第41回 ゴーヤとゴーヤーはどう違う?
平良 愛香
2022年秋、沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック主催の集会「命(ぬち)ぬ ぐすーじ 舞(もう)い遊(あし)ば」が東京都内で行われました。沖縄のチャップリンとも言われる小那覇舞天(おなはぶーてん)が、戦後すぐ捕虜収容所の中でカンカラ三線を奏でながら「命ぬ ぐすーじ 舞い遊ば(生きていることを祝って踊り遊びましょう)」と語り、笑いで人々の心に癒しや希望の光を灯したということから集会タイトルを決定。このタイトルは単に「踊り遊べ」という意味ではなく、どれだけ抑圧を受けていても、それを跳ね返すエネルギーが私たちにはあるのだという意味合いを込めて付けたものでした。
実は2023年は第37回国民文化祭が「復帰」50年の節目ということで沖縄を会場に行われていたのです(毎年「国民体育大会」が開催されていますが「国民文化祭」もどこかで開催されているのです)。けれど改めて、「琉球文化の独自性・固有性は天皇に献上するものではない」「自分たちで独自の文化祭をしよう」といって企画することとなったイベントでした。「沖縄の芸能を味わい楽しむ会」ではなく、「そもそも沖縄は日本ではないということをしっかり考える会にしたい」といった思いで準備がなされ、歌や舞だけでなく、「琉球は日本ではない。土足で踏み込むな!」といった本音トークも。なかなか好評でしたよ。
翌2023年12月には、同会主催の集会「ゴーヤとゴーヤーはどう違う?」が開催されました。サブタイトルは「沖縄とヤマト、溝を考える」。少し前まで「ニガウリ」と呼んでいた野菜を、いつしかヤマト(日本)は「ゴーヤ」と呼ぶようになった。そうすることによって、ヤマトは沖縄を尊重したり、理解したり、寄り添ったりしているつもりになっているのかもしれない。けれどそもそも沖縄島では「ゴーヤ」とは言わず「ゴーヤー」と言っており、中途半端なウチナーグチを使われると、かえって無理解を感じる。もっと言えば沖縄の文化が「消費」されているようにすら感じる。変におもねられたりするよりも、まだ「ニガウリ」のほうが良かった。ヤマトはそのことに気づいているのだろうか。ヤマトが思っている以上に溝はあるんだけどなあ。そういった会話から、今回のタイトルが決まりました。(実はタイトルの当初の案は「ゴーヤじゃないよ、ゴーヤーだよ」でしたが、琉球諸語の研究者である比嘉光龍さんから「八重山ではゴーヤと言いますよ」と教えてもらい、タイトルを「ゴーヤとゴーヤーはどう違う」に変更しました)。
琉球舞踊、歌、沖縄古武道の披露などのほかに、「沖縄方言ではなく、琉球諸語の中の沖縄語と言うべきだ」という話、「琉球諸語は島によってこんなに異なる」「日本語にはできない言葉もある」という話、そして翁長雄志前知事が言った「ウチナンチュ ウシェーテー ナイビランドー」(翻訳困難。あえて言うなら「沖縄人を馬鹿にしてはいけないですよ」となるか)という言葉に対して、「ウチナーグチで語られた悔しさは翻訳しがたいものがある」「翁長知事の語り口は穏やかだったけど、私には絶叫に聞こえた」「私たちは先住民族であり日本人ではない。これ以上日本の植民地でいるわけにはいかない」といった本音が次々飛び出し、「本音を出せることの解放感」と「緊張感」を感じました。最後はみんなで宮古島のクイチャーを踊って終了。ともすると「沖縄島」が中心になりやすい沖縄関連集会ですが、宮古・八重山を意識できたこともとても有意義だったと感じます。
この二つの集会を通して改めて感じたのは、「琉球人は日本人ではない」という誇り。そして自己決定権が奪われてきたということへの気づきと怒りでした。集会には多くのウチナンチュと多くのヤマトンチュが参加しました。そこにいたウチナンチュのすべてが「琉球人は日本人ではない」と言い切れるものを持っていたかどうかは分からないし、「日本人ではない」と言われて不快感を持った人もいるかもしれません。一方、そこに来たヤマトンチュの中には「沖縄に寄り添おうとして活動しているのにどうして私たちを突き放すの?」という戸惑いを持った人もいるかもしれません。けれど、集会の中で改めて確認できたのは、「沖縄とヤマトには溝がある」という事実と、この溝を「安易に埋めようとしてはならない」ということでした。ヤマトがもし手を差し伸べてきても、それを握るか拒絶するかの決定権は琉球の側にあるのです。私たちの歴史も言葉も文化も、生き方も死んでからのありようも、日本に組み込まれてはならない。過激でしょうか?でもこれぐらい言うのがちょうどいいんじゃない?
上記の集会のパート3「くとぅば じんじけー~琉球・島じまのナラティブ~」が2024年12月14日14時半から日比谷コンベンションホールにて予定されています。関心のある方はどうぞ!前売り1500円、当日券1000円です。(じんじけーは「銭遣い」。使いようによって善にも悪にもなるという意味)。
[ライタープロフィール]
平良 愛香(たいら あいか)
1968年沖縄生まれ。男性同性愛者であることをカミングアウトして牧師となる。
現在日本キリスト教団川和教会牧師。