近代神秘集:生きもの編 第2回 骨と魂

骨と魂

 

前篇

その骨を見つけたとき、月はひどく白く、野原はまるで誰かの夢の中みたいだった。

夜風に混じって、ふと鼻をくすぐる匂いがあった。鉄のような、土のような、忘れられた命の匂い。

私はタヌキである。

腹を空かせて草むらを歩いていたその晩、ひときわ静かな場所で、白く乾いた鹿の骨と出会った。

肉はもう、ひとかけらも残っていなかった。肋骨と背骨だけが月光に照らされて、草の中で眠っていた。

行き倒れたのか、罠にかかったのか、それともただ時が来たのか。そんなことはどうでもいい。生き物は死ぬ。それだけの話だ。

私だって、明日には車に轢かれて転がっているかもしれない。

骨の中から一本、腿のあたりだろうか、少し太めのやつを選んで咥(くわ)えた。硬くて、少し粉っぽい味がして、正直美味くもなんともなかったが、妙に心に引っかかった。

記念品だ。何の記念かわからないけれど、とにかく巣に持ち帰った。

私は寝床に丸くなりながら、骨を見た。月明かりが、うすぼんやりとその白を照らしていた。

「昔、こんな風に誰かと身を寄せたことがあったかな?」

記憶の底から、かすかな声がよみがえる。幼い頃、凍える夜に母の腹に潜った時の匂いがした。

骨の形が、不意に自分の尻尾に重なった。あの冬も、こんな寒さだった。

「ちっ、くだらねぇ」

私は寝返りを打ったが、胸の奥に残った小さなざわめきが、なかなか消えなかった。

いつの間にか、眠りに落ちた。

 

目が覚めると、巣の入り口近くで、小さな影が鹿の骨に止まっていた。

シオカラトンボだった。

私は気軽に声をかけた。

「よう」

トンボはこちらを向き、大きな目をぎょろつかせた。

その動きが妙に生々しく、少し不気味だったが、野原ではよくあることだ。変わり者は、珍しくもない。

私は尋ねた。

「どうして、そんな骨の上に止まるんだ?」

トンボは翅をわずかに震わせ、意外なことを口にした。

「わたしは魂を運ぶのが趣味でね。今日、鹿の魂が意に反してタヌキの巣に運ばれた。できれば、骨を返してほしい」

一瞬、何を言っているのか理解できなかった。魂? 意に反して?

「は?」

トンボの目玉が陽の光を反射して光った。

「鹿にも魂はある。野生のものも、等しくそれを持っている」

私は鼻で笑った。

「冗談だろ。魂なんて、人間の御伽噺さ。野生じゃ命は簡単に失われる。蛇に噛まれたり、罠にかかったり。魂なんて出たり入ったりしてたら、忙しすぎてやってられんよ」

その瞬間、草むらの虫がぴたりと鳴きやんだ。

シオカラトンボはぎょろつく目で私を睨みつける。

「罰当たりなことを。だからお前は、死んでも成仏できないんだ。見えないからといって、無いとは限らないぞ」

私はニヤニヤ笑いを続けた。

「見えないものを信じろって? ご冗談を」

トンボが凶暴な口を恐ろし気に動かした。

「見えないからこそ、大切にするんだ。目に見えるものばかり追って、何が残った? 誰のものでもない骨一本だろう」

空気が冷たくなった。風が頬をかすめ、遠くの木立で枯れ葉が一枚落ちた音がした。

「骨なんて、ただの残りカスさ」

「それでも、大切なんだ」

私は骨を指差して、現実を教えてやるつもりだった。

「死んだ奴は何も言わねぇし、聞こえもしねぇ」

すると、トンボが小さく踏み込むように言った。

「それでも、誰かが覚えていなきゃ。――昔、風が言っていた。『魂を背負って飛ぶ者は、自分の羽も削れる』って。置いていくのも、運ぶのも、選ばなきゃならないんだ。わたしの先祖は、夏、魂を運んで空を飛んでいた。わたしはそれを受け継いだだけさ」

トンボらしく、気違いじみた話で、訳が分からなかったが、私の声は鼻に軽く響いた。

「馬鹿な役割を背負ったもんだな、トンボってのは」

トンボは、翅を小刻みに震わせながら、それでも穏やかに言葉を続けた。

「骨は思いだ。忘れられたくない誰かの」

私は後ろ足で土を蹴り上げた。

「だからなんだ。思いで腹は膨れねぇ」

トンボは飛ばされた土くれを避け、視線を逸らさず、睨みつけるような仕草をした。

「でも、だからこそ、置いていけないんだ」

私はそっぽを向き、吐き捨てた。

「勝手にしろ」

私は落ち着かなくなった。巣の隅に置いた鹿の骨が、ひとりでに動いた気がしたのだ。

風が吹いたわけでも、鼠が触れたわけでもない。ただ、そこに「何かが在る」気がして止まなかった。

トンボは私の視線の先を見つめ、ささやいた。

「耳をすませ。骨は語る」

「骨が語る? バカ言え――」

そう言いかけて、私は言葉を飲んだ。

かすかに、声のような気配がしたのだ。音ではない。記憶か、それとも、残り香か。

私はそっと骨に鼻を近づけた。

乾いた匂いの奥に、微かに草の匂いがした。

土の匂い、風の匂い、夏の日の匂い。

それは――命の匂いだった。

「これは、本当に、鹿の記憶かもしれないな」

シオカラトンボは、風の筋に乗るように、音もなく飛び去った。その羽音さえ、まるで誰かの記憶の残響のようだった。

なぜか骨が軽くなった気がした。いや、重さじゃない。違う何かが、離れていったような。

私は骨を咥え、野原へ戻った。

誰にも見つからぬよう、そっと、もとの場所に置いた。

風が草を揺らし、骨がかすかにきしんだ。

魂があるのかどうか、私はまだ信じきれない。

けれど――もし鹿がそこにいたなら、こう言ってもらえたらいい。

「ありがとう。やっと、帰ってこられた」と。

私はタヌキ足を使って、巣へ戻った。

あれ以来、骨は拾っていない。

けれど、あの夜の風の音だけは、今でも耳に残っている。

それが魂の声だったのか、ただの風の記憶だったのか――

今でも、私にはわからない。

 

 

 

後編

記されない物語は誰にも語られず、ただ風のように消えていく。

骨は冷たくなかった。その事実に気づいた瞬間、風が強くなり、葉がざわめいた。何かが起こる――そんな予感がした。

その明け方、私は久しぶりに骨を咥(くわ)えていた。けれど、舌が拒んだ。喉が通さなかった。

振り返れば、私はもう長いこと、骨を拾っていなかった。

あの夜以来だ。あの、青い影と出会った夜――。

あれから、骨はただの骨ではなくなった。

どこかの誰かの、記憶のかけらかもしれないと思った瞬間から、手が伸びなくなったのだ。

だが、魂など信じてはいなかった。今も。

信じるふりはしていた。けれど、所詮は土に還るだけの命。自然の摂理をみれば、そう思うほかないではないか。

それでも私は、あの野原に戻っていた。鹿の骨を置いたあの場所へ。

風はなかった。けれど、葉が揺れ、草が鳴った。

音の中心に、青く揺らめく影がひとつ――。

現れたのは、あのシオカラトンボだった。

けれど、以前よりも弱々し気で、透明に近い姿をしていた。

私はなつかしさを込めて、手を前に振った。

「お前、いくらトンボだからって、あんまり影が薄すぎる。どうしたんだ?」

私はトンボの目に吸い寄せられるように耳を傾けた。

すると、彼の言葉が静かに空気を突き抜けてきた。

「わたしはもう、現(うつしみ)の者ではない。魂を運びすぎた結果、魂のほうに引かれてしまったんだ」

「引かれたって、お前、まさか、死んだのか?」

シオカラトンボの首が上下に動いた。

「とっくに。けれど、お前と話した夜が忘れられず、こうして戻ってきた。お前に、ひとつ、確かめてみたいと思ってな」

私は固唾を呑んだ。

トンボが死んでいたことよりも、その目が――あのときよりもずっと、澄んでいるように見えたからだ。背中がゾクゾクしてきた。

「ほんとに影みたいになったな」

トンボは背景が透けて見える目で、私を射た。

「お前の骨の扱い方。お前の物の見方。お前の語り口。すべて、わたしには異質で、異端に思えた。だが――」

一拍置き、トンボが続けた。

「それでも、命を思う心があった。骨を返しただろ。だから、戻ってきた。まずは、わたしも、お前に返しておこう」

私は首を傾げた。

「何を?」

シオカラトンボは、もうひとつの抜け殻をそっと持ち上げた。

光に透かされたそれは、風に吹かれるたびに音もなく震え、今にも崩れそうだった。

わたしは、自分の中の何かがひりつくのを感じた。――どこかで、あれを知っている。どこかで、あれを落としてきた。

風が骨の雨を連れてやって来た。シオカラトンボはそれを振り返りもせず、殻をちゃぷちゃぷと水面で洗った。

まもなく、雨が止んだ。

そのとき、わたしの身体がずしりと重くなった。手に、筋に、脈に、重さが戻っていた。

足元の泥がぬかるんでいるのを、はじめて感じた。

自分の声が、骨ではなく喉の奥から鳴っていることにも。

「これは?」

「お前の骨だ」

「え?」

「死んだあとの、お前の未来の骨。わたしは未来を渡るものでもあるのだ。そして気づいた。お前は、かつて魂を信じなかった。だが、今――」

見抜かれた、と私は絶句したけれど、息は漏れ出た。

――はあ。

「お前の心情にかかわりなく、痕跡は残る」

目の前の骨は、確かに私の後脚の形をしていた。私の身体の一部に似ていた。

未来の私が、死んだあとの私が、こんなふうにトンボに拾われ、魂を語られていたなどと――信じられるか?

だが、信じるかどうかではなかった。私の認識力が当てになるか否か、でもない。事実として、そこにあった。

シオカラトンボが低い声で言った。

「骨は、かつてお前が落としたものだよ。ずっと昔、お前が未来に触れようとしたとき、その代償として失くした骨さ。誰も気づかなかったが、お前の手の隙間から滑り落ちて、時の淵に引っかかっていた」

わたしは目を見開いた。わたしが? 未来に? けれど、その言葉は不思議と胸に引っかかった。自分の未来は誰しも知りたいだろう。

「戻してやらないと、お前の未来は崩れてしまう。それだけのことさ」

骨は、まだ柔らかく、命の名残を引きずっていた。

私の声は震えていた。

「未来を見たって? そんなの、どうにもならんだろう。どうすればいいって言うんだ?」

トンボがふっと笑って言った。

「心を残すな。ただ、それだけだ」

その瞬間、風が吹き抜け、私の目の前からトンボが消えた。骨も、影も、気配すらも、残さなかった。

私はしばらくその場に立ち尽くしていた。

「すべてを忘れろ――そういう話か? バカバカしい」

骨の感触が、まだ口の奥に残っていた。

巣に戻ったとき、そこに見慣れぬ骨が一本転がっていた。

それは私が咥えてきたものでもなければ、落ちていたものでもない。

鹿の骨でも、兎の骨でもない。

それは、トンボの骨だった。

シオカラトンボの、翅と一緒に朽ちた小さな胸の骨。乾いて、軽く、風が吹けば飛んでいきそうな小さな命の痕跡。

私は、そっとそれを拾った。

今度は、誰にも見えないところに、埋めた。

私はようやく理解の端っこに到達した。

あの夜、私の巣に運ばれた魂は――鹿のものではなかったのかもしれない。あれは最初から、あのトンボの魂だったのかもしれない。

 いや――あるいは、その夜、トンボに運ばれていた魂こそ、未来の私だったのかもしれない。

空を見上げると、目に涙が滲んできた。なぜだか分からないが、胸の奥にぽっかりと穴が開いたようだった。

シオカラトンボが舞っていた、あの青い夏の空。

 

その日、私はただ、風に背を押されるように森を歩いた。

どこへ向かうとも知らず、ただ奥へ、奥へと沈むように。やがて、森が開けた。そこは谷のように落ち込んだ窪地で、空が裂けていた。

いや――空ではない。骨だった。

白く、細く、反り返った無数の骨が、天から土砂降りのように降っていた。

いや、雨のようではなく、羽ばたくように舞っていた。

音はなかった。だが、踏みしめた土が「骨」でできていると知ったとき、私の足が沈んだ。

地面に吸い込まれた視線の先に、何かが立っていた。

――翅だった。

巨大なシオカラトンボの翅。いや、それは翅というより、「風を刺す刃」だった。風車羽根のような、その根元に、誰かがいた。

私は、声を発したつもりはなかったが、その者が振り返った。

 

紛れもないタヌキが、眉を丸くして鼻孔を開いた。

「何も知らないのだな? お前は闇雲に歩き回るだけ、哀れなもんだ」

聞き覚えのある、けれども記憶の淵に沈んだ誰かの声だった。

 

空が少しだけ、軋んだ気がした。

羽音が止み、世界がわずかに静止する。

覗き込むと、そこにもう一頭のシオカラトンボが浮かんでいた。

――時間の裏側から来た、もうひとつの影?

トンボがタヌキの頭上でホバリングしながら言った。

「こいつは、必ず骨になる。私ほど、骨に詳しいものは、滅多におらんぞ」

タヌキがシオカラトンボを追い払おうとしていた。いや、よく見ると、単に遊んでいた。

 

私だった。

いや、私ではない。けれど、かつて私であり、これからの私である何かであるに相違ない。

眼差しの奥に光はなく、皮膚は透き通って骨の模様が見えていた。

私はつい自分の手足を眺めてしまった。

「おれは、抜け殻?」

巨大羽根の下のタヌキが妙な口調を使った。

「お前が捨てた夜の一部。重さを忘れた未来」

言語明瞭、意味不明、だ。

私は何とか思考の糸を紡ぎ出した。意味を察知すると膝が崩れ、思わず骨の地面に両手をついた。

「じゃあ俺は、死ぬのか?」

相手が首を振って私を指さした。

「死ぬために来たのではない。生まれなおすためだ」

ますます意味がこんがらがってきた。

「なんと、生まれ直す? 理屈に合わない物言いをするものだね」

つまり、私は死んでいる?

周囲の骨が、かすかに振動していた。骨が、風を生んでいる。

相手がまた軽い口調で歌うように言った。

「霊魂は、翅にはならないよ、言うまでもなく。だが、重さを知ることでしか、飛ぶなんて真似はできないんだぜ」

私は、目を閉じた。骨の雨が頬を打った。冷たいのに、温もりを含んでいた。

そのとき、風が吹いた。骨の翅が千の破片となって空へ舞い、まるで新たな命が空を泳いでいくかのようだった。

森の音が戻った。鳥のさえずり、虫の音、すべて昨日と変わらない。草の匂いも戻った。

それでも、私はすぐには立てなかった。

目を開けると、私は巣の中にいた。

夕方の光が赤く差し込んでいる。

口に、一本の鹿の骨。

巣の入り口には、一枚の翅が落ちていた。青く、細く、風のかたちをしていた。

これこそシオカラトンボが重さを失った証拠であるに違いない。

 

夜、私は独り言をつぶやいた。

「魂はどこにあると思う?」

返事を期待してはいなかった。

しかし、風の音に紛れて、笹の向こうから声が返ってきた。

「霊魂は、関係に宿るもんだぜ」

その声には聞き覚えがあった。

あのシオカラトンボ――いや、もはや名を持たぬ存在となった、魂の運び手。

「関係? 肉体にじゃないのか?」

「勘違いしてないか? 肉体はただの容れ物だってこと。霊魂は、関わりの中にだけ存在する代物なんだぜ。お前があの鹿を見つけ、骨を巣に持ち帰った瞬間、お前と鹿との関係が生まれちまった。霊魂が結ばれたわけだが、それは記憶という名の、霊魂の影さ」

「じゃあ、わたしが忘れたら――魂は消えるのか?」

「正確には、霊魂の『かたち』が変わるんだ。忘れられた霊魂は、風に溶け、遠い谷間で新たな生を紡ぐ誰かの記憶になるってわけ。生は共有される器にすぎんよ。時には悪霊にも取り付かれるしさ。霊魂は旅をする、って知ってた?」

私は口を閉じた。考えがまとまらない。

風が、まるで答えを急(せ)かせるように、笹の葉をざわめかせた。

「ならば」と私は口を開いた。「記憶されない命は、存在しなかったことになるのか?」

即座に、呆れたような声音があがった。

「アホじゃないの? 存在しなかった、ってはならんだろ。そうは言ってもな、物語にならない命は、意味を持てないまま、流れていく。ってな原則はあるぜ」

風が逆巻く。

私は、思わず語気を強めて問い返した。

「意味がなければ、魂は無駄だというのか? 自然の中では、意味などない死が無数にある! それでも、生命は回っている!」

トンボの声は、今度は平静だった。

「意味のない命など、ありはせんぞ。だからこそ、霊魂は記憶される必要があるってわけさ。分かってないようだから、もう一度言うが、お前が鹿の骨を巣に持ち帰った事実、それは一見意味のない死を、物語に変える行いだったんだよ。分からんかな?」

私ははっとした。

無意味な死を物語に変える?

それは私がこれまで理解できなかったものだ。骨を拾ったとき、私はただのまぐれだと思っていた。しかし、それが、意味を生んでいた? ちょっと不遜な気もするが。

「じゃあ、この物語も、私の魂の一部なのか?」

トンボの声が変わった。今までで最も冷たく、しかし、最も透明だった。

「いやいや。この物語こそが、お前なんだよ、タヌキくん。お前は霊性も持ち合わせていなければ肉体でもないんだぜ。ほんと、分かってないな。お前は、『語られたもの』として、初めて存在するに過ぎんよ。ただの影だ」

私は、語られていた影なのか。なんか、まだよく分からない。

誰かの言葉の中で、私はタヌキとして、骨を拾い、トンボと会話していた。私は世界に存在していたのではなく、誰かの言葉の中に存在していた。そういう話か?

私は、風の中に問いかけた。

「じゃあ、そういうお前は、いったい誰なんだ?」

シオカラトンボの声が弾んだ。

「語り手さ。最初から分かっていただろ? この物語を生んだ意識そのもの、骨にやたらと詳しいもの。どうだ、恐れ入ったか!? お前が誰かに思い出される限り、私はここにいてやるぜ」

私は暗い空を仰いだ。恐れ入ったかどうか、分からない。

すると、世界がざらりと反転するような感覚があった。笹が一段と大きく鳴った。

空が、天井だった。

森が、部屋の壁紙だった。見事に描かれた襖絵。

気づけば、私は、机の上に置かれた一冊の本の中にいた。ページの片隅、そこには小さく「骨と魂」と墨蹟あざやかに記されていた。

――わたしは物語だった。読まれなければ、存在しない。けれど、一度でも誰かが読んだなら、永遠に在る。のだろうか?

 

ページの外で、誰かの声が起こった。

「この話、虚実ない交ぜになってるね。魂とか霊魂なんて、世を惑わしかねないよ。いったい、作者は誰?」

別の声が答えた。

「それが、誰も知らないんだ。古びた桐箱を開けてみたら、この物語が出てきたっていう。虫食いもあまりない手稿本で、昔のものみたいだよ。どのくらい経ってるかなあ。作者名のところに、『偽狸』って記されててさ」

最初の声がまがい物を唾棄するような激しい調子で響いた。

「この生臭の、タヌキ坊主め。どうせ酒飲みながら書いたんだろう。どれだけ信用できるもんだか」

私は、ページの中でクスッとタヌキ笑いをした。

 

 

 

[ライタープロフィール]

野上勝彦(のがみ かつひこ)

1946年6月、宮崎県都城市生まれ。10歳の秋、志賀直哉と出会い、感銘を受ける。20歳のとき関節リウマチを発症、慶應義塾大学独文科を中退。数年間、湯治に専念。画家になるか作家になるか迷った末、作家になろうと決める。長編小説20編以上の準備をするが、短編小説数編しか発表できず。31歳のとき、文学を学び直すため、早稲田大学第二文学部に入学。13年浪人という形になった。英文学専攻、シェイクスピア学を中心に学ぶ。足かけ5年間、イギリスに留学。留学中父親を亡くす。詩人のグループに属し、英詩を書き、好評を得る。1989年末、帰国。教員となる。12歳の時、最初の短編小説を書いて以降、ネタを2000本以上書き留める。2010年、勤務校を退職。同僚先輩から借りた本代1000万円を完済。2017年、非常勤講師をすべて定年退職。2018年、最初の評論集が『朝日新聞』書評欄で取り上げられる。最初の長編小説を完成させたのが2019年。いずれも出版に際し、グリム童話研究家金成陽一氏の紹介により河野和憲社長(当時編集部長)のお世話になって、現在に至る。2024年、短編小説の執筆戦略を練り、ネタ帳をもとに書き始める。現在、未発表短編600作を数える。

【単著】『〈創造〉の秘密――シェイクスピアとカフカとコンラッドの場合』彩流社、2018年。『暁の新月――ザ・グレート・ゲームの狭間で』彩流社、2019年。『始源の火――雲南夢幻』彩流社、2020年。『疾駆する白象――ザ・グレート・ゲーム東漸』彩流社、2021年。『マカオ黒帯団』彩流社、2022年。『無限遠点――ザ・グレート・ゲーム浸潤』彩流社、2023年。

【共著】『シェイクスピア大事典』日本図書センター、2002年。『ことばと文化のシェイクスピア』早稲田大学出版部、2007年。The Collected Works of John Ford, Vol. IV, Oxford: Oxford University Press, 2023.

【論文】‘The Rationalization of Conflicts of John Ford’s The Ladys Trial’,Studies in English Literature, 1500-1900,32,341-59,1992年、など37本。詳細についてはウェブサイトresearchmapを参照。

【連載】『近代神秘集:生きもの編』、ウェブマガジン『彩マガ』彩流社、2025年4月16日より。

 

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