スージー鈴木のロックンロールとしての日本文学 第13回

第13回 二葉亭四迷『浮雲』と忌野清志郎の言文一致について

スージー鈴木

今回は、ずっと読みたかった二葉亭四迷『浮雲』にチャレンジする。ずっと読みたかった理由は、『浮雲』が「言文一致」の先駆けとされるからだ。国語や日本史の授業でその意義を知り、興味を抱いていたのだ。

言文一致――話し言葉に書き言葉を一致させること。いかめしくカクカクした文語体から、日常の話し言葉の口語体に、書き言葉を解き放った小説。素晴らしい。

あと、ご存じの通り、名前の「二葉亭四迷」は「くたばって仕舞え」から来ているらしい(諸説あり)。こりゃロックンロールだ。こりゃ読まねばならないと思っていたのだ。

という思いは、1ページ目「浮雲はしがき」から、いきなりつまずく。

――薔薇の花は頭に咲て活人は絵となる世の中独り文章而已は黴の生えた陳奮翰の四角張りたるに頬返しを附けかね又は舌足らずの物言を学びて口に涎を流すは拙しこれはどうでも言文一途の事だと思立ては矢も楯もなく文明の風改良の熱一度に寄せ来るどさくさ紛れお先真闇三宝荒神さまと春のや先生を頼み奉り欠硯に朧の月の雫を受けて墨摺流す空のきおい夕立の雨の一しきりさらさらさっと書流せばアラ無情始末にゆかぬ浮雲めが艶しき月の面影を思い懸なく閉籠て黒白も分かぬ烏夜玉のやみらみっちゃな小説が出来しぞやと我ながら肝を潰してこの書の巻端に序するものは

めっちゃ文語体やん……。何か面白そうなことを書いていそうなのだが、さすがにこれには怖気付いてしまう。てか何だよ「やみらみっちゃ」って。しかし、本編、特に会話のところになると、文章が一気にリアルに動き出す。

――「何故と言って、彼奴は馬鹿だ、課長に向って此間(こないだ)のような事を言う所を見りゃア、弥(いよいよ)馬鹿だ」

 

――「それは課長の方が或は不条理かも知れぬが、しかし苟(いやしく)も長官たる者に向って抵抗を試みるなぞというなア、馬鹿の骨頂だ。まず考えて見給え、山口は何んだ、属吏じゃアないか。属吏ならば、仮令(たと)い課長の言付を条理と思ったにしろ思わぬにしろ、ハイハイ言ってその通り処弁(しょべん)して往きゃア、職分は尽きてるじゃアないか。然(しか)るに彼奴のように、苟も課長たる者に向ってあんな差図がましい事を……」

 

――「フム乙(おつ)う山口を弁護するネ、やっぱり同病相憐(あいあわ)れむのか、アハアハアハ」

こりゃすごい! 発表は1887年(明治20年)とのこと。138年前の人々の会話が、行間からハイレゾで再生される。また、たまに出てくるカタカナが、いい働きをしているではないか。これか、「言文一致」とはヨ!

  • 話し言葉・書き言葉・歌い言葉

ここで私は、日本ロック界の「言文一致」について考える。話し言葉を書き言葉(歌詞)にして、さらに「歌い言葉」にした音楽家は誰だ。

そんなの、いろいろとありそうだ。しかしそれでも、よーく歌詞を見つめると、話し言葉じゃないのだ。つまりは、ある意味で文語体ばかりなのだ。

――防波堤ごしに 緋色の帆を掲げた都市が 碇泊してるのが 見えたんです

(はっぴいえんど『風をあつめて』71年)

 

――君は Funky Monkey Baby おどけてるよ

(キャロル『ファンキー・モンキー・ベイビー』73年)

 

――シャイなハートにルージュの色が ただ浮かぶ

(サザンオールスターズ『勝手にシンドバッド』78年)

 

――オー アンジェリーナ 君は バレリーナ ニューヨークから流れてきた 淋し気なエンジェル

(佐野元春『アンジェリーナ』80年)

どれも話し言葉ではない。例えば、小田急経堂駅前の商店街での買い物からの帰り、いきなり「オー アンジェリーナ 君は バレリーナ ニューヨークから流れてきた 淋し気なエンジェル」なんて言われることなどないだろう。

――古い船をいま 動かせるのは古い水夫じゃないだろう

(よしだたくろう『イメージの詩』70年)

このあたりは、話し言葉に近いが、それでも意味するところが深すぎて、重すぎて、例えば、小田急豪徳寺駅から東急世田谷線に乗り換えようとしているとき、いきなり「古い船をいま 動かせるのは古い水夫じゃないだろう」なんて話しかけられたら、私なら警察を呼びたくなる。

え? ロックンロールって、普通の話し言葉からそんなに遠いのかヨ。

LP「初期のRCサクセション」の裏ジャケットと『浮雲』

  • 「心情をストレートに伝えたい」欲求

そこで思い至るのだ。これならどうだろう。これなら「ロックンロール言文一致」だろうと。

――E E E キモちE E E E キモちE(RCサクセション『キモちE』80年)

作詞はもちろん、忌野清志郎。「キモちE」。これこそ、話し言葉が書き言葉、歌い言葉になった代表例だろう。それに「E」が、『浮雲』のカタカナの使い方を思わせるし。

「言文一致ロック」の祖としての忌野清志郎――。もちろん彼にも、話し言葉ではなさそうな歌詞はあるにはある。

しかし、ここで大事なことは、彼が持って回った言い回しを極力避けていたことだ。文学的・抽象的な言い回しや、英語交じりの意味不明フレーズを避け、とにかく自分の心情にストレートに表現し続けた作詞家・忌野清志郎。

――こんな夜に おまえに乗れないなんて こんな夜に 発車できないなんて

(RCサクセション『雨あがりの夜空に』80年)

なんて、一応比喩表現を用いているのに、心情ストレートなこと、この上ないではないか。

さらに忌野清志郎について驚くのは、歌い方についても、ストレートに伝わる方法論を追求していたことである。

――で、ヘッドフォンが付いているアンプを買ってきて、インプットにヴォーカル・マイクを入れ、ヘッドフォンで声を聴きながら、自分の前に鏡を置いて、「あ・い・う・え・お・か・き・く・け・こ」と発声の研究をしていたらしい。

 

――例えばイントネーションについてのこだわり。「橋」と「箸」は違う。「雨」と「飴」は違う。「君が~」って歌うときに、イントネーションを意識しないと、卵の「黄身」がどうかしたかと思って聴いちゃう。でも清志郎の歌でそんなふうに意味を聴き間違うようなものはひとつもない。

泉谷しげる・ 加奈崎芳太郎『ぼくの好きなキヨシロー』(WAVE出版)の中にある加奈崎の発言である。ここまでしているボーカリストが今、日本にいるか? 忌野清志郎の「心情をストレートに伝えたい」という欲求の強さに驚くばかりだ。

つまり忌野清志郎の歌詞は、単なる「言」と「文」の一致を超えて、「言」と「文」と「心」と「声」の一致、「言・文・心・声の一致体」なのだった。

最後に私の好きな忌野清志郎の歌詞。こんなことを歌った日本のロックンローラーが、他にいるだろうか?

――起きろよBaby 今日はいい天気だ Hoo 選挙に行って投票しようぜ

――とんでもないのを選んでみないか 何もしないより退屈しないぜ

(ラフィータフィー『目覚まし時計は歌う(選挙ソング)』00年)

 

でも忌野清志郎は、草葉の陰でこう思っているはずだ――「何でみんな、思っていることをストレート歌わないんだろう? 何でみんな思っていることを抽象的に迂遠にコーティングして歌うのだろう? 不思議だナ」。

[ライタープロフィール]

スージー鈴木(すーじーすずき)

音楽評論家、小説家、ラジオDJ。1966年11月26日、大阪府東大阪市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。音楽評論家として、昭和歌謡から最新ヒット曲までを「プロ・リスナー」的に評論。著書・ウェブ等連載・テレビ・ラジオレギュラー出演多数。

著書…『沢田研二の音楽を聴く1980-1985』(日刊現代)、『大人のブルーハーツ』(廣済堂出版)、『サブカルサラリーマンになろう』(東京ニュース通信社)、『〈きゅんメロ〉の法則 日本人が好きすぎる、あのコード進行に乗せて』(リットーミュージック)、『弱い者らが夕暮れて、さらに弱い者たたきよる』(ブックマン社)、『中森明菜の音楽1982-1991』(辰巳出版)、『幸福な退職 「その日」に向けた気持ちいい仕事術』『サザンオールスターズ 1978-1985』『桑田佳祐論』(いずれも新潮新書)、『EPICソニーとその時代』(集英社新書)、『EPICソニーとその時代』(集英社新書)、『平成Jポップと令和歌謡』『80年代音楽解体新書』『1979年の歌謡曲』(いずれも彩流社)、『恋するラジオ』『チェッカーズの音楽とその時代』(いずれもブックマン社)、『ザ・カセットテープ・ミュージックの本』(マキタスポーツとの共著、リットーミュージック)、『イントロの法則80’s』(文藝春秋)、『カセットテープ少年時代』(KADOKAWA)、『1984年の歌謡曲』(イースト新書)など多数。

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