第34回 わたしの体験的居場所論 その9
阿部寛
前回(第33回)の末尾で、はじめて履歴書を提出したときのエピソードを書いたが、少し補足をしたい。わたしが提出した履歴書は、JISマーク付きの市販のものではなく、雇用主所定の書式でもなかった。一般に使用されている書式は、自分がこれまで歩んできた足跡を記述する様式にはなっておらず、あくまでも労働力としての「商品価値」を雇い主にアピールする内容であるため、そもそもにしてわたしにはなじまないし、不具合でもあった。そのため、オリジナルの履歴書を作成して提出したわけである。やたらと長い学歴、取得資格なし、運転免許もなし。職歴も日雇労働からはじまって、社会保険も厚生年金もない職場ばかり。
人生は出会いと別れの旅のようなものなのに、旅人用の履歴書はない。
「わかもの相談室」は、こんなわたしを採用したのだから、あっぱれというほかない。
当時、2009年(平成21)8月の衆議院選挙で民主党が大勝し、自民党から民主党への政権交代が起きた。2010(平成22)年6月、鳩山政権の後を継いだ菅内閣総理大臣は所信表明演説において、新成長戦略21の国家戦略プロジェクトを提唱し、その取り組みの一つとして「パーソナル・サポート・サービス制度」の導入を打ち出した。
平成21年10月から開始された緊急雇用対策は、「ワンストップ・サービス・デイ」の試行と年末・年始の緊急宿泊施設の確保と生活相談を柱とする貧困・困窮者対策であったが、場所や職員確保の問題から、恒常的実施はとん挫。そこで登場したのが、「パーソナル・サポート・サービス」だった。
その概念は、複雑に絡み合った生活課題を抱える人(とくに若者)に対して、その課題全体を構造的に把握した上で、その当事者の個別具体的なニーズに合わせて、オーダーメイドで支援策を制度横断的にコーディネートする寄り添い・伴走型支援サービスのことである。
キーワードを駆使し、つぎはぎした定義は、よくよく見てみると、意味不明で倒錯すらしている。このサービスの主体(主語)は誰で、運用責任の所在がどこで、どんな社会をめざして変革していくのか。
わたしのような疑り深い人間には、「生きづらさ」の原因は、その人間(若者)の方にあるとし、「生きづらさ」の源泉である国家や法制度、社会や企業のあり様は不問に付されているように見える。つまり、「社会的適応困難者」である若者に対する官・民・学総がかりの支援体制といったら言い過ぎか。
パーソナル・サポート・サービスの第1次モデル・プロジェクトは、内閣府モデル事業として全国で5カ所が選定された。内訳は、北海道釧路市、神奈川県横浜市、京都府、福岡県福岡市、沖縄県で、そのうち横浜市ではこども青少年局が行政窓口となり、NPO法人ユースポート横濱がPS事業を受託し、「生活・しごと∞わかもの相談室」が、2010年12月に横浜駅西口に開設された。
長期不況と不安定雇用の常態化、そこに東日本大震災と福島原発事故の大被害が発生し、生活に困窮する大勢の若者たちが「わかもの相談室」に殺到し、ピーク時には約900名の相談者が名簿登録される事態となった。
相談員は、就労支援、居住支援、障害者生活支援、人権救済支援、生活困窮者支援等、さまざまな生活相談活動のエキスパートが横浜を中心に神奈川県内全域から集められた。
さらには、弁護士や司法書士も法律問題のアドバイザーとして参加した。
よくもこれだけのメンバーが集まったものだと、驚きもした。そして、就労、居住、医療福祉の面で確かな実績を上げた。
しかし、何かがおかしい。わたしたち相談員は、相対する若者の人生やくらしがほんとうに見えているのだろうか。若者たちは、国家や企業の都合に適応するように強要されていないだろうか。若者に対して生き急ぐようにせかせていないだろうか。等々、様々な疑念が生じてきた。
狭い相談室のボックスの中で、若者と相談員が、真剣勝負で向き合ってはいるものの、なんとも息苦しい。若者たち自身からも「相談室にはどんな若者が相談に来ているのか」「わたしと似た課題を持っている者はいないか」など、仲間との出会いを求める声が次第に上がった。
わたしは、「しめた!」と思った。それからというもの、相談室で出会う若者に対して、若者自身による相談支援活動の立ち上げを持ちかけた。若者たちの反応は上々だった。
のちに相談者のひとりMさんから、「相談員とは、若者の相談に乗ってアドバイスをくれる人だと思っていたけど、ひろしさんは若者に相談を持ちかけるのでびっくりした」と打ち明けられた。最高の誉め言葉だと受け止め、感謝している。
若者たちが主体となって立ち上げたグループは、「共食の会」「当事者研究会」「当事者会(若者が遊びやフィールドワークを企画)」「ゆったり会(寿町の障害者と若者との識字の会)」、「女性の当事者会」などで、いずれも「わかもの相談室」及びその事業運営団体の承認を得たものではなかった。自主と主体性の名のもとに、勝手放題に創設したわけだ。事業運営責任者や役員には、ずいぶんとご苦労をかけたに違いない。
今回は、若者の自主活動の中のひとつ「共食の会」について、結成の経過と具体的な活動についてお話したい。
Uさんは、30代の軽度の知的障害を持つ女性で、父親からの暴力を受け続けてきた。エスカレートする暴力からの避難所は、ゲームセンターが多く、時にはディズニーランドだった。ついにUさんは、リュックと手提げに必要最小限の荷物を入れ、家出を決行した。ドヤ街寿町周辺を歩いていたときにホームレスの支援活動をしていたパトロール隊から緊急保護をされた。そして、簡易宿泊所に住所を定め、生活保護を受給することができ、「わかもの相談室」につながった。
ある相談日、Uさんは電気プレートを携えてやってきた。ゲームセンターでゲットしたが、必要ないという。
わたしが「ドヤでの一人住まいだから、あったら助かるんじゃないの」と言うと、「使わない」とUさんは答えた。さらに「怖くて火を使えない。以前、父親から衣服に火を点けられたことがあるんだ」というではないか。
相談員Tさんとわたしが、Uさんから父親からの暴力の実態を聴き取り、さらに電気プレートの取り扱いについて3人で相談した。
とにかく1回は電気プレートを使ってみようということになり、近所の100均で最小限の料理道具と小麦粉と具材を購入し、お好み焼きを作ることにした。「わかもの相談室」は高層ビルの1室にあり、室内での火器使用は厳禁。事務局長がビル管理会社に電気プレートの使用が可能かを確認し、Uさん、相談員、相談に訪れた若者も参加して、お好み焼き大会がスタートした。当初は絶対嫌だというUさんも、みんなの声援を受けて、へっぴり腰ながらヘラを手にお好み焼きを返すことができた。焼き上がりは上々で、みんなで熱々のお好み焼きを食べた。「うまいね〜」を連発する若者たち囲まれてUさんは涙ぐんでいた。
さっそく、わたしたちは次のことを考えた。相談室を訪れる若者たちは、一人暮らしの人が多いが、食生活はどうなっているのだろうか。他の相談員にも協力を依頼し、若者たちの食生活の実態を尋ねてもらうことにした。
予想は的中し、食事は「個食」スタイルでカップ麺等のインスタント食品で済ませていた。
わたしと相談員Tさんは、若者たちに「共食の会」結成を提案し、市内の公共施設の調理場を借りて月1回実施することとなった。
食費については、相談室が若干助成するものの、基本は若者自身が自己負担。あくまで若者たちの自主活動で、活動内容は、(1)当事者ミーティング(最近、良かったこと、苦労したり悩んだりしたこと等を話し合う)。(2)メニューや食材購入、調理や後片付けはすべて若者たちがやる。(3)振り返りミーティング。半日がかりの活動だ。
そして、買い出しのリーダーは、食事でつらい経験を重ねてきたUさんだ。父親の暴力を避けるため身につけた彼女の生存戦略は、街中の徘徊とスーパーのチラシ収集による食材の値段や品質情報だ。その情報量の多さと目利きは抜群の能力で、若者たちから一目置かれるようになった。
〜つづく〜
[ライタープロフィール]
阿部寛(あべ・ひろし)
1955年、山形県新庄市生まれ。生存戦略研究所むすひ代表。社会福祉士。保護司。 20代後半から、横浜の寄せ場「寿町」を皮切りに、厚木市内の被差別部落、女性精神障害者を中心とするコミュニティスペースで人権福祉活動に取り組む。現在は、京都を拠点として犯罪経験者・受刑経験者、犯罪学研究者、更生保護実務者等とともに、ひとにやさしい犯罪学、共生のまちづくりを構想し共同研究している。