スージー鈴木のロックンロールとしての日本文学 第5回

第5回 三島由紀夫『金閣寺』とサザンオールスターズ『勝手にシンドバッド』

スージー鈴木

  • 恩田陸の見事な『金閣寺』評

今回は三島由紀夫『金閣寺』。新潮文庫330ページ、完走。やればできる。

文学音痴の私でも、個々の作品はともかく、三島由紀夫という人物はもちろん知っていた。

第一想起するのは、もちろん1970年11月25日の割腹自殺だが、数年前に映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』を観たのも大きい。

割腹自殺から来る、物物しいイメージとは裏腹に、機転の効くコミカルな人というイメージが沸き立った。そして、そういう部分が、自分の中で、コンプレックスになっていたのではないかと直感したものだった。

さて、『金閣寺』だが、正直言って、読むのが辛かった。何度も投げ出そうと思った。内容以前に、文章、文体が読んでいてつらいのだ。

古めかしいからではない。作品の古さでいえば、前回の武者小路実篤『友情』より、全然新しいのだから。

――が、私の美の思い出が強まるにつれ、この暗黒は恣まに幻を描くことのできる下地になった。このくらいうずくまった形態のうちに、私が美と考えたものの全貌がひそんでいた。思い出の力で、美の細部はひとつひとつ闇の中からきらめき出し、きらめきは伝播して、ついには昼とも夜ともつかぬふしぎな時の光の下に、金閣は徐々にはっきりと目に見えるものになった。これほど完全に細緻な姿で、金閣がその隈々まできらめいて、私の眼前に立ち現れたことはない。

文学音痴だけれども、一応三島由紀夫と同じ物書きとして、こういう文章を彼がどういう気分で書いていたかは、よく分かる。

「俺の文章って、上手いなぁ、美しいなぁ、流麗だなぁ」。

むろん、これは称賛する意図で書いていない。もう世界から称賛し尽くされた作品なので、ちょっとばかしの悪態も、何ほどのものでもないだろう。

そして、もっともっと「上手い、美しい、流麗」にと、何度も何度も校正して、磨き上げた文章であることも、よくよく分かる。

そんな私の「三島文体評」に、ピタッとくる意見を見つけた。それも、読み終わってすぐの新潮文庫に寄せられていた解説で。書いた人は恩田陸。

――そう、正直言って金閣寺はあまりにも「はりぼて」めいている。もっというと、書割めいている。どことなく胡散臭く、嘘臭い。芝居がかっているといってもいい。そして、それはそっくりそのまま三島由紀夫の作品の印象にもあてはまる。

と、まず金閣寺そのものを経由しながら、

――三島由紀夫の文章は、どことなく金の塗料の匂いがする。あまりにも完璧かつ誰にも真似できない美文(しかも、言われてみると、それ以外の表現は有り得ないと思わされる)ゆえに、つるつる滑って、引っかかりがない。金閣寺がいつも曇りなくぴっかぴかで、「汚し」をつけようなどという気にならないのと同じである。

かたや文学音痴、かたや有名作家だが、年齢もほぼ同じで大学も一緒。物事の判断に通じるところがあったのかもしれない。

少なくとも、引用した恩田陸の解説文の中に、私が抱いた違和感は、すべて組み込まれている。

となると、私のやるべきことは『金閣寺』を読んで想起した音楽家を挙げることに尽きる。今回は「つるつる滑って、引っかかりがない」文筆家の対極としての、「ギザギザと引っかかりまくる」音楽家を選んでみたい。

『葡萄』の女性が『金閣寺』の登場人物のように見える

  • 三島由紀夫の絶対性と桑田佳祐の普通性

『金閣寺』の最後の最後の文章は、金閣寺に放火した主人公の言葉――「生きようと私は思った」。ここから私は「みんな死ぬなよー!」とMCで叫ぶ、桑田佳祐を思い出したのだった。

サザンオールスターズの現時点での最新アルバム『葡萄』(15年)には、生への衝動が描かれている。その象徴は、愛する人に対して、自らの死を語る『はっぴいえんど』だが、もっと「ギザギザと引っかかりまくる」のは『栄光の男』だ。

「栄光の男」は長嶋茂雄のこと。歌詞は1974年10月14日、後楽園球場からの長嶋の現役引退中継を見つめる青年の姿から始まる。

――ハンカチを振り振り あの人が引退(さ)るのを 立ち喰いそば屋の テレビが映してた

長嶋茂雄が出てくるロックも珍しければ、立ち喰いそば屋が舞台のロックも珍しい。そして主人公の青年(多分に桑田佳祐本人)は感極まって、

――シラけた人生で 生まれて初めて 割箸を持つ手が震えてた

となる。そしてさらに驚くべきは、長嶋茂雄から始まった歌が、老いてからの自らによるセクハラで終わることだ。それも劇的にみみっちくしみったれた。

――居酒屋の小部屋で 酔ったフリしてさ 足が触れたのは故意(わざ)とだよ

桑田佳祐に対する論評を死ぬほど読んだが(そして書いたが)、抜群だと思うのは、『ブルー・ノート・スケール』(ロッキング・オン)に渋谷陽一が寄せた、この一文だろう。

――いま、こうやってそのインタヴューを振り返って最も印象に残っているのは、ついに一回も桑田佳祐の口から、自分を絶対化したり、特殊化する発言が出なかった事である。

自らを絶対化しないにもかかわらず、いや、だからこそ、日本一有名になった音楽家が描く人生は、長嶋茂雄に始まり、セクハラで終わる。

そんな、絶対化の対極、みみっちくしみったれた普通事(ふつうごと)をあけすけに歌うからこそ、我々の心にギザギザと引っかかる。

思うのは、桑田佳祐は長生きするのではないかということだ。大病もあって、健康にも気を使っている(と聞く)こともあろうが、何より普通は自然だ、普通はお気楽だ、そして普通だからこそ楽しい。ということは、そんな桑田佳祐の「普通性」を愛する我々も、長生きするのかも。

対して、三島由紀夫という人は、あまりに美しく、あまりに金ピカで、そして完全絶対化されたものを求めた過ぎたのではないか。だからこそ、最後は自分の命を追い込んだのではないか。

割腹自殺の8年後、サザンオールスターズはデビューする。三島より約30歳下、22歳の桑田佳祐がまくし立てる『勝手にシンドバッド』を聴いたら、どう思ったのだろう。

「私の美の思い出が強まるにつれ、この暗黒は恣まに幻を描くことのできる下地になった」と「シャイなハートにルージュの色がただ浮かぶ」の距離をどう感じたのだろう。

直感だが、三島由紀夫は、『勝手にシンドバッド』を好んで聴いたような気がしてならないのだ。

最後に。桑田佳祐は『金閣寺』が発表された年に生まれている。つまり桑田と『金閣寺』は同い年である。

[ライタープロフィール]

スージー鈴木(すーじーすずき)

音楽評論家、小説家、ラジオDJ。1966年11月26日、大阪府東大阪市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。音楽評論家として、昭和歌謡から最新ヒット曲までを「プロ・リスナー」的に評論。著書・ウェブ等連載・テレビ・ラジオレギュラー出演多数。

著書…『サブカルサラリーマンになろう』(東京ニュース通信社)、『〈きゅんメロ〉の法則 日本人が好きすぎる、あのコード進行に乗せて』(リットーミュージック)、『弱い者らが夕暮れて、さらに弱い者たたきよる』(ブックマン社)、『中森明菜の音楽1982-1991』(辰巳出版)、『幸福な退職 「その日」に向けた気持ちいい仕事術』『サザンオールスターズ 1978-1985』『桑田佳祐論』(いずれも新潮新書)、『EPICソニーとその時代』(集英社新書)、『EPICソニーとその時代』(集英社新書)、『平成Jポップと令和歌謡』『80年代音楽解体新書』『1979年の歌謡曲』(いずれも彩流社)、『恋するラジオ』『チェッカーズの音楽とその時代』(いずれもブックマン社)、『ザ・カセットテープ・ミュージックの本』(マキタスポーツとの共著、リットーミュージック)、『イントロの法則80’s』(文藝春秋)、『カセットテープ少年時代』(KADOKAWA)、『1984年の歌謡曲』(イースト新書)など多数。

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