第3回 川端康成『伊豆の踊子』とレベッカ『SUPER GIRL』と処女性幻想について
スージー鈴木
- 「有名古典短編勝負」のあっけなさ
まだ本格的な長編を読める感覚が戻っていない。なので「有名古典短編勝負」はまだまだ続く。川端康成を読む。それも『伊豆の踊子』だ。文句あっかという感じだ。
買ったのは、JR海浜幕張駅構内のくまざわ書店。そこから蘇我駅で乗り換えて内房線に向かったのだが、さすがに蘇我駅は超えるも、木更津駅より手前で読み終えてしまった。短編とは、本当にあっけないものだ。
内容も相変わらずあっけない。旧制一高(現:東京大学)の学生が、伊豆の旅で、旅芸人一座と出会い、その中の14歳の踊り子に淡い恋をする。淡い恋が叶うことはなく、下田まで一緒に旅をしたのち、淡い恋のまま別れ、東京に帰る船の中で泣く。それだけ。
これまでの『羅生門』『城の崎にて』も確かにあっけなかった。ただ、あっけなさの質が違う。
『羅生門』『城の崎にて』は、死の切なさ・やるせなさを描いていた。芥川龍之介や志賀直哉から長い時を経た令和のアラ還にも、死のリアリティは等しく迫ってきているという意味で、無関係ではなく、中身が心に入ってきて、色々と考えさせられた。
しかし、一高生と踊子の恋なんて、少年時代ならともかく、アラ還としては、知るもんかという気になる。以上――といいたいところだが。
- 令和の今に続く「処女性幻想」という存在
では逆に、批判的に読んでみよう。壮大な後出しジャンケン。でも相手は天下の川端康成だ。私なんかが何をいおうとも、怒られやしないだろう。
読んで気になったのは、何というか「処女性幻想」のようなものの存在だ。約100年前の『伊豆の踊子』だけでなく、未だに日本のカルチャー全体を覆う「処女性幻想」。
年上の男性が、年下の若い女子を捉えるときに、年齢や立場の差から、女子には未熟性・無垢性――処女性に満ちていると(勝手に)解釈する。そして男性は、女子の人格を愛する、というより、その処女性を愛でる――という「処女性幻想もの」がやたらと多くないか?
そんな「処女性幻想もの」のその後を考えれば、当然、処女性は永遠ではないので、成長による処女性終焉とともに、男性の興味は失せ、さらには別の年下女子に、興味が移っていくのだろう。
『伊豆の踊子』を読んで私は、爽やかな青春小説というよりも、「エリートによる処女性幻想小説」という印象を強くしたのだ。
さらに、ここから話を広げる。無論、私は女性(一部男性)アイドル界のことをいっている。揃ったコスチューム、揃った振り付け、揃った音程のユニゾンボーカル。過剰な統一感は「処女性幻想」とリンクしていると思うのだ。極めつけは――「恋愛禁止」!
まぁ、好きな人は好きで結構なのだが、私はあまり食指が動かない。むしろ歳のせいか、アイドルたちがちょっと不憫に思えてきてしまうのだ。
と、そんな話を10年ほど前、アイドル好きの同年代友人にしたら、「俺のアイドル推しは、スージーの高校球児推しと一緒だよ」という意味のことを言われたことがある。
確かに、当時私は高校野球、特に夏の甲子園が好きで、毎年、酷暑の甲子園に足を運んでいた。が、こちらも歳のせいか、酷暑の中でプレーさせられる球児たちが不憫に思えてきて、ガクッと興味が失せたのだ。というか、自分自身、酷暑観戦がいよいよしんどくなってきたことも大きいのだが。
耳を澄ませるべきは、「年上男性が勝手に思う、年下女子が言いそうな言葉」ではなく、「年下女子」自身が発する言葉なのではないか。彼女たちが主体的に何を考えるか、ひいては主体的に何を歌うか。私より年長の作詞家によって受動的に歌わされる言葉ではなく、である。
- 女子からの主体的な言葉で歌ったNOKKO
そして話は、ようやっとレベッカに移る。私は、1991年に解散するまでの(第一期)レベッカの歌詞があまり語られないのを、寂しく感じている者である。
と今さらいいたくなるくらい、NOKKOによる歌詞は素晴らしい。何が素晴らしいかというと、未熟性、無垢性、処女性なんか知るもんかと、女子(NOKKO)が主体的に考えた言葉を主体的に歌っているからだ。
ここで1曲挙げるなら『SUPER GIRL』(89年)だ。平成元年、バブル経済最高潮の中で、パッと見、元気いっぱいに躍動しているように見えるガールズが、心の中で一体何を考えていたのかを伝える、ブラボーな言葉に溢れている。
――片手にはバッグと電話料金のお知らせにぎりしめ
――月曜の貧血に奇跡はおきないわ
――幸せになった友達に 心から控えめだったヤツなんていないわ
究極は、エロい目で見つめて、ヤバい手でからめとってくるオヤジたちを蹴り飛ばすようなこのフレーズ。
――SUPER GIRL それなりってなんなのよ
レベッカについては、このあたりがもっと評価されるべきだと思う。バンドブームに先駆け、その礎を作ったBOOWYとレベッカ。同時期のBOOWYが起こしたものがサウンドの革命だとすれば、レベッカが起こしたのは言葉の革命だったと思う。それは、処女性を強く求められた女子からの反逆だったのかもしれない。
『伊豆の踊子』の最後、踊子は下田港の乗船場で、東京に帰る一高生を見つめて頷いた。
もし私が加筆するなら、踊子に『SUPER GIRL』を歌わせて、クネクネした踊りを披露させる。それが受動的に「踊らされる子」ではなく主体的に「踊る子」のあるべき姿だと思う。その瞬間、「踊子」は「NOKKO」と訳されることだろう。
最後に余談。現在NOKKOは、伊豆の玄関口、熱海に住んでいるらしい。
[ライタープロフィール]
スージー鈴木(すーじーすずき)
音楽評論家、小説家、ラジオDJ。1966年11月26日、大阪府東大阪市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。音楽評論家として、昭和歌謡から最新ヒット曲までを「プロ・リスナー」的に評論。著書・ウェブ等連載・テレビ・ラジオレギュラー出演多数。
著書…『サブカルサラリーマンになろう』(東京ニュース通信社)、『〈きゅんメロ〉の法則 日本人が好きすぎる、あのコード進行に乗せて』(リットーミュージック)、『弱い者らが夕暮れて、さらに弱い者たたきよる』(ブックマン社)、『中森明菜の音楽1982-1991』(辰巳出版)、『幸福な退職 「その日」に向けた気持ちいい仕事術』『サザンオールスターズ 1978-1985』『桑田佳祐論』(いずれも新潮新書)、『EPICソニーとその時代』(集英社新書)、『EPICソニーとその時代』(集英社新書)、『平成Jポップと令和歌謡』『80年代音楽解体新書』『1979年の歌謡曲』(いずれも彩流社)、『恋するラジオ』『チェッカーズの音楽とその時代』(いずれもブックマン社)、『ザ・カセットテープ・ミュージックの本』(マキタスポーツとの共著、リットーミュージック)、『イントロの法則80’s』(文藝春秋)、『カセットテープ少年時代』(KADOKAWA)、『1984年の歌謡曲』(イースト新書)など多数。