あてにならないおはなし 第42回<最終回>

第42回 識字は生きほぐしの相続財産

阿部 寛

 2019年11月15日にスタートしたこの連載も、そろそろ幕を閉じようと思う。月1回ペースで書き続けて3年半、42回を重ねた。

そのきっかけを作ってくれたのは、彩流社の編集者・出口綾子さんだ。

「寛さん、本を書いてみませんか」と何度かお誘いをいただきながら、なかなか腰を上げようとしないわたしに対し、彼女は「いきなり本を書くというのは気が重いでしょうから、連載と言うのはどうでしょう」と、より具体的な提案をしてきた。

編集者というのは実に、恐ろしく手ごわい。いつの間にやら出口マジックにはまって、2019年7月末に連載の構成案を彩流社に提示したところ、了解を得たため11月から連載する運びとなった。構成案は、20項目の目次からなり、割合整序された内容で、本にすることを妄想していた節がある。

しかし、実際に書かれた内容は、当初の筋立てからかなりずれて、その都度頭に思い浮かんだシーンに引きずられて筆を進めてきた。

計画性、時間と規律の身体化、契約、論理的整合性という近代社会の大原則に従えない、

わがまま放題の書きっぷりで、実に編集者泣かせの所業だったに違いない。ごめんなさいね。それにしても、編集者にはずいぶん励まされ続けた。各連載の原稿の最初の読者は編集者であり、どんな反応が返ってくるか、毎回緊張し、かつ楽しみでもあった。

「いやあ、面白いですねー。」という第一声の後に、実に本質的で素直な問いかけがいくつかなされる。この編集者と執筆者であるわたしとの間の応答が、実に濃密で楽しい。

そして、誤字脱字の指摘とよりわかりやすい表現の提案があって、毎回の原稿が掲載される運びとなる。

連載タイトルについても、ここで触れておこう。連載前に私が提案したタイトル案は、以下の通りだ。

「ことばは場で芽生え、人びとに宿る」

「生存戦略事始め」

「つながりの流儀」

「架橋のことば」

「あてにならないおはなし」

「ことばがうまれいづるところ」

「ただよう日々」

「それから、それから」

「人生なぞが深まるばかり」

 

どうだろう。結局、「あてにならないおはなし」となった。

わたしというきわめていいかげんな人間の、ささやかなつぶやきみたいな物語であるし、なにも正しい主張をしたいわけでもない。

連載で書き留めた個人も、その文章や振る舞い、言動も、私には名言・格言でもなく、人格者とも思えない。その意味で、あてにならない連中の、あてにならないことばだ。

しかし、その人たちが、人生の荒波にもまれて、もがきながら発したことばたちは、鈍い光を放ち、その場に立ち会った者たちの心深くに沁みわたる。

一つひとつのことばや振る舞いが立ち現れた場面と状況を思い起こして、わたしはにんまりとし、ほっとするのだ。そのユーモアとしたたかな文化性に脱帽するのだ。

 

あらためて連載を読み返してみると、この連載自体が、わたし自身の識字活動であることに気づいた。

わたしは、幼少期から青年期に至るまで、一貫して自分自身のことが嫌いだった。あまのじゃくで、ひねくれ者で、臆病で、他人とのかかわりが面倒くさくて仕方がない。いつの頃からだろうか、結婚はしない、子どもをつくらない、一人で生きていくと決めたのは。

小学3年生ごろまで教室でほとんど発言しなかったが、母親と学級担任の励ましによって、言葉を発するようになり、成績がぐんぐん伸びた。それと反比例するように自己否定感が一層増した。周りの人間が「尊敬のまなざし」で見ることが増えるにつけ、あくまでもそれはうわべのことであり、自分の内面は貧しく、邪悪であることを見抜かれていると、不信感を募らせていた。

小学校6年生の仙台・松島修学バス旅行では、自分の隣の座席に座る者が誰もいないのではないかと、おびえたことを強く記憶している。

しかし、こんな私の周りには、その日をしのぐことさえ精いっぱいの同級生たちがいた。

廃品回収業や燃料屋を営む在日コリアンの子どもたち、屠場労働者のこども、樹木が大黒柱代わりの家に住むこども、重度の障害を持つため学校に通っていない姉がいるこども。そんなこどもたちの家に遊びに行ったり、新聞配達のアルバイトを手伝ったりしていた。これらの同級生と出会い、時間をともにしていた事実をすっかり忘れ去っていたが、「識字」の取組みの中で記憶がよみがえり、語り、書き残すことによって、自分自身の人生の意味が復元・再生されたように思う。

もうひとつ鮮明に思い出した出来事がある。

「マンモス」というあだ名で呼ばれていた物貰い(乞食)がいた。季節に関係なく、ぼろぼろのオーバーを身にまとい、ときどき各家を訪問し、食べ物を乞う。母はいつも、マンモスに握り飯を与え、「ごくろうさま」と声をかけていた。あれは、小学生の頃だったと思う。町内の子どもたち数人が、マンモスの後をついて歩き、足を引きずる所作を真似したり、石をぶつけたりしていたずらが次第にエスカレートした。マンモスは我慢の限界を超えて猛然と怒り出し、いたずらの主犯であるわたしを追いかけてきた。酒の小売店を営む我が家に血相を変えて入って来たマンモスは、母親に向かって「子どもを出せ!」と激しく迫った。母は全身でマンモスの行動を阻止し、「勘弁してけらっしぇ。息子が大変すまねごどして」と、深々と頭を下げて平謝りに謝った。マンモスは次第に怒りを治め、店から出て行った。

わたしは母から激しく叱られ、物置小屋に閉じ込められて施錠をされた。母は泣いてい

た。夜になっても母はわたしを許さず、店の番頭さんが仲裁役となって鍵を開けてくれた。

わたしは、この出来事をすっかり忘れていたが、20年後の識字の時間に、そのときのシーンが鮮明によみがえったのだった。

 

わたしが立ち会った識字は、文字の読み書きを覚える学びや識字能力(リテラシー)の上達とは異なる場であったように思う。誰もがその人固有の歴史や体験を持ち合わせているが、さまざまな困難や状況を生き抜くために、忘却され、心の奥深くにある地下水脈にしまい込まれる。それが、ある出会いをきっかけに、地下深くにしまい込まれた心の鍵が開けられ、記憶が永い眠りから目を覚まし、呼び覚まされることがある。そのとき、幸運にもその記憶に言葉が与えられ、語られ、書きとどめられ、その場に居合わせた者たちで共有化されることがある。それが識字という教育文化行動ではないだろうか。個人の物語の再生、再構築という営みが、語り、書き、聴き、研究する共同作業の中で、社会的・文化的・歴史的社会資源であり、文化遺産となっていく。わたしは、識字をお互いが相続すべき文化遺産ではないか。そんな思いをいっそう強くしている今日この頃だ。

 

おわりに、私の病について、触れておこう。体調不良は幼少期から自覚していたが、ここ数年、その傾向が顕著となってきた。

どうやら、脳血管性の遺伝病を抱えているらしく、難病に指定され治療中である。強い

鬱症状がある、筋肉や関節のこわばり、全身の倦怠感、認知機能の低下、長期間にわたる

脳溢血の痕跡がある。そう言われれば、母親は53歳で、母の弟は40代前半で、母の兄や父親も脳溢血で亡くなっている。当時の血液検査やMRIの精密度では脳溢血としか診断しようがなかったものが、現在は遺伝性神経疾患の遺伝子解析によってその病態が明らかになり、

その治療法及び予防開発に関する研究が始まっている。

さてこれからどうしようか。いろいろ考えた挙句、京都での仕事や活動は一切やめて、故郷山形県新庄市に帰ることにした。

わたしを育ててくれた歴史、文化、厳しい気候風土、人間関係、血縁関係を嫌い、逃げるように出てきた「大嫌いで、大好きな」故郷に戻り、わたしという人間の復元と新たな創造を図りたいと念じている。

3年半に渡って、本連載をお読みいただき、貴重な時間を共有していただいた皆様に、深く感謝を申し上げます。

再会を期して。

 

[ライタープロフィール]

阿部寛(あべ・ひろし)

1955年、山形県新庄市生まれ。生存戦略研究所むすひ代表。社会福祉士。保護司。 20代後半から、横浜の寄せ場「寿町」を皮切りに、厚木市内の被差別部落、女性精神障害者を中心とするコミュニティスペースで人権福祉活動に取り組む。現在は、京都を拠点として犯罪経験者・受刑経験者、犯罪学研究者、更生保護実務者等とともに、ひとにやさしい犯罪学、共生のまちづくりを構想し共同研究している。

タイトルとURLをコピーしました