蝶柱――ホソバセセリ抄
1 森の縁(へり)
風が、地表の草を一方向へ倒していた。葉の裏がいっせいに白く返り、そこだけ光が滞(とどこお)った。
あたしはホソバセセリ。茶色の地に白い斑点の翅を持つ蝶だ。
陽の当たる側を選んで生きてきた。開けた草地では、風の流れも温かく、蜜の匂いが混じる。
その日もいつものように、風上の花を目印に矢さながら飛んでいた。
だが、ふと、木立の奥に別の翅の動きを見た。深い陰の中で、何かが音もなく舞っていた。
翅の色は灰を溶かしたように沈み、陽の光をまったく返さなかった。
近づいてみると、クロヒカゲだった。
あたしは思わず尋ねた。
「そんな暗いところで、蜜はあるの?」
低く湿った声が返ってきた。
「蜜は知らない。だが、ここでは風が落ち着いている」
森の奥で、木の皮が軋むような音がした。光のある場所とは別の時間が流れているようだ。
聞かずにはいられなかった。
「あなたたち、どうして陰にとどまるの?」
クロヒカゲが少し首をたれた。
「陽に焼かれるのが怖い。それに、暗いところのほうが、ものの形がはっきり見えるんだよ」
蛇の目模様の翅が少し羽ばたいた。
風があたしの顔をかすめ、冷たい湿り気を残した。
草原では、花々が揺れ、蝶がたくさん光を浴びていた。
こちら側とあちら側のあいだに、境があるように感じた。
「風は同じなのにね」
クロヒカゲは翅を閉じ、木の幹に身を寄せた。
「同じでも、届く場所によって逆巻くんだ」
姿はすぐに陰に紛れ、見えなくなった。けれども、彼の翅の震えが、ほんのわずかに乱れていたのを見逃さなかった。
「そんなに隠れなくても」
声だけが届いた。
「生きているものは、みんな何かを抱えている」
あたしは触覚を立てて言葉を返した。
「そりゃそうよ。他(ひと)には言えないことばっかりよ」
しばらくその場に留まった。草の匂いと、土の匂いが入り混じっていた。どちらも生き物の発する匂いだった。
「やっぱり、日向のほうが良くない?」
陰の中から苦し気な声音が届いた。
「ほんとうに草原の端で陽に焼かれたんだ。苦い経験だったよ」
よほど手痛い記憶であるようだ。
「分からないではないわ。きつかったのね」
「それ以来かな、陰の深さを選ぶようになった」
クロヒカゲの翅がかすかに動いて、木肌に影が浮かんだ。
あたりを見回した。
光と陰の境は、思ったよりも広く、穏やかだった。
2 光の人
森の縁を行き来するうちに、風の質が変わった。
元気が体を駆け抜け、翅に力をみなぎらせた。
「時の経つのは早い。もう真夏になったんだなあ」
葉の色は濃く、草の先は乾き、空気には樹脂の匂いが混じっていた。
蝶の種類も多く、数も増えてきた。セミの声が重なり、どの方向からも熱を運んでくる。
盛夏の森は、生きものの音で満ち満ちる。
クロヒカゲは、いつもと同じ幹の陰にいた。
翅の模様が木肌と重なり、風の中でもほとんど動かず、見分けがつかなかった。
「今日もそこにいるの?」
相変わらず重い声が返ってきた。
「ここがいちばん静かだからな」
あたしは草の上を飛びながら笑った。
翅にあたる風がぬるく、蜜の匂いが遠くから伸びていた。
つい先ごろ目にしたものが脳裏から離れず、思い切って言った。
「ねえ、森に見たことのない生きものがいるよ」
「どんなやつだ?」
「二本の足で歩いてた。翅はなくて、金属を持ってる」
クロヒカゲがゆっくり翅を開いた。目玉模様が陽を受けて、鈍い光を返した。
「初夏にも来た。森の奥を測りに来たやつだ。枝を折って印をつけ、土を掘って去っていった」
「怖かった?」
「怖いというより、風の乱れが変だった。あいつらのまわりだけ、森が息を止めていた」
虫の声が切れ、入れ替わるように金属の音が響いた。
カラン、と乾いた響きが森の奥に吸い込まれた。
「それが、今来てる人間?」
「たぶん」
クロヒカゲは幹を離れ、地面すれすれに滑った。
彼が飛ぶとき、翅の模様がわずかに光に映えた。かつては陽の中にいた時期の痕跡だろう。
落ち葉がわずかに浮き上がり、暑い空気がゆっくり揺れた。
「見に行くの?」
「というより、風を確かめに行く」
あたしはあとを追った。
蝉の声が急に遠のき、木々の影が濃くなった。
森の奥は意外なほど明るく、光がまだらに地面を染めていた。
木立のあいだから、白い影が動いた。人間の女だった。
眉が細く、目はパッチリで、瞳に光が輝いている。
透き通るほどの肌は淡く汗ばんで、頬に照りが溶けていた。額のあたりにひとすじの髪が張りついて、スッと伸びた鼻梁が品の良い直線をなしている。
白い上着に黄土色のズボンを着け、登山靴を履いていた。
細い手に金属の筒を持ち、耳にあてる。筒の先で風がふるえ、陽を返すたび、強い閃きが森の深みに散った。
風がふっと一陣、辺りが甘さに満ちた。
花や蜜の香りではなかった。顔からだ。化粧の匂い――水辺の果実のようで、遠くに薬のような苦みを帯びていた。
胸の奥を、かすかな眩暈が撫でた。得も言われぬ香りに吸い寄せられ、思わず翅を震わせた。
あたしは静かに問いかけた。
「何をしてるの?」
女の声は低く澄んで、陽炎(かげろう)の中に沈むようだった。
「測ってる。森の音を、数に変えるのさ」
頭がこんぐらがった。
「数に?」
「風や声や、翅の音までも。そうやって森を分けていく。知らないということを、あいつらは恐れているの」
そのとき、光が彼女の唇に触れた。淡い紅が透け、わずかに震えた。
あたしは見惚れた。
あの唇の向こうに、名づけようのない沈黙があるように思えた。
あたしは横を向いて尋ねた。
「あの人が嫌いかい?」
クロヒカゲが頭(かぶり)を振った。
「嫌いではない。だが、光に蝶が近づきすぎると、焼かれるかもしれない。気を付けろ、ホソバセセリ」
彼は幹の陰へ戻っていった。
あたしはその場に残り、女の姿を見つめた。
3 匂いに導かれて
金属の筒が耳に触れるたび、彼女の表情が少し緩んだ。うっすら汗が浮かんでいた。
塩気に誘われ、額の周りを飛んでみた。
その瞬間、さっきの香りが蘇った――花でも果実でもない、甘くて深い、薬のような香りだ。化粧の匂いでなくて何だろうか。
あたしはたまらなくなって問いかけた。
「いい香りがするんですね」
赤い唇が啓いた。
「あら、蝶々。こんなに近くに来てくれるなんて、嬉しい。私、蜜の味なんかしてないんだけど」
確かに一度嗅いだら忘れられない独特な匂いが立っていた。かすかな震えさえ覚える。あたしは首を二度、三度と振った。
やっと思い当たった。これは蝶道でよく嗅ぐ香りだ。いったん道に入ると、もう外れる気は起らない。まっすぐ突き進むだけだ。あれにそっくりだった。
女が言った。
「子供の頃、病室の窓から見た一頭の蝶を覚えているわ。モンシロチョウだったけど、誰も来ない退屈な午後、その蝶だけがわたしのそばにいた。それからずっと、蝶は『見てくれる存在』になったの。どんなに縁が深いか、分かるでしょ?」
病院以来の慰めだったのか。
あたしは意を決して尋ねた。
「どうして一人なんですか?」
「こんないい場所はないわね。あなたのような蝶々と友達になれるなんて、思ってもみなかったわ。誰も信じちゃくれないだろうけど」
驚いたことに、瞳には深く沈む孤独の苦みがあった。まだ名づけられぬ死の前触れのようでもあり、あたしには理解できない美しさでもあった。
思わず、口が開いた。
「何か、他人(ひと)に言えない苦しみがあるんじゃないですか?」
「ほんとうに速く飛ぶのね。飛翔に特化すると、余計な飾りも必要なくなるみたい。羨ましいわ」
ジェット戦闘機のようだとはよく言われる。
静けさの中で、あたしは息を吐いた。
「光のほかにも、息をしているものがあるんですね」
「あなたのように、空を飛べたらね。みんな忘れて、大空を翔けてみたい。さぞ気持ち良いでしょうに」
女の香りは、翅の奥に残り、長いあいだ消えなかった。
たとえ姿が見えなくとも、あの甘い匂いをもう一度嗅いだとすれば、あたしはただちに気づくだろう。
夏の真ん中だった。森の葉は光を透かしてざわめき、湿った空気の底で、見えない音が生まれては消えた。
木漏れ日に当たって彼女の影法師がくっきりと地面を染めた。
白いブラウスの袖が風に揺れ、首筋を伝う汗が陽を受けて光った。
あたしは一度飛び立ってから耳元に浮いた。
「蝶の命は短いのですよ。その間に子孫を残さねばなりません」
「完全に燃焼すると、車でも最大の馬力が出るものよ。それは生き物でも同じでしょ。みな、それぞれ完全燃焼を目指すってわけ」
汗が鎖骨のあたりで一粒の光になり、ゆっくりと落ちた。
あたしは翅の付け根が熱くなるのを感じた。
彼女は手帳を取り出し、開いた。使い込まれていた。表紙の角が擦り切れ、ページの端には小さな折り目がいくつもついていた。
何度も同じようなところを開いては、吐息をついた。
あたしは覗き込んで、彼女の内心を掴もうとした。
「文字がないので、感覚を磨く必要があるんです。あたしたち蝶は」
彼女はふと視線を落とし、ページの真ん中を指でなぞった。
《誰かに話しても、笑われるだけだった。森の音が聞こえるなんて、誰も信じてくれない》
読み上げる声には、長いあいだ誰にも届かなかった言葉の重みがあった。
次の行も声に出した。
《誰かに見られていたら、私はまだ生きていると思える。でも、誰も見ていないなら、私はもう、ここにいなくてもいい》
その言葉の下に、日付が並んでいた。一つには、タケルの命日と丸で囲んであった。恋人か夫か分からないが、あたしはその文字の震えに、彼女の心の軌跡を読んだ。
開いたページに飛び移ると、インクの匂いがした。湿った森の匂いと混ざり合い、世界がわずかに濃くなった。
紙の上には数と線がびっしりと並んでいたが、その端に、小さな文字で記されていた。女が読むのを聞いた。
《まだ鳴っていない声がある》
あたしは翅を震わせた。
「出したい声があるなら出してみたらいいですよ」
女が顔を上げ、まっすぐにあたしを見た。
笑っていた。唇の端がわずかに上がり、紅が光に溶けた。
「あなた、そんなに活発に動き回って――そうか、なんとか励まそうとしてくれたのね。健気だわ。ありがとう」
あたしは小さく旋回した。鱗粉に乗って陽の粒が舞い上がり、髪に降りた。
女は目を細めて、あたしの翅を見つめた。囁きが漏れた。
「いま、こう言ったでしょ? その香りが、世界でいちばん美しい、って」
あたしは一度、空気を叩いた。そのまま肯定するつもりだった。
「その通り。間違いない」
女が続けた。
「でもね。この香りは、長くは続かない。風に乗って、どこかで消えてしまう。だから、誰も覚えていないわ」
その声には、かすかな哀しみが滲んでいた。あるいは諦めだったかもしれない。
あたしは近づき、彼女の肩の上にとまった。
皮膚の温度が翅越しに伝わり、脚には微かな心音が感じられた。
先が真っ暗になりそうな感覚を、必死で押さえた。
「冬を越せないわたしたちは、今しかないんですよ。文字を書く暇があったら、翅を動かして蜜を吸うほかないんです」
彼女の指が、手帳のページをそっと押さえた。
「私ね、彼が亡くなったとき、何も言えなかった。言葉が出てこなかった。だから、せめて書き残そうと思った」
あたしは翅音を高くして彼女の目の前を飛んだ。
「書き残しておいてくれて、良かった」
女が羽ばたきを眺めながら言った。
「あなたは、きっと忘れないのね。何でも一生、思い出すことができるのよ」
その息に、さわやかな香りが混じっていた。
あたしはまたしても震えを抑えられなかった。
風が立ち、手帳から紙が舞い上がった。
彼女がそれを追って走る。髪がほつれ、頬が陽に透ける。
翅の先をかすめた空気が蜜のように熱かった。
紙は谷の方へ飛んでいき、女は、「写真が」と言って立ち止まった。深く息をつき、掌を見つめた。そこには、土の粉とインクの染みがあった。
あたしは何が写っていたのか見損なった。後を追って確かめるつもりもない。
女が空を見上げた。
「ねえ。あなたは、生きるために飛んでる? それとも、ただ、光を追ってるだけ?」
あたしは彼女の頬に体をこすりつけた。翅を小刻みに震わせ、香りを胸いっぱい吸うことができた。
彼女の耳元で翅音を高くした。
――どちらも、あなたのために。
4 蝶柱
女を後にして、しばらく経った。
風が途絶え、草いきれのなかで空気がわずかに沈んだ。太陽が中天をはるかに過ぎていた。
あたしは翅を休めた。あの女の姿が、どうしても頭を離れなかった。額の汗、唇の紅、香のような匂い――それらが森の香りを豊かにしていた。
ふと、薬のような匂いを嗅ぎ取った。あの香水とは違う、深く沈んだ匂いだった。
あたしはその源を探した。草の奥、光の届かない湿りのなかに、なんと、あの女が倒れていた。
頬はわずかに紅く、唇にはかすかな艶が残っていた。
その隣に、白い錠剤が散らばっていた。これが匂いの元だ。青いラベルの小瓶が、彼女の手の中で微かに光った。
あたしは囁いた。
「ねえ、聞こえる?」
返事はなかった。まつ毛だけが、微風のように震えた。頸の下の草が、呼吸のように動いた。
まだ、間に合う。
あたしは翅をひらめかせて舞い上がった。
高くではなく、近くで――女の顔を包むように旋回した。
体が異様に興奮して、脇の腺が空気に触れるのを感じた。
「助けるんだ。集まれ」
あたしの体から放たれた香りは、蝶道の合図だった。卵を生むとき、仲間を呼ぶために本能が発する、特別な芳香。それは蜜の匂いではなく、命の震えを伝える信号だった。
クロヒカゲが闇から現れた。
「おまえ、蝶道と同じ匂いを出しているぞ。なるほど、緊急集合というわけか」
あたしは再確認した。この香りは、ただの記憶ではない。森の蝶たちが共有する、命をつなぐための合図なのだ。
続いてヒョウモンが陽光を撒き、モンキチョウが風を切った。同じように口吻をひくひくと動かしている。
蝶たちは女のまわりを巡り、ひとつ、またひとつと光を重ねた。黄色や水色、草色が交わり、やがて柱になった。全体が白金色に輝く。
草の奥から立ちのぼる光の筋――それは風を呼び、森の空気を震わせた。
翅が重なり合うたび鱗粉が散り、蝶道の香りが濃くなった。化粧の匂いの立つ形をそのままなぞっているようだった。
柱はまるで、地面から空へ昇る一本の祈りであった。
陽光を反射した翅がきらめき、白銀の粉が滝のように流れた。
焚き火でも煙でもない、動く光の塔――人の目を奪うほどの美しさだった。
乱舞するうち、山道の方から声がした。
「おい、あれを見ろ! 何だ、あの柱?」
別の声音が起こった。
「蚊かと思ったが違う。光を放ってる!」
また別の甲高い声が立った。
「蝶だ。信じられん、数百はいるぞ!」
足音が草を踏み、ざわめきが近づいてきた。
「蝶柱だ。何かあるぞ!」
登山者たちが駆け寄ってきて、蝶柱の下を覗き込んだ。
「誰か倒れてる!」
「急げ! 救助しろ!」
「ロープがある! 電波、通じるぞ!」
蝶柱の下、草が波のように揺れた。
誰かが叫んだ。
「脈はある。生きてる!」
その瞬間、草の香りが濃くなり、彼女の指がかすかに動いた。
草に支えられた手の上に、あたしの翅の影が落ちた。
まぶたが微かに震え、そこに舞い落ちた光の粉が、眠りと生の境をやさしく撫でた。
あたしはその動きを見届けた。
――間に合った。
蝶柱は静かに崩れ、森の中へ光の粒を還していった。
あたしは彼女のそばを離れられなかった。
良い香りと苦い臭いが入り混じっていた。
5 問い――なぜ彼女は
登山者たちが女を担ぎ、山を下りていった。
あたしはその背を、ただ静かに見送った。クロヒカゲも隣に並び、同じ方向を見ていた。
風がやや強くなって、草がなびいた。
あたしは胸の奥で小さく息をついた。
「助かってよかったよ」
クロヒカゲがわずかに目を細めた。
「だが、お前はそれで満足か?」
あたしは不意を突かれて訊き返した。
「え? どういう意味?」
クロヒカゲの声には、疑いとも憐れみともつかぬ響きがあった。
「お前、あの女がなぜ倒れていたか、考えたか?」
胸の奥に、小さな棘が刺さったような痛みが走った。
「心に絶望か暗黒か、あったに違いない。どうして、それに気づかなかったのか?」
あたしは胸に手を当てた。
その時、遠くから一人の登山者が駆け戻ってきた。息を切らし、腕を空へ突き上げて叫んだ。
「ありました! 蝶たちが集まっていた場所に、こんなものが落ちてました!」
登山者の手の中には、小さな包みがあった。包みを開くと、中には薬瓶が入っていた。ガラス越しに、白い錠剤がわずかに揺れる。
登山者の声は、森の皮膚を擦るようだった。
「どれほど飲んだんだろう?」
あたしは胸が締めつけられた。
――あの錠剤を口にして、女は眠るように倒れたのか。
それに、彼女がなぜ、あの場所を選んだのか。
手帳の一節を女が読み上げたのを思い出した。
《――森の音が聞こえるなんて、誰も信じてくれない》
これは予兆だったのだ。
あたしは己の迂闊さを責めて、翅を震わせた。彼女は、見られることを望んでいた。それは眠りではなく、死を意味していた。察知しろと言われても、蝶には死の観念がないから仕方ない。
あたしは訊いた。
「あれは、彼女が使ったものだよね?」
クロヒカゲが静かに答えた。
「そうだろう。倒れていた場所にあったんだから」
やがて登山者たちは、彼女の荷を調べ始めた。リュックの中には、同じような瓶がいくつか入っていた。
深刻な調子の声が聞こえた。
「突発的な衝動じゃないな。相当準備したよな、これは」
あたしは目の前が暗くなるような気がした。
「どうして、そんなことを?」
だが次の瞬間、別の疑問が浮かんだ。
――なぜ、彼女は助かったのだろう?
蝶柱が立ち上がったあの瞬間、何が起きたのか。偶然だったのか、それとも。
「クロヒカゲ。もしかして、あの人は助けを待っていたんじゃないか?」
クロヒカゲは少しの間沈黙し、やがて低く言った。
「お前がそう信じたいなら、そういう真実もあるだろう。ただ、人の心の奥は、風より読みにくい」
また登山者の一人が声を上げた。
「これ、市販の睡眠薬が何種類も混じってるぞ」
瓶の中の白い粒が、光を跳ね返していた。まるで卵のように、壊れやすそうだった。
6 風の記憶
風が一度、山肌を撫でた。
あの日と同じ香りが、森の奥に残っていた。風がそれを運ぶたび、翅の裏が重くなった。あの人は、香りの向こう側へ行こうとしたのだ。
あたしは目を閉じた。胸の奥に、温かなものがゆっくり広がっていった。
――狂言だったのか、それとも本気だったのか?
あたしにはわからない。
ただ、あの蝶柱の中で、彼女が何かを思い出したと考えておこう。
死と同じくらい深く眠る寸前で、まだ消えきらない光を見たのだろうか。
あたしたちの舞いが、ほんの一瞬でもその光を呼び覚ましたとしたなら――それ以上、望めない。
あたしたちは奇跡を起こしたわけではない。
たんに、香りに導かれ、光に惹かれて舞っただけだ。けれど、それが誰かの命をつなぐ契機になった。
光は再び傾き、風が変わった。森の縁で、あたしは新しい花の蜜を見つけた。それが、あの人の残した匂いにそっくりで驚いた。
どんな香りも、風に乗れば、いつかまたあたしを通る。
クロヒカゲも、匂いに踊った。モンキチョウも、柱に加わった。ヒョウモンは陽光を撒きながら、軌跡を描いた。皆、記憶の香りに誘われて乱舞し、見守りで命をつないだ。
あたしたちは、光と影のあいだで、生の神髄に触れようと舞う。あるいは死の舞踏かもしれない。
ともかく蝶道と同じ匂いの中で、あたしは刈安(かりやす)の葉裏に卵を産みつけた。二〇〇個に一個しか成虫になれないとしても、次の世代に橋渡しはできた。
あの女の消息は知らない。
それでも、ごく偶(たま)だが、香りを積む――時に、強烈な柱となるほどに。
完
[ライタープロフィール]
野上勝彦(のがみ かつひこ)
1946年6月、宮崎県都城市生まれ。10歳の秋、志賀直哉と出会い、感銘を受ける。20歳のとき関節リウマチを発症、慶應義塾大学独文科を中退。数年間、湯治に専念。画家になるか作家になるか迷った末、作家になろうと決める。長編小説20編以上の準備をするが、短編小説数編しか発表できず。31歳のとき、文学を学び直すため、早稲田大学第二文学部に入学。13年浪人という形になった。英文学専攻、シェイクスピア学を中心に学ぶ。足かけ5年間、イギリスに留学。留学中父親を亡くす。詩人のグループに属し、英詩を書き、好評を得る。1989年末、帰国。教員となる。2010年、本務校を退職。同僚先輩から借りた本代1000万円を完済。2017年、非常勤講師をすべて定年退職。2018年、最初の評論集が『朝日新聞』書評欄で取り上げられる。最初の長編小説を完成させたのが2019年。いずれも出版に際し、グリム童話研究家金成陽一氏の紹介により河野和憲社長(当時編集部長)のお世話になって、現在に至る。12歳の時、最初の短編小説を書いて以降、題材を2000本以上書き留める。題材帳をもとに短編・掌編の執筆戦略を練り、2024年10月下旬から25年10月下旬までの1年間で、1700作を書く。現在、未発表短編1740作を数える。
【単著】『〈創造〉の秘密――シェイクスピアとカフカとコンラッドの場合』彩流社、2018年。『暁の新月――ザ・グレート・ゲームの狭間で』彩流社、2019年。『始源の火――雲南夢幻』彩流社、2020年。『疾駆する白象――ザ・グレート・ゲーム東漸』彩流社、2021年。『マカオ黒帯団』彩流社、2022年。『無限遠点――ザ・グレート・ゲーム浸潤』彩流社、2023年。
【共著】『シェイクスピア大事典』日本図書センター、2002年。『ことばと文化のシェイクスピア』早稲田大学出版部、2007年。The Collected Works of John Ford, Vol. IV, Oxford: Oxford University Press, 2023.
【論文】‘The Rationalization of Conflicts of John Ford’s The Lady’s Trial’,Studies in English Literature, 1500-1900,32,341-59,1992年、など37本。詳細についてはウェブサイトresearchmapを参照。
【連載】『近代神秘集:生きもの編』、ウェブマガジン『彩マガ』彩流社、2025年4月16日より。
