赤毛のアンのお茶会 第7回

2020年8月15日

第7回 なぜアンはアラン夫人にレイヤーケーキを焼いたのか?

南野モリコ

アラン夫人の名前は何?

『赤毛のアン』がきっかけで欧米のおもてなしカルチャーに目覚め、英米文学に出てくる「お茶」の場面を愛する筆者が、『赤毛のアン』に出てくる大小さまざまな「お茶の時間」を深読みするコラム第7回です。今年2020年は、新型コロナウィルスが起こったため、あらゆる場所において変更とキャンセルが連続の1年となってしまいました。しかし『赤毛のアン』周りはちょっとしたバブルのような気がします。北海道芦別市にある「カナディアンワールド」のリニューアル・オープン、アニメ『世界名作劇場』の再放送、そしてネットフリックスのドラマ『アンという名の少女』が9月よりNHKで放送されるというニュースです。ヴィクトリア朝時代を舞台とした『赤毛のアン』を現代風に大胆にアレンジしたドラマ・シリーズが地上波で放送されるのは嬉しいですね。エイミーベス・マクナルティが演じる新しい『赤毛のアン』を楽しみながら、「ふーん、こういう読み方もあるのね。いちご水飲みたい」と、このコラムもお読み頂けると嬉しいです。

さて、筆者がアンと出会ったのは、アンと同じ11歳になる年のこと。『赤毛のアン』読者の多くが少女時代に作品と出会い、ダイアナとの友情やギルバートとの初恋、料理や手芸、プリンスエドワード島の美しい風景によって魔法をかけられたと思います。だからでしょうか、すでにマリラに近い年齢になってから再び読み直しても、「これっておかしいよね?」と物語を斜めから読むことができません。まるで、サンタクロースのプレゼントが、本当は親がアマゾンで注文していたと気付くことがないように。それくらいモンゴメリがアヴォンリー・ワールドというひとつの世界を計算して作り上げているからなのですけどね。

「これっておかしいよね?」のひとつが、アンが憧れるアラン夫人に名前がないことです。アラン夫人、ステイシー先生、『アンの青春』に登場するモーガン夫人など、アンが憧れる大人の多くが女性ですが、ステイシー先生にはミュリエル・ステイシー、モーガン夫人にはシャーロット・E・モーガンと、一度はファースト・ネームが紹介されます。しかし、アラン夫人だけにはそれがないのです。これはかなり深読みする価値のあることだと思っています。

(高橋睦郎著『百人一首 恋する宮廷』中央公論社、2005年)

アンが自分の名前を気に入らないことにも少し違和感があります。“アン”という名前は、アンが「せめて『お母さん』と呼んだことを覚えているくらい大きくなるまで生きていて欲しかった」と慕う両親が残した、たったひとつの宝だからです。

アンは、マリラに名前を聞かれた時、「コーデリアと呼んで」と答えます。また、アンにはジェラルディン・フィッツジェラルドという「理想の名前」があります。アンにとって名前は、親が我が子の幸せを願ってつけるものではなく、自分で決めるものなのです。

これはアンが孤児である故の発想ではないかと思います。作者のモンゴメリ自身も2歳で母親を亡くし、父親にも捨てられ、孤児と似た境遇で育ったことに関係があるかもしれません。

それにしても、孤児院にいたヘプジバ・ジェンキンズという女の子を「しっくりこない」という理由で、ロザリア・ド・ヴィアという違った名前で呼ぶくらい、名前にこだわるアン(つまりモンゴメリ)なのに、アラン夫人のファースト・ネームに触れないことは考察するべきだと思います。『赤毛のアン』シリーズには「アレグザンダー・スペンサー夫人」のように、夫の名前に「夫人」という敬称をつけた登場人物が多いのですが、アンにとっては、アラン夫人のファースト・ネームより、アラン牧師の妻であるという立場が重要だからではないでしょうか。

夫のアラン牧師は前任のベントレー牧師退任の後、村人たちの(特にリンド夫人の)厳しい審査をクリアして赴任してきた、アヴォンリー村では選ばれし人物ですが、アラン夫人については「親族も家事の切り盛りの上手い主婦ばかり」というだけで、本人のバックグラウンドについては語られません。日本平安時代の女流歌人の名前が「藤原道綱の母」「伊勢」などと、男性の親族の名や仕えていた地名を名前の代わりにされて、本名が伝わっていないことと似ています。つまり、アラン夫人と呼ばれる美しく聡明な女性は、夫アラン牧師ありきの人でしかないのです。シリーズを通して1回しか登場しない、行きずりのキャラクター、1000人にフルネームをつけたモンゴメリがアラン夫人にファースト・ネームをつけなかったのは、この時代ならではの盲点だったのでしょう。アラン夫人の名前がないと指摘することが現代のアン・ファンの役割だと言ったら、深読みも行き過ぎでしょうか?

実はアンと似た境遇だったかもしれないアラン夫人

それはさておき、アラン夫人が初登場する『赤毛のアン』第21章は、ヴィクトリア時代のお茶会カルチャーが素敵に描かれている、本作の代表的なエピソードのひとつです。筆者と同じように、このお茶会に魅了されて『赤毛のアン』の崇拝者になった人も多いことでしょう。

お茶が登場する作品といえば、ローラ・チャイルズの『お茶と探偵』シリーズを読んだ方も多いかもしれません。サウスカロライナ州チャールストンの歴史地区でティーショップを経営するセオドシアが、街で起こった事件を解決するライト・ミステリーで、アメリカ南部に残るヴィクトリア王朝時代の建物やお茶やお菓子の場面が、お茶好きにはたまりません。

(ローラ・チャイルズ著、東野さやや訳『お茶と探偵①ダージリンは死を招く』ランダムハウス講談社、2005年)

他にもシェフやバリスタ、パティシエが主人公の「食」のエンターテイメント小説が出版されていますが、モンゴメリ以前の作家は作品に料理は描かなかったようです。

モンゴメリは、家庭での正式なお茶会でどんな料理が出されたのか、アンのおしゃべりを通して事細かに語っています。しかし、山本史郎訳『完全版 赤毛のアン』(原書房、1999年)によると、当時の女性作家たちは、女性の教育を推し進めようとしており、家の中の伝統的な仕事を作品中に書くことをよしとしていませんでした。

女性であることから正規の学生として大学に入学できなかったモンゴメリが、女性の社会的地位の向上を願ったのはもちろんのことでしょう。しかし、それと同時に、家事という労働にもまた敬意を払っていたのです。レイチェル・リンド夫人が家事の上手い女性を称賛するように、モンゴメリもまた、今よりずっと重労働だったであろう家事を大切にしていたのです。

話をお茶会に戻します。憧れのアラン夫人をお茶会に招くと決まり、アンは「私にもケーキを焼かせて」とマリラに懇願します。これは、当時、アンくらいの年齢(11歳)の女の子ならケーキくらい一人で作れるようになっていなければならないことを意味しています。マリラは「レイヤーケーキを焼いていいよ」と言います。マリラがお茶会に用意したケーキは、フルーツケーキ、パウンドケーキとレイヤーケーキです。アンにレイヤーケーキを焼かせたのは、いちばん簡単だったからでしょう。1885年にモントリオールとバンクーバーを結ぶカナディアン・パシフィック鉄道が敷かれたことで、流通がよくなり、ベーキングパウダーやレモン、オレンジなどの香料が手に入りやすくなったのです。バターが決め手のパウンドケーキやフルーツケーキより、ベーキングパウダーで膨らませるレイヤーケーキの方が作りやすかったのです。レイヤーケーキはこの時代の流行であり、バニラエッセンスと間違えて痛み止めの塗り薬を入れてしまう失敗は、時代を象徴していたのですね。

それにしても、アラン夫人には謎が残ります。『赤毛のアン』第22章で、アラン夫人のお茶会に招かれたアンは、自分の生い立ちについて「心を開いて話した」と言っています。それについてアラン夫人が何と言ったのかまではアンのおしゃべりにはありませんが、『アンの青春』第39章で、アラン夫人は「母の思い出はひとつしかない」と言っているのです。リンド夫人の情報では、「身内も立派な人ばかり」だそうなのに。もしかしたら、アラン夫人もアンと似た境遇で育ったのかしら。深読みは止まりません。

参考文献

モンゴメリ著、松本侑子訳『赤毛のアン』集英社、2000年

[ライタープロフィール]

南野モリコ

映画配給会社宣伝部勤務を経てライターに。大学時代、イギリスに遊学したことをきっかけに紅茶の魅力に開眼。リプトン・ブルックボンド・ティースクールで学ぶ他、『不思議の国のアリス』『赤毛のアン』他、英米文学作品に描かれる「お茶の時間」を研究する。紅茶、日本茶はじめ世界のお茶を愛し、これまで飲んだお茶は1000種類以上。ツイッター:「モンゴメリ『赤毛のアン』が好き!」
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