あてにならないおはなし 第36回

第36回 食にまつわる物語

阿部寛

食事、食材、料理と身体に関する記憶をもう少したどってみたい。

「飯食ったがあ」
「まだ食ってねえ」
「んだば、食ってげ」

こどものころ、ご近所さんや知り合い同士で、あいさつ代わりにこんな声を掛け合ったものだ。声を掛けられる対象は、主に子どもや若者たちであり、貧しい暮らしの者たち同士だったように思う。毎日の食事が何より大事な時代だった。

わがふるさと山形県新庄市は、奥羽山脈のふもとにある人口4万人程度(現在は3万5千人)の小さなまち。全国でも有数の豪雪地帯で、子どものころの記憶では、屋根の雪下ろしが終わると、道路に積もった雪の高さは2階建ての家の屋根をしのぐ高さとなり、道路から雪の階段を作り、2〜3メートル下って家に入ったものだ。

昭和の初め、積雪の被害と繰り返す凶作のため疲弊しきった農村経済を更生させるために調査・研究・指導を行う全国で唯一の国立の積雪地方農村経済調査所が農林省の出先機関として設置された。

保存された資料を見ると、当時、幼い少女たちが関東地方に身売りされたり、戦時体制に突入するにつれさらに食糧事情がひっ迫していく様子がありありと記録され、敷地内には雪国対応型の実験農家が建設されたり、缶詰工場、木工・金工工場、醸造場、ホームスパン工場の中で、豪雪と農閑期を耐え忍びしながら農村経済の再生に全力を傾注する姿が浮かび上がってくる。

 

敗戦後、高度経済成長、交通手段の発達、電化製品の普及、商品流通・販路の拡大などが影響して、朝・昼・晩の食卓やお弁当のおかずとして登場する食材も大きく変化した。わたしが幼少期のころは、魚は刺身など生魚は口に入らず、塩引き鮭、ニシンの干物(地元では「カド」という)をよく食べた。肉は、豚肉、鶏肉、馬肉、羊肉、牛肉、クジラの肉(赤肉や皮)などを少量ながら食べた。鉄兜を伏せたような形状の鍋で羊の肉を焼くと、飛び散った油で床がつるつるに滑ったことを思い出す。

生野菜やサラダは食べず、ほとんどが塩や味噌や糠に付け込んだ漬物。わらび・ゼンマイ・ウド・ミズ・シオデ・こごみ等の春の山菜、なめこ・舞茸・カノカ(ぶなカノカ・杉カノカ)・モダシ(楢タケ・ぶなタケ)等のきのこは、長い冬をしのぐ保存食であり発酵食品だ。

サトイモ・こんにゃく、豆腐・ネギ・キノコ(舞茸)を入れ、醤油と砂糖で味付けした芋煮(芋のこ汁)は山形の郷土料理として有名だ。味付けと肉の種類は地方により醤油味・味噌味、牛肉・豚肉・鶏肉と異なり、「わが地方の芋のこ汁が一番だ」と、譲らない。わたしは、やはり牛肉で醤油味の芋のこ汁が絶品で、他の調理法を認めない。

河原で調理し、食べる芋のこ汁は、家族そろって、あるいは友人・知人に声を掛け合って、鍋を囲んで輪になって食べる秋の風物詩だ。大鍋と食材を持参し、河原の石でかまどをしつらえ、枯れ木や流木を燃料とする。ぐつぐつ煮えたら一気に食べ始める。秋の川風で冷え切った体は、熱々の芋のこ汁と日本酒で全身が温まりいい気分だ。通りすがりの見ず知らずの人も参加自由だ。酔うほどに声が弾み、得意の民謡も飛び出す。陽が陰ったころ最上川のほとりに響き渡る「最上川舟唄」は、恋歌であり、労働歌でもあり、哀調もあって胸にしみる。

ヨーイサノマガーショ エンヤコラマー
カセ エンヤアーエーエ エンヤエー
エーエエンヤア エード
ヨーイサノマガショ エ−ンヤコラマーセ

酒田さー行くさーげー 達者(まめ)でろ
ちゃあ よいとこらーさのせー、はやり風邪などを引がねーようにー

かつては、小学校や中学校の学校行事としても、芋煮会に出かけたものだが、今はもうないらしい。なんともさみしいことだ。

厳冬に食べる納豆汁は、キノコ、油揚げ、山菜(わらび・ゼンマイ)、いもがら、豆腐、ネギなどの食材に、すりつぶした納豆と味噌を加えた汁物で、体の芯から温まる貴重な食べ物だ。

コメや日本酒は、ミネラルたっぷりで清涼な水がいのちだ。新庄には米作りの原点を追求する「百姓」が何人かいる。その一人、小野千代志さんは、柔軟かつ反骨の思考を持ち続ける、あこがれの人だ。

残念ながら鬼籍に入られたが、彼が語った言葉は、シンプルで深淵だ。

「イネばめんこがっと、喜ぶんだ〜」
「イネの肥やしは水だあ。山の養分ばたっぷり含んだ水にかなう肥料は無えなあ。こげたごど気付くなさ80年かがったなよ。おれもつくづくバガだなって思う。」

無農薬・有機農法で育てた小野さんの田んぼのイネは、まるで竹のようにビンと立ち、根の深さは化学肥料で育った近隣の田んぼのイネより数倍長く、日照りや寒冷にも強い。

小野さんもかつては、化学肥料と農薬をたっぷり散布し、大量生産を誇る近代農法で稲作をしていた。しかし、農薬の被害で小野さんは胃腸を病み、妻のとし子さんは生理が止まった。夫婦は悩み抜き、意を決して無農薬・有機農法を選択した。その農法を貫くには、水源を同じくする周辺農家との集団の取り組みが欠かせない。小野さん夫婦は近隣の農家を1軒1軒回って説得し、地域全体での無農薬・有機農法をスタートさせた。

順調に始まったかに見えた取り組みだったが、3年後危機を迎える。田んぼの土が解毒し、さまざまなバクテリアやミミズがよみがえるまで、3年から5年はかかる。同時に化学肥料で補ってきた栄養分が涸れ果て、「害虫」が発生する。そしてコメの生産量がガクンと落ちる。米作りを生業とする農業者は我慢の限界に堪えられず、次々と無農薬・有機農法から離脱していった。そればかりではなく、小野さん夫婦に対する誹謗中傷の言動が沸き起こった。匿名のいやがらせ電話や「実は小野も農薬・化学肥料を使っている」という内容のビラがまかれた。

ある日の夜、小野さんは化学肥料がいっぱい入ったバケツをもって田んぼの傍らに立っていた。そして、化学肥料を一つかみして、いままさに撒こうとした寸前に正気に戻り、思いとどまった。ここでひと撒きしたら、これまでの努力が水泡に帰す。自分たちの体だけでなく、子や孫の健康を守らなければならない。その思いで、無農薬・有機農法をやり続けた。やり続けるしかなかった、と言った方が正確だ。そして、地域で一軒だけの無農薬・有機農法農家となった。

我々は健康のため無農薬・有機農法米を購入する。しかし、その作り手は、機械化と大量生産の農法を捨て、日がな田んぼに這いつくばって草取りをし、手間暇かけて米を育てる。まさに後もどりできない「死闘」だ。
小野さんのもとには、これまで何人もの人が訪れ、小野さんの農法を修得しようと努めたが、誰一人残らなかったという。

 

振返ってみると、わたしや若者たちに現象した身体の悲鳴や食にまつわる苦労や悩みは、
極めて個人的な出来事に見えて、実は歴史的・文化的・社会的な要因に深く根ざした事柄で、国家的、時代的、政治経済的な要素や生産様式・生活様式に規定された事態なのではないだろうか。

わたしのからだという「生命体・環境」は、口から食物を摂取し、糞尿として排泄するまでに、さまざまな消化器官や内臓を通り、消化液や体内微生物の協力を得ている。さらに酸素や血液を全身に送り続け、「動的平衡」をかろうじて維持しているわけだ。わが身体は、単独の生命体として完結しているわけでなく、自然のいとなみ、他の生命体との相互関係・関係態、人間社会の歴史的・文化的・政治経済的営為の交差点であるわけだ。

それに加えて、時間と規律と競走という「暴力」の論理に攻撃され続けてもいる。それはいわば全生命体や自然に対する「戦争と侵略」とも言える、いのちの摂理に反する残虐行為であり、人間至上主義、人間中心主義の現われではないのか。
食にまつわる物語を辿りながら、そんなことを考えている日々だ。

 

 

[ライタープロフィール]

阿部寛(あべ・ひろし)

1955年、山形県新庄市生まれ。生存戦略研究所むすひ代表。社会福祉士。保護司。 20代後半から、横浜の寄せ場「寿町」を皮切りに、厚木市内の被差別部落、女性精神障害者を中心とするコミュニティスペースで人権福祉活動に取り組む。現在は、京都を拠点として犯罪経験者・受刑経験者、犯罪学研究者、更生保護実務者等とともに、ひとにやさしい犯罪学、共生のまちづくりを構想し共同研究している。

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