近代神秘集:生きもの編 第7回 光の筋を越えて――ハンミョウ記

光の筋を越えて――ハンミョウ記

 

1 赤い帯の誇り

林道の上に、光の筋が走っていた。草の葉が風に揺れ、キラキラ輝いている。

細い陰の間を、私は金属の光を閃かせて駆け抜ける。前翅が七色に染まり、背の赤い帯が自慢の種だ。

思わず言葉が出た。

「こんな日当たりのよい場所はない。狩りにはもってこいだ」

湿った土の匂いと、ほんのり果物を思わせる自分の香りが入り混じり、息を吸うたびに世界が少しだけ甘く揺れた。

私は体を低くして前に進み、光の筋に沿って小さな動きを探した。

前方の草むらに震える触覚があった。葉の縁に止まっていたのは、薄緑色の体に長い翅を持つ昆虫で、後脚には鋭い棘が列生していた。目は落ち着いており、じっと私を見据えている。東か西か分からいが、キリギリスだ。

見分けるのに時間がかかると直観した。雑食性で小型の昆虫を捕らえる力を持つ。うかつに近づけば捕食されかねない相手だった。

声が低く響いた。

「おまえ、何してけつかんねん?」

――西キリギリスだったか。

私はとっさに一歩さがり、体をわずかに傾けて距離を取った。湿った土に触れる脚の感覚が、危険を知らせる。飛ぶか、踏み出すか、一瞬の判断を迫られた。

まずは、きちんと返答した。

「道を通るだけだ」

相手は前脚を揺らしながら私を見据えていた。動けば狩猟本能を刺激しかねない。私は慎重に顎を開け閉めしながら、脚に力を込めた。跳ぶ距離を調整する間もなく、一メートルほど先の土に着地し、後ろを振り返った。

西キリギリスが問いかけてきた。

「逃げよんのかい、ワレ?」

声は少し苛立ちを帯びていた。

私は口実を与えないよう慎重な声音をつかった。

「距離を確認している」

再び跳び立った。背中の赤い横帯が光を受けて揺れるのを感じた。私の誇りであり、とりわけ七色に照る前翅のうちで最も気に入っている。周囲を見渡し、獲物を狩るときと同じ大胆さと細心さで、西キリギリスを観察した。

林道の土は湿って踏むたびにわずかに沈み、草の葉がカサコソ音を立てた。

草むらの陰で小さな動きを感知し、私は瞬時に狙いを定めた。鋭い大顎をわずかに開き、体を前に傾けた。だが、餌どころではない。

西キリギリスの声が重く響いた。

「おい、獲物しとめる気かい、ワレ?」

とっさに声をあげた。

「通る者に道を示すだけだ」

西キリギリスはススキの葉の縁で体を揺らし、不気味な口を開けた。

私は彼我の距離を保とうと急いで地面を走った。脚が湿った土に触れるたび、跳躍か飛翔の準備に迫られた。

西キリギリスがやや背を反らした。

「シュッと動けるんやな。なんでや、ワレ?」

「道を知るためだ」

話し終わる前に飛び上がり、次の土の塊に着地した。ほぼ同時に振り返った。赤い横帯が揺れ、青緑色の前翅が陽に照っているはずだ。

西キリギリスがぴょんと一跳ねして近づいてきた。

私は二メートルほど前に跳んだ。着地するやいなや、後ろを振り返った。これが私の癖で、道を先導するように見えるため、ミチシルベなどと呼ばれる場合もある。

西キリギリスが私の足跡にじっと視線を注いでいた。隙あらば、食ってやるぞ、といった殺気が全身にみなぎっている。長い脚が力を蓄えているのは確かだ。

わたしは、西キリギリスがついてくるのを利用しようと思い立った。奴とて、餌が欲しいに決まっている。餌の豊富な場所に導けば、わたしを食おうなどといった欲望は、別の方向に転換されるだろう。

動きの鈍いバッタなんかがいれば最高だ。

その点、林道の光の筋は願ったり叶ったりだった。

わたしは振り返り、西キリギリスの視線を確かめた。一呼吸置いて跳んだ――その瞬間、暗闇が降ってきた。

 

2 網と籠の中で

着地した瞬間、土の粒子が跳ねた――その上に網の陰が走った。

捕虫網だった。最初の一撃は紙を撫でるように風だけを残した。

私はカエルのように跳ね返って、網の縁をかすめて逃れた。だが、二発目は鋭く、振り下ろされる音とともに私の動きを封じた。

網の目が私の前翅を締め上げ、硬い輪郭が体に食い込んだ。抵抗しようと大顎を振るわせたが、網はさらに絞られ、ついに私は捕えられた。

少年の顔が覗き込んできた。日焼けで黒く上気している。二つの目が獲物に怪しく輝いた。口元は笑っていたが、喜びの背後に殺気が隠されていた。

膝下まで泥にまみれ、短パンの裾も湿っていた。色褪せたTシャツの胸に昆虫の絵が滲んでいる。なんと、私の似姿だった。

少年が網を引き寄せ、籠の口を開けるや否や、私は強引に中へ押し込まれた。冷たい空気から日差しの熱へと一気に晒され、触覚が鋭く刺されるように震えた。突っ込まれた拍子に、前翅が網目越しにきらめき、屈辱の光を放った。

少年が言った。

「おい、ハンミョウ。お前、そんなに綺麗なのに、肉食なんだってな。虫が欲しいだろ。今、餌を取ってやるぞ」

怒りが前胸を突き上げ、翅が震えた。光が反射し、私の体が抗議の色を放った。

「おい、少年。いい加減に、籠から出してくれ。たとえ餌をもらっても、俺は野生のほうがいいんだ」

少年は鼻を鳴らすように短く笑って、籠を片手で揺らした。

「この期(ご)に及んで何を寝言言っているんだ。苦労してようやく捕まえたんだ。そう簡単に放せるもんか。餌をやるから、我慢しろ」

小さな籠に閉じ込められた私は、格子の影と日差しの斑を背に受け、内部の狭さを獣の口内のように感じ取った。網の縁の匂い、少年の汗の匂い、外の土と草の匂いが混ざり、文字通り息が詰まった。

大顎で掻くような動作を見せてやろうかと考え、内側から喊声の代わりに前脚を蹴り上げた。

少年は笑いながら捕虫網を振り、再び外へ向かった。

しばらくして、籠に叩きこまれたものがあった。網の音と少年の叫びが戻り、草の擦れる音が近づいた。蓋が揺れ、冷たい陰が籠の入り口を覆った。

私の複眼がそれを捕らえたとき、葉陰から滑りこむように入ってきたのは、なんと、さっき、ススキの葉裏から跳んだあの薄緑の姿だった。

西キリギリスが籠に落ち、外から蓋が閉められた。籠の中は一瞬、二匹の気配だけが渦巻いた。

少年は得意げに籠を持ち上げ、こちらをのぞきこんだ。

「ちょうどいい。ハンミョウと西キリギリス。仲良くやってくれよ」

彼はそう言いながら、草むらへ歩き出した。

私の胸は凍るように固まった。籠の中で西キリギリスの長い触角が震え、後脚の棘が籠の底を擦った。

西キリギリスが舌打ちのような低い音を立て、私をにらんだ。

「またぞろ、妙なとこで出くわすんやな。どないなっとんねん?」

私は喉がカラカラに乾いて、どうにか応答した。

「ずいぶん縁が深いんだな。連理の枝ってわけでもないのに」

籠の中で私たちは対峙した。外の少年の気配が薄れ、籠の中の湿度と光だけが残った。

私は即座に計算を始めた。

西キリギリスのほうが体も大きく、長い脚と鋭い棘を持っている。互いに戦えば、両方とも傷つく。私は、籠の外に出ることが最優先だと判断した。

そこで声を絞り、西キリギリスに話しかけた。

「おまえ、ここで俺を喰らう気でいるのか?」

西キリギリスは触角をぴくりと動かし、低く言った。

「外出るっちゅうんなら、食うんはもういらんやろ。籠ん中で勝手に殺り合うとったらええねん。どないなろうが、あのガキは笑うだけや」

私は一瞬ためらった。協力を提案するのは、自分が弱みを見せる失策と同義だった。しかし、少年の手の届かない外の世界を取り戻すためには、西キリギリスの協力が必要だとは言うまでもない。

私は歯を剥いて答えた。

「分かった。ただし約束だ。互いに傷を深くさせない。外に出たら、あとはそれぞれが選ぶ道を行く」

西キリギリスは前脚を一度揺らし、私の言葉を確かめるように目を細めた。

「ええやろ。せやけどな、ワイは食うん止めへんで。お前が外出る隙できたら、ワイが先にバッタ狩りに行くわ」

私は意外な冷静さを覚えた。敵対の種としての本能は消えずとも、一時の協力を強いる状況が見えていたせいかもしれない。

籠の中で我々は静かに役割を分け合い、少年が餌を探しに行く間に起こり得る動きを想定した。私が囮となり、西キリギリスが少年の注意を逸らすか。あるいは私が籠の格子に頭を押し付け、反射光で少年の瞳を眩ませるか。いずれにせよ、鍵は、いかに少年の注意力を一瞬でも殺ぐか、だった。

少年が戻ってきた。手には小さな生き物を掲げていた。籠の外に差し出されたそれは、茶緑色の翅をたたんだ小さなバッタだった。

少年は自慢げに囁いた。

「ほら、ハンミョウ。今度はほんとの餌だ。じっとしていろよ」

籠の蓋がそっと揺れる。少年の指先が籠の縁に触れた瞬間、私は計画を開始した。光を反射させ、前翅を小刻みに震わせて、少年の視線を私の方へ引きつけた。

西キリギリスはその隙に前脚を素早く動かして籠の底を叩き、籠内の音を変えた。

少年が一瞬視線を私に移したそのとき、網の持ち手が軽く揺れ、少年の体勢が崩れた。私は外へ飛び出る態勢を取り、西キリギリスは籠の中で最大限に後脚を跳ねさせた。

だが逃げるための一瞬は、同時に脆いものだった。網の外で少年の叫び声が起こり、籠の蓋がぎゅっと押さえられる。私はその力に押し戻され、脆い自由の端が指先からすり抜けた。籠の中の空気は一段と熱を帯び、私の鼓動が前胸に伝わった。外の世界は近いのに遠かった。

私は内側から叫ぶつもりで、前脚を振るわせた。籠の格子に反射する赤い横帯が、わずかな光芒となって少年の瞳に刺さる。

西キリギリスは触角を振り上げ、短く叫んだ。

「今やっちゅうねん、ボケッ!」

少年の手が一瞬緩んだ。その瞬間に私は飛び出した。だが同時に、網が再び私を覆ったのか、あるいは少年が素早く手を伸ばしたのか、外の世界は再び私を拒んだ。籠の外で渾身の重みとともに捕まり、私はもう一度網に押し込まれた。籠の蓋が閉まる音が耳に突き刺さり、私の前胸は激しく震えた。

籠の中で、私は西キリギリスと再び互いに向かい合った。息は荒く、触角と触角が短く交差した。

西キリギリスが触角を打ち鳴らし、苛立ちを隠さずに言った。

「なんやねん、今の。ワレ、ほんまに逃げる気あるんか?」

私は言葉を返した。

「こんなドジもあるさ。それが人生だ」

胸が焼けるように熱く、格子の隙間が牢獄のように見えた。自由は、こんなにも遠いのか――。

脱出は失敗した。だが計画の端々は少年の注意を何度も引き、その一瞬の揺らぎが後に何かをもたらす予感を私に与えた。私は籠の隅で静かに言った。

「次はもっと大きく揺らす。外に出る機会は必ずやってくるさ」

西キリギリスが冷たく笑ったような声をあげた。

「ほんまに、そん時まで待てるんか?」

不気味な表情が、籠の中ではいっそう不気味になる。二者の呼吸が揺れた。

外の少年は満足げに草むらを歩き、籠は肩にぶら下げられて激しく上下した。私たちの小さな世界は動揺から逃れられなかったが、外へ出る望みが完全に消えていたわけではなかった。

 

3 決闘

狭い虫籠の中。

私は身を低くし、目の前の西キリギリスを睨みつけた。

格子に囲まれた場所で敵と向かい合う――そんな窮屈な戦いは、生まれて初めてだった。

奴は嘲るように言い、翅を細かく震わせた。

「出られへん所で、ワレとやり合わなあかんとはな」

私は低く返した。

「おまえはススキの葉に隠れていると思ったがな。百年目とはならんか」

顎をかすかに開いて構えた。この鋭さこそ、私の武器だ。だが、籠の中では跳躍も制限され、空間の狭さが呼吸を奪う。

次の瞬間、私は地を蹴った。一直線に飛びかかり、顎を閃かせる。奴の脚をかすめ、硬い感触が伝わった。細片が削がれる音が響く。

「調子乗んなや!」

怒声とともに、奴の後脚が鋭く突き上げられた。

私は弾き飛ばされ、竹の格子に叩きつけられる。

「ゴンッ」と顎に響き、体がしびれた。

それでも私はすぐに起き上がる。胸が波打ち、呼吸が荒い。

奴もまた翅を震わせ、構えを崩さない。

狭い籠の中で、私たちは動かずに睨み合った。

――次に動くのは、どちらか。

一瞬の間が、刃より鋭い緊張となって張りつめる。

傷の痛みよりも、前胸が締め付けられるように苦しく、格子の隙間が呼吸を奪った。

このまま潰し合えば、待っているのは同じ結末―― 自由を奪ったあの人間の手。

「出ても、外じゃ敵や。けど今は」

奴の目に一瞬の逡巡が浮かんだ。

私も顎をわずかに緩めた。

奴の脛に大きな痣が浮かんでおり、もう少しで脚一本噛み千切るところだった。

互いに傷つき、互いに疲弊した。この籠の中で勝ったところで、何になる?

奴も似たような心境に達したのだろう。戦いは中断して、再びにらみ合いになった。

その時、籠が大きく揺れた。外から光が遮られ、影が覆いかぶさる。

少年の顔が近づき、低く呟いた。

「お、やっと落ち着いたか。待ってろ、標本にしてやるからな。秋の文化祭に展示したら、みんな喜ぶぞ」

私は息を吞み、奴と同時に外を見上げた。

「とんでも、だ。喜ばなくていいよ」

少年が聞こえない振りして、大きな笑顔をつくった。

「うちの先生が言ってたんだ。標本は永遠に生きるって。お前も嬉しいだろ?」

意地の張り合いどころじゃない。

「やめてもらいたいね。標本にされる身にもなってくれ」

今必要なのはただひとつ――逃げ出すための協調だ。こいつと一緒に標本にされた挙句、展示されたら堪らん。

 

4 籠を裂く知恵

籠の揺れが止まらない。少年の手が近づくたび、内部の空気が乱れ、痛みが前胸と触角を走った。どうにか煮え立つ腹を抑えたとき、格子と支柱の間に隙間が開いているのに気が付いた。

私は西キリギリスの目を見つめ、低く言った。

「この亀裂、使えるかもしれん」

西キリギリスが触角を揺らし、短く答えた。

「ほんまか? 押し広げられるんか?」

「やってみるしか、ないだろ」

「力だけじゃ無理や。角度とタイミングやで」

互いに前脚を押し付け、体を絡ませて均衡を取る。少年が籠を傾け、手を伸ばす瞬間を狙って、私は前翅を光に反射させた。

「目を引きつける。お前は押せ」

「了解や。ワイが裂く。お前が抜ける。それで決まりや」

光と影の間で、私たちは静かに呼吸を合わせた。

最初の試みで、私は体を滑り込ませた。西キリギリスも反応し、私たちは絡み合ったまま亀裂に押し込まれた。

少年は格子を掴んで押し戻そうとしたが、私の前脚は格子の端を捉え、微妙に体をずらして圧力を分散した。瞬間、籠の亀裂がわずかに広がった。

私は前胸を震わせ、西キリギリスに合図した。

「押せ。光が割れる。――いまだ」

西キリギリスは一瞬迷ったが、理解したように前脚を伸ばし、体を私に沿わせた。

「裂けた。風が入った。跳ぶぞ」

そのまま二人の体重が籠の一角にかかると、格子はきしみ、亀裂はさらに大きく広がった。私は光と影の間を見極め、跳躍のタイミングを測った。

西キリギリスの前脚をうまく支えに使い、体の向きを微調整する。前翅を一瞬広げて跳躍のバランスを取るたび、赤い横帯が光を反射した。

「行くぞ」

私が前胸を震わせて合図すると、西キリギリスは触角を立て、前脚を跳躍に備えた。互いに絡んだ体を一体化させ、亀裂に向かって押し出す。少年が籠を押さえようと手を伸ばした瞬間、私たちは体をひねり、亀裂を通過した。

晴れて、籠の外に立った。

「やったな」

西キリギリスが後ろを振り返った。

「ここで気ぃ抜いとったら、足掬われるっちゅうねん、アホか」

外の空気が顔に触れ、湿った土と風の匂いが広がった。

少年の影はまだ近い。私は足下の湿った土の感触を感じ取り、微妙に体を傾けて接触を最小限にした。

私たちは互いに離れすぎず、しかし少年の手が届かない最短距離を見極めながら、地面に沿って小刻みに前進した。前脚で土を押し、跳躍の準備を整え、体の角度を変えながら、徐々に安全圏へと移動した。

私は光の筋を見つめ、影の位置を計算し、次の跳躍のタイミングを瞬時に判断した。

前胸を震わせ、伝えた。

「あと一歩だ」

西キリギリスがわりと静かに応じた。

「ちゃうちゃう、まだホッとしてる場合ちゃうで、アホ」

触角を微かに揺らしながら進んだ。

少年の腕が届かないところへ――私は小刻みに跳び、前脚を突起に押し付け、次の瞬間に体をひねって距離を稼いだ。

西キリギリスも同じように動き、長い後ろ足をバネのように伸ばした。

ついに、捕虫網の届かない距離まで離れた。光と影の隙間に身を沈めると、自由の匂いが空気に混ざり、湿った土が足に吸い付いた。

私は赤い横帯を光に揺らしながら、西キリギリスに視線を送った。互いに警戒を緩めず、しかし共に脱出の成功を感じ取った。

西キリギリスが触角を震わせて尋ねた。

「お前、逃げよったん、ホンマに餌のためだけや言うんか? それ、ウソちゃうんか?」

私はひと跳躍して答えた。

「違う。俺は自由のためだ」

少年は籠を抱え、叫び声を上げた。

「待て! どこへ行くんだ、ハンミョウ! 西キリギリスも一緒だと!? くそっ、せっかく永遠にしてやるつもりだったのに!」

私は後ろを振り返った。

「最悪じゃないか。絶対に死ななきゃならんからね」

「そらそうや。標本にされて値ぇつけられたら、敵わんで。虫の気持ち考えろや」

私たちは草むらの影に溶け込み、湿った土と光の隙間を利用して進んだ。脱出作戦の緊張と高揚が全身を貫き、次には、ものすごい疲労感が襲ってきた。

 

5 影の先の静寂

草むらの陰で、互いに距離を取ったまま息を整えた。少年の声は遠ざかりつつあったが、油断はできなかった。

西キリギリスが触角を揺らしながら言った。

「逃げ切れたっちゅうても、信じられへんわ。あんなんで終わるんかいな? 拍子抜けやな」

私は前胸を震わせ、湿った土の感触を確かめた。

光が触角に染み込み、外の空気が体内に広がった。

「まだ分からない。だけど、今は外だ」

「おまえ、俺の餌になる気はないんやな?」

私は即座に強く首を振った。

「ない。当たり前だろ。いつまで馬鹿を言っているんだ?」

沈黙が一瞬、草の間に落ちた。とはいっても、私も、こいつを食ってやろうと思ったのは事実だったが。

西キリギリスが前脚をわずかに動かし、私の動きを注意深く見ていた。

「ほんなら、次はどこへ行く気や?」

「光の筋の先。道はまだ続いてる」

互いに警戒を解かず、しかし並んで前へ進んだ。湿った土が足に吸い付き、跳躍の準備が自然と整っていった。

林道の光が差す場所に出ると、小さな昆虫たちが土の上を動き、葉の縁で光を反射した。

私は瞬間的に獲物の動きを確認し、鋭い大顎をわずかに開いたが、餌を捕る気は起ってこなかった。

西キリギリスも同じく体を低くして周囲を探った。

私は声音を低くした。

「籠の中での騒ぎは、まるで夢のようだったな」

西キリギリスが触角を揺らし、微かに鳴いた。

「ワイな、ほんまに、ワレが本気でワイのこと食うつもりやと思てたんやで」

私は少し冷や汗をかきながら答えた。

「そりゃ、夢見が悪かったね」

私たちは互いに距離を保ちながら、湿った林道を慎重に進んだ。

少年の声は徐々に遠ざかり、林道の奥でついに途切れた。

私は前胸を震わせ、赤い横帯を光に揺らしながら、再び跳躍して小さな土の塊に着地した。

西キリギリスも私に合わせて跳び、互いの動きを確認した。

林道の先に静けさが戻っていた。その空間を逃す手はない。

西キリギリスが横向きに尋ねた。

「ほんなら聞くけど、これから何しよう思てんの? また無茶するんちゃうやろな」

私は大あごをがちがち言わせ、光の筋に沿って視線を投げた。

「俺はこの林道を先へ進む。君は、自由を選ぶならそれでいいし、ついて来てもいい」

湿った土が足に吸い付き、前脚で微妙なバランスを取りながら、光と影の間を滑るように跳んだ。

私たちは光の筋を踏みしめながら、獲物を探した。

緊張はもはや恐怖ではなく、狩りと生の摂理に従う感覚だった。

 

6 備え

冷たい風が触角を撫で、前翅がわずかに震えた。突然、体の奥から、冬を越すための衝動が突き上げてきた。

もはや、西キリギリスと闘う必要はない。奴は秋の終わりには、命を全うする。

逆に、私は奴の介護をするだろうと思う。いまはの際には、私の栄養源になることを承諾してくれるだろうか。

「はぁ? 何言うてけつかんねん。ワイがワレに食われるとか、笑わせんなや!」

こんな捨て台詞を言いかねない。一抹の不安はまだ続いていた。

籠で体得したあの教訓――自由は掴んで守り抜くものだ。

その思いを胸に、私は仲間とともに土の中で春を待つ。

春に光の筋を再び越えるとき、私の前翅には、まだ湿った土の粒が光っているだろう。

 

 

 

[ライタープロフィール]

野上勝彦(のがみ かつひこ)

1946年6月、宮崎県都城市生まれ。10歳の秋、志賀直哉と出会い、感銘を受ける。20歳のとき関節リウマチを発症、慶應義塾大学独文科を中退。数年間、湯治に専念。画家になるか作家になるか迷った末、作家になろうと決める。長編小説20編以上の準備をするが、短編小説数編しか発表できず。31歳のとき、文学を学び直すため、早稲田大学第二文学部に入学。13年浪人という形になった。英文学専攻、シェイクスピア学を中心に学ぶ。足かけ5年間、イギリスに留学。留学中父親を亡くす。詩人のグループに属し、英詩を書き、好評を得る。1989年末、帰国。教員となる。2010年、本務校を退職。同僚先輩から借りた本代1000万円を完済。2017年、非常勤講師をすべて定年退職。2018年、最初の評論集が『朝日新聞』書評欄で取り上げられる。最初の長編小説を完成させたのが2019年。いずれも出版に際し、グリム童話研究家金成陽一氏の紹介により河野和憲社長(当時編集部長)のお世話になって、現在に至る。12歳の時、最初の短編小説を書いて以降、題材を2000本以上書き留める。2024年、短編・掌編の執筆戦略を練り、題材帳をもとに書き始める。現在、未発表短編1600作を数える。

【単著】『〈創造〉の秘密――シェイクスピアとカフカとコンラッドの場合』彩流社、2018年。『暁の新月――ザ・グレート・ゲームの狭間で』彩流社、2019年。『始源の火――雲南夢幻』彩流社、2020年。『疾駆する白象――ザ・グレート・ゲーム東漸』彩流社、2021年。『マカオ黒帯団』彩流社、2022年。『無限遠点――ザ・グレート・ゲーム浸潤』彩流社、2023年。

【共著】『シェイクスピア大事典』日本図書センター、2002年。『ことばと文化のシェイクスピア』早稲田大学出版部、2007年。The Collected Works of John Ford, Vol. IV, Oxford: Oxford University Press, 2023.

【論文】‘The Rationalization of Conflicts of John Ford’s The Ladys Trial’,Studies in English Literature, 1500-1900,32,341-59,1992年、など37本。詳細についてはウェブサイトresearchmapを参照。

【連載】『近代神秘集:生きもの編』、ウェブマガジン『彩マガ』彩流社、2025年4月16日より。

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