第3回 「野宿者襲撃事件と寿識字学校との出会い」
阿部寛
今回は、わが人生のライフヒストリーを28歳まで先送りして、本連載の副題にもなっている「識字」との出会いについてふれたい。
横浜市役所や横浜スタジアムのすぐそばに寄せ場(日雇労働者の就労斡旋と簡易宿泊所街)「寿町」がある。東京・山谷、大阪・釜ヶ崎とともに、日本の高経済成長を支えてきた、日雇労働者の街だ。
1982年から1983年にかけてこの街の周辺で野宿生活を強いられていた人々が、十代半ばの少年たちによって襲撃され、3人が殺害され、多数の人々が重軽傷者を負う殺傷事件が続いていた。
実は、かなり以前から野宿者に対する暴力や襲撃は日常的に繰り返されていたが、警察の捜査も遅々として進まず、マスコミの報道もなかった。ところが、83年2月、中学生を含む少年たちが本件事件の犯人として逮捕されるや、「横浜「浮浪者」殺傷事件」という被害者に対する差別的呼称が付されて、連日センセーショナルな報道がなされるに至る。同時期、金属バット事件や町田の忠生中(ただおちゅう)事件も発生していたこともあって、本事件は、少年非行と教育問題としてテーマ化され、管理教育導入の格好の事例とされた。
被害者となった人々のいのちとくらし、高度資本主義社会における産業構造、労働と搾取、最底辺労働を支える日雇労働者の現実等は焦点化されず、そのような報道もほとんど見当たらなかった。
当時、刑事政策と犯罪学を専攻する大学院生だった私は、直接野宿生活者や日雇労働者から話を伺い、この事件の真相を探りたいと思い、意を決して、寿町に出かけたのだった。
この単独訪問調査を実行したのは、いくつかの理由があった。犯罪現象は、その社会の階級支配と抑圧、差別と偏見、貧困と社会的孤立、国家統制等が生々しく反映するものだ。しかし、日本の犯罪学研究の在り方は、欧米の犯罪学の論文紹介のような状況で、本事件に対する犯罪学者や刑事司法学者の反応は極めて低調だった。私が所属する研究現場でも本事件への関心も議論もほとんどなかった。そんな状況に、当時のわたしは、不満と憤りを募らせていた。
さらには、やっとの思いで大学院で研究生活にたどり着いた、私の個人的事情もあった。実は、学部時代に心身ともに絶不調だったわたしは、やっとの思いで学部を卒業したものの、人生の目標もわからず、新宿の思い出横丁(しょんべん横丁)の焼鳥屋でアルバイトしながら悶々とする日々を過ごした。体調が回復するにつれ、犯罪学をもう一度学び直したいという思いが募り、中央大学法学部で犯罪学を担当されていた藤本哲也先生に学部の授業かゼミの聴講生として受け入れてほしい旨の手紙を出した。無鉄砲な相談であることは百も承知であったが、とにかく必死だったので、論文も一本添えてお願いした。その内容は、藤本先生のカリフォルニア大学バークレイ校で博士号を取得したCrime and delinquency among the Japanese-Americans (『在米日本人の犯罪と非行』)と、先生の犯罪理論の基盤でもあるラベリング論に対する批判的検討である。人に物事を頼む態度としては全くもって非礼極まりないものであったが、なんと藤本先生からは、「面白い論文だね」との評価をいただき、ご自身が主宰されている「犯罪学研究会」への出入りを許していただいた。そして大学院に入学したときには、26歳になっていた。しかし、語学は苦手、社会現象たる犯罪を調査研究するための分析力も経験知もなし。極めて優秀な諸先輩たちが就職できずにいる現実を目の当たりにした。
あれやこれやの思いを抱えながら、本事件研究調査のため寿町に足を踏み入れた。
当時の寿町は、日雇労働者組合、識字学校、共同保育、不登校の子どもたちの学びの場「豆の木学校」、アルコール依存症者の自助グループ「AA」等、様々な社会問題を住民自らの力で解決しようとする取り組みが行われていた。
その中でわたしが最も惹きつけられたのが、寿識字学校であった。ここで初めてわたしは、「識字」ということばと活動に出会った。
広辞苑を引くと識字とは「文字の読み書きができること」とある。文字の「読み書きならわたしでも教えることができる」。そんな浅はかな考えで、識字学校のドアを叩いたのだった。
(つづく)
[ライタープロフィール]
阿部寛(あべ・ひろし)
1955年、山形県新庄市生まれ。生存戦略研究所むすひ代表。社会福祉士。保護司。
20代後半から、横浜の寄せ場「寿町」を皮切りに、厚木市内の被差別部落、女性精神障害者を中心とするコミュニティスペースで人権福祉活動に取り組む。現在は、京都を拠点として犯罪経験者・受刑経験者、犯罪学研究者、更生保護実務者等とともに、ひとにやさしい犯罪学、共生のまちづくりを構想し共同研究している。