僕がゲイで良かったこと 第45回

第45回 国ってなんだろう~沖縄独立論

平良 愛香

 

前回「尖閣について」を書いてみたのですが、実は尖閣についてはいろいろな思いが子どものころからありました。所有権をめぐっての議論があるということを聞いていて、「島って誰のものなの?」「土地って誰のものなの?」という疑問がすでにあったからです。その問題は大人になるにつれて「国ってなんだろう」という疑問に膨れ上がりました。

沖縄独立論というものがあります。もともと琉球国という国だったのが日本に侵略されて沖縄県にさせられた。けれどそれで本当に良かったのか、という問いから生まれる議論です(ちなみに最近まで私は「琉球王国」という名称で呼んでいましたが、「王国であることを大切にしたいのだろうか」と考えた結果、「王国だったことではなく、独立国だったことを大切にしたい」ということに気づき、また君主制に対する批判もあるので、「王国」を強調するとき以外は「琉球国」と呼ぶようになりました)。沖縄は日本の植民地同然に扱われ、戦争では捨て石にされ、戦後は切り捨てられ、やがて「復帰」という名のもとに、憲法の届かない地域とされてしまった(としか私には感じられない)。その中で独立論が議論されるのは当然のことだと思いませんか。

昔は「酒飲み話」と揶揄された独立論ですが、現在は沖縄の経済学者や社会学者を巻き込んでの議論になっています。「沖縄は基地がないと経済的にやっていけないだろう」という意見は否定されています。基地が経済発展を阻害しているというのが明らかなのです。那覇市牧港のシュガーローフと呼ばれた基地は、返還されて新都心「おもろまち」となり、数十倍の雇用を生み出しました。狭い島にいくつも大きな米軍基地があると、どこに行くにも基地を迂回せざるを得ず、「交通が遮断されている」と感じます。今でも私は、行きたいところにまっすぐに行く道がみつからないと、無意識に「この方向には米軍基地があるから遠回りをさせられているんだ」と感じてしまいます(本州に暮らしていてもです)。また、「沖縄に米軍基地がないと外国が攻めてくるのでは」とも言われますが、基地があるほうが攻められやすいと思いませんか?

そんな沖縄独立論の議論がなされるのとは裏腹に、「日本から離れるのが不安」という声も沖縄でよく聞きます。どうして不安なのでしょうか。そんなに日本に固執する必要があるのでしょうか。「なんとなく日本から離れるのが不安」というのは、「日本から切り捨てられることへの恐怖」がどこかにあるのではないか、日本人ではなくなることへの不安があるのではないか。私はこれこそがそういった感覚を植え付けられてしまった日本化教育の結果なのだな、と感じるのです。(「日本人」の皆さんはそんなことを考えたこともないのだろうな、と思うのですが)。

一方こんな声も聞きます。「現在日本で民主主義が残っているのは沖縄だけだ。沖縄が日本を見捨てたら日本から民主主義が無くなってしまう。だから見捨てないでほしい」。一理あります。けれど逆にこう言った人もいました。

「はっしぇ!(おやまあ)、いつまで日本のために沖縄が我慢しないといけないわけ?もう日本がどうなってもいいから、早く日本を見捨てて独立しようよ!」「日本のためにというのはもうたくさんだ!」

日本の皆さん、そんなことを考えているウチナンチュがいるって知ってましたか?

なお「国とは何であるのかそのものを問わないといけない」と言って独立論に慎重な人もいます。国が新たに増えることを無条件に良しとはせず、沖縄も独立ではなく日本の特別区のようにして自治権をもつことはできないのか、と。ある人は「南極のように、どこの国にも属さない方法は無いのか」と言いました。逆に、国というものを相対化するために「村ごとに国になる。それぞれの村で大統領を選べばいいさあ」という意見も! 複雑な歴史をたどらされてきた沖縄は、自己決定権を示すために、「独立」も視野にいれて奮闘しています。知ってましたか?

「国ってなんだろう」。これは独立を奪われた琉球だからこそ生まれる問いなのかもしれません。けれどその問いは、本当はすべての国のすべての「国民」にとっての問いであるべきではないでしょうか。「国民国家」が生まれて、「国に属すること」が当たり前とされている中、ともすると「国に仕えてしまうこと」や「自国最優先で他国をおろそかにすること」「境界線を越えられないこと」が起きてしまってはいないか、そんなことを考えてしまうのです。もちろん沖縄の人がみんなそんなことを考えているわけではないでしょうが。

 

[ライタープロフィール]

平良 愛香(たいら あいか)

1968年沖縄生まれ。男性同性愛者であることをカミングアウトして牧師となる。
現在日本キリスト教団川和教会牧師。

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