第1回 「あんた嫌い、でも愛してる」
平良愛香
ある雑誌に「わたしの幸せ」というリレー連載がある。いろいろな人が「わたしにとって幸せとは」ということをユニークに述べている。それを読みながら、「僕にとって幸せって何だろう」と改めて考えてみた。というか、いつも考えていて、ある程度答えが出ているので、「どこかで書く機会があったらいいな」と漠然と考えていた。今回、コラムの連載の機会が与えられたので、自己紹介を兼ねて書いてみたいと思う。
初めまして。平良愛香(たいらあいか)と申します。50代前半の沖縄出身のゲイ男性で、プロテスタントの牧師をしていますが、キリスト教大好き人間というわけではありません。詳しい事は追々書いていければと思います。ここまではとりあえずの自己紹介。では「僕にとっての幸せとは」。
僕は「幸せ」というのは「愛するものがあること」だと思っている。誰かのことだったり、自分のことだったり、あるいは映画とか音楽といった趣味だったりするかもしれない。あえて言えばお金であってもいい。ただし「愛する」というのは「大好き」という意味とはちょっと違う。「それを大切だと感じ、同時にとことん理解したい、追求し続けたいと思うこと」だと思っている。
今から30年ぐらい前、幼馴染のさゆり(親しみを込めてあえて呼び捨て)から「あんたのこと嫌いだけど愛してる」と言われたことがある。「あんた一所懸命考えているつもりだけど全然考えていない」「一緒にいるとイライラする」そういったことを言われたあとの一言だった。それは恋愛感情の告白ではなく、「それでもとても大切な存在だと私は見ている」という宣言だった。さゆりの「愛」を感じた。「愛ってこれなんだな」「愛って必ずしも大好きという意味ではないけど、とても嬉しい関係性なのだな」と感じた。
もちろん「嫌いなものを大切だなんて感じない」「嫌いなものを理解していきたいとは思えない」というのも自然な感情かもしれないけど、「好きだ嫌いだというレベルとは別に、(仮に嫌いだったとしても)そのことを大切に感じるし、理解したい、追及したい」ということもあるんじゃないかなあ、と思う。僕はそれを「愛すること」だと思っているし、そういう対象(自分も含めて)があるときに「幸せ」を感じる。
これからコラム連載の中で、沖縄のことやLGBT性的マイノリティのことやキリスト教のことについても触れていくと思うが、どれも「好きだから」というより、「こんなマイナスがあってイヤだけど大切」ということを書ければいいな、と思う。
ゆたしくうにげーさびら(よろしくお願いいたします)。
[ライタープロフィール]
平良愛香(たいらあいか)
1968年沖縄生まれ。男性同性愛者であることをカミングアウトして牧師となる。
現在日本キリスト教団川和教会牧師。