スージー鈴木のロックンロールとしての日本文学 第16回

第16回 夏目漱石『私の個人主義』と「タモリの個人主義」

スージー鈴木

いよいよ夏目漱石を取り上げる。もっと早く取り上げるべきと思いつつ、実は一度『草枕』にチャレンジしたのだが、読みにくくって挫折したのだ。白状すると、代わりに漫画版を読んだのだが、それではこのコラムでは取り上げにくいと思い、ボツに。

というわけで今回は、約40年前、学生時代に買った『私の個人主義』を取り上げたい。20歳になったかならないかの私が、タイトルに惹かれて買ったはずだ。

小説ではなく、大正3年(1914年)に学習院で行われた講演録。この時代の学習院は、華族の通う学校で、生徒の多くは東京帝国大学に進学したという。つまり、のちの支配階級、エリートになる若者に向けて、かなりのユーモアを混ぜながら、あと「個人主義=危険思想」と思われないよう策を弄しながら、47歳、亡くなる2年前の文豪が本質的なことを解いていく。

100年以上前の講演だが、内容を読み取るのは、それほど難儀ではない。講演の結論を、かいつまんでいえば、

――自分は天性右を向いているから、あいつが左を向いているのは怪(け)しからんというのは不都合じゃないかと思うのです。

ということだ。付け加えるならば、

――いやしくも公平の眼を具し正義の観念をもつ以上は、自分の幸福のために自分の個性を発展して行くと同時に、その自由を他にも与えなければすまん事だと私は信じて疑わないのです。我々は他が自己の幸福のために、己(おのれ)の個性を勝手に発展するのを、相当の理由なくして妨害(ぼうがい)してはならないのであります。

個人主義であれ。そして、個人主義になるということは、他人の個人主義を守ることだ――という結論に、異存などあるはずがない。

ただそんな、今となっては一見平凡な話が結論となる講演録に刺激性が帯びるのは、夏目漱石自身が、朝日新聞の文芸欄を担当していたときのエピソードを話すパートだ。

その文芸欄で誰かが、三宅雪嶺(哲学者にして国粋主義者らしい)という人の「悪口」を書いた。その内容はもちろん人身攻撃などではなく、批評に過ぎなかったのだが、しかし、三宅雪嶺が主宰していた雑誌、『日本及び日本人』の連中が怒り出した。「どうしても取り消せ」と言い出した。『日本及び日本人』では毎号、夏目漱石の悪口を書いている人がいるにもかかわらず――。

これは、今で言う「炎上」ということだろう。誰かが「犬笛」を鳴らして、その関係者や周辺層が、集団となってSNSにネガ意見を書き込むような。対して、夏目漱石は「その話を間接に聞いた時、変な心持がしました」として、理由をこう語る。

 

――というのは、私の方は個人主義でやっているのに反して、向うは党派主義で活動しているらしく思われたからです。

そう、夏目漱石にとって、個人主義の対義語は「党派主義」だったのだ。何かというと、徒「党」を組んで、「派」閥を組んで、集団で一律的に行動する連中、というか、集団で一律的に行動する国=ニッポン。

『私の個人主義』は、そんな「党派主義」を憎んだ夏目漱石の心根を覗き見る講演録として捉えるのがいちばんだろう。なぜならばそれは、100年以上前ではなく、今の日本の話なのだから。

発売禁止となった『タモリ3』(81年)との素晴らしい組み合わせ

  • タモリの筋金入りの「個人主義」と「党派主義嫌い」

では、現在の日本で「私の個人主義」の「私」に当てはまる人物はいるのか。

――タモリだ。

てか、タモリしかいない。以下に述べるように、本質的な意味でジャズマンであり、つまりはロックンローラーとしてのタモリである。

先月80歳を迎えたタモリ。戦後80年に80歳を迎えたタモリは、戦後民主主義、ひいては「個人主義」の申し子と言っていいだろう。

「友達なんかいらないって。(だから)どんどん友達減らしていってるの。切ってくの」と、彼は番組で発言したらしい(フジテレビ『SMAP×SMAP』2017年12月19日)。いかにもタモリらしい。

しかし、その背景にあるのは、単なる人嫌いというよりは「同調圧力」とか「忖度」とか、つまりは集団で一律的に行動を強いられる「党派主義」が心の底から嫌だということだと思う。

このあたりを裏打ちする話として、映画評論家の町山智浩がこのようなことを言っていた。少々長いが、引用したい(『タモリ読本 語っていいとも!』洋泉社)。

――そういう右翼的なものを批判する一方でタモリさんは左翼も攻撃してた。ニューファミリーって言葉があったんだよ。(中略)ニューファミリーってのは友だち夫婦みたいな感じで、それまで家族ってものを解体してきたヒッピーを卒業した人たちがファミリーを作りはじめたってことでニューファミリーって言われたんだけど、それに対してタモリさんは、ふざけんじゃねえ、偽善だって言ったんだよ。すごいよね、この全包囲攻撃(笑)。つまり、それまでの左翼が日和ったってことで攻撃してるわけじゃん? 実際、左翼は闘争に負けて資本主義のなかに取りこまれて、TVや広告代理店のなかとかに入ってったわけだ。タモリさんはそれを批判して、小林秀雄に代表される右翼も批判する。まったく右も左もぶっ飛ばせだよね。超カッコいい。

そもそもタモリの「個人主義」は筋金入りだ。戸部田誠(てれびのスキマ)による労作「大タモリ年表」には、こんな記述がある。

――入園予定のキリスト教系福岡海星女子学院マリア幼稚園(64年に高宮から老司に移転)を見学するため、徒歩20分かけてひとりで訪問。「♪ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む」と童謡『夕日』に合わせてお遊戯する園児たちを見て「こんな子どもじみたことはできない」と入園を拒否。

こんなタモリの個人主義的な資質を、もっと我々は語り、愛するべきではなかったか、息苦しい「党派主義」が跋扈(ばっこ)する現実を目の前にすると、そう、思ったりもするのだ。

2022年12月28日のテレビ朝日『徹子の部屋』で来年の予測を聞かれたタモリが「新しい戦前」と言って話題となった。その物言いに対しては、批判もあったと記憶する。でも私が思うのは「言うでしょ、そういうことを。だってタモリだよ」ということである。

おそらくタモリは、イデオロギーなんかじゃなく「党派主義」の話をしていたのだと思う。心の中では、夏目漱石と同じことを思いなから。

――というのは、私の方は個人主義でやっているのに反して、向うは党派主義で活動しているらしく思われたからです。

「私の個人主義」と書いて「タモリの個人主義」と読む。

[ライタープロフィール]

スージー鈴木(すーじーすずき)

音楽評論家、小説家、ラジオDJ。1966年11月26日、大阪府東大阪市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。音楽評論家として、昭和歌謡から最新ヒット曲までを「プロ・リスナー」的に評論。著書・ウェブ等連載・テレビ・ラジオレギュラー出演多数。

著書…『沢田研二の音楽を聴く1980-1985』(日刊現代)、『大人のブルーハーツ』(廣済堂出版)、『サブカルサラリーマンになろう』(東京ニュース通信社)、『〈きゅんメロ〉の法則 日本人が好きすぎる、あのコード進行に乗せて』(リットーミュージック)、『弱い者らが夕暮れて、さらに弱い者たたきよる』(ブックマン社)、『中森明菜の音楽1982-1991』(辰巳出版)、『幸福な退職 「その日」に向けた気持ちいい仕事術』『サザンオールスターズ 1978-1985』『桑田佳祐論』(いずれも新潮新書)、『EPICソニーとその時代』(集英社新書)、『EPICソニーとその時代』(集英社新書)、『平成Jポップと令和歌謡』『80年代音楽解体新書』『1979年の歌謡曲』(いずれも彩流社)、『恋するラジオ』『チェッカーズの音楽とその時代』(いずれもブックマン社)、『ザ・カセットテープ・ミュージックの本』(マキタスポーツとの共著、リットーミュージック)、『イントロの法則80’s』(文藝春秋)、『カセットテープ少年時代』(KADOKAWA)、『1984年の歌謡曲』(イースト新書)など多数。

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