第7回 太宰治『人間失格』と井上陽水『海へ来なさい』
スージー鈴木
いよいよ超有名作だ。太宰治『人間失格』。読んだことのある人も多いだろう。今回も新潮文庫版。ちなみに調べたら、2011年時点で累計発行部数657万部とのこと。ひえー。例の玉川上水での入水自殺直前に書かれたという事実が、販売にも影響したのだろう。
内容はみなさんご存じの通り。主人公「葉蔵」(ようぞう)は良家に生まれた美少年。しかし、自分の本性を隠し続け、内面の葛藤と格闘し続けた結果、自暴自棄な生涯を歩み、最終的には「脳病院」に送り込まれる――。
話題となった理由はよく分かる。「内面の葛藤と格闘した結果、道化を演じる」というのは、程度の差こそあれ、誰もが経験することなのだから。
「葛藤を隠した道化」がもたらす苦しみを『人間失格』はこれでもかこれでもかと突いてくる。こりゃ響くわ。若者なら、なおさらのこと。まして「内面の葛藤との格闘」なんて語ることすら出来なかった、長い戦時を超えた直後なら、さらになおさらのこと。
ただ、そんな話に特別な深みを与えるのが、冒頭の方にあるこの一節だ。
――その頃、既に自分は、女中や下男から、哀しい事を教えられ、犯されていました。幼少の者に対して、そのような事を行うのは、人間の行い得る犯罪の中で最も醜悪で下等で、残酷な犯罪だと、自分はいまでは思っています。
ここだけ文体が、他とは違って強い断言調となっている。また、その直後にも「下男下女たちの憎むべきあの犯罪」と断じている。
そう、主人公は今でいう「性犯罪」の被害者なのだ。もしかしたら太宰治自身も、そうだったのかもしれない。
想起するのはもちろん、旧ジャニーズ事務所の性加害問題である。「加害」じゃないな、ここでは「性被害問題」だ。
東山紀之社長いわく「鬼畜の所業」、太宰治「最も醜悪で下等で、残酷な犯罪」を受けた美少年の人生を私は思いやる、『人間失格』という70年以上前の物語が、突然、現代性を帯びてくる。
- 自らが育んだ生命に井上陽水が伝える歌
さて、「内面の葛藤との格闘」をテーマに、若者に熱狂的に支持された音楽といえば、何といっても『人間失格』と同じ1948年に生まれた井上陽水だろう。
日本初のミリオンセラー・アルバム『氷の世界』(73年)のタイトルチューンは「人を傷つけたいな 誰か傷つけたいな だけどできない理由は やっぱりただ自分が恐いだけなんだな」と歌う。『傘がない』(72年)は「都会では自殺する若者が増えている」「だけども問題は今日の雨」と歌う。まさに葛藤と格闘している一人の若者の姿が、そこにある。
学生運動という、こちらも呑気に葛藤と格闘なんてしちゃいられない一種の「戦時」を超えた後の若者は、これらの曲のとりこになった。
ただ井上陽水は、そこだけにとどまらず、のちに、まったく別の、いや逆の次元の曲を歌うことになる。例えば『海へ来なさい』(79年)である。自殺するどころか、自ら育んだ生命にこう伝える歌だ。
――太陽に敗けない肌を持ちなさい 潮風にとけあう髪を持ちなさい
――風上へ向かえる足を持ちなさい 貝がらと話せる耳を持ちなさい
何といってもラストがいい。
――海へ来なさい そして心から 幸福になりなさい
人の生き方は二種類。自殺するために玉川上水へ向かう人生と、幸福になるために海へ向かう人生。私は絶対に後者を選びたい。そして子を持つ親として、すべての若者、すべての新しい生命に、後者を歩んでほしいと思う。
そして私は思う。太宰治を海ではなく、玉川上水へと向かわせたのは何なのかと。もしかしたらそれは性被害だったのかもしれないと。
[ライタープロフィール]
スージー鈴木(すーじーすずき)
音楽評論家、小説家、ラジオDJ。1966年11月26日、大阪府東大阪市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。音楽評論家として、昭和歌謡から最新ヒット曲までを「プロ・リスナー」的に評論。著書・ウェブ等連載・テレビ・ラジオレギュラー出演多数。
著書…『大人のブルーハーツ』(廣済堂出版)、『サブカルサラリーマンになろう』(東京ニュース通信社)、『〈きゅんメロ〉の法則 日本人が好きすぎる、あのコード進行に乗せて』(リットーミュージック)、『弱い者らが夕暮れて、さらに弱い者たたきよる』(ブックマン社)、『中森明菜の音楽1982-1991』(辰巳出版)、『幸福な退職 「その日」に向けた気持ちいい仕事術』『サザンオールスターズ 1978-1985』『桑田佳祐論』(いずれも新潮新書)、『EPICソニーとその時代』(集英社新書)、『EPICソニーとその時代』(集英社新書)、『平成Jポップと令和歌謡』『80年代音楽解体新書』『1979年の歌謡曲』(いずれも彩流社)、『恋するラジオ』『チェッカーズの音楽とその時代』(いずれもブックマン社)、『ザ・カセットテープ・ミュージックの本』(マキタスポーツとの共著、リットーミュージック)、『イントロの法則80’s』(文藝春秋)、『カセットテープ少年時代』(KADOKAWA)、『1984年の歌謡曲』(イースト新書)など多数。