僕がゲイで良かったこと 第22回

第22回 僕はウチナンチュ

平良愛香

 

この連載が始まって2年が経ちました。タイトルは「僕がゲイで良かったこと」にしましたが、最初の頃お話した通り、僕はゲイであるだけでなく、ウチナンチュ(沖縄人)、そしてクリスチャン(牧師のくせにキリスト教を鵜呑みにしない)というアイデンティティ(アイデンティティってなんぞや、ということは、連載の第2回とか第3回とかを見てくださいね)を持っています。

そしてそれぞれのアイデンティティに一筋縄ではないこだわりや批判を持っています。時間をかけて「ゲイであること」について書いてきましたが、少しお休みを頂いたあとで、今度は「ウチナンチュ」として書いてみようと思います。

改めて皆さんこんにちは。平良愛香(たいらあいか)と申します。「たいら」は1文字の「平」ではなく、2文字の「平良」です。この2文字を見て「沖縄にルーツがある人かな」と思ってもらえたら嬉しいです。そうです。1文字の平さんは日本中にいますが、2文字の平良さんは沖縄のルーツを持っていることが多いのです。(ただし、沖縄差別から逃れるために1文字に変えた沖縄の「平さん」もいますので、「1文字だから沖縄ではない」とは言い切れない、ということも覚えておいてもらえると嬉しいです)。

もう一つ、名前の由来についてもお話しますね。(連載の第4回で「名前の由来については追々お伝えしますね」と書きましたが、いよいよその時が来ました!) 僕が生まれた1968年はベトナム戦争の真っ最中でした。毎朝沖縄から飛び立った米軍機がベトナムで爆弾や枯葉剤を撒き、夕方沖縄に戻ってきて燃料や爆弾や枯葉剤を補給する。沖縄にある米軍基地によって、島の人々は基地被害に苦しむだけでなく、基地があることで加害者になることにも気づいたのです。

現在、辺野古で新基地建設阻止の座り込みが続いているのは、「基地被害を増やしたくない」だけでなく「基地加害を増やしたくない」という強い思いがあるからです。辺野古の座り込みでこんな言葉を聴きました。「被害者になるということは、残念だけど我慢するとかあきらめるという選択肢がある。けれど加害者になるということは、我慢するとかあきらめるという選択肢はない」。本当にそう思います。

そんな1968年の沖縄に、クリスチャンである僕の両親は毎日「平和の到来」を泣き叫ぶように祈ったのだそうです。そんなある日、聖書の中に平和を泣き叫び求める歌を見つけました。それが「哀歌(あいか)」という歌です。うちの両親は「今度生まれる子は、平和を叫び求める人間になるよう、男の子でも女の子でも『あいか』と付けよう」と決めたのだそうです。漢字だけはポジティブに「愛香」になりましたが、本来の意味は「平和を泣き叫ぶ歌」なのだそうです。(現在でも名前で女性に間違われることがとっても多いですが)

さて、そういうわけで僕は沖縄生まれ、沖縄育ちです。けれども「沖縄県生まれ」ではありません。僕が生まれた1968年は、沖縄は「沖縄県」ではなかったからです。第二次世界大戦で負けた日本は、戦後数年間連合国の支配の下にありましたが、1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約にて独立を手に入れました。そのときに沖縄や奄美を日本から切り離したのです。翌年奄美は日本に復帰しましたが、沖縄はそれから1972年まで米軍の統治下におかれたのです。

2013年の4月28日に当時の安倍晋三首相が「主権回復の日」という式典を催しましたが、沖縄にとって4月28日は日本から切り捨てられた「屈辱の日」であり、式典に対して強い反発の声が上がりました。当然のことです。沖縄を切り捨てておきながら、反省もせずお祝いするなんて言語同断! 多くのウチナンチュがそう感じたのも当然ではないでしょうか。

ということで、僕は「沖縄出身」ではありますが、「沖縄県生まれ」ではありませんし、あえてそのことにこだわっています。果たして沖縄は日本なのかな、1972年に施政権返還(いわゆる「復帰」)をしたから日本に「なった」のかな? そもそも文化も言葉も違うのに、いつから日本なのかな? そういう問いを持ちながら生きています。

日本国籍を持ってはいるけど、日本人なのだろうか、そもそも「日本人」の定義って何?(いつも政治家が「国民のために」と言うけど、その国民って「日本国籍を持つ人」という狭い意味に感じることが多く、日本に住む外国籍の人や無国籍の人たちはすべて「いないものとされている」と感じるのです。日本に住む多くの人たちという意味で使う人は「国民・市民」という言葉を使うことが多いですね)。

僕がアイデンティティとして「ウチナンチュ」という言葉を選ぶときは、単に「沖縄人」という意味ではなく、「沖縄は日本に含まれるのか」「それはどういう定義でなのか」「日本人ではない沖縄人はあり得るのか」「沖縄と沖縄県はどう違うのか」。そういった様々な思いが駆け巡っている、という意味も含まれるのです。面倒くさいでしょうか? そうなんです。でもその面倒くささを排除したときに、「多数派の人に合わせること」がいつしか強要され、少数派の人たちが排除されていく。そういったことを感じるのです。

そういった「ウチナンチュ」について、僕が考えていることをこれからしばらく連載していこうと思います。「ゆたしく、うにげーさびら(よろしくお願いします)!」

 

 

[ライタープロフィール]

平良愛香(たいらあいか)

1968年沖縄生まれ。男性同性愛者であることをカミングアウトして牧師となる。
現在日本キリスト教団川和教会牧師。

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