あてにならないおはなし 第32回

わたしの体験的居場所論 その7

阿部寛

1995年5月にスタートした地域人権学習会「ぼちぼち」は、開設当時から、いくつかの理念とキャッチフレーズのもと、語りと学習の場として活動を続けてきた。(2013年、わたしは代表を辞し、若い世代にバトンタッチする。)以下、そのいくつかを紹介してみよう。

〇思いをことばに、ことばをちからに

〇ゆっくり自分のペースで、自分らしくい
られる場所、いろんな人が学んでいる

〇自分自身を教科書に

〇悩み・苦労は希望の種

〇安心できる居場所と語りによる回復

1998年4月、飛び切り若い学習者がデビューする。当時、保育園通園の4歳児、「こうちゃん」である。
こうちゃんとわたしとの関係は、こうである。1995年、わたしの相棒・佐藤ムツ子さん、Nさん、わたしの3人は、女性の精神障害者専用の居場所兼就労支援施設を作ろうと神奈川県厚木市で準備活動を始めた。
「女性専用」という考えが、保健所や行政関係機関の理解を得られるまでに3年以上の時間を要し、多くの協力者を得て1999年1月に精神障害者地域作業所「コミュニティスペース・アジール」が誕生した。その開設直前に、あつ子さん(ムツ子さんの娘)が、こうちゃんを出産したが、10代の頃の芸能界生活時代の苦労や、妊娠・出産・子育てのストレス等が重なって、精神疾患を発症した。
あつ子さんの夫も子育てに一所懸命参加したが、あつ子さんの病状は改善せず、結局離婚となった。その結果、あつ子・こうすけ親子を、ムツ子さんとわたしが引き取ることとなり、4人での共同生活が始まった。そして、あつ子さんは、コミュニティスぺース・アジールの通所者第1号となった。

4人の共同生活は、山あり、谷あり、波乱万丈の10年間であった。

そもそも、わたしは少年期から、結婚や夫婦生活、そして子育てを望んでいなかった。自分の親たちの生活を見ながら、結婚してこどもを育てるということに肯定的意味合いを見いだせなかった。そもそも人と群れて行動することも苦手で、嫌いだった。
いまのわたしを知る人は、「うそだろう?」と思われるかもしれないが、実は「宴会」は嫌いで、一人で、あるいは差しで飲むことを好む。しかし、結婚・子育てを避ける一番の理由は、自分の遺伝子を引き継ぐ子孫を残したくない、というのが一番の理由だった。若いときの自分は、自己嫌悪のかたまりで、一人暮らしを強く望んでいた。

しかし、人生は自分の思い通りには行かないものだ。
横浜のドヤ街「寿町」そばに開設したたまり場ユンタークでは、29歳から7年間の共同生活となった。たまり場の前半期は、基本的に管理人のわたし一人が宿直だったが、後半期には20歳代の若者が泊まり込むようになり、若者6人を含む計7人の共同生活となった。
ほぼ毎日のように、近隣の子どもたちが登下校時に立ち寄り、夜は寿町に暮らす日雇労働者や障害者、在日コリアンのオモニ、学生等が寺子屋ユンタークに集まり、勉強や遊びに興じた。さらには、こどもたちの親たち、半ば「宴会場」と思い込んで遊びに来る訪問者たちがひっきりなしにたまり場に出入りした。わたしのプライベート時間や空間は一切なしの生活だった。
これではたまない。一人暮らしどころか、恋もできない。好きな人とは、たまり場の外で会い、時々ラブホテルに泊まることもあった。訪れる人のためのたまり場ではあるが、次第にわたし自身のたまり場ではなくなって
いった。そのことが耐えられなくなって、結局たまり場を閉じることとなった。

たまり場を出てからは、のちにコミュニティスペース・アジールの創設と活動をともに担うこととなる佐藤ムツ子さんとの共同生活を始めた。ムツ子さんが子育てを終え、元夫と離婚して、一人暮らしを始めた第1日目に、わたしは彼女の引っ越し祝いと称して、歯ブラシ1本持参して、泊まり込んだのである。
彼女はとても素敵な人であり、わたしは彼女に夢中になったため、間髪入れずアタックした。こうして彼女との同居生活が始まった。さらに、先述した通りの事情も重なって、あつ子さん・こうちゃんと出会うこととなった。

さて、こうちゃんとわたしとの関係は、「名づけられない関係」だ。これは、倉田めばさん(大阪ダルクディレクター、Freedom代表、パフォーマンス・アーティスト)が、主催団体の研修会で語ったことばだ。
こうちゃんにはパパもいるし、祖父もいる。わたしとこうちゃんとの関係は、日常生活をともにする親密な関係だが、戸籍や血縁関係では表記できない。だからこそ新たな関係を創造するという可能性と主体性があるわけだが、国家や世間はそれを許さない。
そこで思いついたのが、「師匠」ということば。最初はいたずら半分に使い出したのだが、二人の間だけでなく、第3者の前でも使うようになった。
まだ幼かったこうちゃんは、疑問をもたず自然に「師匠!」と私に声をかける。これがとても気持ちよく、かわいい。しかし、いつも送り迎えに行く保育園では、こうはいかなかった。保育士たちは、こうちゃんとわたしの関係を、根掘り葉掘り尋ねるようになった。次第に、こうちゃん自身が、保育士の発問とその時のまなざしに潜むねじれた感情を察知し、彼はわたしを「師匠」と呼ばなくなった。
呼び名のない「この人(=わたし)」は、自分にとってどんな関係の人なんだろう。パパではない。じいちゃんでもない。一時「にせじじい」と私を呼んだことがあるが、しっくりこない。そして二人で相談して、お互いの名前で呼び合うことになった。
「阿部さん」
「こうすけ」
その後、現在に至るまで、お互いの呼称はこのままである。
そして、わたしは思っている。名づけられない関係はいいものだ、と。
彼との関係は、26年になる。実にいろんなことがあった。ともに寝起きし、よく笑い、よく喧嘩し、よく泣いた共同生活だった。
そして彼が小学4年生の夏、北海道浦河町の「べてるの家」メンバーとしてくらす母・あつ子さんのもとへ送り出した。わたしは、羽田空港で人目もはばからず大泣きし、こうちゃんを見送った。

「ぼちぼち」は、こうちゃんにとっても大切な場所だった。最年少の学習者だった彼も、ミーティングに参加し、日々の暮らしと思いを綴った。あれは、小学1年生のころだったろうか。母親のあつ子さんが、病状の悪化による大混乱の末、精神病院に入院となった。その日の夜、こうちゃんは「ぼちぼち」に参加した。ミーティングの時間となり、こうちゃんの番が回ってきた。

「最近、苦労したことは何ですか?」
司会から尋ねられたこうちゃんは、「ママが~」と絶叫し、泣き伏した。

事情を知るアジールのメンバーでもある学習仲間たちが、「わかるよ~」とことばを発したっきり、かたわらで泣いている。

ミーティングを続けてきて、ほんとうに良かったなあ。わたしは、つくづくそう思った。

~つづく~

[ライタープロフィール]

阿部寛(あべ・ひろし)

1955年、山形県新庄市生まれ。生存戦略研究所むすひ代表。社会福祉士。保護司。 20代後半から、横浜の寄せ場「寿町」を皮切りに、厚木市内の被差別部落、女性精神障害者を中心とするコミュニティスペースで人権福祉活動に取り組む。現在は、京都を拠点として犯罪経験者・受刑経験者、犯罪学研究者、更生保護実務者等とともに、ひとにやさしい犯罪学、共生のまちづくりを構想し共同研究している。

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