本の国際化とインドシナ難民—ベトナム系住民の視点を中心に—」(梶田孝道・宮島喬編『国際社会① 国際化する日本社会』(東京大学出版会,2002年)所収)

〇中村梧郎『新版 母は枯葉剤を浴びた ダイオキシンの傷あと』(岩波現代文庫、2005年)

 

 

[ライタープロフィール]

阿部寛(あべ・ひろし)

1955年、山形県新庄市生まれ。生存戦略研究所むすひ代表。社会福祉士。保護司。 20代後半から、横浜の寄せ場「寿町」を皮切りに、厚木市内の被差別部落、女性精神障害者を中心とするコミュニティスペースで人権福祉活動に取り組む。現在は、京都を拠点として犯罪経験者・受刑経験者、犯罪学研究者、更生保護実務者等とともに、ひとにやさしい犯罪学、共生のまちづくりを構想し共同研究している。

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