あてにならないおはなし 第11回

第11回 「犯罪学の学び直しによる生活再建計画」

阿部寛

話が相前後して誠に恐縮だが、心身が絶不調となった大学生活後半期から卒業後の立てこもり生活、その中で考案した生活再建計画は、「犯罪学の学び直し」だった。

立てこもり生活において様々な分野の書籍を乱読した。必死になって自分の人生の目的を模索していたのだと思う。その時期に講読した本の中で大いなる影響を受けた1冊が、阿部謹也の『自分の中に歴史をよむ』だ。

そこに一橋大学の学生時代、阿部が上原専禄(ドイツ中世史の権威)のゼミに入り学んだ折の印象深いエピソードが書かれている。

卒論のテーマ設定にあたり、上原が阿部に対して「どんな問題をやるにせよ、それをやらなければ生きてゆけないというテーマを探すのですね」とアドバイスしている。もう一つは、上原がゼミ生に語った「解るということはそれによって自分が変わるということでしょう」ということば。

この二つのことばと学問への姿勢は、人生の目的と当面の目標を探しあぐねていたわたしにとって、大きな励ましとなった。

そして、本連載の第4回で触れたとおり、当時中央大学法学部で「犯罪学」を講義されていた藤本哲也先生宛に「聴講生として学ぶ機会を与えて欲しい」との切々たる思いを綴った嘆願書(ほぼ「恋文」に近い内容)に、藤本先生のカリフォルニア大学バークレイ校で博士号を取得した論文及びラベリング論についての批判的小論を添えて手紙を送った。

ありていに言えば、「ただで学ばせろ!」というずいぶん藪から棒で、切羽詰まった要求だ。結果はなんと、私の予想を超えて、「アメリカ犯罪学研究会」のメンバーとして受け入れていただいたのだった。

藤本先生と非常に優秀な大学院生たちが、毎週1回、アメリカの最先端の犯罪学テキストや論文を購読し、議論する研究会は、内容も充実し、心躍る学びの場だった。その後、先生や先輩たちからも大学院進学を勧められたが不合格。翌年再度受験して、ようやく入学となった。

当時、藤本先生は常勤講師(あるいは助教授だったかもしれない)であり、大学院での指導はできなかったため、刑事政策の重鎮である八木國之先生が指導教授を引き受けてくださった。わたしは、大学院入学から約3年間にわたって、八木先生にとっては、まさに不肖の弟子であった。

大学院入学試験は、専門科目2科目(刑法と刑事政策の論述)と外国語(英語を選択)、および面接試験で行われた。刑事政策の論述試験は「保安処分について記せ」という内容。

1974年(昭和49年)に法務省法制審議会総会で改正刑法草案が決定されたが、その中でも大論争の的となったのが「保安処分」の規定であった。

「精神障害者が重大な犯罪を犯しても、その精神障害のため責任能力がないか又は著しく低いと認められるときは刑事責任を追及することができず、又は起訴を適当としないことになるため、精神衛生法の適用を受けて、国立又は指定精神病院への措置又は保健所の医師の訪問指導を受けることになっている…(中略)…」「刑事政策的立場からは、犯罪を犯した後さらに犯罪を繰り返すおそれのある精神障害者(及びそれと関係の深いアルコールその他の薬物中毒ないし嗜癖者)を対象とする必要性が主張されてきた…(中略)…

この改正刑法草案による保安処分には、治療処分と禁絶処分の2種類があり、裁判所によって言い渡される。」

(昭和49年版『犯罪白書』より引用)

まさに当時の刑法改正の大論争テーマが、大学院入試の論述試験に出題されたわけである。八木先生は保安処分賛成の立場、そしてわたしは反対の立場。図らずも、論述試験と口頭試験の場で、激しい論争が展開されたわけである。入試の試験官は、主査は八木先生、副査は櫻木澄和先生のお二人であった。

口頭試験でのやり取りは、次のようなものであった。

八木先生:

「君は、刑法と刑事政策とでどちらが高得点だと思うかね」

きたー。ずいぶんと嫌味な質問をするじゃないかあ。内心ではそう思いながら、きわめて平静を装い…

わたし:

「はい、もちろん、理論的にも具体性と実証性でも刑事政策の方がはるかに高得点だと思います。」

と答えながら、すでに闘争モードにスイッチが入っていた。

反論・再反論が繰り返されるのを見かねて櫻木先生が間に割って入って、

櫻木先生:

「それじゃあ、おれからもいくつか質問をするからよお。

君は犯罪学を勉強しているようだけど、最近イギリスの犯罪学で議論されているこの用語を知っているかい」

次々と繰り出される質問にわたしがほとんど答えられずにいると、

櫻木先生:

「日本の犯罪学者でちゃんと答えられる奴はいねえんじゃねえかな」

「君は英語が良くできるようだし、まあがんばれや。待ってるからよ」

「ん? 待ってるからよ」ということは、もしかして合格? そんなわけで、首の皮1枚つながって入学と相成ったわけである。八木先生とのバトル、櫻木先生の助け舟、どちらも長幼の序を踏み越えた、遠慮なしの充実した議論と振る舞いであった。両先生には、その後も様々な形でご苦労をおかけし、ご指導をいただいた。お二人とも、懐の深い学者であり、奇縁を頂戴した。この場をお借りして改めて深く感謝を申し上げたい。(両先生ともすでに鬼籍に入られた。)

[ライタープロフィール]

阿部寛(あべ・ひろし)

1955年、山形県新庄市生まれ。生存戦略研究所むすひ代表。社会福祉士。保護司。

20代後半から、横浜の寄せ場「寿町」を皮切りに、厚木市内の被差別部落、女性精神障害者を中心とするコミュニティスペースで人権福祉活動に取り組む。現在は、京都を拠点として犯罪経験者・受刑経験者、犯罪学研究者、更生保護実務者等とともに、ひとにやさしい犯罪学、共生のまちづくりを構想し共同研究している。

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