近代神秘集:生きもの編 第6回 灰色の匂いに牙を立て――猪記

灰色の匂いに牙を立て――猪記

 

1 山里の余震

朝の光は、砕けた山の稜線に柔らかく滲み、空気の中へ静かに溶け込んでいた。鼻先をくすぐるのは、むき出しの土と裂けた根の匂い。そして、わずかに焦げた木肌が残す、結構鋭い香りだった。

大地が身震いしたあとの谷は、湿気をたっぷりと含み、重たく沈んでいる。ひび割れた農道に沿って、傾いた柵の中で牛たちが不安げに身を寄せ合っていた。

人間たちはこれを「放牧」と呼ぶらしい。この谷に漂うのは、自由の匂い――だが、それは仮そめの静寂に包まれた、裂け目の上に咲いた幻想だった。

崩れた岩の隙間から、灰色の仲間がひょいと顔を出した。

「おい、兄弟。あれだけ地面が踊ったってのに、家はまだ立ってるらしい。よっぽど執念深い建材だったんだな。人間の希望ってやつが、案外しぶといのかもな」

皮肉屋らしい、かすかな笑みを浮かべていた。牙に泥をまとわせ、地面を掘りながら何かを探していたようだ。声は谷に吸い込まれ、鈍い響きとなった。

わたしは鼻を軽く鳴らして応じた。

「地面が割れたな。何か、掘り出せたか?」

皮肉屋が答えた。

「まだだよ。昨日の林檎は見事に潰れてた。まるで人間の希望みたいにな。で、家の前に転がってた柿が少しだけ残ってた。ありがたいことに、地震の慈悲ってやつかもな」

地面は、時おり小さく震える。余震だ。

谷を見下ろす古びた農家の屋根は瓦を落とし、煙突からは煙ではなく、かすかな砂ぼこりが立ち上っていた。 あの家の人間たちは、もう火を使うことすらやめたのだろう。あるいは、ここを去ったのかもしれない。

焦げた材木の匂いが、乾いた空気を裂いて鼻を刺す。

灰色仲間は鼻先をひくつかせ、目を細めて言った。

「光る塔の近くさ。地面が見事に裂けててね、まるで誰かが地獄の蓋を開けたみたいだったよ。焦げ跡もあった。きっと人間の進歩ってやつの置き土産だろうな」

わたしの目は、谷の先端にある鉄塔へ向かう。

原発――人間がそう呼ぶその場所は、海岸の塀の向こうで、機械のうなりを止めることなく、不規則に白い蒸気を吹き出していた。

風に混じって漂ってくるのは、油と鉄の匂い。それは草でも土でも木でもない、冷たく人工的なにおいだった。

灰色仲間が顔をぜんぜん動かさずに言葉を発した。

「昼間は光る。人間が動かしてるらしい。熱を出してるとかさ。まったく、あいつらは火遊びが好きだな。で、燃えすぎて谷ごと焦がすってわけだ」

その足は、わずかに震えていた。

わたしは鼻を低く垂らし、足元の草の匂いを嗅いだ。

「そうらしいな。とくに反論する理由もないよ」

草の葉は細く、先が黒く焦げている。 川の水は濁り、魚の動きは重たかった。水面には、灰汁(あく)のようなものがゆらゆらと浮いている。

灰色仲間が言った。

「放牧ってのは自由って意味らしいぜ。人間は今、まったく放牧状態だ。柿も林檎も、放置されてる」

わたしは違和感を抱きながら呟いた。

「自由か」

放牧状態――人間の言葉では、自由のはずだ。牛たちも、確かに喜んでいた。

視線の先には、蒸気を吹き出す原発の塔がある。平らなスカイラインを破って、何かが動いている。

なのに、わたしたちはまだこの土の上に立っている。匂いを嗅ぎ、湿り気を踏みしめ、石を避け、草の間を掻き分けながら、日常をよそおう。

灰色仲間が尾を揺らした。

「さあ、柿を見に行こうぜ」

この前は、まだ渋が強烈に残っていた。瓜坊たちが固い柿をかじって顔をしかめた。

「しぶい!」と鼻を鳴らし、仲間の背に頭をこすりつける。その仕草に、思わず鼻を鳴らしたものだ。

わたしも首を縦に振り、崩れた谷をゆっくりと下り始めた。

「確かめるだけは、やっておこう」

その先で何が起きようとも、わたしたちは、まだ生きる手立てを探っていた。 災害の谷にも、なお笑いの種が残っていてくれれば――。

 

2 川をさかのぼる波

地震のあと、あちこち、土煙がのぼっていた。谷では風が止み、鳥の声も途絶え、静寂が不気味に広がっている。

わたしは渓流の岸辺で、湿った地面に鼻をこすりつけていた。根を探して掘っていたが、土の匂いがどこか違っていた。海のような、しょっぱい匂い――森には似つかわしくない、異質な気配が漂っていた。

そのとき、大きな余震が谷を揺らした。

川がぐらりと震え、水面が泡立ち、魚たちが跳ね上がる。

わたしは耳を立て、遠くの音に神経を研ぎ澄ませた。

海の方角から、「ゴゴゴ」と地鳴りのような音が近づいてくる。風でもない。獣の群れでもない。それは、何か巨大なものが谷を遡(さかのぼ)ってくる音だった。

川の水が、下流から上流へと流れ始めた。清流はたちまち濁って膨れ上がり、岩を押し流しながら谷をみるみる埋め尽くす。わたしは慌てて後ずさりした。

流れの中には、太い木の幹、人間の道具、そして見たことのない黒い泡のようなものまで混ざっていた。ただの大雨による増水とは、明らかに違う。

水が逆巻くたび、谷に満ちるのは死の匂いだった。焦げた泥と腐った海藻のような、命を拒む匂いである。

背後から、灰色仲間が叫んだ。

「逃げろ! 川が溢れてきたぞ!」

言われるまでもなく、わたしは尾根のほうへ登り出した。背後では、水が激しく弾け、木々がなぎ倒される音が谷に響き渡る。

中腹から振り返ると、谷は水に飲み込まれていた。川は怒り狂ったように黒く逆巻き、海から押し寄せた巨大な波が谷を覆っていた。

そのとき、わたしは初めて「津波」というものを知った。

高台から眺めた。谷の向こう、海岸に立つ原発の塔が、白い蒸気を凄まじい勢いで噴き上げていた。壁の一部が崩れ、黒い煙がしだいに空へと立ちのぼっていく。

わたしは目を凝らして塔の根元を見つめた。 その瞬間、ぴかっと光が走った。

直後、大地がぐらりと揺れ、空気が裂けるような轟音が谷じゅうに響き渡った。

――爆発だった。

木々が大きく揺れ、わたしは地面に身を伏せた。風が吹き抜け、金属が焦げたような匂いが鼻を刺す。

谷の雰囲気が変わっていく。草木の匂いがはじき飛ばされ、重く、どろりとした空気に支配された。呼吸するのも苦しく感じる。

原発からは、白く濁った煙がいつまでも空へと立ちのぼっていた。海風が煙を谷へと運ぶ時間帯もあり、臭いはさらに濃くなっていった。

やがて空には、ヘリコプターや飛行機が飛び交い始めた。その音は耳をふさぎたくなるほど騒がしく、大きかった。

灰色仲間が、わたしのそばにやって来て言った。

「地震に、津波に、今度は爆発か。こいつは、悪魔が地獄の釜をひっくり返したんだな。お手並み拝見といこう」

わたしは諧謔になんとか応じた。

「天変地異は、神様まかせ。海岸の原発、人間まかせ。おれたち動物、どうすりゃいい?」

あたりには、今まで嗅いだ覚えのない異様な匂いが立ちこめていた。

灰色仲間がニヤリとした。

「ありがたいことに、本能がある。ネズミは地震前にいなくなったぜ」

確かに、思い返せば、前兆のようなものはあった。事後の処理も本能任せというわけか。

わたしは鼻を前脚で押さえながら、なんとか呼吸を続けた。

 

3 夜の火と空の目

谷に夜が訪れた。いつもの夜とは違っていた。

星は出ていた。けれど空には、白く濁った煙がずっと漂い続けていた。 空気は、少し甘く、鉄のような、胸の奥をざらつかせる匂いがしていた。

わたしは灰色仲間とともに、山の中腹に避難していた。谷には、もう近づけなかった。

津波が三度も襲い、山肌を削り、土砂崩れがあちこちで発生していた。 広葉樹林は根こそぎ剥がれ落ち、茶色い地表がむき出しだ。

高台には、ほかの動物たちも集まっている。シカ、タヌキ、キツネ、サル、リス――ふだんは顔を合わせる機会が少ない者たちが、皆じっと空を見上げていた。目は、不安に苛まれ、疲れ切っている。

そのとき、空の向こうに光が走った。青白い閃光がピカッと瞬き、少し遅れて「ドン」と鈍い音が響いた。

原発の方角だった。

灰色仲間が声を高くした

「また何か起きたぞ。爆発の再発だったら、原発ごっこのなれの果てだ」

わたしは思わず身を低くした。

「弱り目に祟り目だな」

風が吹き、また匂いが変わった。濁った水が焦げついたような、目にしみる、ひりひりとした匂いだった。

夜の闇の中、森の隙間から、原発の白い塔がうっすらと見えた。その塔の上空に、何かが浮かんでいた。

光る目――いや、機械だった。

空を飛ぶ機械が、ゆっくりと塔のまわりを旋回していた。ドローンだ。人間たちが飛ばしている。

まるで、空の目といったところだ。

わたしは息をひそめて見つめた。

機械の目は、塔の上、崩れた壁、地面にあいた穴を次々に映し出していた。何かを探っているようだった。

音もなく空をすべり、光をあてては消し、また別の場所を照らす。その光は冷たく、感情のない探照灯のようだった。

そのとき、木の上からリスがひょいと顔を出し、ドローンに向かって尻尾を振った。サルが首をかしげた。

「あれ、遊び道具じゃないのか?」

灰色仲間が笑った。

「お前ら、好奇心だけは原発にも負けないな。いつか爆発して、身を持ち崩すぞ」

わたしも微笑をもらしたが、事態は深刻だった。

「たぶん、この山や森の上も、すでに見られてるんだろうな」

安全な場所なんて、もう、どこにもないのかもしれない。

わたしたちは黙って、交錯する機械の光を見つめていた。夜の森の中で、その白い目だけが、フクロウの目のように生きていた。

その目からは、冷たい匂いが漂っていた。それは、感情のない監視の匂いだった。

わたしは言った。

「森の匂いじゃない。これは、何だ?」

誰も答えられなかった。

その匂いは、わたしたちの察知能力を超えた、恐ろしいもののように思えた。

ただ、ひとつだけはっきりしていた。

――わたしたちは、見られる側になってしまった。

決して見つかってはならない。

星が見えているのに、空が濁っている。幸か不幸か、そんな夜だった。

 

4 森の声と遠い記憶

木々の間から、朝の光が細く差し込んだ。小鳥が枝に止まり、気持ちよさそうに羽を広げる。その囀りは冷たい空気を貫き、遠くまで響いていた。

いつもなら、森の奥に希望を灯す音だ。けれど今朝の空は、晴れているはずなのに、どこかぼんやりとしていた。色を失った遠景のように、薄くにじんでいた。

木々の間をすり抜ける風は冷たく、生焼けの木肌と焦げた布のような匂いを含んでいた。

わたしは仲間たちをかき集めた。老イノシシから瓜坊まで、十二頭の混成だ。

「これから避難を始める。以前からの掟があるのは知ってるだろ? それは守ってもらいたい」

灰色仲間が右の前脚をあげ、ゆっくりと唱えた。

「一つに、声を掛け合うこと。二つ、倒れた者を見捨てないこと。三つ、前に進むこと。四つには、牙を失っても、意志を失わないこと。  五つ目、死ぬ自由より、生きる不自由を選ぶこと」

全員が頷いた。反対すれば、群から外れねばならない。

わたしはみなを見回し、掛け声をかけた。

「さあ、これから移動するぞ」

そのとき、空がうなり始めた。

低く、重く、地の底から湧き上がるような音。ゴゴゴゴ――大気そのものが軋むような震えが、森の隅々にまで響いた。

やがて、遠くの山あいから黒い影が現れる。

鉄の巨鳥――軍用ヘリコプターだ。太くどっしりとした胴体、回転する二対の巨大なローター。全身を鈍い迷彩色で覆ったそれは、空を引き裂くような音を立てながら、原発の方角へと飛来してきた。

灰色仲間が叫ぶ。

「伏せろ! オオワシよりでっかいぞ。さらわれたら、おさらばだ」

わたしは本能的に身を低くし、木の陰に瓜坊たちを隠した。

ヘリは三機。V字の編隊を組み、原発の上空を旋回する。消火のため、水を撒いている様子だ。そのたびに白煙が上がり、遠目にも煙突が揺れているのが見えた。空から押しつけられるような風圧が、地面に蒸気を叩きつけていた。

ほどなくして、一機のヘリが森の方へ飛来し、開けた場所にホバリングした。ロープが下ろされ、黒ずくめの兵士たちが次々に滑り降りる。彼らは重たいマスクをかぶり、全身を覆う防護服に身を包んでいた。

やがて、兵士のひとりが拡声器を構えた。

「――この地域は放射線汚染の可能性があります。至急、避難してください。これは訓練ではありません!」

だが、森から応答はなかった。

建物も、道路も、家も、まるで最初から誰も住んでいなかったかのように、静まり返っていた。

「聞こえている方は、手を振ってください! こちらは政府災害対策本部です!」

兵士たちは原発との境界を確認し、森の入り口まで足を延ばした。だが、そこから手ぶらで戻ってきた。

誰も残ってはいなかったらしい。

彼らの声は空虚に反響し、森の木々に吸い込まれていった。

しかし、その呼びかけに、森の獣たちが反応した。

動物たちには、人間の声に込められた切迫感、危機感、そして恐怖が、痛いほど伝わってきた。

わたしは少しの焦りを押し隠し、声を上げた。

「急ぐんだ。人間が消えたぞ。グズグズしてはいられない」

灰色仲間が呼応した。

「逃げ足が早いなあ、人間は。ここは、真似するに限る。俺たちに続け。いまこそ足を使え。足場に気をつけろよ」

瓜坊たちがキイキイと叫びながら、幼い足取りで森の枯れ葉の上を歩き始めた。

みんなが察知していた。目に見えない何かが、すでに森を侵し始めていることを。

足元の土が、かすかに湿っていた。 朝露ではなかった――それは、昨日までとは違う、ぬめりのある感触だった。

空にはまだ、ヘリが巻き上げた歪(いびつ)な埃の渦が残っていた。太陽の光が、その黒っぽい跡に滲み、まるで傷口にしみる毒薬のように、不穏な色をしていた。

昼過ぎ、再びヘリが、朝と同じようにやってきて、平地に着陸した。

兵士たちは、最後にもう一度呼びかけた。

「避難をお願いします! 聞こえている人は返事をしてください!」

拡声器の声は風の中に消えた。

兵士たちは互いに無言でうなずき、再びロープに身体をあずけて、ヘリの中へと戻っていった。

残されたのは、静まり返った空と、逃げゆく動物たちの背だけだった。

そのとき、老イノシシが木の下から静かに言った。

「むかしも、こうだった。あのときも、空がざわついて、風が苦くなった。人間は何かを壊して、そして、姿を消す。あれは、わしがまだ若かった頃だ。山の向こうの町が、ある日突然、静かになった。鳥も鳴かず、木も枯れた。あの匂いは、今でも鼻の奥に残っておる」

風が運ぶ匂いは、過去の記憶を呼び起こす。あたかも、かつて災厄がこの森を覆ったかのような匂いだった。いや、遠い過去どころか、ただ今の匂いだ。

わたしは腰を据えて、声音を太くした。

「けれど、ご老体、今回は原発が爆発したんですよ。それにしては、気配が静かすぎる。鉱毒と違って煙突の煤煙もない。ただの白い蒸気だけ。そのせいで、森が色を失っていく」

誰も、何も言い返してこなかった。

森は、部分的ながら、完全に変わっていた。

老イノシシが脚を踏ん張った。

「ここは、わたしたちの森だ。生きのびたものが、次の季節をつくる。それが森の習いだ」

わたしは彼に鼻を摺り寄せた。

「お気持ちは分かります、ご老体。でも、人間たちはおろか、動物たちさえ逃げ出しているんです。何か、危険なんです。どうか、移動に付き合ってください」

老イノシシは渋々、首を縦に振った。

「仕方ない、か」

遠く、山の端に雲がかかっていた。その隙間に、かすかに青空がのぞいている。

希望というにはあまりに小さく、心細い色だった。それでも、まだ空の形があった。

その薄い青を見上げながら、わたしは歩き出した。

あちらの森へ、新しい場所を見つけるためだった。

なのに、妙な匂いを吹き付ける風に追われるかのようでもあった。

 

5 蝕まれた自由

わたしたちが谷を抜ける前に、新たな足音が響きはじめた。

それは、別種の人間たちだった。

白い防護服を身にまとい、鉄の獣に乗って戻ってきた彼らは、倒れた柵を立て直し、音を立てる機械を谷に仕掛けていった。

その手には、餌ではなく、火薬の匂いがあった。

若仲間が鼻を鳴らし、怒りを露わにした。

「ふざけんなよ。ここは俺たちの谷だったはずだろ? あの実も、この土も、全部俺たちのもんだったじゃねえか!」

灰色仲間が皮肉を飛ばした。

「ほら見ろよ、俺たちの谷だってさ。まるで誰かが領収書でも持ってるみたいな言い草だな。あの実もこの土も、最初から俺たちのものだったって? へえ、自然ってそんなに都合よく所有できるもんだったっけ?」

若仲間は悔し紛れに地面を蹴とばした。

だが、群れは、足取りが覚束なく、動きは鈍っていた。

老イノシシが地面に身を横たえ、遠くを見つめながらつぶやいた。

「人間が来ようが来まいが、俺たちの命はとうに決まっていたのかもしれぬな」

わたしは丹田に力を入れ、ぐっと顎を引いた。

「決まっていたなら、それを覆すのが、覇気というものじゃないですか、ご老体? 方法は、いくらでもある。そうしたものですよ」

老イノシシがヒャッと悲鳴を上げ、耳を塞いだ。

谷を覆う重苦しい空気が、音を立てて揺れた。

「サラサラサラ」

それとともに、仲間たちの間に異変が広がり始めた。

足が重い、吐き気がする――そんな声が次々と上がる。仮病ではないようだ。

不安は群れを締めつけ、陽が高くのぼっても空気は鈍く、生気を帯びていなかった。

若仲間の鼻先が歪み、震え始める。低い唸り声が漏れた。

「とっても変だぜ。体が重い。昨日まで走れたのに、今日は足が鉛みたいだ。こんなの、俺の体じゃねえ」

わたしは駆け寄り、彼の顔を覗き込んだ。

「おまえ、鼻から血が出てるぞ!」

赤い血が鼻の穴から滲み出ていた。

若仲間は前脚で鼻を拭い、それを見て呟いた。

「なんだ、これ? 気持ち悪い」

わたしは慰めの言葉を探しながら言った。

「若さがあり余ってるんだろ。大事ないぞ。元気を出せ」

彼は前のめりになり、肘を地面についた。転倒は免れた。

「痛みもある。牙も、ぐらつく」

やがて、残りの仲間も異変を訴えた。

睫毛が抜け、目がしょぼしょぼになり、牙がぐらつき、動きが鈍る。

わたし自身も体が重く、胃腸の調子が悪かった。昨日まで谷を駆け回っていた力は、どこかへ消えてしまったようだった。

別の若い仲間が尾を垂れ、倒れそうになりながらも、かろうじて踏ん張った。

「どうしてこんなことに? 自由じゃなかったのか、放牧状態は」

放牧という名の自由は、今や偽りの匂いを放っていた。鼻先に残るのは、毒と欺瞞の残り香ではないか。

わたしは悔しさに声がしわがれてしまった。

「自由は、幻想だった。くそ。原発の爆発――これが原因だ。人間たちはさっさと逃げ出した。今になって気づいても、遅いがな」

――それほどの虚無感が谷を覆ったのだ。

さもなければ、誰がこの谷を捨てられるだろうか。

牙を失い、仲間を失い、それでも「自由」と呼べる場所を探しに行けるだろうか。

わたしは自分の胸を叩いた。

小柄な仲間が呻いた。

「俺も、足が重い。イタチでさえ、早く走れない。羽を持つものも、長く飛べずに、地面におっこちる奴がいる。妙なものを食ったせいかな」

わたしは瓜坊たちを見回した。

たった一日で顎が閉まらなくなった者、足の関節が腫れあがった者、青息吐息の者――体力のない幼い連中が苦しんでいた。

「みんながやられた。死の谷みたいだ。自由どころか、生きるのにも危険だらけ」

灰色仲間が皮肉を飛ばした。

「罠のほうが、よっぽどマシだったな。皆、わなわな震えてるぜ」

わたしは谷の入口に立てられた看板を見上げた。

「立ち入り禁止」「食すな」――その文字が、今やわたしたちの被害を象徴しているように見えた。

怒りが湧き上がり、牙で板を突き、思い切り押した。

板は地面に倒れ、土埃が舞った。

わたしは声を張り上げた。

「この場所には住めないんだ、分かっただろ。人間たちも防護服を着て戻ってきたことだし、避難を迅速化するしかない。仲間たちよ、急げ!」

灰色仲間が尾を振りながら皮肉を利かせた。

「でも、どこへ行くんだ? この分じゃ、あの森も、あの丘も、毒入りの自由ってやつかもな。選べる地獄ってのも、なかなか贅沢だぜ」

わたしは前脚で看板を蹴り、柵を飛び越えながら言った。

「有毒も無毒もわからない。だが、ここより安全な場所を探すしかないだろ。自由に騙されるな。幻想に過ぎない。谷はもう、俺たちを守ってくれないぞ」

仲間たちは互いに鼻を鳴らし合い、体調の悪さを託(かこ)ちながらも、立ち上がった。

倒れた木々の間を歩くが、笑顔はなく、動きは人間の子供なみだ。

わたしは声を上げ、先頭に立った。

「さあ、ついて来い。迷うなよ」

谷を振り返ると、倒れた木と吹き飛んだ果実、そして地面に横たわる看板が見えた。

かつて歓喜に満ちていた光景は、一変して死の影を含んでいた。

放牧状態は、妖(あやかし)のようにわたしたちを蝕んだ。

若仲間が怒鳴った。

「ちくしょう、何てこった」

その声には、緊張と恐怖が混じっていた。

わたしは励ましの声を高くした。

「前に進むんだ。もう後戻りはできないんだぞ」

喉が渇き、息が荒く、膝が抜け、爪が裂けても――歩くしかなかった。

自由の宴は夢みたいに脳裏で盛んだった。

わたしたちは山肌を登り、浅瀬を渡った。

川向こうにも、動物の姿は見られなかった。

尾根を越え、別の森へと移動する――それが、今できる唯一の選択だった。

 

6 歪んだ実り

異変は、やがて新しく生まれた子供たちに現れた。

一頭は、片側にしか歯が生えておらず、乳を飲むたびに口の端から血が滲んだ。足の爪は三本に増え、歩くたびに地面を引きずる音がした。尻尾は二つに分かれ、互いに絡まりながら揺れていた。

母親は我が子を庇いながら育てようとしたが、数日後、瓜坊は口から血を吐いて倒れた。目を見開いたまま、動かなくなった。

みな鼻を鳴らし、静かにその体を囲んだ。

灰色仲間が、皮肉を忘れた声で言った。

「酷いもんだな。こんなのは見た覚えがない」

若仲間が地面を蹴り、怒りを吐き出した。

「こんな死に方、誰が望んだよ! 生まれてきた意味が、こんな形で終わるなんて」

彼の目は赤く、鼻先が震えていた。

「俺たち、もっと走って、もっと食って、もっと生きるはずだったんだよ!」

わたしは苛立ちを抑えるのが精一杯だった。

「単なる異変じゃない。自然の摂理に反した罰みたいな異常事態だよ」

灰色仲間が皮肉の弾を取り戻して、勢いよく飛ばした。

「いやあ、誰か、山の神に小便でもひっかけたんだろうな。ご立腹だ。空気は重く、水は濁り、実は毒入り。これじゃ自然の恵みも、そろそろ返品したほうがいいかもな。生き残る奴? そいつは、よほど鈍感か、よほど運がいいかだ」

わたしは川の左岸と右岸を歩き回った。

かつてはどちらも同じように実り豊かだった。 だが今は違う。

左岸の斜面では、ヤマイモが異常に太く、地面を割って顔を出していた。右岸の斜面では、葉さえ出ず、蔓は枯れていた。

同じ植物が、同じ雨、同じ土のはずなのに、結果はまるで違っていた。

果樹も狂っていた。

ある木は、枝という枝に実をつけ、重さで幹が倒れかけていた。対岸の木は葉も出さず、立ち枯れたまま、皮が剥がれ、幹の中に虫が巣を作っていた。

灰色仲間が言った。

「実が多すぎるのも、困りもんだな。味がない。水っぽい。種がない。食べても腹が膨れない。ないない尽くしだよ、まったく」

わたしはその実を噛み、吐き出した。舌に残るのは、苦味と、わずかな鉄の味だった。

仲間の一頭が、突然、走っている途中で倒れた。

口から泡を吹き、痙攣し、血を吐いた。立ち上がろうとしたが、脚が動かず、そのまま息を引き取った。

彼の体には、毛が抜けた斑点があり、皮膚が裂けていた。

老イノシシが静かに言った。

「原爆症だ。昔、人間の町で聞いたことがある。爆発のあと、見えない毒が風に乗って広がる。それを吸った者は、内側から壊れていく。あの頃、わしはまだ群れの端にいたが、風の向きが変わるたびに人が倒れていったと言われていた。あれは、忘れようにも忘れられん話だ」

わたしは口を歪めた。

「そんなに深刻だったんですか。人間は、なんて下手を打ってくれるんだ」

果実も仲間も、匂いが変わっていく。それは、自然が歪み、命が壊れていく匂いだった。

空を見上げた。

雲は低く垂れ、灰色から黒に変わっていた。雨が降ると、葉が焼けたように縮み、地面に落ちた水には、虫さえ寄りつかなかった。

尾根の先には、通信塔のようなものが建ち始めていた。

鉄の骨組みが空に向かって伸び、機械の音が響く。

人間は防護服を着て、何かを測っていた。

わたしたちの存在には気づいていないようだったが、彼らが持ち込むものが、谷をさらに変えていくのは間違いなかった。

灰色仲間が、いつもの口調で言った。

「山を越えた? おめでとう、地獄の第二ステージへようこそだ。この谷も、もはや自然の恵みなんて言葉とは無縁さ。果実は腐り、虫は泡吹き、仲間は物理的に分解中。ここに留まるってことは、死を待つVIP席に座るようなもんだ。さあ、恐怖のフルコースを、心ゆくまでご堪能あれ」

わたしは頷いた。

「結構な特等席ってわけだ。こんなひどい状態では、移動そのものも危険かもな。留まるよりはマシだろうけど」

だが、どこへ行けばいい?

わたしは思い切って提案した。

「また別の森を探そう。もう一つ尾根を越すのはきついだろうが、頑張ってくれ」

灰色仲間が皮肉っぽく応じた。

「探す価値はあると思う。あのヘリコプターを見ろよ。原発の上だけを飛んでいる。あれを見れば、原発のないところが良いとはすぐわかる」

――けれど、このまま歩き出すことが、本当に生き延びる道なのだろうか。お前なら、どちらを選ぶ?――留まるか、去るか。

わたしは頭を抱えこむ気持ちで、地面を掻いた。

「よし。話は決まった。できるだけ早く、ここを出るぞ」

風は思いの外、軽くなり、匂いも変わった。

これが危ない、とは経験が教えてくれるところだ。

――お前は、この匂いの中で、どこへ向かうのだ?

若仲間が鼻を高く掲げ、元気よく言った。

「行こうぜ、みんな。この谷にしがみついても、何も変わらねえ。俺たちが動かなきゃ、誰も守ってくれないんだよ」

目をぎょろつかせ、みなを見回してから、首を振った。

「次の森で、俺は絶対に生き延びる。この牙で、未来を噛みしめてやる」

そのとき、遠くの尾根の向こうに、一本だけ花を咲かせた木が見えた。

小さな白い花が、風に揺れている。

わたしはそれを見て、ほんの少しだけ、足に力が入った。

 

7 崩れる大地

谷を離れ、木々の間を抜けて進むと、風景はさらに荒れ果てていた。

尾根の斜面は土砂に削られ、大木が根ごと倒れていた。川は濁流となり、怒りを含んで谷を下っていた。

仲間たちは鼻先を地面に擦るほど下げ、首を振りながら歩く。だが、体は揺れ、前のめりにつまずくものもいた。

灰色仲間が、皮肉を最高潮に高めて尾を低く振った。

「おっとっと。これは足元注意じゃ済まないな。まるで地面が崩壊ショーでも始めたみたいだ。瓜坊たち、滑って転んで泥まみれ、なんて笑い者になるなよ。まさに足元から崩れる信頼ってやつだ!」

わたしは声を張り上げた。

「慎重に歩け! 体調の悪い者を優先して、互いに声を掛け合え!」

若仲間が言い足りなかったかのように首を回し、甲高い声を発した。

「罠が消えたって喜んだのに、これじゃ裏切りだ。こんな毒の楽園、ふざけんなよ! でも、仲間は見捨てない。俺は絶対、誰も置いていかないからな」

唯一の救いは、新しい罠が仕掛けられていなかったことである。だが、もはや罠のありかなんて気にしている余裕などなかった。

瓜坊がよろけながら倒木をひっくり返し、何かを探していた。

「ねえ、これって食べられるかな? ちょっと匂いがするよ」

わたしは前脚で彼の尻を叩いた。

「毒キノコだ。食えないな。しばらく待て」

瓜坊が飛び下がった。

「ひゃっ。危ないね」

わたしは背伸びして、警戒の姿勢を強調した。

「いいか、みんな。よく確かめてから食えよ。毒虫もいるんだぞ」

さらに進むと、谷の底で土が焦げるような匂いが立ち上がった。

不意に、轟音とともに木々が崩れ落ち、泥と石が谷を覆っていく。

仲間の一頭が悲鳴を上げ、崩れる土砂に押し流されそうになった。

わたしは体を投げ出し、前脚で押しのけながら叫んだ。

「後退だ! 下がれ! 退避、退避!」

全員が声を掛け合い、滑る土の上で必死に駆け足を踏んだ。

木々の間を抜け、何とか安全な斜面まで逃れたとき、谷はもはや元の形を留めていなかった。

濁流の川はせき止められ、倒れた木々が波に飲まれて漂っていた。

灰色仲間が尾を落とし、泥に鼻を押し付けた。

「くそ。これが仕打ちか。泥試合とはよく言ったもんだ。体が重くて、思いが遂げられないぞ」

わたしは声を強めた。

「諦めるな! ここまで来たんだ。前に進むものが生き残る! あとひと頑張りだ」

若仲間が、倒れそうな瓜坊を背でかばいながら怒鳴った。

「下がれって言ってんだろ! 死ぬなよ、絶対に!」

灰色仲間の声が震える。

「でも、瓜坊たちは牙が出ない。片足が短い。この先、どんな風にすれば芽が出るっていうんだ? 目にもの見せてやりたいが、まだ安全な目なんて出るのか?」

わたしはともかく体を動かし、声を張り上げるしかなかった。

「あるかどうかはわからん! 谷に留まれば死ぬ! 死ぬ自由なんて、まっぴらごめんだね!」

仲間たちは十分がんばってきたが、さらに「がんばれ」と互いに声を掛け合い、体を前へと進めようとした。

そのとき、目の前に蚊の大群が柱をなして現れた。

わたしは叫ばざるを得なかった。声は谷を越え、崩れた斜面に反響した。

「蚊柱に突っ込むな! あいつらは、やばい。普通よりでかいぞ。風上に回れ!」

仲間たちは鼻を鳴らし、尾を振り、後ずさりした。

風の強い尾根の上へと遠回りするしかない。蚊には無力だった。

原発のシルエットが白い靄に包まれながらも、空を区切っていた。

すべてが脅威の的だった。罠に代わって、野生のものたちを追っているように見えた。

とりあえず、異常な世界を脱する――そのための知恵こそが、わたしたちの運命を決するのだ。

皆を見回しながら、静かに、確信を込めて言った。

「裏の尾根へ向かうぞ。まだ希望があるなら、そちらに賭けるしかない」

仲間たちは黙ってうなずいた。

蚊の羽音は、わたしの声よりはるかに効果的だった。

 

8 新しい――

夜が明けた。

わたしたちは、新しい一日を迎えた。

崩れた谷を背に、尾根の向こうに広がる未知の地へと足を踏み出す。

希望があるかはわからない。

不安と期待が入り混じる中、わたしたちは歩き始めた。

とうとう二つ目の尾根を越えた。そのまま裏側へと降りる。そこには、別筋の谷が深く切れ込んでいた。

朝靄は薄く、匂いはもう、かつての谷のそれではなかった。

風は冷たく乾き、土はざらつき、予想通り、木々は葉を持たず、鳥の声もなかった。

荒れた川筋を下り、かつて農地だった平地に出る。

麦も野菜もなく、畑だった場所には、錆びた鍬が一本、土に半分埋もれていた。

雑草が畝の形をかろうじて残しながら、野生の力で覆い尽くしている。

かつての収穫の記憶は、風に揺れるススキへと姿を変えていた。

灰色仲間が鼻を鳴らした。

「ここは、まっさらに先祖返りしたな。無いものがあるあるだ。ま、道だけに進むしかないってことか。掟も置き去りにできないらしい。おきてだけに」

彼の声は乾き、尾の動きも鈍かった。

道端には、文字のほとんどが風雨に消された看板が立っていた。 「ようこそ〇〇村へ」の一部だけが、かろうじて読める。

看板の裏には、蔦が絡まり、蜘蛛の巣が張られていた。

わたしは首をまわして、あたりを見渡した。

「本当に、罠さえもない。人間も来ない。こいつは、別の形の罠だ。目に見えるように、警告してるんだ」

瓜坊が弱々しく尋ねた。牙の生え損ねた口元が痛々しい。

「ねえ、あの木の根元に何かあるよ! でも、食べ物かな? 食べ物だったらいいな――。お腹が空いたのに、残っているのは、ただの枯れ草と、苦い根ばかりだ」

わたしは土を掘り返した。中から、小さな芋のかけらが顔を出した。

「それでも食べるしかない。食べて調子が悪くなっても、な。食べなきゃ、飢え死にする。どっちが確実か」

別の仲間が唸った。

「俺たちを蝕むのは、見えない毒なんだろう? 何を食べても、何を飲んでも、体は重くなるばかりだ」

わたしは、掛けことばに多少の余裕を感じて、首を縦に振った。

「体重は減らなかったか――。まあ、ここで立ち止まればすべて終わる。当然だけど、辛抱強く足を運ぶしかないのさ。思いを未来に賭けようぜ」

瓜坊がかすかに笑った。

「未来! 渡り鳥は帰ってこなかったのに?」

わたしは静かに返した。

「渡り鳥は時期になるまで帰ってこない。心配するな、また戻ってくるさ」

仲間たちは疲れた足をあげ、次々と声を重ねた。

「なら、進もう」

「まだ川を越えられるかもしれない」

「あっちの尾根を超えれば、別の土地があるぞ」

その声の合唱は、かつて果実が実った谷を思い起こさせた。

また自由の宴が脳裏で踊った。ちょっとおかしい。

しばらく進むと、別の立て看板が目に入った。

そこには、真新しい文字が輝いていた―― 「汚染地域につき立入禁止」「飲料に適さず」。

わたしは牙でそれを押し倒し、足で踏みつけた。

「看板? そんなものはもう放射線で溶けてる。人間の掟? とっくに蒸発済みだ。今残ってるのは、俺たちの手作りルールだけだ」

灰色仲間がうなずいた。

「俺たちの掟ね。声を掛け合って、進み続ける。まるで壊れかけのGPSだな。止まれば即アウト、進めば――まあ、希望ってことにしておこう。律儀すぎて笑えるよ。誰がこんなマゾ仕様にしたんだか」

わたしは牙を振った。

「そうだ。それだけが頼りだ。前進あるのみ。全身で前進だよ」

わたしたちは灰色の大地に蹄跡を刻みながら進んだ。

浅瀬で、青く澄んだ川を渡る。水が本来の渓流だったのは救いだった。

山二つ背後には、荒んだ谷、崩れた原発、消えた人間たちがあった。

尾根には、鉄塔の残骸がそびえていた。鉄骨は折れ、上部は鳥の群れの休憩所になっていた。

かつて空を繋いでいた構造物は、今や空の住人に明け渡されている。

前に視線を投げた。

行く手に一本、木が立っていた。枝にはまだ果実の影が揺れていた。

丸い形はかすかに赤く、風に揺れて甘い匂いを放っている。

それはわたしたちを呼んでいるようであり、もう二度と届かぬ幻のようでもあった。

弱った仲間が声を上げた。

「ここ、悪くないよ。果実もあるし、蚊柱も立たない。なんでまた危ないほうへ行く必要があるの?」

灰色仲間が皮肉な笑みを浮かべて言った。

「ここは通過点だ。果実があるからって、過日にとらわれちゃいかん。進むだけが、俺たちの生き方だ」

瓜坊が頭を低くしてつぶやいた。

「進むのが正しいってわかってる。でも、怖いんだ。また誰かがいなくなるかもしれないって思うと」

灰色仲間が静かに口を開いた。

「俺たちの掟、忘れてないか?」

仲間たちは耳を傾けた。

灰色仲間が右の前脚をあげ、ゆっくりと唱えた。

「大事なのは二つ目だ。つまり、倒れた者を見捨てないこと。誰も見捨ててはならんし、見捨てられることもない。どうだ、万々歳だろ」

わたしはうなずいた。

「それが俺たちの掟だ。人間の看板より、ずっと確かだ」

瓜坊もしぶしぶ頷いた。

「そこまで言われたら――」

わたしは声を張りあげた。

「瓜坊、倒れても、見捨てない。心配するな。じゃあ、行くぞ」

若仲間が呼応した。

「よっしゃ、行こう!」

枯れ葉の上に刻まれる足跡は、すぐに風に消えるだろう。だが、そのとき確かに、声が響き、足音が連なり、進む一団があるのだ。

歩み出した群れの中で、瓜坊一頭だけが果樹を振り返った。風に揺れる枝が、何かを語りかけているかのようだ。

遠く、森に隠れていた、白い花の咲いた木が見えてきた。

わたしは風向きを確かめようと鼻をひくつかせた。だが、何も感じ取れなかった。

背の感覚から風が吹いているとは分かる。木の葉も騒いでいる。なのに、谷は無音のように沈黙していた。

わたしの耳と鼻はどうしたのだろうか。

 

 

[ライタープロフィール]

野上勝彦(のがみ かつひこ)

1946年6月、宮崎県都城市生まれ。10歳の秋、志賀直哉と出会い、感銘を受ける。20歳のとき関節リウマチを発症、慶應義塾大学独文科を中退。数年間、湯治に専念。画家になるか作家になるか迷った末、作家になろうと決める。長編小説20編以上の準備をするが、短編小説数編しか発表できず。31歳のとき、文学を学び直すため、早稲田大学第二文学部に入学。13年浪人という形になった。英文学専攻、シェイクスピア学を中心に学ぶ。足かけ5年間、イギリスに留学。留学中父親を亡くす。詩人のグループに属し、英詩を書き、好評を得る。1989年末、帰国。教員となる。2010年、本務校を退職。同僚先輩から借りた本代1000万円を完済。2017年、非常勤講師をすべて定年退職。2018年、最初の評論集が『朝日新聞』書評欄で取り上げられる。最初の長編小説を完成させたのが2019年。いずれも出版に際し、グリム童話研究家金成陽一氏の紹介により河野和憲社長(当時編集部長)のお世話になって、現在に至る。12歳の時、最初の短編小説を書いて以降、題材を2000本以上書き留める。2024年、短編・掌編の執筆戦略を練り、題材帳をもとに書き始める。現在、未発表短編1400作を数える。

【単著】『〈創造〉の秘密――シェイクスピアとカフカとコンラッドの場合』彩流社、2018年。『暁の新月――ザ・グレート・ゲームの狭間で』彩流社、2019年。『始源の火――雲南夢幻』彩流社、2020年。『疾駆する白象――ザ・グレート・ゲーム東漸』彩流社、2021年。『マカオ黒帯団』彩流社、2022年。『無限遠点――ザ・グレート・ゲーム浸潤』彩流社、2023年。

【共著】『シェイクスピア大事典』日本図書センター、2002年。『ことばと文化のシェイクスピア』早稲田大学出版部、2007年。The Collected Works of John Ford, Vol. IV, Oxford: Oxford University Press, 2023.

【論文】‘The Rationalization of Conflicts of John Ford’s The Ladys Trial’,Studies in English Literature, 1500-1900,32,341-59,1992年、など37本。詳細についてはウェブサイトresearchmapを参照。

【連載】『近代神秘集:生きもの編』、ウェブマガジン『彩マガ』彩流社、2025年4月16日より。

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